+第九章 犯人
自宅に帰ると、また、郵便受けに封筒が入っていた。封を開けると、中には飾り気のない白い便せんがあった。
『人殺し』
わざわざ新聞の字を切り抜いて文字が連ねられている。手にした便せんを手の中で丸め、ごみ箱に放り込んだ。
手近にあった壁を殴る。
事故に見せかけることに成功したというのに。
邪魔ばかり入る。
証拠などあるはずがない。
そう思うのに、後から後から不安が募る。
よろよろと歩き、ごみ箱に放り込んだ便せんを拾い上げた。
『人殺し』
台所まで歩き、ライターで、その紙に火をつけた。
紙はあっという間に火に包まれる。
燃え尽きる少し前に手を離した。灰と化した紙が流し台の中へ落ちる。
知られているはずがないのだ。
あの日、あの場所に、他に誰もいたはずはないのだから。
学校を終えて、真言が事務所のドアを開けると、珍しく姉の茉莉が占い師の衣装をつけたまま机の前に座っていた。金銀の装飾が施された、ゆったりとしたローブ風の黒い衣装である。
「ただいま、姉さん。今日は占いの日だったんだね」
真言が額の汗を手で拭いながら言うと、茉莉は頷いた。
「そう。予約が三件入ってたからね。疲れたわー」
「お疲れ様。ねえ、清吾さんと通さんは?」
「デート」
ウインクして言われた茉莉の言葉に、真言は思わず声を上げた。
「えぇ? 二人が」
すると、茉莉が可笑しそうに声をあげて笑いだす。
「あはは。違うわよ。芳郎と通子がデート。清吾には後をつけてもらってる」
言われて、妙に恥ずかしくなった。少し考えれば分かることである。
「じゃ、じゃあ、岸谷さんも一緒?」
話を変えようと思いついたことを口にする。すると、予想通りの答えが返ってきた。
「そうよ、彼女のやる気は本気みたいね」
「大丈夫なの? 彼女、伊藤芳郎のことかなり良く思ってないけど、また暴走したりしないかな」
聞くと、茉莉は頷いた。
「大丈夫よ。清吾がいるから」
「清吾さんで大丈夫なの?」
で、を強調して言ってみる。
茉莉は真言から目を逸らした。肩に垂らした髪を人差し指でくるくると巻き始める。
「んー。たぶんね」
ずいぶんたってから、頼りない返答があった。
明日は学校が休みだし手伝おうかと申し出たところ、茉莉から清吾と合流するようにとお達しがあった。
事務所で事務作業をこなした後だったので、すっかり日が暮れていた。
色々と準備をして、清吾の居る場所の近くに着いたのは、午後十時を回っていた。
清吾がつけている発信機を頼りに歩いていると、見知らぬ狭い路地に足を踏み入れてしまっていた。住宅街のど真ん中といったところだろうか。回りは一軒家が多く、真言がいるのは家と家との間の狭い路地だった。
「この近くにいるはずなんだけど」
思わず独り言を言ってしまう。路地を右に曲がると、ふいに視界が開けた。少し広い道へ出たようだ。
そこはT字路になっており、左右のどちらかにしか進めない。とりあえず左に顔を向け、真言は人影を目にし、足を止めた。
岸谷玲香と清吾がいた。電信柱の影に立つようにしている。二人の先には通と芳郎が寄り添うようにして歩いている姿があった。等間隔に立っている街灯のおかげで、二人とその先にいる通達の姿がはっきりと見て取れる。
この道に出てやっと分かった。近くには確か芳郎の住むマンションがあるはずだ。一度、清吾と一緒に来たことがある。
真言は、そっと清吾と玲香に近づいて行った。背後から声をかける。
「清吾さん、岸谷さん」
「どっ!」
驚いたのか大きな声を出す清吾に向かって、慌てて人差し指を口元にあてた。
「しっ、静に……」
「どっから湧いて出た」
酷い言い草だ。真言は眉を顰めた。前方にいる通と芳郎を気にしながらも口を開く。
「背後からだよ。えっと、こんばんは、岸谷さん。今日はずっと二人の後付けてたんですか? 疲れたんじゃありません?」
「ええ、まあ」
玲香はどこか浮かない顔をしている。
「おい、真言。俺、ちょっと車取って来るから、お前後よろしく」
言うが早いが、清吾は踵を返して走り去る。
「え? ちょっと」
その背に向かって、声をかけたが、大きな声を出すわけにはいかないので、その声が清吾に届いたかどうかは疑わしい。
「岸谷さん、とりあえず、行きましょう」
小声で玲香に言うと、玲香は頷いた。
二人揃って足音に気をつけながら、かといって気負わないように歩く。
「ねえ、真言くん。あの人、姉さんのこと本当に好きだったのかしら」
真言は歩きながら玲香を見た。玲香はじっと前を見据えている。真言は少しだけ考えてから口を開いた。
「さあ、どうだったんでしょうね。あの人の女癖の悪さは有名だったようですし、すぐに通さんに靡いたところを見ると、金蔓としか思ってなかったのかもしれませんね」
真言は玲香の様子を伺う。玲香の目の色は分かりにくかった。いろんな感情が入り混じっているように思う。
「おーおー。なんでぇ、カップルか?」
数メートル先を行く通達に視線を移したときだった。横から突然声をかけられ驚く。
真言が声のした方を見ると、スーツを着た男性の姿が目に映る。どうやら、横の路地から出てきたところらしい。
ふんわりと、空気にのって、酒臭い臭いが漂ってきた。
真言は玲香の腕を掴んで、耳に口を寄せる。
「絡まれると面倒だから、後に向かって走ってください。近くに清吾さんが車を回しているはずだから」
掴んだ腕を離すと、玲香は頷いて後ろに向かって走って行った。
その後ろ姿を見送っていると、急に腕を引っ張られた。
「おい、兄ちゃん。振られちまったなぁ」
言葉の最後には、しゃっくりのオマケがついていた。真言は嫌悪感を抱いて顔を顰める。
「おーい、兄ちゃん。聞いてるかぁ」
「うわっ、酒臭っ」
いきなり掴まれていた腕をひかれ、そのまま肩を抱かれた。男は、真言に顔を近づけてくる。酒臭い息が顔にかかり、一気に気分が悪くなった。肩に置かれた手を外そうにも、意外なほどに力が強く、一向に外れない。
「あの、何なんですか?」
「ダメダメ。女泣かせちゃあいけねぇなあ」
いや、泣かせてはいないが。
真言は後悔した。自分も一緒に逃げればよかったと。
「あの、離してもらえませんか」
遠慮がちに言うと、顔を近づけたまま、酔っ払いはにんまりと笑った。
「よっし。可哀そうな兄ちゃんには、おじさんがぁ。ヒック、一杯おごってやろう」
さ、行こう行こうと、真言の肩に腕を回したまま動きだすので、真言は足をもつれさせた。危うく転びそうになる。
「もう、やめてくださいよ。僕は、未成年だし。ちょっと、いい加減にしてください」
「おじさんも振られちゃったのよー。可哀想なのよぅー。もうこうなったらぁ、可愛い男の子でもいいや。なっ」
なって何だ。意味が分からない。酔っ払いとはそういうものなのか。
どうしようかと、思っている間にも、ぐいぐいとひっぱられる。
肘鉄でも食らわせてやろうかと、物騒なことを考えたとき、背後から声がかけられた。
「おい、嫌がってるじゃないか」
真言はその声に聞き覚えがあった。肩に乗った重さがなくなり、振り返ってみると思ったとおりの人物が、酔っ払いの腕を持ち上げていた。
「酔っ払いはさっさと帰って寝な」
そう言って、その人物は男の腕を離す。
「な、何すんだよう。みんなして俺を邪険にしやがってよぅ。おじさんはぁ。泣いちゃうぞう。いい男だからってなぁ。調子にのってんじゃねーぞー。バカらろー」
バカ野郎と言いたかったのだろうが、ろれつが回っていない。
男は悪態をつきながら、よろよろと走り去って行った。
真言は安堵の息をついたものの、この後どうするかを考えた。まだ、近くに玲香がいるかもしれない。
「君みたいな若い子が、こんな時間に歩き回るものじゃないよ」
そう言ったのは男性の声だ。真言はそっとその男性を見上げた。真言よりも、十センチ以上はある身長。少したれ気味の目。ハンサムという言葉が似合う容貌の彼の名は、伊藤芳郎。真言が先日からずっと見張っていた人物だった。
「すみません。あ、ありがとうございました」
とりあえず頭を下げた。
「……君、最近、僕の後をつけているよね? どうしてそんなことするんだい?」
真言は驚いて目を見開いた。そんなことを言われるとは思ってもいなかった。
頭が真っ白になった真言の目に、通がスカートを翻しながら、走り寄ってくる姿が見えた。走り方すらも女性のようだ。徹底している。
「あ、やっぱり真言。どうしてこんなところに?」
いつもよりも幾分声まで高い。やっぱり凄いやこの人と、どうでもいいことを考えてしまったので、通の質問に答えるのが遅くなる。
「え? あの、その」
混乱したまま声を出したせいか、言葉にならなかった。
通は、眉をひそめて真言を見た。
「もう、私の後をつけてたのね。すみません、芳郎さん。この子私の弟なんです」
ナイスフォロー通さん。真言は通の言葉に心の中で喝采を浴びせながらも、口を開く。
「ご、ごめんなさい。姉さん、世間知らずだから心配で。ずっと後つけてました」
真言は言うなり頭を下げた。芳郎が小さく噴き出す。
畜生、本気で面白がってる。
真言は顔をあげ、芳郎の目の色に気づいてそう思った。芳郎の目は、黄色く光っていた。