宿への侵入
聖女は今日、この街に宿を取って滞在するのだという。
そして翌日、また違う街へ行き、同じことをして、そうして巡業して回って、最後には王都に戻るらしい。
だから熱狂的な聖女の追っかけは、彼女が巡業するルートを調べ、その近くに宿を取って彼女について回ったりするのだという。
毎回彼女はあの治癒能力を使うそうなので、彼女について回っている者はどんどん体調が良くなっていくという話だ。
だが少女にとって大切なのは、聖女が今日、この街の宿に泊まる、ということだ。
追っかけの人たちのように、聖女の巡業について回ることができるのならいいが、自分はそういう立場ではない。
まだ子どもだし、生活能力も高くないし、裕福な暮らしをしているわけではない。
それに今、その状況でも懸命に育ててくれている家族がいる。
何も言わず出て行くこともできるかもしれないが、きっと彼らを心配させることになるだろう。
今の天使はこの街に暮らす一人の少女で、無理をすれば天使としての能力を使える、普通の人間でしかないのだ。
けれど少女はこのチャンスを逃してはならないと思った。
そして何とか聖女が泊まるという宿を調べると、その夜、彼女に接触を試みることにしたのだった。
聖女の泊まっている宿の警備は厳重だった。
聖女が顔を出している馬車以外にずいぶんとたくさんの馬車が続いているとは思っていたが、どうやらそれはこの護衛だったり、彼らの荷物だったり、そんなものがたくさん連なっていただけだったらしい。
宿には庭のようなものがあったがそこは先ほどパレードしてきた馬車で埋め尽くされていてその先にある建物の様子をうかがうことはできなかった。
「正面から普通に入ることはできないわね……」
夜になってからこっそり家を抜け出した少女は、少し離れた場所から聖女の宿泊している宿の正面を見てつぶやいた。
他にも聖女と接触機会をうかがっているらしき人が宿の前をうろうろとしている。
少女は宿を護衛している人たちに見つからないよう、宿の周りを一周してみることにした。
警備は出入口のあるところに集中していた。
そして塀などのあるところはわりと手薄、それならばと、少女は塀のある中でも一番薄暗い場所を確認し、誰にも見つからないように塀を乗り越えようといそいそとその塀を登り始めた。
そして塀を乗り越えると静かにその反対側に着地、何とか敷地の中に入ることに成功した。
後はこの宿のどこに聖女がいるのか探し当てて、その部屋にたどり着かなければならない。
まずは宿の内部を探るべく、壁沿いに歩きながら、ところどころにある窓の中をそっと覗き込んだ。
幸い敷地の中にさえ入れてしまえば、大量の馬車が置かれているおかげで、いくらで身を隠すことができた。
しばらくそうして中の様子を探って、ついに聖女の使用している寝室を見つけた。
少女が中の様子を伺おうと窓に顔を近づけると、急にその窓が上に持ち上がった。
外に人影を見つけた聖女が窓を開けたのだ。
少女は驚いて頭を引っ込めてみたが、その様子を笑いながら聖女が見ていた。
笑い声を聞いた少女が恐る恐る顔を上げると、やはり聖女がパレードのときと同じような笑みを浮かべて自分を見下ろし立っている。
見つかってしまったのなら仕方がない。
少女は窓から少し離れてきちんと顔の見える位置に立つと、気まずそうに挨拶をした。
「こんばんは……」
「お客様なんて珍しいわね。しかもこんなところから……?」
聖女は慌てる様子もなく少女に話しかける。
逆に慌てたのは少女の方だった。
確かに話をするつもりだったし、声を掛けるつもりでもあった。
けれどここまで警戒されないと、かえって怖い。
「あの、怪しいですけど、やましいことは何もないので」
少女がおどおどした様子だったからだろう。
聖女はくすくすと笑いながら言った。
「わかったわ。入ってちょうだい。正面からは難しいから窓からになってしまうけれど」
「え、いいの?」
思いもかけず招き入れられることになって少女は驚きを隠せない。
思わす目をぱちぱちしていると、また聖女は口元に手を当てて笑った。
「確かに怪しいけれど、悪い人ではなさそうだわ。そんなにたくさんの葉っぱや泥をつけてきているのだもの、命を狙う刺客というわけでもなさそうだし」
「あ、ありがとう!」
この状態で長くいるのは得策ではない。
聖女が面白がるほど汚れているのか確認したいところだが、それは中に入れてもらってからのほうがいいだろう。
少女は聖女の言葉に甘え、窓枠に手を掛けて、壁に足をかけると、部屋の中に頭から突っ込むように中に入った。
彼女が中に入ったのを確認した聖女は窓を閉めるとすばやくカーテンを引いた。
そして彼女の頭に手を伸ばして髪に付いた葉っぱを取る。
「こんなに汚れて……。あ、今、タオルを用意するわね」
まずは汚れを落としましょうと、聖女は少女に背を向けると部屋にあるタオルを取り出してそれを湿らせて戻ってきた。
「これ、使ってちょうだい」
「ありがとう……」
少女は明るくなった部屋で自分の服に付いた葉っぱや絡みついた木の枝、服に付いた泥などをみて、恥ずかしそうにお礼を言った。
「私も手伝うからまずはその……いろんなものを取ってしまいましょう?その方が落ち着いてお話できると思うの。私は後ろをやるから、あなたは見えるところについているものを落としてちょうだい」
「でもそれじゃあ部屋が汚れてしまうんじゃ……」
聖女は外にいるときのように床に葉や枝を落とすように言ったが、この宿はそれなりに大きな宿で、さすが聖女様が宿泊するだけのところだと思わせるようなきれいな部屋だ。
この部屋にそんなものがたくさん落ちているのは不自然だし、きっと普段の彼女は部屋をそんな風に汚したりしないだろう。
少女が戸惑っていると、聖女は笑顔で言った。
「後で掃除するから大丈夫よ。木の枝や葉っぱなんて窓から捨ててしまえば問題ないわ。捨てているところをみられなければ、どこからか飛んできたものだと思うわよ。それにそのうち風がどこかに運んでくれるでしょう」
「……」
聖女は笑顔でそういうと、少女の後ろに回って枝や葉を床に落とし始めた。
汚れ始めてしまえば気にすることはない。
少女も一生懸命自分に服に付いたものをせっせと床に落として身奇麗になるよう努めることにしたのだった。




