すれ違い
夜の街。道の両脇に整然と並ぶ家々からは食卓の明かりが漏れ出ているが、細い裏道を照らすには至らない。
私はいくつめかの街灯をくぐった。街灯は寂しげにポツンと立っており、その足元を照らしている。
私の目の前には、一様に闇に包まれた古いアパート。二つだけ窓の形をした光が見える。私はこのアパートの二〇五号室に住んでいる。
私は目前のアパートの如く、暗い面持ちでアパートの前で立ち止まった。もはや顔を上げる気力さえ無い。ほんの半日前、まだ陽が出ているうちにここを出た時には、小さな小さな希望にすがることができた。それは今すでに、打ち砕かれてしまった。
どう考えても私が悪い。それは分かっている。今思えば、どうしてあんなことをしてしまったのだろう、と思ってしまうほど、馬鹿だった。
彼とは高校時代の同級生だった。話したことはなかった。顔と名前を知っていただけ。
それから私は都会のある短大に入学した。地元からは大分離れて、知り合いは当然いなくなるものと思っていた時に、再び彼の姿を見た。私は人見知りが決して弱くはなかったからすぐ話しかけるようなことはしなかった。気付いていなかったのか無視したのか、彼も話しかけてくることはなかった。
五月初めの教養の時間だった。講堂にはかなり多くの生徒が入っていて、自由に席を選べる状況ではなかった。ただ、それでも私はいつも通り、中央列の端から二番目に座れた。ちょうど窓から光が差し込み、暖かいのだ。当時の私のお気に入りの場所だった。
彼は授業が始まる直前、私の隣に座った。
ただ、他に席がなかっただけかもしれない。一応知り合いだったから他より座りやすかっただけかもしれない。他にも理由なんていくらでも考えられた。
しかしそれだけで私は緊張し始めた。自分の動きがずっと見られている気がする。気まずい、針のむしろに座っているようだった。陽の当たっているはずの左肩のあたりが、妙にすぅすぅした。
その時、私は気付いた。最悪だ。そう思った。
入れたはずのテキストがバッグに入っていなかったのだ。よりにもよってこんな時に。私は辺りを見回した。一緒に見せてもらえそうな同性の生徒は見当たらない。それに、ほとんどの生徒がすでに席についており、立ち上がりにくい雰囲気だった。
もう仕方がない。他の人に頼むよりはマシか……。暇そうに文庫本のページをめくっていた彼の方に向く。
「あの、碓氷くん……ですよね?」
彼はゆっくりと、まるで目を合わせたくないかのように中途半端にこちらを向いた。
私も出来ればそちらの方を向くことなく授業を乗り切りたかった。しかし背に腹は代えられない。
「あの……出来れば、教科書を見せてほしくて……えっと……忘れてきちゃって……」
出来るだけ短く、そう思ったのに、私は言えもしない何かを言い繋ごうとする。
「分かった」
彼はそれだけ言って、長机の端の落ちそうなところに置いてあったそれを私と彼のちょうど間に動かした。授業中、気まずいところは変わらなかったが、彼はページが進む度に「良い?」と聞いてくれた。自分の物なんだから好きにすればいいのにいちいち心配そうに尋ねてくる。それが繰り返されるたび、気まずい雰囲気は無くなっていった。ただ慣れてきただけ、そう思うように気を付けた。
授業後、彼とは少し話をした。高校の友達の話、嫌な先生の話、部活の話……。彼と話が噛み合うところはほとんどなかったが、もともと全く知らない相手でないというだけで、話し始めてみれば、だれよりも話しやすかった。
彼とはその後、会ったり話したりする機会が多くなった。しばらくしてからは、付き合ってもいいかな、なんて思うこともあった。でも私は告白なんて恥ずかしくて出来なかったし、彼もしてくることは無かった。
デートなんて大層なことをしているつもりではなかったけど、一緒に出掛けたこともあった。他人から見れば、それは恋人のそれと変わらないものだったかもしれないと思う。
そんな関係が一年ほど続いた。短大なので二年になると就活をしなくてはならない。私も彼もそれぞれ進みたい道があるものだと思っていた。こんな関係は短大を出たら終わるのだと。
桜が葉桜に変わりきった頃、ある企業の説明会に行った。かなり大きな会社で、パソコン・スマホ関係の様々なアプリやサービスを展開している。私はそこのある一部署に惹かれていた
短大のすぐ近くの、場違いなほどに大きな建物に戸惑いながらも受付を済ませ、会場に入る。
エアコンのよく効いた広間。人が相当大勢入っていることがわかる。上から見ればきっと見えるのは、頭、頭、頭――。そこで、私は見覚えのある髪型を見つけた。
彼だった。
運命かも、なんてロマンチックなことは思わなかったけど、何か不思議な感情がこみあげてくるのが分かった。心臓がハイテンポで鼓動する。
彼と目があった。彼は驚いたように目を見開いた。だがすぐに戻り、腰の横で小さく手を振る。振りかえすにも振りかえせず気まずかったが、彼が目をそらしてくれたおかげでそれはすぐに消えた。結局私たちは会場で言葉を交わさなかった。
夜。携帯がメールを受信して震える。
「今日、会場にいた?」
シンプルな一文。彼のメールはいつだって短い。余計なものが全くないそれが嫌いではなかった。本当は甘い言葉をいくつも並べてほしかったのかもしれないけど。
「いたよー、碓氷くんもあの会社希望?」
そう返す。私のメールもだんだん短くなっている気がする。一分経つか経たないかで携帯が再び振動する。
「一応」
その二文字に、文字通り私の心臓は飛び上がった。まだ採用が決まった訳でもないのに、私の頭は勝手な妄想を始める。始めは何となく靄がかっていたその映像は、次第に鮮明化されていく。私は無性に布団を転げまわりたくなった。
まだ七時になっても陽が沈まない頃、採用選考が始まった。正直言ってよく分からない適性検査と面接試験。彼とは時間帯が違ったから、会場で会うことは無かった。
一週間が過ぎて、夏休みに入る。補習はあるが、気が抜けてしまうのは昔から変わりがない。
その時、私の家は彼が遊びに来ており、少しだけ片付けられていた。彼にはすでに合格通知が来ていた。彼がそれが届いた時のことを、普段の彼には似合わない饒舌さで捲し立てる。彼は笑顔だった。私の顔も心なしかいつもより緩んでいるような気がした。
チャイムの音が、狭いアパートの一室に響き渡る。「ごめん」と、彼との会話を切って応対に出る。届いたのは縦横比が一対三くらいの茶封筒。私の住所の横には「〇〇ネット(株)」の文字。自分の通知書であることはすぐに分かった。
早く結果を見たい。「採用」の文字を見て安心したい。はやる気持ちを抑えながら、私は彼の待つリビングへ戻った。彼は先ほどと同じ姿勢で座っている。
ペン立てからはさみを取り出し、中身を切ってしまわないように封筒の端を切っていく。
中から取り出した紙を取り出す。書かれた文章が見えないように四つ折りにされたA4の紙。私は半ば目をそらすようにしながらそれを開いた。
「不採用」
体からすべての力が抜けていく。一気に目の前が霞み、肺と頭が同時に停止する。それより下の文章に目を通そうとは思わなかった。世界から自分が切り離され、時が止まったようだった。
彼は突然表情を変えた私を見て、敏感にその原因を察したらしかった。いつもの気遣うようなおずおずとした口調に戻って話しかけてくる。
「あ、あの……遥……」
撫でるような声が、私の琴線に触れた。
それまでの彼のうれしそうな笑顔、声、仕草が思い出されては、何もかも私の感情を高ぶらせた。彼が自分のことを馬鹿にしているように。自身の成功を自慢して見せびらかしているように。そう一瞬だけ思ってしまった。感情の箍が外れる。
瞳が熱を帯びるのが分かった。これはヤバい、と直感的に思う。
「……出てって……」
「でも、遥……」
優しい彼はなおも私も気遣おうとする。良くも悪くも優柔不断。この時の優しさは、私の心臓に刺さった刃物と同じようなものだった。
「いいから、出てってっ。一人にしてよ!」
そうしたくないのに高ぶり切った感情を抑えきれない。声を荒らげてしまう。
笑っていられる彼、笑えない私。
「遥だって努力……したんでしょ、だから次は……」
「うるさいっ、受かった人にはわからないでしょ。さっさと出てって!」
自分じゃ努力したつもり。でも失敗することもある。しっかり努力したなら次頑張ればいいじゃないか、というのは残酷だ。失敗した人が最初に思うのは、自分は努力しても成功できないのか、ということ。
「そんな……僕は」
「早くっ」
散々罵声を浴びせてもなお、私に気を遣おうとする彼を無理やり追い出す。荒々しくドアを閉めた途端、部屋の換気扇の音だけが残る。
私は机に背をもたれて床に座り込む。両膝を山型に折り、その間に顔をうずめる。下の階で皿と皿が触れ合う音がした。普段と変わらない生活を送っているであろう顔も見たこともない下の生活者の今を想像する。
彼がいなくなって気が緩んだのか、徐々に涙を止められなくなってくる。自分が泣くみっともない声だけが、部屋を包み込んでいた。
彼は悪くない。冷静になるまでもなく明白なことだった。彼のせいで私が落ちたわけではなく、原因は私にある。私にしかない。
自分は何が悲しくて泣いているのだろうと思った。自分の希望が拾われなかったことだろうか。でも私は高校受験を失敗したとき、こんな気持ちになっていただろうか。少なくとも泣いた記憶はない。つまり、私はそんな事で泣くほど感情が豊かではないということなのではないか。
ならやはり彼は受かったからだろう。彼が一緒に落ちていたなら、私はこんなに取り乱さなかったはずだ。ただ愛ゆえに、なら格好がつくが、嫉妬しているだけ。成功したものに対する失敗したものの理不尽な妬み。自分の悲しみを他人にぶつけて、気分を紛らわす。セコいな、私。
次の日、彼に謝ろうと電話を掛けた。彼は出なかった。三度も四度も掛けた。しかし彼の声が聴けることは一度もなかった。夏休みだから彼と授業で会うこともない。補習が始まるのはまだ先だ。
だから今日は出かけた。いつも待ち合わせの場所にしていた狭い目立たない公園に。電話には出てくれなかった。だから、留守電を残し、メールを送った。
入り口のそばのベンチに居座る。ここなら誰かが入ってくればすぐに分かった。彼が出てきてくれるなら一日中でも待っているつもりだった。合っているかどうかも疑わしい公園の時計が進んでいく。公園には見向きもせず何人もの人が目の前を通り過ぎていく。いつも彼を待つたびに見ていたはずの景色。それが今日に限ってすべての人が私のことを舐めるように見ているように感じる。私のことを不信がっているように。冷たい目で見ているように。
彼は来なかった。
私は帰ってきた。
何も変わらない闇に包まれた古アパート。静けさが私を迎える。
光に照らされた玄関に向かって私は歩く。玄関のすぐ横には二階へ上る階段がある。こんな日は早く寝てしまおう。また明日、会えることなら会って謝ろう。彼は傷ついているだろうけど。私だけ気を済ましてしまうことになるかもしれない。二人とも落ち着けないよりはいいだろう。自分勝手に、そう思った。
その時、玄関の前に誰かが佇んでいるのが分かった。正確には、アパートの一階の一番手前の部屋の前。光に照らされたその髪型が、あの会場で見たものとそっくりだった。私に背中を向けているのか、玄関の灯りの逆光を受けているだけなのか、その誰かの容姿は見えなかった。その誰かは俯いている。
私の中に自分勝手な希望が生まれる。会いに来てくれたんだ。恥ずかしかったから来なかっただけかもしれない。今、話せるものなら話したい。
私は心なしか早足になる。
その時、その人がなぜ俯いているたのかが分かった。彼はその目の前にあった扉を開け、すっとその中に入った。アパートの住人だったのだ。一〇五号室、私の部屋のすぐ下の部屋だった。
ひどい人違い。そうだ、彼が来てくれるはずないじゃないか。分かり切っている。私は今芽生えた自分勝手な希望を捨てた、ことにした。
私は階段を上り、すぐの部屋の前で持っていたカバンを探る。鍵を出し、ドアを開ける。
今日はもう、寝てしまおう。