+第三章 依頼人
辺りは暗い。
葉擦れの音が響く、森の中。
別荘地としても有名なこの場所にある湖で、大きな水音が鳴ったのは、深夜三時過ぎのことであった。
街頭もなく、月明かりだけが頼りのこの時間帯に静かな声が響く。
「馬鹿だね。言う通りに、泳ぎの練習していれば、こんなところで溺れずに済んだのに」
どこか嘲笑するようなその響き。だが、言われた相手に届いているのかいないのか。
そう言われた相手は、湖の中にいた。
浮き沈みする頭。時折水面に現れる顔は必至で、桟橋の上から溺れる己を眺めている人物に、助けを求めるように腕を伸ばす。
「た……すけ……」
顔が水面に上がった時に漏れた声。
桟橋に立った人物は、ゆっくりとしゃがみ込んだ。そうすると、水面に映った月明かりが反射してその人物の顔を淡く、だが、はっきりと照らし出す。
その人物は笑った。とても、酷薄に。
「助けてなんて言われる日がくるとはね。こっちが助けてって頼んだときは、相手にもしてくれなかったのに」
どれくらいの時間がたったのだろうか。水音が、だんだんと弱くなってくる。
命が、尽きようとしている。
「これは罰だよ」
その言葉が合図のように、水中にいる人間の動きが止まった。
桟橋に立った人物は、ゆっくりと立ち上がり、湖に背を向け歩き出した。
「さよなら」
その、一言を残して。
梅雨に入ってすぐだった。姉の彩香が水死体となって発見されたのは。
一週間の予定で、静養にと別荘に向かった姉の彩香。十日たっても帰ってこない姉を心配して、姉を探すように頼んだのは自分だった。
姉は、湖に浮いていたという。
警察は事故だと言った。
かなり泥酔して、足を滑られて落ちたのだろうと。
姉は泳げなかった。小さい頃に海で溺れかけたのがトラウマになっていたのだ。そんな姉が、酔っていたからといって、水場へ近づくだろうか。
雨が、頬に当たった。
低く垂れこめた雲が、とうとう泣きだしたのだと思った。
そう言えば、姉の遺体が荼毘に付された日も雨だった。
そして、今日も雨。
岸谷玲香は、寂れた雑居ビルを見上げた。
この五階に、用事があるのだ。この五階にある探偵事務所に。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
女性は、緊張した表情を少し緩めて真言を見上げた。
岸谷玲香と名乗ったこの女性は、派手なといっても差し障りはないだろう美人だった。身体も細くしなやかな肢体だ。
五分袖の黒いワンピースがとてもよく似合っていた。
彼女の綺麗に化粧を施された顔を、真言は思わず見つめていた。
「あの、何か?」
じっと見つめていたのを不審に思ったのだろうか。それとも、不躾な視線に、嫌悪感を抱いたのだろうか。岸谷玲香は戸惑った視線を真言に向けた。遠慮がちなその声に、真言は我に返ったように、二度瞬きをして俯いた。
「す、すみません。失礼します」
そう言って、慌てて踵を返し小走りに扉へ向かう。
「それでは、お話を伺いましょうか」
茉莉の声を背後に、真言は応接室を辞した。
持っていた盆を胸の前で抱え、閉じた扉に背をつけた。
目を瞑る。
大きく息を吐だした。嫌な感じに騒ぐ胸を持て余す。久し振りの感覚に、動転した。先ほど見た映像が閉じた瞼の裏に、フラッシュバックするように映し出された。
見たくもないものを見るのはもう、嫌なのに。
もう一度大きく息を吐きだして、真言は事務所を見回した。デスクにいつも座っているはずの所員が一人もいない。
真言は応接室の隣にある、半分物置と化している仮眠室へと足を向けた。
ドアを開けると、やはり二人はいた。
おざなりに置かれた雑多な物に囲まれるように、置かれたテーブルとソファー。そのソファーに清吾と通が座っていたのだ。
小さなテーブルの上には、これまた小さなモニターが一つ置かれている。
「何、してるんですか?」
狭い部屋で、男二人が肩寄せ合って小さなモニターを見つめている光景が異様に見えた。
通は、真言の声に反応して顔を上げた。真言を目で捉えると、こっちへおいでというように手招きする。通は清吾の肩を押しやり、すこし座る位置を奥にずらしながら口を開く。
「マコッピーこっちこっち。ドア閉めて横おいで。今、隣の部屋盗み見てるから」
マコッピー?
盗み見ているという言葉より、こちらの方が気になった。
真言は言われたとおりにドアを閉めてから口を開く。
「あの、通さん。マコッピーって僕のことですか」
「そう。嫌?」
「嫌です。それならまこっちゃんの方がマシです」
通はうーんと唸った。
「じゃあ、まこっちゃんにしとくよ。今日は」
今日は? と思ったが、口に出すのはやめた。どうせ何を言っても無駄だ。
「おーい。お前ら、聞こえねぇだろ」
清吾がしっと人差し指を立てて唇にあてる。そんな子どもっぽいしぐさが、洗練されて見えるのは、清吾が男前だからだろう。
清吾の言葉を無視するかのように、通が声を上げた。
「あれ? まこっちゃん顔色悪くない? 気分でも悪いの?」
「何だよ。変なモノでも食ったか?」
真言は、ぶっきらぼうに言われた清吾の言葉に首を横に振ってみせる。
「食べないよ。清吾さんじゃあるまいし。……っていうか平気だから、何でもない」
つい、目を伏せながら言うと、隣に座る通が小さく溜息をついた音が聞こえた。
「なら、いいけど」
その声に顔を上げると、二人に視線を向けていた清吾が、メガネの奥の瞳をモニターに移した。そして、モニターを見つめたまま口を開く。
「結構美人だな、今度の依頼人」
どことなく嬉しそうな声に聞こえる。
「そうだね。少し、音量上げようか」
清吾の言葉を軽くあしらって、通がボリュームを上げる。囁くように聞こえていた音声が大きくなった。
「隣に聞こえないかな」
「大丈夫だこれくらい」
清吾が面倒くさそうに真言に言う。
「それより、見とけ。お前も」
珍しく真面目だと思い、清吾を見た。
そして、気づく。
清吾の手にはなぜか缶ビールが握られていた。今、仕事中なのに。
真言は溜息をつきたくなった。せっかく真面目だと思ったのにこれだ。
『では、まとめさせていただくと、亡くなったお姉さまの婚約者だと名乗る男性を調べてほしいということですね?』
茉莉の声が耳に入り、真言はモニターに視線を移した。岸谷玲香はうつむいていた顔を上げた。モニターに映る玲香の瞳の色の激しさに、真言は息を飲んだ。
『姉は、あの男に殺されたんです。遺産の全てをあの男になんて。家族の誰も知らなかったのに』
『事故死ではないと思われているわけですね』
確認を取る茉莉に、岸谷玲香は頷いた。
『ええ。あの男が殺したに決まってるんです』
岸谷玲香は微笑んだ。冷笑という言葉が良く似合う微笑みだった。
『姉を殺したあの男に復讐したいんです』
真言は背筋が凍るような寒気を覚えた。依頼人は、まるで挑むような口調だった。
殺人を立証するような証拠が欲しいのではなく、彼女は復讐を望んでいる。
姉が何か言っているが、真言の耳には意味を伴って入ってこなかった。
「怖い……」
真言は無意識に口走っていた。
いつの間にか握りしめていた拳を、誰かが軽く叩く。
隣を見ると、通がゆっくりと微笑んだ。柔らかな笑顔だ。
「大丈夫だよ、真言くん」
優しい通の声に、緊張していた真言の心が少し軽くなる。通の横から、こちらに身を乗り出し、清吾が真言の頭を小突いた。
「痛っ」
「弱虫だな。お前」
清吾がにやにやと笑いながら真言に言った。つい、清吾の目を見つめる。真言は清吾の瞳に心配の色が出ていることに気づき、むくれて見せるしかなかった。