+第四章 ターゲット
翌日の日曜日は、久し振りに晴れていた。真夏のように暑い梅雨の晴れ間だ。
事務所内では、茉莉が所員に向け、昨日の依頼内容と、これからの行動についての話をしていた。
その途中。
「絶対にヤダ!」
通が諦め悪く、茉莉にたてついた。茉莉は立ち上がると、女王様よろしく腰に手をあてて、言い放つ。
「ダーメっ。我儘は許さないわ。今回の計画にはどうしても、あんたが女装しないとダメなの。婚約者の男に近づく女の役、やってもらうからね」
「だから、どうして僕なのさ。茉莉ちゃんがやればいいだろ」
この事務所唯一の女性なんだから。と、通は珍しく茉莉に言い返す。
茉莉はそんな通を見下ろすように眼を細めた。
「何言ってるの。私は所長よ。そして、占い師。そうそう自由な時間なんてないの。それに、頭は手足に命令するのが仕事であって、手足の代わりに物掴んだり歩いたりしないの。お分かり?」
「でも」
「でもじゃない! いい? 私が頭、あんたは足。オッケイ?」
「うー」
通は乱暴に頭を掻いた。そのせいでくくっていた髪が大きく乱れる。
「通、いい加減あきらめろ。毎度のことじゃないか」
「嫌なもんは嫌なんだ。それなら、清吾がやれよ。何で好き好んで女装なんてしなきゃなんないんだよ」
八当たりのように、清吾に絡んだ通に向かって、清吾は肩をすくめて見せる。
「おいおい、俺に女装しろっていうのか? この体で? 百八十以上あるんだぜ、俺」
しかも顎髭生えてるし。通さんそれ、絶対無理がある。と、真言は思う。
「止めて頂戴。ムサイ」
茉莉は、清吾が女装したところを想像したのか、心底嫌そうに切り捨てた。
「な、なら、真言くんは?」
お鉢を向けられ、真言はぶんぶんと顔と手を横に振ってみせる。茉莉にじっと見つめられた。視線が痛い。
「む、無理だよ。僕はプラスの方でまともにお手伝いするの初めてなんだよ。演技なんてできないし、失敗するのが落ちだよ」
情けないが、本当のことだ。茉莉ににっこりと笑顔を向けておく。茉莉がふっと息を吐いたあと、通に強い視線を向ける。
「つべこべ言ってないで、さ、さっそく服合わせしましょう」
茉莉は嬉々として、通の首に腕を回した。弟である真言には分かる。絶対に今茉莉は楽しんでいる。
コツコツと小気味好いハイヒールの音を響かせて、茉莉は通を引きずるように事務所の奥の部屋へ消えて行く。
「い、嫌だー」
通が助けを求める視線を真言たちに投げかけてくる。
真言は通に向かってそっと両手を合わせた。
ごめん。通さん。僕は自分の身が可愛いです。
清吾の方をちらっとみると、清吾も通たちから視線を逸らしていた。
しかも、あろうことか煙草を取り出したかと思うと、ライターで火をつけたのだ。
「ちょ、清吾さん。仕事中に煙草はやめてくださいって前にも言ったじゃないですか」
茉莉が煙草嫌いなので、事務所は禁煙になっている。
「ちょーっとくらい、いいじゃねーか。茉莉はしばらく出てこねぇしよ。真言、おまえ小姑みたいだな」
清吾はガハハと笑いながらスパスパと煙草を吸っている。真言の言うことを聞こうとは、ちっとも思っていないのだろう。
「小姑みたいにさせてるの、清吾さんだと思うんですけど」
「お前は真面目すぎんだよ」
絶対そんなことないと思う。僕は普通だ。
真言は、清吾に意見するのを諦めて、事務所の窓を開けるために席を立った。
クーラーのきいた涼しい車を降りて、真言は茉莉から見張るように指示されたマンションを見上げた。車内との温度差に一気に汗が出てくる。そんな真言の横に、運転席から降りてきた清吾が並ぶ。
「これ、顔写真だから」
横から差し出された写真を手にとる。その写真に目を落としてすぐに、真言は写真を返した。
「必要ないです。覚えてますから」
「うーわ。可愛くねー」
清吾は語尾を上げてそう言ったあと、羽織った柄シャツの胸ポケットに写真を入れた。
わざわざ置いてきた写真を持って来る方がおかしいのだ。そう思っていると、隣で清吾が煙草をふかし始めた。煙がこちらに流れてくる。
「もう、また。さっきも吸ったのに、また煙草ですか」
「いちいちうるせーな。お前は風紀委員か」
「え? 僕は美化委員ですよ」
真面目に返したら、変な顔をされた。その眼に映るものを見たくなくて、真言は視線をマンションへ戻した。
このマンションには、今回のターゲットが住んでいる。どこにでもあるような茶色い外観のマンション。オートロックではないので、出入りは自由にできるだろう。
「今回のターゲットはかなり自意識過剰らしい。家族にも周囲の人間にも、金回りが良い風を装っている。このマンションに住んでることを周りの誰にも言ってないらしいしな」
清吾が明後日の方向を向いて煙を吐き出してからそう言った。幾分声を落としているのは、周りに気を使ったからだろう。まあ、平日の昼間の住宅街とあってか、今のところ、この路地に人通りはないのだが。
「えっと、水商売をやってて、クラブを経営してたけど、上手くいかなくて、自己破産一歩手前、なんですよね?」
そう言って清吾を見ると、清吾は端正な顔に似合う笑みを浮かべた。どこかからかうような雰囲気だ。
「おー、よっく憶えてんじゃん。さっすが真面目クン」
「茶化さないでくださいよ、って、何猫と遊んでんですか」
棘のある口調になった。いつの間にか清吾はしゃがんで、子猫の顎の下をくすぐっていた。一体いつの間に猫が近寄って来たのだろう。清吾は猫と言わず、動物によくモテた。好かれやすい体質とは本人の言だ。
「相変わらず、モテモテですね」
「羨ましいだろ」
なんかムカつく。そう、思ったが、出すのは表情だけにしておいた。変わりに別のことを口にする。
「それより、ちゃんと見張っといてくださいよ。何の為に来たのか分からないじゃないですか」
「あー、そんなんテキトーでいいよ。テキトーで」
猫とじゃれあいながら、片手を真言に向けてひらひらと振る。
真言の眉間に深い皺がよった。
本当にこの人、大丈夫だろうか。と、一抹の不安が頭をよぎった。