第零夜(2)
「…悔しかろう、恐ろしかろう、憎かろう。この10年、この村でお主を慕っていた者は…皆、今日この日の為の、贄としてお主を見ていたのじゃ。山に豊穣を、村に繁栄を…それ等をもたらす者として、巫女を崇め、敬っていたのじゃ。お主の両親も姉も、その例に漏れず…」
「…狂ってる。」
更に続く老婆の毒が、全身に回って来たのか、先程迄強張っていた筈のミサキの体からは、まるで全てを諦めてしまったかの様に、全身の力を抜いて項垂れ、消え入りそうな声で、力無くそれだけ呟いた。
「…そうじゃな、その通りじゃ。この村は狂っておる…」
ミサキの呟きにそう答え、老婆は更に…
「もし、自分以外の誰かを、差し出せば助かるとすれば…お主はどうする?」
それは、決して耳を傾けては成らぬ、悪魔の問い掛けか…或いは人と言う存在の、業その物を呼び起こす、決して口にしては成らぬ甘露か…
いずれにしても、老婆の問い掛けに、力無く項垂れていたミサキの体が、一瞬ピクリと動いたのは確かだ。
しかし、それから数秒、彼女は何の反応も起こさない。
答えてしまえばどう成るのか、彼女は理解していたのだろう。
例え自分の命を守る為とは言え、他人の命を、無責任に差し出す事等、切羽詰まっていたとしても、余程の考え無しで無い限り、誰しも躊躇する筈だ。
確かに、今彼女が置かれているのは、命の危機に迫られた、切迫した状況だ。
だが幸か不幸か、老婆の吐いていた毒は、体を痺れさせる事の出来る代償に、混乱していた精神状態を、冷静な状態に迄戻す効果も在った様で、今の彼女の精神状態は、極限状態にも関わらず安定していた。
更に言えば、先程彼女は、嫌悪と絶望を込め『狂っている』と呟いている。
ここで答えてしまったら、自分もまたその『狂っている』側に回ってしまうと言う事を、悲しい程に良く理解していた。
だが彼女は…
「…サツキ。」
それ等を良く理解した上で、一人の人物の名前を、項垂れながらも確かに呟いた。
これで、自分も『狂っている側』に回ってしまうとしても…
己の命と、道徳やら命の尊厳やらとを、天秤に掛けて出した結論に、誰が彼女を責められると言うのだろうか。
しかし彼女は何も、自分の命惜しさだけに、悪魔の問い掛けに応えた訳では無い。
それは、とても深く暗い、憎悪と言い換えるよりも、もっと別な感情…
「サツキ…おぉそうか、藤城の…」
ミサキの口にした名前に…その裏に隠された意図に、老婆は心当たりが在るのか、納得した様子で呟く。
そして徐に、それまで黙って控えていた宮司2人に、手で合図を送った。
すると2人は、老婆に一礼してから、木枠に縛り付けられたミサキに向かって、厳かに歩き出す。
「…?」
当のミサキは、自己嫌悪と精神的疲労からか、相変わらず項垂れてはいたが、近づいて来る気配2つに、力なく頭を上げて、2人の宮司に視線を向ける。
『これで助かる。』『明日からは、また日常が始まる。』『今日のこの出来事は、きっと悪い夢だったんだろう。』
少なくとも、今の彼女の心境はそんな所だっただろう。
だが仮に解放されたとしても、彼女はもう元の平穏な、村人に敬われ、崇められる日常には、戻る事は出来無い。
巫女としての彼女は、今この瞬間に居なく成る事は当然として、自分の命を助ける為とは言え、彼女は人として、選んではならない選択肢を選んでしまった。
これから先、彼女は自己嫌悪と贖罪の念に、押し潰されそうに成りながら、巫女としての責務を放棄した者として、村中から非難される事だろう。
それも、『死を選んでおけば良かった。』と思わざるを得ない程の、執拗な非難を…
しかし、それを覚悟の上で、彼女は生き延びる事を選んだのも事実だ。
だが…
「ッ!?な、なんで…」
彼女の覚悟とは裏腹に、宮司達はミサキを解放する事無く通り過ぎ、洞窟の奥へと向かって行く。
それを目で追っていたミサキの表情が、再び絶望へと変わる。
彼女が目にしたのは、洞窟の奥に祀られた小さな祠だった。
その祠の前には台座が置かれ、そこには鞘に収められた日本刀が一振り、厳かに安置されていた。
顎髭を携えた宮司はその日本刀を、幾分若い宮司は台座を、それぞれ手にしてミサキへと振り返る。
「話が違う!私の代わりを言えば、助けてくれるって…」
宮司達の様子を目にしたミサキは、慌てた様子で、老婆へと顔を向け叫ぶ。
だが、老婆は相変わらず身動ぎ一つせず、至って冷静に…
「助けるとも。お主と、お主が今口にした者以外の、村人全てをのぉ。」
「ッ!!」
その一言に、彼女の体は一瞬強張る。
そして、それまでとは一変し、目は見開かれ、歯を食いしばり、鬼気迫る気迫さえ感じられる、表情へと変わった。
目に見えた明らかな変貌、彼女の中で何かが壊れ、同時にナニかが植え付けられたのだ。
『ウワアアアァァァーッ!!』
そして次の瞬間、それ迄の振る舞いでは、決して考えられ無い様な咆吼が、洞窟中に反響し、冷たい空気を振るわせる。
「それが貴様等の遣り方か!」
叫ぶ、今まで以上に全身に力を込め、自分を束縛するロープを、引き千切ろうと藻掻きながら。
その結果、荒縄が更に肌に食い込み、擦り切れて止めどなく、鮮血が流れ出そうと。
「それが人のする事かぁッ!!」
叫ぶ、怒りに我を忘れ、恐怖に体を震わせ、自己嫌悪に涙を流し…
大凡人という種が持ち得る、負の感情を全て吐き出す勢いで。
「死んでしまえ!」
吼える、全身全霊を賭して。
「死んでしまえッ!!」
吼える、肺の空気が無くなろうと構わず。
「おまえ達など死んでしまえぇッ!!」
吼える、体裁等気にせず、奥底から湧き出す怒りを全て力に変え、憎しみを狂気に変えての、聞くに堪え無い余りにも悲痛な咆吼。
だが彼女は、そこ迄叫んで、突然力無く項垂れたが、力尽きた訳では決して無い。
ただ悟っただけなのだ…
幾ら自分が、恨み辛みを声を大にして叫んでも、この場に居る自分以外の、3人には決して届か無いという事を。
そう、彼等は良く理解していたのだ…
ミサキの突然の豹変ぶりは、人の本質が成せる技の、可能性の一つだという事を、彼等は視て識っている。
10年前毎に、犠牲と成った巫女達もまた、今のミサキと方向性こそ違うが、同じ様に普段の彼女達では、決して見せ無いであろう行動を取っていた。
在る者は、喉が裂け様と泣き叫び、また在る者は、侮辱も恥辱も気にせず妖艶を装った。
それ等の行動もまた、人の本質が成せる可能性だと言える…
ただ『生きたい』と、願う本能からの純粋な生存行為…
それをミサキは、あろう事か放棄したのだ。
なんて事は無い、彼女は自分の言葉が届かない事に、気が付いてしまったのだ。
届かない言葉等、読めない文字にも劣る。訴え叫ぶ力は、幾らでも在っただろう、だが気力が無いのだ。
自分の無力さ、不甲斐なさを感じながら、彼女は死人さながらの瞳で、宮司2人の行為を、ただ呆然と眺めていた。
幾分若い宮司は、運んで来た台座を、彼女の真正面に置くと、顎髭を携えた宮司の脇へと移動する。
そして顎髭の宮司が、手にした日本刀を鞘から引き抜き、その鞘を若い宮司へと手渡し、刀を両手で握りしめ、掲げる様に上段に構える。
ミサキは、自分に向けて構えられた日本刀と、丁度自分の頭の真下に、置かれた台座を交互に見遣り、自分は首を斬り落とされるのかと、心の中で呟いた。
「…呪ってやる、恨んでやる、祟ってやる…」
不意にミサキから、静かに紡がれ始める呪詛。
先程の叫び同様、決して聞き入れられる事の無い言葉の羅列。
だが彼女は続ける、例えこの者達の耳に届か無くとも、この瞬間は、一生この場に残ると…
一生消えぬ様に、この感情をこの場に植え付けようと…
「こんな村など…」
―ヒュンッ!ザクッ!!ブシュウウウゥゥゥーッ!!…ごとり…
彼女の言葉の途中、顎髭の宮司は、構えた日本刀を振り下ろす。
文字通りの一刀両断に、ミサキの首は、真下の台座へと落下し、頭を失った胴体部分からは、赤い水が噴水の様に噴き出した。
宮司がミサキの言葉を、最後迄紡がせなかった、真意は定かではない。
だが…
『…ほろんでしまえ。』
―ザワッ
空耳では決してなく、ハッキリと聞こえたその声に、2人の宮司が一瞬ざわめく。
身の毛もよだつ、恨みと呪いの言葉。
それは確かに、胴体から切り離された筈の、ミサキの生首から聞こえた…