+第六章 婚約者
岸谷玲香を連れて事務所へ戻った。応接室に玲香を連れて行き、お茶を出す。所長である茉莉が玲香の前のソファーに腰を下ろした。
「困りますわね。ターゲットの後を勝手につけてもらっちゃ」
足を組んで開口一番、茉莉は言った。真言はお茶を出した後、部屋を出ようとしたが、茉莉に呼び止められた。そのまま茉莉の隣に座らされている。
通は化粧を落としに洗面室へ、清吾はきっと隣の部屋でこちらの様子をモニターで眺めているだろう。
「下手に動いて、こちらの動きを勘付かれたらどうするんです」
責める口調ではなく、淡々とした物言いだ。玲香を見ると、体を小さくするように、足に手を置いて、俯いている。
「すみません。家でじっとしていられなくて」
「こちらが信じられない?」
「いえ。そんなことは……」
茉莉の言葉に、慌てたように顔をあげて、否定した。玲香は視線を彷徨わせながら、口を開く。
「あの、姉の婚約者だと名乗る男のこと、少しでも分かりましたか?」
茉莉は頷いた。艶やかな笑みを浮かべている。男なら魅了されること間違いなしだろうが、いかんせん相手は女性なので、効果の程は分からない。
「さ、真言。説明して差し上げて」
笑顔を持続させたまま、茉莉が真言に顔を向ける。
え? 僕が? と、思ったが、茉莉がすうっと目を細めたので、慌てて顔を正面に戻した。 どうやら、このために残れと言われたようだと気づく。
「えー、岸谷さんのお姉さんの彩香さんの、婚約者は、えーっと」
「もっとスムーズに!」
茉莉に言われて、思わずはいと、歯切れのいい返事をしてしまった。頬が熱くなる。玲香を見ると、口元に手をあてて小さく笑っている。緊張がとけたようだ。
「すみません。えっと、彩香さんの婚約者の伊藤芳郎の職業は水商売。いわゆるホストです。でも、今はホストクラブはやめてしまったようです。お姉さんとは、そのホストクラブで知り合ったようです」
これらは主に清吾と通がこの二日で調べ上げたことだ。スムーズにと言われたが、所々つっかえながらそこまで言った。それでも、玲香は頷きながら聞いてくれている。それに勇気づけられて、真言は続きを口にする。
「自分でクラブを経営していたこともありましたが、上手くいかず。あちらこちらから借金をしていて首が回らなくなっているようですね」
「そう、やっぱりお金が目的だったのね」
小さく吐き捨てるように、玲香が言った。
「お金が欲しくて、姉さんに近づいたんだわ」
「そうかもしれません。ですが、まだ婚約した段階ですし、婚約しただけでは遺産相続は……」
「遺言があったんです。遺言発表の場にあの男が呼ばれました。全額、婚約者に渡すと遺書には記されていました。あれも、あの男に強要されて書いたに違いないんです」
やけにきっぱりと玲香は言った。真言と茉莉は顔を見合わせる。
「お姉さまにはそんなに多額の財産がおありだったんですか」
茉莉の言葉に驚いて、真言は隣をそっと見る。玲香の姉が多額の資産を持っていたのは調べがついている。亡くなった姉は、玲香より二歳年上ながらも大会社の社長をしていた。真言にはよく分からないが、IT関係の仕事だそうだ。
玲香と彩香の他に病気がちな兄がおり、兄はその会社の理事に名を連ねているというところまでは聞いている。
「ええ。親の会社を継いでいましたから。お願いです。姉を殺したあの男が、姉の財産を受け継ぐなんて耐えられません、あの男に財産が渡らないようになりませんか」
「そうですね。その彼が、相続放棄してくれれば楽なんですけど。借金があるならばそれは難しいでしょうね」
茉莉の言葉に、玲香は難しい顔をして黙り込んだ。
そんな玲香に茉莉は言う。
「ですが、彼自身に相続放棄してもらうように仕向けることはできなくはないと思います。彼はどうやら、叩けばたくさんの埃が出るタイプの人間のようですから」
「本当ですか?」
「ええ」
茉莉が綺麗に微笑むと、玲香は思いつめた表情で茉莉を見た。
「私もお手伝いできませんか」
玲香の目の色を見て、真言は息をのむ。何を考えているのだろう。この人は。そう思う。もっと彼女の考えていることを見たくなった。だが、真言は諦めた。好奇心で覗いていいものではないと知っているから。
「一人で家にいても、姉のことばかり考えてしまいますし、何かやっていないと落ち着かなくて。お願いです。どんな雑用でもいいので、私に何かお手伝いさせてください」
身を乗り出すようにして言いつのる玲香に、茉莉は嘆息して見せた。
「岸谷さん……」
「ダメでしょうか? 邪魔はしません」
真剣な表情の玲香をじっと見つめて、茉莉は小さく頷いた。
「分かりました。ただ、お手伝いはしていただかなくて結構です。彼の尾行や、調査に同行していただくということでどうでしょう?」
「え? 姉さんそれは」
姉のありえない言葉に耳を疑って、真言は声を上げた。そんな真言を綺麗に無視して、茉莉は口を開く。
「いかがです? 岸谷さん」
「それで、構いません」
頷く玲香に、茉莉も頷いて見せた。そして、ふと思いついたように声を出した。
「岸谷さん。あなたは、彼がお姉さまを殺した犯人だと思っていらっしゃるようですが、もし、彼が犯人ではなかった場合、どうしますか? それでも、彼に遺産を放棄させますか?」
その問いに、岸谷玲香は頷いた。
「ええ。もちろんです。姉をだましていたことに変わりありませんもの」
玲香の目はひどく冷たい色に見えた。
通は化粧を落として普段着に着替えると、応接室の隣の部屋へ向かった。
ドアを開けると、案の定清吾はソファーに座り、机の上に足を乗せてモニターを見ていた。だらしない格好である。
「おー、通子じゃなくなったのか、もったいねーな。カーワイかったのにぃ」
からかうような表情と口調で、清吾が通に目を向けた。通は唇を尖らせた。
「そんなこと言ってると、あげないよ」
そう言って、手に持っていたものを清吾に向かって振ってみせる。
清吾は途端に取り繕うような笑顔を浮かべて、通に手を差し出した。
「冗談だろ。冗談。さっさとよこせ」
偉そうな物言いに苦笑して、通は清吾の横に腰掛けると、持っていたアンパンを清吾に手渡した。清吾は嬉しそうにパンの袋を破る。
このアンパンは先ほどまで通が服の下に入れていたものだ。そう、胸の膨らみ用である。胸用なのでアンパンは二個ある。もう一つを通は自分で食べることにし、袋からパンを取り出した。
「女ってのは、怖ぇよな。こう、思いつめたらとことんって感じがさ」
「岸谷玲香さんのこと?」
清吾の方を見て聞くと、清吾はパンに齧りつきながら頷いた。
「岸谷玲香が、今後尾行に同行することになったみてぇだぜ」
「ふーん」
そっけない返事をすると、清吾がメガネの奥の瞳を細めてこちらを見た。
「ふーんて、お前。普通ねぇだろ。依頼人同行で尾行なんて。茉莉は何考えてんだか」
「いろいろ考えてるんだろうね。茉莉ちゃんだから」
通の発言に、清吾は眉をあげた。
「ふんっ。お前はいいだろうさ。相手はあいつだからな。必然的に俺があの女の面倒見る羽目になるじゃねぇか」
心底嫌そうな顔をする清吾に、通は笑顔を向けた。
「美人だっていってたじゃないか。目の保養だとでも思っておけば?」
「お気楽思考な奴」
「それが取り柄だから」
そう言ってまた笑顔を作ると、つられたように清吾の表情も緩むのだった。