第零夜(1)
ー人身御供とは、神に掲げる供物の中で、人の身こそが最も至高であると言う考えである
―1996年6月某日
その日、夜半頃から降り出した雨は、時間を追う毎にその強さを増していき、日付が変わる頃には、歩く者全ての視界を奪うほどの豪雨となっていた。
甲信越地方のその日の予報は、この雨は明け方近くまで降るとの事だが、今が梅雨と考えればさほど珍しい事でもないだろう。
だが、梅雨だというのに、この時期だからこそわざわざ祭りを催す村と言うのは、さすがに珍しいのではないだろうか。
X県耶麻津村。
四方を山に囲まれた、人口500人にも満たない小さなこの村で行われる耶麻津神祭りは、毎年梅雨の時期に行われる。
元々、この時期に執り行われる祭りは、梅雨明けを祈る古来の風習が、形を変えて現代に伝わる事が多い。
だが、この村で執り行われる祭りはその逆で、秋の豊穣に備えての恵みの雨を迎える為の祭りとして、古くからこの村で執り行われてきた。
故に、祭事中に雨が降ろうものなら、祭りの活気は更に盛り上がるという特異な一面がある。
そして、それとは別に、この村で執り行われる耶麻津神祭りの前後には、人々の記憶に残らない、在る奇怪な事件が存在する。
―耶麻津神谷鬼哭の滝
耶麻津村の北側に位置する深い森の奥に、この村唯一と言っていい観光名所の滝が存在する。
観光名所と言うだけあり、滝壺の周りには転落防止用の柵が存在し、それ以上滝に近づけないようになっている。
この滝の名前の由来は後に語られるとして、この滝にはある秘密が隠されている。
秘密と言っても、さほど不思議でもない、物語で使い古された様な秘密ではあるが…この滝もその例に漏れず、『けたたましく流れ落ちる水の柱の裏側に、知る人ぞ知る秘密の洞窟がある』というものだった。
その洞窟の存在は、耶麻津村の中でも極々僅かな人物のみが知る所だが、その洞窟内で起こる惨劇を知る者は、その村で産まれた者ならば、知らぬ者は居ないと言っても良いだろう。
その日は、この村伝統の耶麻津神祭りの初日で、更に祭りの象徴たる雨が降った事もあり、初日の祭事は盛況の内に終わりを迎えた。
ただしそれは、これから行われる10年に1度の山掴み祀りの前座でしかなかったのだが…
草木が眠るにはまだ早い夜10時、豪雨の勢いはピークを迎えていた。
その雨の中、深い森の中を歩く酔狂な者は流石に居なかったが、滝の裏側に隠された洞窟の中には、都合4人分の気配が存在していた。
1人はネズミ色の着物を着た白髪混じりの老婆で、身なりからは淑女の気品が漂っていた。
内2人は神職なのか、宮司の格好をした男性2人。
片方は見た目30前後、もう一方は50~60歳程で、顎には長い髭を携えている。
この2人は親子なのか、顔の印象がよく似ていた。
そして最後の1人は、巫女の格好をした20歳前後の若い女性で、四角く組み立てられた木の枠に、両手両足をロープで縛られ、木枠に括り付けられていた。
そしてその木の枠には、全体に黒ずんだ汚れが染み着いている。
―ギシ…ギシッミシッ…
木枠に括り付けられ、囚われの身の巫女姿の女性は、体の自由を取り戻そうと藻掻いていた。
しかし、その抵抗虚しく、藻掻いた所で戒めが解ける気配はない。
それ所か藻掻く度に、ロープは巫女の柔肌にますます食い込んでいくのだった。
「…無駄じゃよ。」
闇が支配する洞窟の中、巫女を縛り付けた木枠の周囲に立てられた、4つの頼りない蝋燭の灯りが周囲を照らす。
辺りに滝と豪雨の混ざった音が、洞窟内で反響して聞こえるにも関わらず、その声は嫌にはっきりと聞こえた。
巫女はその声を聞き、食い込んだロープの痛みで歪んだ顔を、聞こえてきた声の方へと向ける。
「お婆様…これは一体どういう事なんですか!?」
巫女は、聞こえてきた声に対し、その声の主を睨み付け言い返す。
「どういう…とは、何の事かな?今年も耶麻津神祭りの初日の祭事は、滞りなく終わった。これもみな、耶麻津神の巫女であるお主在ってこそだろう。この10年よく頑張ってくれたなミサキ…」
蝋燭の揺らめく灯りの中、ちょうど光と闇の境界線から、ミサキと呼ばれた巫女を見つめる人影は、揺らぐ灯りとは裏腹に、身じろぎ一つする事なく、彼女に言葉を投げかける。
凡そ胸元までは光の中、そこより上は闇の中なので、今老婆がどのような表情をしているかは、囚われの巫女には解らなかった。
「ご苦労だったミサキ、今まで本当に…これから執り行う『山掴み祀り』が、巫女としてのおまえの最後の仕事だ。」
「最後…?『山掴み祀り』…それとこの扱いと、どういう関係があるのですか!」
「…解らんのか、本当に?」
ミサキの言葉に対し、意外そうな口ぶりで聞き返す老婆。
当然ミサキは、自身の身に起きた突然の出来事に頭は混乱し、先ほど老婆が聞かせた話も、彼女にとって初めて聞く内容なので、理解出来よう筈がない。
それを知ってか知らずか、『絶望』という解答へと辿り着く為のヒントを、彼女へ告げるべく老婆は口を開く。
「この10年、疑問に思った事は一度もないのか?小さな村とはいえ、古くから続くこの耶麻津神祭りの、おまえ以前の先代の巫女を識る者が、1人も居ないという事に…」
その一言に、ミサキの体は一瞬強張り、小刻みに震え出す。
いくら頭が混乱していたとしても、その一言で自身の身に起きた状況が、理解出来ない程彼女は愚かではなかった。
更に言うならば、先程の老婆の言葉は、彼女自身常に疑問に思ってはいたものの、そこまで深く追求しなかった事実だ。
彼女がその疑問を、追求しなかった原因は幾つかあるが、結果として今の事態を招いてしまった以上、今その事を悔やむのは愚者以外の何者でもない。
彼女が、先程の老婆の一言でどこ迄状況を理解したか…或いは、どこ迄想像出来たかは不明だ。
だがミサキは、何かしら察したのだろう…彼女は自分が繫がれた木枠に、恐る恐る顔を向け、そこに染み付いた汚れを、恐怖の眼差しで見つめた。
「…察した様じゃな。ミサキは本当に、聡明な子だ…」
「そんな…そんな事が許される筈が…」
老婆の言葉に、ミサキは木枠を見つめたまま、譫言の様に呟いた。
果たして彼女は、一体何に気が付いたのだろうか?
木枠に繫がれた巫女、そしてその木枠に染み付いた汚れが、仮に血痕だとしたら…
この地にはその昔、人を神に捧げる風習が存在していたとしたら…
そして、先程老婆が口にした、『山摑み祀り』が、その風習の隠語として、当時使用されていたとしたら…
それ等の事実から、導き出される答えは考えるに容易い。
だがそれは、仮にも法治国家の現代に置いて、そんな行為は許される筈がない。
しかしこの村では、その許されない行為が、『静かに』『脈々と』『確実に』受け継がれているとしたら…
ミサキは混乱する頭で、その事実を察してしまった。信じ難い事実だが、それ以上に信じ難い現実が、この後彼女を襲う事になる。
呆然と呟いた彼女に、老婆は再び口を開く。
その言葉こそ、受け入れ難い現実であり、更なる絶望へと突き落とす決定的な言葉となった。
「許されるも何も、すでに死んでいる者が、この世から居なくなるだけじゃ…何も問題はあるまい。」
「ッ!?何を言って…」
老婆の言葉に、強張った表情のまま、ミサキは声の主へと視線を移す。
その言葉は、彼女にとって理解し難い単語だった。
例え1時間先には、命を落としているかもしれない現状とは言え、彼女はまだ生きているのだ。
明らかに老婆の言葉は矛盾しており、理解しろと言われても、到底無理な話であり、呆けた老人の戯言と説明した方が、まだ説得力がある。
だが、老婆はしっかりとした口調で、洞窟内に響く滝と豪雨の音の中、確かに彼女にそう告げたのだ。
老婆の言葉は更に続く…
「おまえの言う通りじゃ。現代に置いて、そんな行為が許される筈も無く、いずれは世間の日の本に曝され、村に住む者達一族徒党が、後ろ指を指されても、文句の一つも言えないじゃろう…では、どうすればひっそりと、語り継ぐ事が出来るか…どの様にすれば、日の本を浴びる事無く、闇に乗じて事を起こせるか…そう考えるのが、人の業だとは思わぬかか?」
そこまで語り、老婆は一旦言葉を噤み沈黙する。
全く身動ぐ事も無く、まるで感情らしい言動も見せず、予め決められた台詞を、ただ吐く為だけに、其処に存在している人形では無いのかと、一瞬錯覚してしまう程、その姿は儚く見えた。
「…お主はな、ミサキ…8年も前に死んでいるんじゃよ。病気という事で、世間的にはな…8年の間、今生を彷徨っていた亡霊が、この世から消えるだけの事と言う訳じゃ。」
「ッ!?そんな…嘘よ!!」
一向にミサキからの返答が無い事に、老婆は痺れを切らしたのか、暫くの沈黙の後、彼女に対し、彼女の知り得なかった事実を、老婆は静かに告げる。
その言葉の、あまりの現実味の無さに、彼女は間髪入れず否定した。
「嘘では無い。お主の両親は元より、お主の姉も承知の上じゃ。」
「ッ!?」
だが無情にも、ミサキの否定は更に否定される。
それ所か、知りたく無かった、更なる事実を突き付けられ、彼女は顔を強張らせ言葉を失った。
彼女の反応は尤もだろう、あまりにも現実味が無く、信じろという方が無理な相談だ。
だが悲しい事に、老婆が紡ぐ言葉は、質の悪い冗談では無い上、吐き出される単語の全てが、彼女の全身を麻痺させ、生き残れる希望を刈り取る為の毒だった。