第壱夜(3)
「…おいで。」
俺がそう呟くと、彼女は不思議そうな面持ちで、差し出した俺の手と顔を交互に見やった。
見た所10かそこいらか…長年、3つ年下の双子の妹達を相手にしていたので、この位の子供の相手には、長けていると言う自負が在ったのだが…
俺の呟きから、暫くの沈黙が流れ、その自信が挫けそうに成った頃、ようやく彼女の唇が動き始めた。
『…お兄ちゃん、わたしの事が見えるの?』
声に成らない言葉…当然だ、彼女もあそこに居た人形と同様、肉体を持っていないのだ。
空気を振動させる事が出来無いのだから、声を発する事が出来ず、口の動きだけで、何を言っているのかを読み取るしか無い。
この子とミサキの違いは、肉付けされた気が、霊気かどうかと言う事と、ミサキよりも姿形が、ハッキリしている事位だ。
そう、この子もまた…
「…あぁ、ちゃんと視えているよ。」
彼女の質問に、なるべく心の内を悟られ無い様、微笑みを浮かべて答える。
今はこれ以上の余計な詮索を放棄し、ただ目の前に存在して居る、この少女との対話に専念する。
彼女が、俺の思った通りの結末を遂げていたとしても…それに対する、燻る様な怒りの情動を、彼女に決して悟られてはいけないのだ。
それを、今表に出してしまったら、彼女はきっと恐れを成して、逃げ出してしまうだろう。
だからこそ今は、それまでの思考を全て、意識の外へと押し出し、彼女との対話にのみ専念する。
俺の内なる葛藤等知る由も無く、それまで陰に隠れていた少女は、不意に駆け寄ってきたかと思えば、心配そうな表情を俺へと向け、その小さな手を首へと差し出した。
『…首、ケガしているの?』
再び、音にならぬ言葉を読み取り、首の裏に出来た傷の存在を思い出す。
「うん?あぁ…この位大した事は無いさ。」
彼女の問いにそう答え、差し出していた手を、自分の首に回して、まだ乾き切っていない血を、無造作に拭い取る。
それなりに傷は深かったのか、思っていた以上の出血量ではあったが、すでに出血は止まっていた。
首の裏側なので、傷自体は確認出来ないが、既に塞がっているか、悪くても瘡蓋には成っている筈だ。
一応、首を左右に大きく動かし、傷が開かないかの確認だけしておく。
「…昔から、傷の治りが早くてね。心配してくれて、ありがとうな…」
傷が開かない事を確認し、視線を少女へと戻した俺は、彼女の気遣いに礼を述べると、左手を差し出し、その頭を優しく撫でる。
肉体が無いと言っても、質感はしっかりと感じ取る事が出来るのだ。
空気の固まりを撫でている様な物なので、簡単にすり抜けそうに成る事に気を付けながら、その頭の形を、なぞる様に優しく撫でる。
5往復程撫でた頃か、気恥ずかしそうな表情を浮かべ、不意に彼女が俺の胸に、顔を埋める様に抱き付く。
そこから見上げる様に、俺の顔に視線を向けて、目が眩みそうに成る程の、満面の笑顔を向けてくれる。
一瞬、幼い頃の妹達との想い出が脳裏を過ぎり、自然と暖かい感情が、心の奥底から込み上げてくる。
「…ずっと一人で、ここに居たのか?」
そう聞くと彼女は、首を縦に降る。
「そうか…寂しくなかったのかい?」
努めて優しくそう聞くと、それまでの笑顔が嘘の様に曇り、彼女は俺の胸の内で俯いてしまった。
当然だろう…気が付いたらこんな場所で、世界からただ1人、取り残されてしまった様なものだ。
幼い彼女にとって、心細くない筈が無い。
恐らくこの子は、自分が何故死んだかと言う事を、理解出来ていないのだ…
何故死んでしまったのか、何故こんな場所に居るのかも解らず、誰を恨んで良いのか、何を呪えば良いのかも解らない無垢な記憶は、誰にも気付かれず、誰からも手を差し伸べられる事もなく、ただひっそりと、孤独に耐え続けなければ成らないのか…
「…辛かったな。もう大丈夫だ…」
そう言って、俯く少女の頭にソッと手を添える。
今まで堪えていたのだろう…彼女は、その小さな肩を振るわせて、再び俺の胸へと顔を埋め、音にならない嗚咽を漏らす。
優しく包み込む様に、その小さな体に腕を回すと、意識を集中し、彼女の記憶と同調する。
やはりと言うか…彼女の記憶は、その殆どが意味消失しており、読み取る事が、ほぼ出来なく成っていた。
僅かに残されていた、強い記憶から解ったのは、彼女の名前がサエと言う事と、姉が居たと言う事のみだった。
記憶の消失具合からみて、少なくともミサキよりも以前に、亡くなった事は間違いないだろう。
それを考慮し推察すると、サエが思念体と成ってから、最低でも10年以上は、経過している事になる。
片や、10年恨み続けて、ようやく形を手に入れ様としている記憶と…
10年以上、何を恨んで良いのか解らず、ただ孤独に耐え続ける、無垢な記憶…
果たして、どちらがマシだっただろうか…
少なくとも、どちらも救われない事だけは確かだ。
そんな、救われない記憶を生み出した原因に、腹が立ち怒りが込み上げてくる。
先程、表に出さぬと決めたばかりだというのに…
―…俺も、まだまだ青いという事か。この程度の感情抑制も、出来ないとは…
胸の内に飛来する、様々な感情を再び抑え込み、自嘲気味に苦笑する。
そして、今尚俺の腕の中に居る少女の頭を、再び優しく撫で…
「…サエ。」
その名を口にすると同時、彼女は腕の中から俺の顔を見上げる。
驚いたのだろう、思念体と成って、初めて自身を認識出来る者と対峙した上、その者が、教えてもいない自分の名を…二度と呼ばれる事は、決して無いと思っていただろう、懐かしい名前を口にしたのだ。
それは、余りにも悲しい、尤もな反応だった。
俺は、その瞳を真っ直ぐ見つめ返し、伝えなければ成らない言葉を口にする。
「…その寂しさも、悲しさも…全部俺が解ってやる。だからもう、此処に一人で居る事は無いんだ…」
言葉の意味を察したのだろう、サエは一瞬顔を伏せたかと思うと、直ぐに顔を上げて、俺の背後へと視線を向ける。
不安そうな面持ちで、恐らくミサキを見つめているのだろう。
「…大丈夫だ。彼女の事も、俺に任せておけ。」
不安そうなその横顔に、努めて優しく…その不安さえも、包み込む様に告げると、彼女は再び、俺へと視線を戻した。
『…本当?』
「あぁ…」
『みんなの事も?』
先の問いに、躊躇する事無く頷くと、間髪入れずに、サエは再び聞いてくる。
目に見えてはいたが、考えない様にしていた。
ミサキとサエの身に起こった悲劇を、理解するだけで、自分を抑制する事が手一杯だった…
其処に在るソレ等が、全て彼女達と同じ境遇の末に出来た物で在ると、認めてしまったならば…
今すぐにでも、怒りでどうにかなってしまいそうだったからだ。
だが彼女の言葉で、嫌が応にも、ソレ等を認識しなければ成らなくなった。
俺とサエを中心に、不自然に並び立つ岩の数々…
まるで其処に、何かが埋まっている事を、指し示しているかの様に点在するソレ等は、見える範囲でその数30…
ミサキの居た地点にも、同じ様な岩があった事を考えれば、ソレ等が何の目印なのかは、容易に想像出来る。
―このどれかの下に、この子の亡骸も…
「…あぁ、大丈夫だ…サエは何も心配しなくて良い。全部俺が引き受けた…」
三度、思考を中断し己を律する。
その行為は、俺にとってはまるで、拷問に等しかった…いや、拷問の方がまだマシだったかもしれない。
己の肉体に走る激痛ならば、いくらでも耐えてみせよう…
だがこの子の様に、自分の苦しみや悲しみを、押さえ込んで迄…それでも尚、他者を気遣える者を見るのは、居たたまれなくて、胸が締め付けられる様だ。
そんな彼女に敬意を払う意味でも、今はこの感情を殺し続け、自分で決めた役を、演じ切る事に専念しなければ成らない。
サエは、俺の答えを聞いて満足そうな笑顔を向けてくる。
その笑顔に俺も笑顔で返し、再びその頭をゆっくりと、なぞる様に優しく撫でた。
「…だから…もう休んで良いんだ。」
その言葉を聞いて、彼女はゆっくりと瞳を閉じる。
変化は直ぐに起きた…彼女の実体の無い体から、不意に淡い光の粒の様な物が、1つまた1つと、剥がれる様に浮かび上がり、それ等はゆっくり、周囲の空間へと消えていく…
幾つもの光点が剥がれる度に、彼女の体はその存在感を、少しずつ薄めて行く…
単純な話、思念体と成った者への対処法は、その核と成っている物と、霊気や妖気との繋がりを、絶ってやれば良いだけなのだ。
特に彼女の場合は、自我が確立している上、自分が思念体で在る事を認識していた…
その気に成れば、此処では無い何処かへと、行く事も出来ただろう…
何十年と留まる事も無く、消失する事だって出来た筈だ。
だが彼女は、それをしなかった。
その理由は、誰かにこの事を伝えたかったのか…
或いは、誰かに自分の事を、見付けて欲しかったのか…
思念体と成った存在は、基本的に記憶を蓄積する事は無い、蓄積する場所が存在しないのだから当然だ。
だが彼等或いは彼女等は、思念体と成って以降の記憶を、確かに持っているのだ。
何も記憶とは、人体にのみ宿る物ではなく、動植物や石ころにだって存在するのだ。
彼等彼女等は、それ等から記憶を引き出す術を持っていると言われている。
詰まる所、彼女が今迄存在していた、この場所こそが、彼女の体内の様な物であり、この場から出てしまえば、それまでの経験は全て白紙と成り、自分が誰なのかさえ、解らなく成っていただろう…
その方が、彼女にとって余程楽だったろうに…それでも、尚此処に留まって居た理由を、今聞くと言うのは野暮という物だ。
不意に、彼女は瞳を開いて、俺の顔を覗き込む様に見上げる。
元々透けていた、その体は透明度を増し、既に消え入る寸前と言って良いだろう。
だと言うのに、彼女は恐れる事も、不安がる事も無く、それ迄で一番の笑顔を、俺へと向けたかと思うと…
『…ありがとう、お兄ちゃん。お休みなさい…』
そう言い残して彼女は、光の粒へと姿を変えた。
俺はその光の粒の行く先を、見届けた後…
「あぁ…おやすみ。ゆっくり眠りな…」
掌に残った、最後の1粒に呟き、それを空へと還した。