第十一呪 害意の受難者
「あ”、ぅ……くる、し……!」
「―――!! ―――!!」
「やめ”、て……くだ、さい”っ……、ぁっ……」
僕はいま、彼女の首を絞めている。真っ白な長い廊下に彼女を組み伏せて、病的に白い彼女の首を両手で思い切り、絞め殺そうとしている。
彼女が憎くて仕方がない。彼女を殺したくて仕方がない。手にさらに力を込めていく。指の間から首の皮膚がはみ出し、歪に肉を絞め上げ、気道を押しつぶす。
「ふぅっ……! ふっ―――!!」
「が、ぁ”……ぁ……っ”!」
喉を握りつぶされて、彼女が悲痛の喘ぎ声をあげる。だが、僕は手を緩めない。その潰れた悲鳴を聞けば聞くほど、煮えた湯のように熱い殺意がこみ上げてくる。
涙を流し、涎を零し、焦点が定まらず瞼へとせり上がる瞳。彼女の苦しみの表情を見れば見るほど、酷い嫌悪感と、吐き気がするほどの憎悪が頭の中を焼いていく。
「―――っ、呪錄! やめなさい!!」
背後から桜の声が背骨に響く。桜の小さな手が僕の体にまとわりついて、この女から引き離そうとしてくる。
ノイズはまだ99:23:59:59のまま動かない。この女は、まだ死なない。これほどまでに、これほどまでに殺したくて仕方が無いというのに。この女の首を握りつぶしたいのに、これ以上、手に力が籠められない。
「呪錄っ! 聞こえているの!? ―――くっ、死晴!」
しばらくすると、桜の小さな手は僕から離れ、代わりに冷たい鋼鉄の腕が僕の体を思い切り引っ張った。その凄まじい力に僕の体は抵抗できず、女の首から手を離して後ろへと投げられるように倒れこむ。
「……桜。今のうちに愛不を部屋に連れていけ」
「ありがとう死晴……大丈夫? 立てるかしら」
「ごほっ、けほっ……う、うん……」
憎たらしいあの女が立ち上がり、自分の部屋へと戻っていく。あぁ、待てよ。逃げるんじゃない。殺したくて殺したくて、こんなに頭が焼かれているのに、逃げるなよ。
血走った目で女を追っていると、そのあいだに割り込むように死晴が僕の顔をのぞきこむ。
「家篭呪錄。オレの顔を見ろ、愛不からとにかく目を逸らせ」
「はぁっ……はぁっ……!」
隻眼の死晴は、残った真っ黒な瞳で僕のことを射抜くように見つめ続ける。不思議とその眼力のせいか、僕の視線は死晴の瞳から離れることができない。
少しづつ、少しづつだが、僕の中で渦巻いていた黒い感情が薄れていく。そうすると、意識や思考も徐々に僕の中に戻っていく。焼き付いた脳が冷えていき、激しかった動悸も治まり、呼吸も整ってきた。
「……死晴」
「落ち着いたか? 瞳の動きを見る限り落ち着いたようだな。ためしにオレのノイズを読み上げてみろ」
「読み上げろって……お前の寿命は零の羅列だよ」
「よし。……しかし、どうしてこんな夜更けに廊下に出ているんだ? いまは日付が変わってもう二時になろうとしている。消灯時間を過ぎて眠っているはずだろう」
心もだいぶ落ち着いてきたので、僕は何をしていたのかを整理して考える。
たしかに今は深夜も深夜。他の住人達も自分の部屋で寝息を立てている時間だ。僕は……そう、催してきたからトイレに行こうと起きたんだ。
そうしたら、廊下の暗闇に浮かび上がるノイズが視えたんだ。誰かがそこに居るとわかって、僕は何気なしに近づいていった。
そこに居たのは、会ったことの無い女性だった。近くにいって目を凝らすと、腰のあたりまで伸びた長い髪。前髪も顔が隠れるまで長く、まるで幽霊みたいだと思った。
そこからだ。僕の意識がだんだんと薄れていったのは。気がつくと、僕は抑えきれないほどの殺意を抱いて、その女性の首を絞めていた。
「まぁいい。どうせ用を足しにでも起きたのだろう。……しかしタイミングが悪かったな。この時間はあいつが風呂に入る時間だ」
「さっきの女のひと……誰なんだ? 僕がまだ会ってなかった、ここの住人か」
「彼女は愛不閇妬という。体質が特殊なので、オレたちとは時間をずらして生活をしている」
「剥血よりも、さらに厄介な体質を持っているのよ。彼女は」
死晴の後ろから桜が戻ってくる。
「彼女には……愛不には誰にも会っちゃいけないのよ。だから、彼女には昼夜を逆転した生活を強いてしまっているの」
「……僕はさっき、彼女にひどい殺意を覚えた。……なんなんだ? どういう体質なんだ彼女は。どういう干渉を受けたら、あんなことに」
今になって、手に残った感触が気持ち悪くなり始めた。
愛不閇妬の細い首を、この手で握りつぶしかけた。初対面でだぞ? 名前も知らない、会って十秒と経たずに僕は彼女に手をかけた。
頭の中を殺意の焔に焼かれ、その害意のおもむくままに。
「彼女はね、『周りの人間に殺意を抱かせてしまう』体質なのよ。彼女の姿を見た者は、彼女に対して異常なほどの殺意を持ってしまうの」
「殺意……だから、僕はあんなことを」
「……けれど、いくら生活している時間をずらしているとはいえ、彼女の事を全く説明していなかった私にも非はあるわ。あなたも自分を責めなくていいのよ、愛不の呪われた体質に唆されただけなのだから」
僕は、愛不と一言も会話をしていない。たぶん、今回のことを謝りに行くことも不可能だろう。だって会ってしまえば、また、彼女を目にしてしまえば、僕はまた彼女に殺意を抱く。彼女を殺そうとしてしまう。
……孤独だ。愛不閇妬は孤独の受難者だ。
りぼんは近づきさえしなければ会話も普通に出来るし、桜たちのような他の住人も問題なくコミュニケーションが取れる。だけど、愛不に限っては会う事すらままならない。
「……愛不は、」
「愛不は一人だけで辛い思いをしている、なんて口走ろうとしているのか?」
僕の言いかけたことを、冷たい声色で死晴が被せるように言う。
「……だって、そうじゃないか。ディスオーダールームは、呪われた体質を持つ人たちが一緒に暮らして、辛いことを共有しながら呪いを解く方法を探す場所だろ。愛不はあまりにも……一人ぼっちじゃないか」
「珍しいな家篭。お前がそんな他人を思う同情の言葉を吐くとは」
「……お前と一緒にするなよ死晴。僕だっていちおうは生きてる人間なんだ。同情くらいたまにはするよ」
「あなたの言いたい事もわかるわ呪錄。私たちだって、愛不に何もしてあげられないことを気にしてるもの。……だから、必死に探したのよ、他の体質持ちを」
「探していた? 他の体質持ちって?」
前にも桜は同じようなことを言っていた。
僕を執拗に追い続ける殺人鬼、刕琵道尼静を殺すために、刕琵道を殺せるほどの体質を持った人間を探していた、と。
それと同じような事だろうか。愛不のどうしようもない体質を緩和できる、体質持ちを探していたということか。
「貸須蜜月。彼女なら、愛不に会っても大丈夫なのよ」
「……そうか、貸須さんなら……!」
貸須さんは、喜ぶことしかできないという、感情の欠落が体質だ。悲しむことも怒ることもなく、ずっと笑顔のまま。
それならば、殺意なんてのも抱かないはずだ。貸須さんが唯一、愛不と接することが出来る。
「貸須は毎日、愛不に会っているけれど、全く問題はないわ。彼女を通じて、愛不の様子もわかるしね。……それと同じように、剥血とも自然に接することができる人間がいないか探しているわ」
「ディスオーダールームは呪われた体質持ちが共に暮らす場所だ。全員がコミュニケーションをとれるように、最善の手を尽くす。オレや桜はそのために、他にも体質を持っている人間を探してもいるんだ」
「……それは、わかったよ。うん、だってそっちの方がいいもんな。……でも、そんなことを長い時間かけてるよりも、呪いを解く方法を見つけることに全力を尽くした方が、有益じゃないのか」
愛不やりぼんは、長い時間をかけても問題はないだろう。だけど、哭栖はどうなる。哭栖は数か月に一度、体の一部を何かに奪われてしまう体質だ。
ぐずぐずとしていたら、哭栖の寿命がいつ動き始めるかわからない。一刻もはやく呪いを解く方法を見つけたほうがいいに決まってる。
「私たちもそう思ってはいるわ。だけど、呪いを解く方法はいまだに見つからない。死晴も外で情報を集めてはいるけれど、一向に目途は立たないわ」
「……僕は、ここに来る前に、蜂惑怠躯からある話を聞いた」
あの日、僕が蜂惑の元へ行き、死晴が来る前に聞いた話。石柄町の七不思議のひとつ。吸血鬼が開いているという夜店の話。
蜂惑が言っていたのは、僕たちの呪いの元凶が、その吸血鬼だということ。
「何百年も前から生き続けている吸血鬼が、僕たちに呪いを振りまいているって」
「……吸血鬼?」
僕は、蜂惑から聞いたことを全て二人に話した。
数百年前から生き続けている、不老不死の吸血鬼がいる。そしてその吸血鬼は、いにしえの魔術を使って、僕たち人間に呪いをふりまいた。呪いを解く方法があるとすれば、その吸血鬼に聞きだすしかない。
……正直、確証があるかわからない。吸血鬼が実際にいる証拠は、蜂惑からも聞いていない。
それでも、少しでも呪いを解くカギに繋がるかもしれない。二人に話をしている最中、僕の頭には哭栖の姿が浮かんでいた。死んじゃいけない、救われなきゃいけない。哭栖だけじゃない、みんなだってそうだ。りぼんも、愛不だって。こんな呪いは、一刻もはやく解かなきゃいけないだろ。
「―――興味深い話だな。オレも桜も、そんな話は聞いたことも無かった」
「石柄町の七不思議の話は、哭栖から聞いてはいたけれど……どれもこれも似非だと思っていたわ」
「……その吸血鬼の居場所。もしかしたら、蜂惑なら知っているかもしれないんだ。あいつは、いろいろ調べてたみたいだから」
「そういう事ならいいだろう。オレがまた蜂惑の元へ行き、奴に聞きだして来ればいい」
「待ちなさい死晴。あなたは刕琵道を始末するように命令されているでしょう」
今から出発しようとしたのか、背を向けて地上へ繋がる扉へと歩き始めた死晴を、桜の一言が引き留める。
「……命令18、刕琵道尼静を殺すこと、か。なにも問題はない、刕琵道を殺すついでに、蜂惑にも会ってくるだけだ」
背を向けたまま答えた死晴は扉を開け、そのまま地上へと出ていった。
そうか、まだ刕琵道は死んでいないのか。……きっと、いまごろ血眼で僕を探し回っているだろうな。僕がディスオーダールームに来てから、もう一か月近く経つんだから。
「……呪錄、あなたどうして、そこまで呪いを解くのを急ごうとするの?」
「急ごうとしてるかだって? 桜、君は僕よりもここの住人と前から付き合っていて、親しいはずだろ。なんとも思わないのか、りぼんが一人ぼっちで部屋にいること、愛不も貸須さんとしか会えない、哭栖は、いつ自分が死ぬのかわからず恐怖してる。……呪いを早く解こうとするのは、みんなが心配だからだ、ただそれだけだ、僕のことはどうでもいい、哭栖たちが心配なだけだ……!」
無意識に口調が早くなっていく。感情が声に乗るせいか、喉が震える。
呪われた体質で苦しんでいる彼女たちを見ていて、僕ははじめて、自分の生きている中での焦りを感じた。
……明日やればいいとか、マイペースにぼんやりしていればいいってものじゃない。家に引き篭もってそう考えていた頃と、ここに住み始めてからじゃ、視界に入ってくる環境が違いすぎる。
「……そう、そうね。そうだわ」
桜は僕の言葉を聞いて、目を伏せる。
自分自身に言い聞かせるようにも聞こえた彼女の声は、か細くて。
少し瞼を閉じたあと、桜は瞼の隙間から潤んだ瞳をのぞかせる。
そのときの桜の表情は、悲しそうに見えたが、それと同時に、何かを決意したかのように凛としていた。
「たしかに、時間は無いものね」
桜の顔に浮かび上がるノイズが、いつの間にか動き始めていた。
家篭呪錄編 終