空中散歩
ビルの屋上には先客がいた。午後十時。
彼の顔はよく見えないが、壮年のサラリーマンのようだ。遠目で見ても覇気のなさと風体の悪さが伝わってくる。酒を飲んでいるようだ。目的は私と同じだろう。
彼とは少し離れた所に腰を下ろし、私は酎ハイを飲み始めた。勢いよく飲みすぎてむせてしまう。弾みで缶を手から放してしまい、ジャケットにもスカートにもかかってしまったが、どうせ今から死ぬのだから別にどうってことはない。
先客は私がいることに気が付いたらしく、ちらりとこっちの方を見たが、特に気にする様子はない。
あちこちから噴き出している大阪のネオンを視界の中で溶かしながら、私はアルコールの酔いに身を任せ始める。普段自分で酒を買って飲むことなどないが、今日は特別な日だ。そう、特別な日。
自分の人生が特別悲惨なものだったとは思わない。もっと凄惨な運命に抗っている人はいくらでもいるだろう。だけど私は疲れてしまった。自分はここまでの人間だったのだ。早めに退場したっていいだろう。両親は悲しむかもしれないが、仕方がない。大学まで行かせてもらったのに申し訳がない。
自分の人生を振りかえるべく、思い出に浸りはじめた。その時、隣から物音がした。見ると、先客が立ち上がっていた。カバンを置いて、靴を脱いで丁寧にそろえる。私の方をちらりと見て、おおげさな敬礼をしてきた。酔っているのだろう。お先に失礼します! といった感じだった。顔はよく見えなかった。
そして彼はビルの淵に立ち、夜の底に沈んだ。
何拍か間があいて、鈍い音が響いた。悲鳴が上がる。お先に行ってらっしゃい。私もすぐに行きます。別に後追いじゃないねんけどな。
ちびちびと酎ハイを飲みながら、色々な事を思い出す。中学高校時代はそれなりに楽しかったな。大学受験でうまくいかなくて入学することになった二流大学での日々も、悪くはなかった。ただ、社会人になってから、何かがつまらなくなった。疲れを覚えた。いや、それまでも人生に対して何かしら疲れは覚えていたはずだ。
子供の頃から友人は多い方ではなかったし、いつも何かにおびえていた。だけど疲れを気にしないふりをして走っていた。社会人になって人生がつまらないと本格的に思い出しただけであって、それまでにも地下水流のように人生に対する疲れが存在していたのだろう。ふと自分の内部を掘ってみたら、それがきっかけで噴出してきた地下水にのみ込まれて、私は生きる自信と気力を失った。
しばらくたってサイレンの音が聞こえてきた。警察と救急隊が呼ばれたらしい。警察は多分ここにやってくるだろう。
アカン、ここに警察がきたら私の特別な日は台無しや。あの先客のクソ野郎。あいつがおらんかったら私は最後の時間をもうちょっとゆっくり過ごせたんや。死ね。
追憶を打ち切って、私はビルの淵に立った。彼と違って靴は履いたままにしておく。カバンは持って行っても仕方がない。下をのぞくと、飛び散った赤いものの中心にスーツを着た物体が鎮座していた。素人目にも即死とわかる。遠巻きにやじ馬が集まっていた。警察と救急隊はまだ到着していない。
酔いに任せて、私は新たな一歩を踏み出した。
走馬燈は流れなかった。空気を切り裂く音がうるさい。静かに死にたかってんけどなあ。地上がぐいぐいと近づいてくる。地面とキスや。誓いのキスや。永遠の誓いや。彼氏とかおらん。もちろん独身や。ちょうどええ。
ところが、私の体は空中で次第に減速し、そしてぴたりと止まってしまった。誓いのキスは妨げられた。
地面とのキスに備えて大の字でうつぶせになっていた私は、間抜けな格好で空中に浮いてしまった。やじ馬は私が空中に浮いていることに気付いていない。
空中で静止して数秒間そのままだったが、今度は重力に逆らうように、私の体は上昇し始めた。空に吸い込まれる。私と地面の結婚を阻止すべく、元カレの空君が乱入したらしい。そんな元カレおらんけどな。おったとしても私は地面君と結婚します! まあ、地面君なんていう婚約者もおらんけどな。
あほか。
私の意志と重力に反して、私の体はぐんぐん上昇していった。大の字ではちょっと情けないから、胡坐をかくことにした。あべのハルハルよりも上まで来てしまったようだが、それでも上昇は止まらない。飛び降り自殺に成功して、天国に召されている途中なんだろうと、私は理解した。
そのとき、私は背後でバサバサと翼のような音がしているのに気が付いた。カラスか何かがいるのだろうか。振り向くと、背中から翼をはやした風采の上がらないスーツ姿の男が、バッサバッサ翼を動かしながら私を見ていた。男は私に合わせて上昇している。
「あんた何してんねん。私をつけてるんか? このストーカー」
「そうやな。つけてるんや。ストーカーとはちゃうけどな。俺は天使や」
なんやこいつ。まあ、私は死んだんやし、変なのが見えるようになってもおかしくない。
私の体は上昇を続けていたが、それは気にせず、自称天使に向き合って会話を続けた。
「何言ってんねん。あんた、あほか。スーツ姿の天使とかおるわけないやん」
「飛び降り自殺に失敗して空にプカプカ浮かんでいるOLの方がおるわけないけどな」
「なんや。喧嘩売っとるんか。それに私はもう死んだんや。今はこうやって天国に召される途中なんや。あ、そうか、あんたが迎えの天使か。私の実家、仏教やねんけどな。宗派は忘れた。キリスト様のおる天国やなくてブッダ様のおる極楽浄土に連れてってな」
「お前はまだ生きている」
「なんやそれ。あんたどっかの世紀末暗殺拳の使い手か。言ってること真逆やけど。ちなみにあれ原作では一回しか言ってないらしいで」
「そんなウンチクはどうでもええねん。どうせ原作も読まんとネットとかテレビでウンチクの欠片を集めとるだけやろ。とにかく、お前はまだ生きてんねん。それにな、お前、特に功徳を積んでへんし、お経も念仏も一回も通しで唱えたことないやろ? じいちゃんばあちゃんの葬式で頑張ってお坊さんについてこうとして三秒で諦める顔してるわ。口も悪いし、これやから関西の女は嫌やねん」
「天使ってことはあんたキリスト様に仕えてるってことでええんよな? そのクセに仏教詳しいやん。ネットかテレビでウンチク集めたんか? キリスト様裏切るんか? それと男尊女卑は許さへんで。現代社会は男女平等社会なんや」
「最近は信教の自由が認められてきてんねん。それにな、何回も言うけどお前はまだ生きてんねん。平べったい胸に手ぇ当ててみいや。心臓の鼓動が分かりやすそうな、ええ胸してるやんけ」
「黙れこの男尊女卑セクハラ天使。それに天使に信教の自由が認められるってどないなってんねん。キリスト教はコンプラ委員会とかあるんか? セクハラと背信で告発したるわ。神の懲戒くらえや」
ペテロかパウロかどっちの方が偉いか忘れたけど、いずれこの死後の世界で会うかもしれないキリスト教の偉い人にこいつを突き出してやると思いながら、私は自分の胸に手を当てた。心臓はしっかり動いていた。私が目を丸くすると、自称天使は勝ち誇ったような顔をした。
「ほらな、平坦な胸を通して生命の息吹が感じられるやろ? ええ胸や。生命の奇跡や」
「黙れ。ならお前の生命の息吹はどうなってるんや? ついでに生命の奇跡はどうなってるんや」
私は自称天使の胸に右手を、股間の辺りに左手を当てた。胸板の薄い、情けない胸をしていた。心臓は動いていなかった。そして、スモールスティックだった。
「いやん。女から男に対するセクハラよ。痴女がいるわ。コンプラ違反でブッダ様に突き出してやるわ。それと大事なのは非常時のサイズなのよ。平常時のサイズはあまり重要じゃないわ」
自称天使のオネエ言葉と言い訳を無視して、私は考え込んだ。本当に私はまだ生きているんやろか。どうすれば死ねるんやろか。そして、天使の心臓というものは止まっているもんなんやろか。こいつは天使とはちゃうんか。
自称天使は沈黙に耐えられないのか、「俺はもう死んでいる」とか口走ったが、私は無視した。かなり高いところまで上昇したのか、私は肌寒さを覚えた。それに気づいたらしい自称天使は私を心配そうにのぞき込んだ。
「寒いんか。生きてるならそりゃあ寒いよな。もう標高千メートル辺りのはずや。ほら、俺のジャケット貸すわ。どうせ俺は幽霊やから寒さは感じひん」
ありがとう、と私は言って、自称天使からジャケットをはぎ取ろうとして、彼の発言の矛盾に気付いた。
「あんた、初めは天使や言うてたけど、ほんまは幽霊なん? どおりで心臓止まってるはずや」
「アカン、口が滑ってもうた。そうや。俺はほんまは幽霊なんや。お前を驚かそうと天使のコスプレをしとったんや。翼は接着剤でくっつけて、そんでポルターガイスト的な力でバサバサ動かしとってん」
自称天使もとい幽霊はしれっと開き直り、背中の翼を毟って放り投げた。翼は夜に落ちていった。翼を毟られたジャケットの背中には接着剤と羽毛が残っていた。私は羽毛を払って、ジャケットを羽織った。ジャケットを二枚も着るのは滑稽だが、寒いよりはましだ。
人心地着くと、私は会話を再開した。
「なんやねん。あんた、幽霊か。ならブッダ様のもとにも、キリスト様のもとにも連れて行ってくれへんのか」
「そうや。俺にそんな力はない。まあその辺はどうでもええわ。お前はまだ生きてるからずっと先の話や。とりあえず下を見てみい。京阪神の街が一望できるわ」
幽霊に言われて私は下を見た。暗闇のなかで光が生きていた。大阪を中心に、京都、神戸まで触手を伸ばしているようだ。素直に綺麗だと思った。
「生きてるって凄いなあ。ええなあ。羨ましいなあ。あの光の中に、俺は二度と戻られへんのやなあ」
幽霊が呟いた。私に語り掛けたのか、独り言なのかがわからなかったので、私は仕方なく無視をした。幽霊は今度は沈黙を味わうかのように押し黙った。しばらくして、幽霊が口を開いた。
「しみったれてもしゃあないな。遅いけど、互いに自己紹介しよか」
「お見合いみたいやな。奇妙なお見合いや」
「片方が死んでるから結婚できへんな。俺は独身やからちょうどええし、お前もどうせ独身やろ。嫁の貰い手があるわけない。まず、俺の名前は堀口大輔や。生前はサラリーマンやった。生年月日は昭和六十年四月十七日や。タイガースががバックスクリーンに三連発をぶち込んだ日や」
「へえ、独身以外にも変な共通点があるな。私もタイガースがらみの日に生まれてん。私の名前は中村真由美。生年月日が平成三年十一月二十四日や。ちなみにライガースがたけし軍団に負けた日や」
「なんやそれ。全然共通点ちゃうやんけ。俺はタイガースの栄光と共に、お前はタイガースの没落と共に生まれたんや。一緒にしたらアカン」
「栄光と共に生まれても、死んだらしゃあない。」
「ほんまそれやな。没落をまとったお前はまだ生きてるのにな」
堀口は自嘲的にほほ笑んだ。笑うと、案外かわいい顔をしていた。
「あんた誕生日がらみでなんかええことあった? 」
「あったなあ。むしろ子供のときはしょっちゅうやったわ。親戚の集まりなんかで毎回俺の誕生日が話題になって、縁起のいい誕生日や、タイガースの神様が宿っとるんかもしれへん、とか言われて、特別に俺だけアイス貰ったりしたなあ。従兄弟とかはむくれとったわ。他にも学校の先生が俺の誕生日だけ特別扱いしてくれたこともあるなあ。」
「うざいわー。私と真逆やん」
「いやなことあったんか? 」
「子供の頃、誕生日祝いの前日に、じいちゃんに、お前の誕生を祝うと同時にあの忌々しい日を思い出すから俺は祝わへんからな、って言われたわ。他にも、私の生年月日を知っただけで不機嫌になった人も何人かおるな」
「災難やったな。でもおもろいわ。わろてまうわ。そりゃあ自殺したくなるわ」
「自殺の動機とは関係ないわ。それはそうと、堀口。あんた幽霊やんな。それやったらプロフィールに死因と命日を入れてもええんとちゃう? 」
「死因と命日かあ。確かにそうやなあ。死因は全身打撲や。ニュースで、全身を強く打ち、ってあるやろ。それやな。命日は勘弁してや。なんか恥ずかしいわ」
「全身を強く打ち、か。それ、ほんまは体がぐちゃぐちゃばらばらになってるってことやんな。グロイな。なんで命日は言われへんの」
「やから恥ずかしいんやって。死人に口無しや。何があっても答えへんで」
「いままで散々喋りまくって都合が悪くなったら黙秘かあ。これやから関西の男は嫌やねん」
「まあええやん。ところで、お前はなんで自殺なんかしたんや。いくらタイガースの没落を背負って生まれたとはいえ、そこまですることはないやろ」
「シンプルに人生に疲れた」
「疲れたからって自殺はせんでええやろ」
「この先何十年と生きる自信がなくなってん。働くのもしんどいし、何か、死んだらもう生きんでええんやなって思ったら、死にたくなった」
「お前変なところで勢いあるんやな。普通とちゃうわ」
「そうやねん。普通とちゃうから生きづらいねん」
そう言った後、私は吐き気と頭痛に襲われた。なんや、これ。
「中村。気分が悪くなってきたか。もう標高三千メートル付近や。高山病の症状が出てもおかしくない。なにせお前は生きてるんやからな」
「はあ? 高山病? そんな高いところまで来たん。死人はええなあ。楽そうや」
「死んでるのはそんなにいいことやないねんなあ。生きてるうちが華や。死ぬのはいつでもできるけど、生き返るのはできるかわからへんしな」
「私は死にたいんや。それと、どこまで私は上昇するん? まさか宇宙とか言わんよな」
「そのまさかや。お前がギブアップせえへんかったら宇宙まで行くかもしれへん。まあ、その前に酸欠とか高山病で死ぬやろうけどな。お前が死んでもこの上昇はおしまいや。死んだ後は落ちるだけ」
そうか、と私は安心した。いずれにせよ、死ねるらしい。今日は特別な日なんや。生きてたまるか。それにしても、なぜ私はこんな迂遠な方法で死ななければならないのだろうか。飛び降りからの全身打撲なら、あの先客のように一瞬で死ねるのに。わざわざこんな苦しい方法で死ぬ道理はない。
「なあ、なんで私はこんな変な死に方せなアカンの? 飛び降りたときにそのまま地面とキスすれば一瞬やのに」
「それはな、中村、お前が本当に死にたいのかテストするためや。試験官は俺や。俺がお前をポルターガイスト的な力を使って上昇させて、ジワジワ苦しめてんねん。死の淵まで、死にたいと思えるかのテストや。案外死んだ後に生きたいって思うバカがおるから、こうやってテストしてんねん」
「なんやそれ。ふざけやがって。死ね」
「もう死んでる」
「ならもう一回死ね。それと、私も死ぬんや。絶対にギブせえへん。死んで、自由落下を謳歌するんや」
「空気の摩擦があるから自由落下とはちゃうな。お前文系やろ。言葉遊びばっか覚えて何の役にも立てへん」
「何の役にも立てへんから死ぬ」
「前言撤回。少しは役に立つわ」
「少しの役にしか立てへんから死ぬ」
「前言撤回。めちゃくちゃ役に立つ」
「それでも死ぬ。死にたいから死ぬ」
堀口は黙った。ざまあみろ。関西の女に口で勝てると思うなよ。それはそうと、気持ちが悪い。頭が痛い。寒い。下を見ると、光はかなり小さくなっていた。中国四国、名古屋らしき光の群れも見える。気持ち悪さに耐えかねて仰向けに寝転ぶ。満点の星空が広がっていた。標高が低いところでは大都市の光にかき消されていた星空が、高所では活き活きとしている。星座とかほとんどなんも知らんから、どれが何座とかわからへん。天の川しかわからへん。月は出てへん。星が綺麗や。
堀口は胡坐をかいて星空を見上げていた。彼が靴を履いてないことに私は気が付いた。
「なんで靴履いてへんの」
「忘れたんや」
「どこに」
「天と地のはざま」
「はあ? 」
「免許証も忘れた」
「それはいらんやろ」
「閻魔様の前で身分証明せなアカン」
「あほやな。身分証明しても、どうせ地獄や」
「天国か極楽に行きたい。善行を積んだはずやし、行けるわ」
「無理や。というかまだ閻魔様に会ってないん? 」
「死んだのが最近やからな。そもそも閻魔様がおるかどうかも知らん」
「新米幽霊か。そのクセにテストとかしやがって」
「そうやな。ところでそろそろギブしたいんとちゃうか? 」
「絶対に諦めへん」
「強情やな。これはもしかしたら死ねるかもな。なんでここまでして死にたいんや。逆にすごいわ」
「もう生きたくないんや」
「その妙な気力があればもっと生きてけると思うねんけどなあ」
堀口と会話を紡ぎながら、私はぐんぐん上昇していた。息苦しい。しんどい。でも、死にたい。
会話をするのもしんどくなったから、私は黙った。このまま、死ぬ。
堀口は私を見守っているようだ。こんな残酷な試験を課すくせに、変なやさしさを醸し出している。
「そろそろ標高四千五百メートルや。人間が定住できる限界や。あと少しで死ねるはずや。というか普通の人間は気絶してもおかしくない。お前やっぱり普通とちゃうわ。異常や。死んだらそのゴキブリみたいな生命力が勿体ない」
堀口が言った。私は絶え絶えの息で、死ね、とつぶやいた。
「五千メートル」堀口が言う。
「五千百メートル」堀口が言う。
「五千二百メートル」堀口が言う。
「五千二百五十メートル」堀口が言う。
「五千三百メートル、五千三百五十メートル、五千四百メートル、五千四百五十メートル、五千五百メートル」堀口は言い続ける。
私はまだ、生きている。けれど、死ぬつもりや。
最後の力を振り絞って、私は下を見た。地上の光を、冥土の土産に、するつもりだ。人間生活にバイバイや。
あれ? 冥土って、地獄の事やっけ。それやったら、アカンわ。天国の土産や。極楽の土産や。
光を目に焼き付けていると、それまでとは比較にならない、寒気、吐き気、頭痛、息苦しさ、ありとあらゆる、痛みや気持ち悪さが襲ってきた。このままやと、死ぬ。死ねる。死ぬ? 死ぬ! 死ぬ? 死ぬ 死ぬ――
アカン 死にたくない 生きたい
死にたくないから、生きたい。生きたいから、生かしてくれ。ギブやギブ。私には無理や。堀口。助けてくれ。降参や。悔しいけど。
堀口は、私の心を読んでいたのだろうか。私の顔を覗き込んで、にっこりと笑った。
おっさんのクセにかわいい笑顔やな。死人には勿体ない。私によこせ。
堀口の手が伸びてきて、私は気を失った。最後、堀口が何か言った気がしたが、聞き取れなかった。
*
ビルの屋上には警察がいた。午後十一時。
何人かの警察が先客のカバンや靴を漁っていた。鑑識とかいうやつだろうか。夜遅くまでよく働きはるわ。
私は毛布のようなものを掛けられて、警官に囲まれていた。私が夢から目覚めたことを確かめると、中年の男性刑事が私に話しかけてきた。
「中村真由美さんですか? 」
「はい。そうです」
こいつら、私の財布を漁って身分証とか見やがったな。
「これからあなたを保護して病院に搬送しますが、明日の朝事情を聞かせていただきます」
この刑事は私が例の先客を突き落としたと考えているのだろうか。
「私があの人を殺したわけではないですよ」
「状況的に自殺でしょうから、それはわかってますよ。一応ってやつですわ。しゃーないんですわ」
そんなものなのだろうと思って、私は了承した。
災難や。自殺のために酒を飲んだらそのまま寝入ってしまって、変な夢を見て、起きたら事情聴取か。ダサすぎや。たぶん明日は出勤できひんから会社に連絡せなアカンけど、なんていえばええんやろ。恥ずかしいわ。穴があったら飛び降りたい。
私の事は特に気にかけない様子で、刑事は、指紋をつけないためのビニール袋のようなものに入った誰かの免許証を見ながら、無線を取り出して何やら報告を始めた。
「屋上で倒れていた女性が目を覚ましました。特に外傷などは見当たりません。例の男性の死体ですが、飛び降り自殺とみていいでしょう。女性はたまたま居合わせたのだと思われます。争った形跡もありませんし。それと、男性のものと思われるカバンから遺書と免許証が見つかりました。堀口大輔、昭和六十年四月十七日生まれ、とあります。ああ、バックスクリーン三連発の日や―― 」
刑事がそこまで言いかけ、私はひどく動揺した。刑事が報告を打ち切って、怪訝そうな目で私を眺める。
「知合いですか? 」
「もしかしたら、そうかもしれないです。その人の身分証を見せてください― 」
私の声は震えていた。私に疑いの視線を向けながら、刑事がビニールに入った免許証を手渡してきた。
おっさんには勿体ないかわいい笑顔が写っていた。なんで免許証の写真でここまでええ感じに撮れんねん。ほんまキショイわ。なんでこんなに笑えるのに、自殺なんてしたんや。
今日があんたの命日やったんか。そら恥ずかしくて言われへんわ。一丁前の幽霊気取ってたクセにさっき死んだばかりやん。
なんで自殺とかしたんや。ふざけるな。死ね。
アカン、ちゃうわ。生きろ。生き返れ。無理やけど。
ほんま、あほか。
あんたの分も、頑張るわ。
やから見守ってくれ、一生のお願いや。