作戦決行の朝
翌朝、天使は廊下を人の通り過ぎる音を確認して、一緒に寝ている聖女を起こさないよう静かにベッドから出た。
人が動き始めたということは、きっと聖女の様子を見に誰か人がこの部屋に入ってくるはずだ。
聖女はというと、本当に疲れていたのだろう、全く起きる気配がない。
だがもうじき、聖女の身の回りの世話をする誰かがきっとここに訪れるだろう。
ここは聖女の部屋だから彼女が寝ているのは問題ない。
とりあえず、自分だけが準備をすればいいだろう。
天使は眠っている彼女の布団を掛け直してから、彼女が自分を迎え入れたことがわからないよう、テーブルに置きっぱなしとなっているお茶を片付けて、椅子に座って部屋のドアが開かれるのを待った。
程なくしてそのタイミングはやってきた。
様子を見に来たのか、一応ノックはしたものの、返事を待たずに一人の女性が部屋に入ってくる。
そして椅子に座っている一人の少女を見つけると、その女性は持っているものを落として悲鳴を上げた。
「何事だ!」
「ふ、不審者が聖女様の部屋に!」
女性の悲鳴を聞いた騎士や、廊下を通りかかった無関係な野次馬がたくさん部屋の前に集まった。
そして天使を見つけてしまった女性は、尻もちをついて不審者の方を指さしている。
だがその不審者、見た目は聖女と同じか少し若いくらいの少女は、立ち上がることもせず小首を傾げて、当たり前のように言った。
「ここに具合の悪い人がいると天からのお告げがあったのよ。彼女を助けてほしいって」
「天のお告げ?そんなもの信用できるか!」
騎士が少女に剣を向けようと構えるが、少女は動じない。
「でも、天のお告げもなしにここに私が入ってこられるわけがないじゃない。それとも、ここって聖女様のお部屋なのに警備も何もないの?」
「そ、そんなことは……。だが……」
騎士は天使の言葉に動揺した。
確かに外から鍵をかけて聖女が逃げないようにしていた。
そして外には多くの騎士が警備のために配置されているから、仮に外に出られたとしても彼女に脱走は困難、本来なら逆もしかりだ。
だが、騎士たちはこの場所に少女の侵入を許してしまっている。
だがもう一つ、騎士には迂闊に動けない理由があった。
少女が聖女を人質に取る可能性が考えられるからだ。
自分たちがいるのはドアの外、そして少女の座っている椅子があり、聖女の寝ているベッドはその奥だ。
うまく少女を捉えられなかった場合、聖女の元に先にたどり着けるのはこの少女ということになる。
天使と騎士たちがそんなにらみ合いを続けていると、さすがに騒ぎに気が付いたのか聖女が起き上がった。
そして上着を羽織ると、ベッドに座った姿勢でドアにいる人たちに向かって言った。
「何事ですか?」
「あ、聖女様!どうか動かないでください」
騎士が慌てて聖女を制止しようとしたが、聖女は不思議そうな顔をしている。
「あら、体調なら大丈夫よ。それより悲鳴と何か割れたような音がしたと思ったら、それだったのね」
聖女は部屋を一瞥し状況を理解してベッドから降りると、天使が椅子に座っていることなど気に留めることもなく、まっすぐとドアの方に向かった。
天使も聖女には何か考えがあるのかもしれないとその様子を黙って見守る。
「落としてしまってびっくりしたのでしょう。怪我はしていない?」
「怪我はありません……。あ、あの、それより、その……」
部屋の中に知らない人がいることは気にならないのか、不審者はいいのかと彼女は言おうとしたが、まだ震えが止まらずうまく話せない。
その様子を見た聖女は、粗相をしてしまったことを気にしているのねとにっこりと微笑みかけて言った。
「割れてしまったのは仕方がないわ。そんなに気にしないで」
聖女は椅子に座っている天使に気が付く様子もなく、悲鳴を上げた女性が落として割ったと思われる陶器のかけらを拾い始めた。
「あっ……」
「せ、聖女様、指から血が……」
想定していなかったが、聖女は割れた陶器を拾おうとして指を切ってしまったらしい。
これならば彼女が無理に傷を作らなくてもいい。
止血をしなければと慌てる女性に、天使はあえて声をかけた。
「こんなの、私が治してあげるわ」
廊下には警戒しているが部屋に踏み込んでこない騎士、最初にドアを開けて怯えた状態の女性、そしてその声を聞いて駆け付けた人たち、これだけのギャラリーがいれば充分だ。
天使がそう考えて聖女を見ると、その意図を読み取ったのだろう。
声をかけられた聖女は、天使の方を振り返って歩み寄った。
「ええ。今の私は、自分の傷も治すことができないみたいだから、できるのならお願いするわ」
それとなく、聖女はそう言った。
睡眠を取って頭がすっきりしたのだろう。
しっかりとやるべきことを理解して実行してくれている。
天使はにっこりと笑ってうなずいた。
「ええ。私はあなたを助けるよう天の啓示を受けてきたのだもの。このくらいならすぐに治してみせるわ」
好奇心旺盛なギャラリーは固唾を呑んで、その様子を見守っている。
天使は注目されていることを確認すると、血の出ている指を差し出した聖女の指に手をかざして治癒の力を使った。
一瞬で治してしまっては怪しまれるので少しだけ時間をかける。
そして傷を完治させたところで天使は聖女に声をかける。
「どう?痛みはない?その血は拭けば傷がふさがっているのは確認できると思うけれど」
天使に言われた聖女はそれに従い、近くにあった布で指についたままの血を拭った。
「ほ、本当だわ……」
実は聖女も天使の力を見たのは初めてだった。
外でキラキラするのは見せてもらったが、その時は怪我もしていなかったので、こんなに早く、しかもきれいに傷を治せるとは思っていなかった。
能力は格段に自分より上だ。
別に天使の力を疑っていたわけではない。
でも実際にその力をこの身に受けて思ったのは、彼女は本当に天使で、人間よりも強い力を持っていて、自分のことを守ってくれる存在なのだという安心感だった。
これだけの力を持っているのなら、遠くにいる家族を守ってくれているというのも納得できる。
「せ、聖女の力!」
「まぁ、これって聖女の力と同じものなの?」
驚いてざわつく廊下に聞こえるように少し大きめの声で天使が言うと、聖女はうなずいた。
「ええ、同じような力だと思います」
聖女がお墨付きを与えたことでさらに廊下は騒然となった。
これだけ多くの人の証言が得られればまずまずだ。
彼女がここで指を切ってしまうのは想定外だったが、偶然に起こったことなのだから自分で傷つけてもらうよりも説得力が増したに違いない。
あとはこの先、彼女をうまく逃がす方向に話を進めるだけだ。
ここまでは順調だが、この先はどうなるか分からない。
天使は表情に出ないよう気を引き締めるのだった。




