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恐ろしいほど静まり返っていた冬の日の街に、犬の遠吠えが響き渡った。
12月10日、23:30分。
間もなく、例の時間だ。
「…………」
なんとなく落ち着かない気分になって、勉強の手を止めて窓の外に目を向ける。
珍しくカーテンを開いたままの向こうには、なんてことはないいつもの町並みが広がっていた。
(……何を気にしてるんだ、俺は……)
ありえない。そう何度も考えつつも、どうしてもアレが頭を離れず、落ち着かない俺は柄にもなくこんな時間まで勉強に励んでいた。
本当なら、後30分で世界が変わってしまう。
変わったら、どうなるのか。あのルールが本当なら、もう勉強なんて何の意味もない。
だがやらずにられないのは、やはり信じられないのか、日常に没頭していないと不安だからか……。
(……不安?いや、俺にとっては歓迎すべきことだろ)
そうだ。むしろ、起きてほしいと思うべき自体であるはずだ。
今ある価値のリセット。全員が1からのスタート。それは、俺のような持たざる者にとっては理想の展開であるはずだ。
全てが無価値になるなら、学校も会社も無価値だ。
勉強して行くべき会社はない。会社ではたらいたところでポイントが貰えるわけでもない。
ただ、一人黙々と稼いで生きていく世界。それはある意味で理想なのではないか?
誰にも関わらず、誰にも邪魔されず……ただ、自分だけが自分の命と生活に責任を持つ世界。
(……いいな。そうなったら)
真剣に、そう思った。
この、煩わしいだけの世界から解き放たれたなら、この俺も……。
「……みなさーん!間もなく、世界改変の時間でーす!」
「……!」
突如、窓の外からそんな声が響いてきて、ハッと驚く。
まさか、まさか本当に……?
そう思い、恐る恐る覗き込んだ窓の外には……千鳥足で歩く20代前後の若者が数人いるだけだった。
「間もなく、終わりでーす!世界は、終わり!残念でしたー!あはははは!」
「ちくしょー偉そうにしやがって!お前もお前も全員もうすぐ全部失うんだー!ざまあみろー!」
……おそらく大学生ぐらいだろう。
大声で叫びながら、フラフラと道を歩きながら大声でがなりたてている。
飲み会か何かの帰りなのだろう。
(……馬鹿らしい……)
……こんなものだ。こんなものなのだ。
世界は今もしっかりと日常を続けており、それは恐ろしく強固で並大抵のことでは崩れたりはしないのだ。
いくら世界に馴染めない俺のようなヤツが願おうと、何一つ変わってはくれない。何の慈悲も見せてはくれない。
これが、現実。
近所のあちこちから、びっくりして窓を開け、やがて呆れた感じでそれを閉める音が聞こえた。
皆、やはりどこか落ち着かないのだろう。
クラスのやつらなんかは、夜に公園に集まってカウントダウンをしようなどと馬鹿なことを言っていたが、それもなんとなく不安な気持ちを吹き飛ばすためなのだろう。
まもなく、日付が変わる。
そうすればこんな馬鹿げたことは終わりだ。
皆、やっぱりね、と小さな笑みを浮かべて眠りにつき、朝には家族や友人とそのことについて面白おかしく話しあうのだろう。
そう、間もなく日が変わる。
あと、10、9、8、7、6……
そして、日付が変わった。
「………………やっぱりな」
2016年12月10日0:00。
日付が変わった。だが……なにも、起こらなかった。
「……手の込んだ、イタズラだったな」
これで、何かが起こっていたら伝説になっていただろう。
もしかしたら仕掛けた人間はそれを狙ったのかもしれない。
万が一何かが起これば、あのチラシは予言だったという話になり、このあと何年もの間……
──瞬間。世界が、揺れた。
「うお……っ!?」
瞬間的に訪れた振動に対処できず、座っていた椅子から転げ落ちる。
体が滑り出しそうな勢いに対抗しようとあちこちに手を伸ばすが、いずれも空を掴み翻弄されることしか出来ない。
部屋の中を、数少ない家具が踊り狂い、それが自分を直撃しないことを祈りながら必死に頭を庇う。
このままでは、アパートが倒れて、死ぬ……!
……そう思った、瞬間。振動は、何事もなかったかのように消え去った。
「…………なん……だ…………?」
恐る恐る頭を上げる。
あまりにも急激すぎる終わりに、理解が追いつかない。
……なんだったのだ、今のは……?
「……地震……?だが……」
地震にしては、あまりに発生が唐突過ぎる。終わりもだ。
なにしろ、前兆のようなものは一切感じなかった。
地震と言うよりは、そう……どこかに爆弾でも落ちて、その衝撃がここにまで及んできたかのような……。
恐る恐る窓を開けてみる。外は、大きな騒ぎになっていた。
あちこちで電気がつき、近所の人々が一斉に窓を開けている。
何か声を掛け合うのがあちこちから聞こえ、犬たちが一斉に吠えだし、先程の大学生たちが「もう、なによー!?」などと叫んでいるのが聞こえた。
「……すげえ。本当に何か起きた」
信じられない。本当にあのチラシは預言だったのか。
本当にこんなことが起きるなんて。
……そうだ、テレビを確認しなくては。場合によっては避難しなくてはならない。
テレビのある部屋には父親がいるので顔を見合わすのは嫌だったが、背に腹は代えられない。
とにかく、情報を……そう思った瞬間、部屋の照明がぱちぱちと音を立てた後、消えた。
「……ちょっ……おい!?」
瞬間で暗闇に染まった部屋の中を手探りし、慌てて照明のスイッチをぱちぱちと押してみるが、まるで反応しない。
この前変えたばかりのものだから、期限切れということもないだろう。
と、なると、今の衝撃で壊れたか、もしくは……。
「……停電か……」
窓の外を見ると、やはりすべての家から動揺に明かりが消えているのが見えた。
おそらく、先程のアレで電線が途切れたのだろう。
ちくしょう、と呟きながら、真っ暗な部屋の中でもう一度手探りを始める。
やがて倒れていた勉強机を見つけ、俺はその引き出しから懐中電灯を取り出した。
(……万が一、と思って手元に置いておいてよかったな)
万が一、万が一チラシの通りになったら、と数日前にそこにしまっておいたのだ。
まさか使うことになるとは思わなかったが。スイッチを入れると、それには問題なく光が灯った。
(用意しておいてよかったな……とりあえず、これで外に出たほうがいいか?)
もう一度先程のあれが来れば、今度こそこのボロアパートが崩れかねない。
それに、今日はそれほどでもないが、明日には酷く冷え込むと天気予報でやっていた。
暖房がなくては、凍死もありうる。
考えるだにうんざりするが、避難所に行って最低でも暖を取れるようにせねば……。
そこまで考えたところで、また、小さな振動を感じた。
(また、きたのか……!?)
とっさに身構えたが、先ほどとは少し違う。
振動と言っても、もっと小さなもの……そう、近くを大型ダンプが通り過ぎたときほどの振動だ。
ほっと一息ついたが、すぐにそれがおかしいことに気づく。
振動は、一定のリズムで何度も何度も起きているのだ。
しかも、少しずつ近づいてきている。
そう、ズシン、ズシン、ズシンと……。
(……なんだ……?)
そうして、その音がもっとも近くなった時。
……窓の外に、巨大な人影が現れた。