色仕掛けならぬ
力なくパタリと閉じると、私の目からはポタポタと涙がこぼれ落ちた。
突然、強要された婚姻。
愛してしまった夫が見てくれない悲しみ。
その上、更に強要される複数の男性との婚姻。
その苦しみを抱えながらも『救国の乙女』としての務め、妻としての務めからも逃げなかった女性。
嘘か誠か。
それでも、強く生きた女性を尊敬せずにはいられなかった。懺悔、なんて。
簡単に見限った夫達には腹立たしさを感じる。
もっと女性の心に寄り添うことは出来なかったのか。
こちらの世界に来ていなくとも、ということはやはりどこかに元の世界があったのだろうか。
混乱している中で、決められた結婚。
陛下は望まない結婚は出来ないように、私の意思を尊重するようにしてくれた。
しかし、女性はそうしてくれる国ではなかった。
私もこの国の『救国の乙女』でなかったら。
そう考えて震え上がる。
私にもあり得た未来。
それでもこの女性のようにはきっと生きられなかった。最初のページの文字が滲んでいたのは、涙だろうか。本人か、それとも読んだ誰かか。
今となってはわからない。
こぼれ落ちる涙は机にシミを作り、慌てて顔を上げるとこちらを戸惑った様子で見ているフェリスと目が合って、また慌てて涙を拭う。
フェリスはこちらに駆け寄ると、ハンカチを取り出して差し出してくれた。
それを受け取り目を押さえると、涙を吸収していくのがわかった。
「フェリス、ありがとうございます。
本を読んだら、涙が止まらなくなってしまって……心配しないでください」
心配そうに私を見ているフェリスにそう言うと、安堵したように頬を緩めた。
「驚いてしまいました。
堅苦しい本ばかりだと思っていましたが、感情を揺さぶられる本もあるのですね」
確かに他の本は堅苦しいものばかりだった。
この本はおそらく紛れ込ませたものだろう。
懺悔したい気持ちと。
『救国の乙女』として、決して知られてはいけないと思う気持ち。
その相反する思いを、ここに隠すことで叶えた。
どんな思いで書いたのか。
私には思いを馳せることしか出来ない。
――無性に陛下に会いたい。
強くそう思う。
ただ、それと同時に、ヴィルのことも気にかかった。状況は違えど、私ももう少し向き合うべきだったのではないか。
ヴィルの話をもっと聞くべきだったのでは。
この本を読んだことでそう思い始めて、気持ちがぐらつく。
しかし、自分から会いに行くことは憚れる。
あんなこと言った手前、ヴィルに合わせる顔がない。
机に置いた本を両手で掴んで胸に抱える。
――悔いのない、人生を。
その言葉が心に重くのしかかる。
「……この本、借りてもいいのでしょうか?」
傍らに控えていたフェリスの「もちろんです」と返答を聞いて。
ふうとひとつ息を吐くと、椅子から立ち上がる。
「部屋に戻りましょうか」
私が言うと、護衛は扉を開けた。
相変わらず豪奢な扉は、重そうな音を立てて開かれた。
私は本を抱えた腕にギュッと力を入れると、部屋に向かって歩き出した。
****
用意されていた軽い昼食を食べる。
それからはクローゼットから引っ張ってきたクマのぬいぐるみを抱きしめて、ソファーに背を預ける。
クマの女の子はもふもふと触り心地がいい。
抱きしめているだけで癒されて、ずっとこうしていたいとすら思う。
最近は誰もクマになってくれない、もふもふ不足である。
――陛下に頼んだら、シロクマに触れるだろうか。
そう考えて、いやいやと首を振る。
陛下はシロクマの姿ではあまり触らせてはくれなかったなと、思い直す。
その点、ヴィルは最初こそ拒否していたが、それからは触ることを許してくれていた。
ヴィルはいつも私のすることには甘い。
……泣かされることも多いが。
貴公子然とした姿とは裏腹に、闇が深い。
そんなことを考えていた時、部屋にノック音が響いた。
フェリスが扉に向かって、こちらに聞こえない声量で誰かと話している。
声が聞こえなくなると、扉の開く音がしてそちらに顔を向けると。
たった今考えていた人が立っていた。
なぜか目を見張ってこちらを見ている。
「……すまない。少しだけいいだろうか」
私がまじまじと見すぎてしまったのか、ヴィルは瞼を伏せた。
慌てて了承すると、ソファーに促す。
ヴィルはそれに申し訳なさそうな顔をすると、一歩を踏み出した。
ソファーに腰を下ろすと、沈黙が落ちる。
迂闊なことは言えない。とりあえず、クマを横に座らせて冷や汗を流しながら言葉を考える。
ヴィルはなにかを迷うように顔を伏せたままだ。
どうしよう、が頭を占め始めた頃。
やっとヴィルが口を開いた。
「……またクマを抱いていたのか」
また、とは。
そんな疑問を口に出来ず、もごもごさせると。
「嫌なことでも、あったのか」
真っ直ぐ私を見つめる緑色の瞳は、不安そうに揺れている。
どうしてそんな瞳で見つめるのか。吸い込まれるような緑色の双眼から目が離せない。
「……っ!もふもふしたかっただけ!」
顔を背けるようにして、それだけ言うと。
ヴィルの方からボンッと音がした。
「――私を使え」と声が聞こえたかと思うと、私の足元に目を疑うものが立っている。
「……え?」
タイムリーすぎやしませんか。
確かに、考えた。ヴィルなら許してくれると。
だが、いくらなんでも振った相手を抱っこすると言うのは、……ないだろう。
これは色仕掛けならぬ、クマ仕掛けだろうか。
またも背中をたらりと流れる冷や汗。
そんな私の様子に痺れを切らしたのか、クマはソファーによじ登ると、私の太ももにちょこんと座る。
ドレスを挟んでいてもふわふわであるのが、わかる。久しぶりに見るクマはやはり毛並みがツヤツヤと綺麗で、触りたい気持ちが湧き上がる。
「私では不満か?」
不服そうな声色で尋ねられると、私は首を振るしかない。
おずおずとクマに手を伸ばし、触れた。
しばらく触る機会のなかったクマ。
ぬいぐるみとは違う、格別なその触り心地に、思わずうっとりしてしまう。
……癒し。もふもふすぎて、幸せ。
うっとりと毛をもふもふしたところで、ハッと我に返る。
クマ仕掛けにかかって、冷静さを失っていた。
慌てて撫で回していた両手を挙げて、口を開く。
「えっと、話があったのでは……?」
「……ああ、昨日の話をやり直しに来た」
クマは私の膝の上に座ったまま、そう言う。
クマだと表情が出ないし、そもそも後ろを向いて座っているため、ヴィルがどんな表情をしているのか分からなくて、戸惑う。
「やり直し?」
「やり直しだ。もう一度私を振れ」
信じられないその言葉に困惑が隠せない。
「いいから、早く」と言うクマに、私は躊躇いながら口を開いた。
「ヴィルの気持ちには応えられない。
ごめんなさい……?」
よくわからないまま、お断りの言葉を口に出す。
「承服しかねる。
一ミリでも私が好きだと思ってくれているなら、なんの問題もないだろう」
昨日とは違う答えに、唖然としてしまう。
「えっと……、私には問題なんだけど」
「私が問題ないと言っているのに?
スズは言っていただろう。平等に愛せない。
気持ちが偏って傷つけるのが怖いと。
私は平等に愛されなくてもいい。
私が、スズを好きなんだ。
スズの気持ちが偏ろうが、好きなことには変わりない。私のスズへの気持ちも変わらない。
側にいられなくなる方がもっと傷つく」
「いや……、でも」
「いくら聖人君子であろうとしても、本当の気持ちは誤魔化せない。誤魔化したくない。
それにスズは言ったはずだ。
選択と頑張り次第で未来が変わる、と。
一生懸命に生きたい、と。
私に未来を変える機会をくれないのか?」
もうむちゃくちゃだ……!無理矢理すぎる!
開いた口が塞がらないとはこのことだろう。
しばらく鳴りを潜めていたが、そういえばこういう人だった、と思い出す。
大体クマの姿で言うのもずるい。
表情が読めないからと、躊躇する私の気持ちを逆手にとって、私に話す隙を与えず言いたいことを言って。
未来を変える機会をくれないのか?なんて言われたら、私には躱す術がない。
「…………腹黒い」
それ以外、なんの言葉も浮かばない。
「なんとでも言え。
王子らしくしているだけでは、手に入らないものもあると分かったんだ」
最近は余裕がなかったせいか見なかったが、こちらが本来のヴィルの姿なのだろう。
溜息しか出ない。
本を読んで真剣に悩んでいた私の気持ちを返して欲しいくらいである。
「……どうなっても知らないからね!!」
最後の悪あがきに言い放つと、溜息を吐く。
私のその言葉を聞いて、笑いたいのを我慢するように「ああ」と返事が聞こえた。




