第壱夜(1)
―2006年6月10日土曜11時32分
―ブオオオォォォーン…
梅雨入りして久しい土曜の昼前、梅雨にしてはよく晴れたその日、一台のバイクが、山道の道路を疾走していた。
ワインレッドの車体に跨る、黒のライダースーツに身を包んだ人物は、フルフェイスメットを着用の為、表情迄は伺えない。
しかし、線の細い印象を受ける体付きでは在ったが、女性特有の凹凸が見あたらない辺り、恐らくは男性なのだろう。
しかしこの山道、土曜の…しかも快晴の昼だというのに、このライダー以外、全く車両が見受けられない。
幾らなんでも、その辺りに有名な観光スポットが無い上、連休でも無い週末だとしても、峠に至る迄の交通量が、時間帯で最高2台とあっては、立派に舗装された道路が哀れな上、税金の無駄遣いだと言わざるを得ないだろう。
―ブオンッ!ブルウォンッ!!
それ迄、軽快なエンジン音を響かせ、走行していたバイクは、山頂に至る寸前で減速し、登り切った後、路肩に寄せてゆっくりと停止した。
ライダーは、そのままバイクのエンジンを切ると、フルフェイスメット越しに、そこから見える景色に視線を移した。
「…フン。ここが耶麻津村…か。」
メット越しに聞こえて来たのは、やはり男性の声。
やや高めで、よく響きそうな声音では在ったが、その口調からは、幾分不機嫌さが感じられた。
徐にライダーは、メットのバンドを外すと、自分の顔を覆っている物を、両手でゆっくり持ち上げる。
そこから現れたのは、実に中性的な美青年の姿だった。
「…随分と、モノクロな村だな。さて、鬼が出るか、蛇が出るか…」
そう呟いて彼・蒼月蒼天は、眼下に広がる、人口僅か200人程度の、小さな村を見下ろす。
彼がこの地、X県耶麻津村・別名鬼哭谷村に、遣って来る事に成った原因は、約1週間程前迄遡る…
―同年6月4日日曜16時42分
その日俺は、Y県の知り合い宅から、実家へと戻る途中に、X県の峠道を通っていた。
今迄に、1度も通った事の無い道路だったが、調べた所、この峠道を使えば僅かながらだが、帰宅する迄の時間短縮が計れる事が解ったので、今回初めて利用する事にしたのだ。
急ぎの用件が在る…と言う訳では無いのだが、一応は学生の身の為、帰宅時間が遅くなれば、それだけ家族に心配を掛けるし、何より妹共が煩くて敵わない。
それだけで俺には、帰宅を早める、これ以上無い理由になるのだ。
しかし、初めて通る道と言うのは、どうしてこう気分が高まるのだろうか。
当然、見える景色が違うという事も、理由の1つだろうが、この道の先がどうなっているのか…と想像するだけでも、好奇心が擽られるから不思議だ。
流れる景色に、目を向けながら、何かしら目新しい発見は無いかと、つい探してしまう。
交通量が少ない…と言うよりかは、全く無い道とは言え、これでは何時事故を起こしても、可笑しくは無いと解っていても、つい遣ってしまう悪い癖だ。
―最も、そんなヘマはしないがな。
等と心の中で呟き、1人苦笑する。
しかし、本当に交通量が全くない道だ。
この峠道に入ってから、既に30分は経つと言うのに、すれ違う車両に一向に出会わない。
これでは、折角立派に舗装された道も、税金を湯水の如く使用した結果だと、言われても仕方が無いだろう。
まぁ、この道路は元々、周囲の街の反対を押し切って、舗装されたと言う逸話が存在する事を考慮すれば。この交通量の少なさも、多少なりと頷ける。
と言うのも、この峠は地元民ならば、知らぬ者は居ないと言う程の、ある有名な伝承があり、それが原因で昔から、何かと諍いが多いそうなのだ。
通称鬼哭谷。
古くは戦国時代に迄遡るそうだが、当時この辺り一帯では、雨乞いの為に人柱を立てる風習が在ったそうだ。
人柱といっても、最初は山で採れた作物や家畜、人の形をした依り代を、供物として捧げていたそうだが、ソレが段々とエスカレートしていき、江戸初期に入る頃には、人を捧げる人身御供に迄発展したそうだ。
そして江戸中期に入り、人身御供にされそうになった者が鬼と化して、村一つを壊滅迄追い込んだと伝えられている。
しかし、旅の僧侶がその鬼を退治し、村は壊滅を免れたそうだが、その時の鬼の断末魔の悲鳴が、この峠一帯と山を挟んだ麓の村迄響き渡り、以来この峠を鬼哭谷と呼ぶ様に成ったそうだ。
今でも、流れる景色から見える山の一角には、当時の人身御供にされた人間の人骨が埋まっている…という、曰く付きの峠道なのだ。
なので、この峠道の舗装が提案された当時は、近隣住民と国との間で、相当な諍いが在ったそうだが、所詮は只の伝承に過ぎず、この山間にある耶麻津村との交通の便も鑑みて工事は着工。
完成した今は、近隣の村や町からの利用者は無く、この道を使用するのは、ほぼ耶麻津村の住民のみ…と言う訳だ。
まぁ、実際に山を掘り返して、問題の人骨が出た訳でも無いし、第一御伽話の部類に入る様な、伝承を真に受けるのは、どうかしているとしか言い様が無い。
例えその話が、実際に起こっていた事実だったとしても、今現在耶麻津村に住まう住民が、起こした訳でも無いし、伝承を理由に陸の孤島を作る等、今のご時世ナンセンスでしか無い。
誰だって、住み慣れた土地を離れるのには、抵抗があるだろう。
その村の住民が、その土地を離れる離れないは、当人達の問題だろうし、その土地でそう言った伝承があった、伝承の残る土地で、生まれ育った者達が居た…と言う事実も変わらない。
要は、今現在その土地で暮らしている者達に、生まれる遙か昔の罪を着せるのは、甚だ愚かしいという事だ。
それに…
―俺の記憶する限りでは、過去数十年この辺りで浄化等の依頼がされた…という記録は無いしな…うん?
確かに、そう言った記録は存在しない…それもまた事実だ。
四季の変化を生物の成長で表現するならば、春を誕生、夏を成長、秋を衰退、冬を死と表現出来る。
それに当てはめるなら、今は誕生から成長すると言う、1年で一番、生命力に溢れた時期だと言える。
特に山は、様々な生命が息づき、場所によっては山神信仰が成される程、神聖な場所なのだ。
だからこそ尚更、極々微量ながら、瘴気の気配を感じた事に対して、俺が過敏な反応を示した事も、至極当然の事だっただろう。
当初は何かの勘違いかとも思われた。
当然だ…先も挙げたが、通常この時期は、自然界に存在する霊気と妖気のバランスが、良い意味で著しく崩れる。
つまりは、自然界に存在する霊気の量が増加し、逆に妖気の量が減少すると言う事だ。
それは山の様な、生物が多く生息する場ならば尚更だ。
現に、この峠道に入ってからと言うもの、通常存在する筈の妖気さえ、殆ど感じる事は無かった。
だと言うのに、濃度の極めて濃い妖気『瘴気』を感じるなど、まず考えられない事態だ。
―ブオンッ!ブルウォンッ!!ドッドッドッド…
急ブレーキこそ掛けなかったものの、俺はバイクを減速させ端に寄せて、そのままエンジンを切り、スタンドを起こしバイクから降りる。
そのままフルフェイスメットを外すと、先程感じた瘴気の方向へと視線を向けた。
最初に感じた場所から、多少離れただけで、既に瘴気の気配は感じ無い。
やはり気のせいと言う事にして、放って置こうかと言う考えが、一瞬脳裏を過ぎったが、流石にそう言う訳にもいかず、溜息を1つ吐いた。
「…やれやれ。妖気溜まりでも在るのか…何も持って来てはいないんだが、このまま…という訳にもいかない…か。」
そうぼやき、最初に瘴気を感じた場所迄、ゆっくりとした足取りで向かう。
やはりと言うか、残念ながらというか…それは、間違い無く瘴気の気配で、それはそのまま、山側の林の中から漂ってきていた。
それを確認した俺は、躊躇する事無く、そのまま林の中へと足を踏み入れたのだった。