秘密の箱庭
座席が特に決まっていない、いつでも利用可能の食堂。
今日はこの席で昼食を取ろうと、私が空いている椅子に手をかけた瞬間、目の前にレイラが現われた。
「あーら、ごめんなさい」
彼女は私が座ろうとしていた椅子にさっさと腰を下ろしながら、豪奢な金髪を揺らす。
「悪いんだけど、ここは私たちが使うから、違う席に行ってくれる?」
その様子を見て、彼女の取り巻きの女の子たちがくすくす笑っている。
だけど何が面白いのだか、私にはまったく理解できない。
(これでいったい何度目だろう)
心の中で沸々と湧き上がってくる思いを懸命にこらえながら、私は彼女たちへ背を向けた。
(リサ)
そろそろ私が怒りを爆発させるのではないかと、心配したジルが耳には聞こえない声で、直接頭の中に呼びかけてくる。
(うるさい、わかってる)
同じように声にはしない返事をし、少し離れた席からこちらをうかがっている心配性な幼なじみに、ちらりと視線を向けた。
『テレパシー』――そう呼ばれる心の声だけで、私たちは会話をする。
それは特別な力を持つ子どもとして、14歳になると同時にこのESP研究施設――『白の館』に集められる前から、同じ街で暮らすストリートチルドレンだった私たちが、誰にも知られずに意思疎通をおこなってきた方法だ。
銀髪を短く刈りこんだ強面のジルは、一緒に食事をしている男の子たちと、楽しそうに談笑している。
決して私のほうへ視線を向けない。
それは、そうしてほしいと私が頼んでいるからだ。
どんな研修でも好成績を残し、複数のESP能力を持つと公表しているジルは、施設でも一目置かれている。
それは、施設を出たら社長令嬢としての華々しい人生へ帰っていく予定のレイラも、例外ではない。
戦争孤児で、路上生活していた私のことは侮蔑しても、同じ境遇のジルには敬意を払う。
ジルと幼なじみだという事実は、妬みの種にこそなれ、利点はまったくないというのが、私の見解だった。
(でもいくら妬ましいからって、こんなことして何の意味があるの?)
朝一番の研修後の時間。
次の研修までに食事をしておこうとする私を、レイラはしつこく邪魔している。
彼女が持つ能力は『テレポーテーション』
瞬時に場所を移動できる力で、私が目当ての椅子を変えるたび、私より先にその椅子に座ってしまう。
「これじゃいつまでも座れないわねぇ……諦めて自分の部屋へ帰ったら?」
真っ赤に口紅を塗った唇の両端を、にやりと吊り上げたレイラから、私は思いっきり顔を背けた。
「リサ、ジャムはベリーでいい?」
私のぶんまで食事を取りにいっていた友人のアニータが、トレーを手にこちらへやってくる。
その声にふり返ったレイラが、きらりと瞳を輝かせ、彼女に標的を変えたと感じ、私はとっさにこぶしを握った。
(まずい!)
今度はアニータの前に移動し、進路を妨害する気だ。
突然目の前に立ちはだかれたアニータは、驚いてトレーを落とし、食事を床にぶちまけてしまうかもしれない。
それを掃除するアニータを、蔑むように見下ろすレイラと、嘲笑する取り巻きの女の子たちの姿が、まるで実際に見ているかのように、ありありと私の脳裏に浮かんだ。
(そんなのダメだ)
私は握りしめたこぶしに、意識を集中させる。
そうすることで、てのひらにわずかに握った空気を、小さな塊に圧縮する。
もちろん、それを実際にレイラへぶつけるつもりなどなかった。
ただ、アニータが屈辱的な状況に陥るのを回避するため、レイラの意識を少し逸らす目的だった。
(リサ!)
あいかわらず私のやること、考えることに敏感なジルが、懸命に頭の中で呼びかけてくる。私はそれを無視して、集中を続ける。
だけど――。
ほどよく圧縮した空気を、私がレイラへ向かって投げるよりも早く、彼女の自慢の高い鼻の先を掠めて、何かがものすごいスピードで飛んでいった。
それは食堂を端から端まで、一直線に飛んだように見えた。
(え……何?)
私が驚きで瞳を瞬かせた次の瞬間、部屋にレイラの悲鳴が響き渡る。
「きゃあっ」
驚いて体のバランスを崩したレイラは尻もちをつき、床にどさっと座りこんだ。
「レイラ?」
「大丈夫?」
取り巻きたちは驚いて彼女に駆け寄り、必死に声をかけている。
情けないレイラの格好はまるで、私がさっき想像で見たアニータと、人物だけがそっくり入れ替わってしまったかのようだ。
(リサ?)
ジルが訝しげに問いかけてくるので、私はすかさず答えた。
(私じゃないわよ)
(まあ……そうだな)
少し腰を打ったらしいレイラは涙目になりながら、大きな声で叫んだ。
「今、何か飛んで来たわよ! 誰? 投げたのは!」
食堂の中がしーんと静まり返る。
何かを投げたような格好の者は、部屋を見渡してみても存在しなかった。
ということはレイラの言う『何か』は、手で投げられたのではないということだ。
『サイコキネシス』――念動力を持つ者は、食堂には今ジルしかいない。
少なくとも、自分がそうであると公表している人物は――。
「俺じゃない」
沈黙を破るように、ジルが口を開いた瞬間、レイラはとても焦った顔になった。
「も、もちろんあなたを疑ってなんかいないわ」
あたふたと言い訳を始めるのにつられ、緊張していた食堂内の空気も緩んでいく。
その中で、私は密かに、飛んでいった『何か』を探していた。
(たぶんあっちからこっちへ飛んでいった……たぶん……)
同じような方法でレイラを脅かそうとタイミングを計っていた私には、おそらくこの部屋にいる他の誰よりも、もっとも正確に『何か』の軌跡が見えていた。
ざわめきをとり戻しつつある中に紛れて、部屋の隅まで行ってみると、小さな黒いものが落ちている。
(これは……種?)
私がしゃがんでそれを拾い上げた時、背後から視線を感じた。
ふり返って見てみると、部屋の反対でトレーを手に立っている背の高い男の子と一瞬目があう。
目に被るような長さの癖の強い赤毛の前髪ごし、確かに目があったと思ったのに、彼はトレーを手にしたまま、すっと食堂を出ていってしまった。
(え?)
とっさにあとを追う私に、アニータが問いかける。
(リサ? 昼食は?)
彼女も『テレパシー』持ちだ。
私たちの秘密の会話は、他の人間には聞こえない。
レイラに気づかれないように静かに部屋を滑り出ながら、私は心の中でアニータに謝った。
(ごめん! 今日はいい。私のぶんも食べちゃって)
(えーっ)
アニータの不満の声を聞きながら、今にも廊下の向こうへ見えなくなろうとしている背の高い背中を懸命に追った。
彼のことは知っている。
確か、動植物の気持ちを感じる能力の持ち主――ユーイ。
他の能力開発の研修にはほぼ出席せず、誰とも親しくしている様子もないため、皆に忘れられがちだが、彼がいると部屋の隅の観葉植物が嬉しそうなことは、私にもうっすらとわかる。
「ユーイ、待って」
食堂からかなり遠ざかってから声をかけてみたが、彼は足を止めることなく、廊下の角を曲がった。
私も曲がってみると、その先は行き止まりで、思わず左右を確認してしまう。
(え? どこに?)
右も左も壁だが、右の壁の向こうから、かすかに植物のざわめきを感じた。
(もしかして……)
周りに誰もいないことを確認して、私は壁の向こうへ意識を集中させる。
レイラが使っていた『テレポーテーション』
その力を、実は私も持っている。
この施設へ来る前までは、それでいろんなことをやった。
盗みも、犯罪じみた仕事も――。
小さな子どもが路地裏で生きていくためには、そうするしかなかった。
だけどそれを追及されることは怖くて、とてもジルのように、複数の能力持ちだと公言などできない。
ここにいる間に新たに能力を開花して、複数使えるようになった――その言い訳を成立させるためだけに、私は誘われるままこの『白の館』へ来た。
だから、公表している『テレパシー』以外の能力を使う時は、決して誰にも見られないように、よく注意しなければならない。
周囲に人の気配がないことをもう一度確認して、私は壁を通り抜けるイメージで、その向こうへテレポーテーションした。
ふいに視界が開け、目の前に見上げるほどの巨木があることに、思わず驚きの声を上げてしまう。
「ええっ?」
巨木の根元では、落ち葉の上に座ったユーイが、私と同じように驚きに目をみはっていた。
「きみ……どうして……?」
それは私のセリフだ。
ここはいったいどこだろう。
名前のとおり、どこへ行っても白い壁しか存在しない『白の館』で、その場所はとても異質だった。
黄金色の葉をいっぱいに繁らせた巨木が、黒い地面に、太い根をしっかりと張っている。
(地面……)
研究所内はどこも白い床面なので、懐かしささえ覚える。
巨木を見上げると、その更に上には空が見えた。
(空……)
鮮やかに色づいた葉の隙間から、見え隠れする淡い空の色に、固く閉じていた記憶の蓋がこじ開けられる。
灰色の路地裏で這いつくばるようにして生きるようになる前、私は確かに、こんな良く晴れた空の下で暮らしていた。
どこまでも続く黄金色の麦畑と、小さいけれど居心地のいい家。
温かな湯気を上げる食事と、いつでも抱きしめてくれる優しい腕。
思い出せば胸の奥が苦しくなり、涙が浮かんできそうになるので、街の片隅で一人で暮らすようになってから必死に封印していた記憶。
それをふいに呼び起こされ、涙をこらえるためにこぶしを握りしめ、顔を俯けて唇を噛んだ。
ふいに目の前に人の気配を感じ、はっと顔を上げる。
いつの間にかユーイが立っていた。
研修室の端にいる姿を時々見かけるたび、なんとはなしに思っていたことだが、こうして目の前にすると、やはりとても背が高い。
私など胸のあたりまでしかない。
痩せすぎなほど細いので、あまりそんな気はしていなかったが、身長だけなら、研修生の中で一番大柄なジルより高いだろう。
彼は何も言わず、私に小さな一輪の花をさし出した。
(花……)
そんなものを目にしたのは、いったいいつぶりだかわからない。
私がそれを受け取ると、花はしんなりと頭を垂れてしまった。
(あ……)
落ちこみかけていた私の気分が影響したのか、それとも、これまでとても善道とは言えない道を歩んできた私では、綺麗に咲かせてやることができないのか――。
植物の生育には、それに関わる人物のひととなりが、大きな影響を及ぼすと聞いたことがあった。
「私……!」
慌てて花を返そうとする私の手を、ユーイが少し身を屈めて両手で包みこむ。
「大丈夫」
はっと見つめた長めの前髪の向こうの澄んだ瞳は、私の遠い記憶に残るあの日の空と同じ色をしていた。
彼が手を添えた瞬間から、花は生気を取り戻し、どこからか吹いてくる風にゆらゆらと揺れ始める。
とても嬉しそうに――。
「あ……」
私がお礼を口にしようとした時には、ユーイはすでに巨木の根もとへ帰っていた。
(元気を出して)
ふいに聞こえてきた優しい声は、私の手の中にある花が発したものなのか、それともあの巨木なのか、ユーイの声にも似ていた気がするが、よくわからない。
どきどきする自分の心音で、他の全ての音がはっきりと判別できない。
それぐらい凄い勢いで、私の心臓はけたたましく鳴っている。
必死にそれを落ち着かせようと努力しながら、私は巨木の幹に背中を預けて座るユーイに、訊ねてみた。
緊張で、心臓が今にも、口から飛び出てしまいそうだった。
「ここって……研究所の外なの?」
ユーイは私に目を向けることなく、緩く首を左右に振ってみせる。
「いや、中庭だよ」
「中庭……」
『白の館』で暮らし始めて半年以上経つが、そういう場所があるとは初耳だった。
最初に所内の案内をされた時も、そのあとの生活でも、まったく気がつかなかった。
この場所を囲む白い壁をぐるりと見渡して、私が入ってきた背後も含め、どこにも出入り口らしきものはないことを確認する。
(だとすると、やっぱり……)
ユーイも私と同じように、テレポーテーションの能力を使ってここへ入ってきたことになる。
(食堂でのサイコキネシスといい、いったいいくつの能力を隠し持ってるんだろう……)
人のことはまったく言えないが、それはお互いさまだ。
私は制服のポケットにしまっていた小さな黒い種を、ユーイの前にサイコキネシスで飛ばした。
放物線を描くようにゆっくりと――。
「これ……返すわ」
ユーイは驚いたように顔を上げ、私の顔を一瞬凝視したが、すぐにまた視線を逸らす。
「ああ……」
私が彼の顔の前で空中に浮かべていた黒い種は、ユーイのてのひらに静かに下りた。
私もサイコキネシスの力を持っていることはわかっただろうに、ユーイは何も言わない。
ただ、手にした種を大切そうに見ている。
「アニータを助けてくれてありがとう」
お礼を言ってもやはり返事はなかったが、嫌な気持ちはしなかった。
柔らかそうな赤毛の頭を深く下げて、俯いてしまったユーイから、私を遠ざけようとする雰囲気は感じられないせいかもしれない。
彼の頭上に大きく枝を広げた巨木から、黄金色に色づいた葉が、音もなく静かに落ちてくる。
それが頭の上に載ってもまったく気にしているふうのないユーイの赤毛は、葉の間から射しこむ光に照らされた部分だけ、葉と同じ金色にも見える。
穴が開きそうなほどその光景を見つめ続けながら、私はあいかわらずどきどきと胸の音を大きくしていた。
体中をもの凄いスピードで駆け巡る血液の音が、耳の奥でやけにうるさい。
私がここにいることなど忘れてしまったかのように、微動だにしないユーイに、勇気を出して問いかけてみた。
「ねえ……私もここにいていい?」
この場所は、彼にとってとても大切なように感じたのだ。
ユーイがようやく顔を上げ、私へ目を向ける。
その瞳は、私をなぜだか胸を掻きむしりたいような思いにさせる、思い出のあの空と同じ色――。
何も答えず瞼を閉じたユーイは、木の幹に後頭部をそっと預け、顔を上向けた。
本当に木と一体になったかのような、男の子らしい精悍な白い頬に、細い顎のラインに、筋張った首筋に、視線を絡め取られる。
まるで、見てはいけないものを見ているかのようで、ますます大きくなる私の心音は、彼にも聞こえてしまうのではないかと心配になるほどだ。
沈黙が、永遠のように長く感じる。
(どうしよう……)
余計なことを言ってしまったと、私が後悔を覚え始めた時、ユーイが静かに目を開いた。
長めの前髪ごし、空色の瞳がしっかりと私を見つめる。
泣きだしてしまいたいほどの激しい憧憬を覚えるその瞳に、私の感情はぐちゃぐちゃにかき乱される。
「うん……きみならいいって、『護樹』が……」
ユーイの言葉はそれだけ。
他に詳しい説明など――何もない。
それでも私には、『護樹』というのが彼の背後の大樹だということも、その樹が、私がこの場所にいることを容認してくれたことも、ちゃんと伝わった。
「ありがとう」
ほっと肩から力が抜けて、自分がどれほど緊張していたのかを、改めて思い知る。
私は敷地の隅に腰を下ろし、樹にもたれかかって座るユーイを、遠く見つめ続けた。
手にしていた小さな花がゆらゆらと揺れ、私の周りに生えていた小花の蕾が、ぽぽぽっといくつか続けて花開く。
(よかったね)
優しい声は、あいかわらず、花たちが発しているのか、あの巨木が発しているのか、それともユーイの声なのか、よくわからない。
それでも、私の周りの花たちが次々と開花するので、どうやら私が今、とても幸せな状態であることは確かだ。
巨木の根もとに座り、ぶ厚い本をめくったり、食堂から持ってきたパンをかじったり、目を閉じて何か考えごとをしていたりする、あまり愛想がいいとは言えない少年。
変わり者で、周りからは浮いていて、私自身、これまで話をしたこともなかったユーイを、私は飽きることなく、遠くからただ見ている。
――どうやらそれが、今の私にとっての幸せらしい。
その日から、その小さな中庭は私にとって唯一の心の拠りどころであり、嫌なことがあった時にいつでも逃げこめる、とても大切な場所になった。
そこへ行けば、たいていいつでも巨木の根もとに座っている、風変わりな痩せっぽちの少年の存在も含めて――。