7 選挙と裁判
7 選挙と裁判
深山と三週間後にデートの約束を取り付けた手前、深山とそれ以前に会う予定は組みづらく、それに平常の深山があまりにそっけない態度なのでこちらも腹に据えかねるところがあり私は休日、一人で近所を散歩している。たまに道端で河津くんに会った時はお喋りをしたり遊びに付き合ったりするのだが今日は姿もなく、静かに一人で歩いているとずいぶんと桜源郷に滞在しているのに未だ見慣れないものに行き当たり、その一つが選挙ポスター、ポスターに顔が印刷され町中に張り出されている点は人間界と変わらぬのだが、写っているのが美男美女ばかり、中には就学児とみられる精であったり瞳を潤ませこちらを見つめる犬の写真が写っていたりする。そういえば、と私は思う。
そういえば、この国に来た最初の最初、病院のベッドに寝ている時、政治家の大島が観客の中に混ざっていたはずで、彼は時々高嶺の家つまり私の寝泊まりしている家にやって来て高嶺と何やら話し込んでいるのでいつの間にか顔見知りになったのだけれど、どこの選挙ポスターにも彼の顔を見ない。いったいどうなっているのかと高嶺に尋ねると、「ははっ」と高嶺は乾いた笑いを笑った。「これだよ」と取り出したポスターには『明日の雨を晴れにする』と銘打って大島の名前とともに明らかに大島でない人物の顔が写っていた。
「これは、大島さんとは顔が違うような……」と訊けば高嶺はまた「ははっ」と笑う。「だってこれは別人の写真だからね」
「え?」と思わず声が出たが高嶺は全く動じずに語る。
「いいかい、選挙において重要なのは、一に二に三に外見だ、外見から受けるイメージだ。大島さんは少しばかり強面だからね、もっと万人受けしそうな奴に写真を替わってもらっているんだよ。やはり美男美女のほうが得票数が上がるからね。なんだったら犬猫や赤ん坊の写真を使って情に訴えかける手法もある、有効だ、なんせ、大多数の精は選挙の投票が終わった瞬間から政治家の名前と顔を忘れ始め、その後国会中継などテレビで見てもどこの誰に自分が票を入れたのか分からない。酷い奴は投票所を出た瞬間名前も顔も忘却しきってもう一度投票させたらついさっきと違う精に投票したりするからね。究極的な話をしてしまえば、当選した政治家と違う顔の人物が国会の審議の席に座っていたとしても、大半は違いに気づかないんだよ、ならばよほどの知名度のない限り替え玉の外見で訴えかけ、当選後堂々と登院したほうがいい」
「そんなに、その」私は少しためらいながらも、率直に聞いてみた。「桜の精というのは馬鹿なのですかねえ?」
「馬鹿? 君の言う馬鹿とは、なんだい?」
「そうですね……」少し考える。「例えば公約というものがあるでしょう? それと違った政治が行われれば――」
「公約ね」ははっ、と高嶺が笑う。「人間界で公約やらマニフェストやらがどれだけ守られているか知らないがね、こちらではそんなもの、無きに等しいね。さっき見せた大島さんのポスター、明日の雨を晴れにする、ですか? 馬鹿馬鹿しいにもほどがあるね……なるほど、君の言う馬鹿馬鹿しいとはそういうことなのかもしれないが、とにかく、一応の公約として掲げられるのはすべてイメージに訴えかけるものです。中には『とにかく頑張ります』なんて、素晴らしいフレーズもあるがね、この詳細な公約」高嶺は大島からもらったのであろうA4サイズの紙切れ、インクで黒々としている物を取り出す。「もはや虫眼鏡でしか見えないような公約集もあるがここに書いているのも結局イメージの産物で、ふわふわしているんだ。まだミカンの皮のほうが実をしっかり包んでいるよ。『私たちはよりよい生活のために前進していきます』? いったい何をどうやったら達成されたことになるんだろうね、なんてな状態だから何で政治家を選ぶかと言えば顔、外見しかないわけだよ」
「しかし、そんな、選挙が人気投票のようでは、早晩国が滅びるのでは?」と私が尋ねると実に愉快そうに高嶺は笑う。「そこだよ君、そこで大島さんの出番だ」
「大島さんの出番?」
「まったく、鈍いね君」高嶺は嬉しそうに笑う。「大島さんが行うのは、言うなれば関白摂政政治さ」
「関白摂政政治?」
「実は、大島さんはじめ少数の政治のプロフェッショナルがこの国の方針を決めているんだよ。当選者の多くは大島さんらの所属する与党『発展的生活党』で、それ以外の代替者の顔で当選した政治家もすぐに与党に取り込まれる、なんせイメージの産物でしかないんだから思想も糞もないんでね。そして党に所属する全員がほとんど思考停止で大島さんらの活動に引っ張り込まれていくわけだがね、我々民衆も信念やら思想やらがないから、目の前の仕事や家事や趣味にばかり気が行って政治の動向にはほとんど興味がないかあるいはこれまた『発展的生活党』の発信するイメージしか頭にないから、実は党を牛耳っている少数のエリートの間で政治が進められていることに気付かないし、気づいたところでなんの疑問も持たず当選後の政治家の活動も白紙委任状態となる。桜源郷では、民衆の支持により政党が生まれるんじゃなく、政党の薫陶により支持する民衆が生まれるのさ」
「大島さんらプロの政治家に政党が支配されていて、民衆もまた政党に支配されていて、選挙の度に支配はより堅固になって行く、そういうことですか?」
「支配、ね」高嶺が渋面で顎をさする。「支配、というより安寧かな、自分たちがどれだけ不真面目に政治参加しようとも生活が壊れることのない安心……言い表すのは難しいね」
と言いながら高嶺が、せっかく勉強したのだから、と言ってテレビの国会中継を見せてくれた。ちょうど法令か何かを可決したらしく、国会内はざわめきに包まれていたのだが、やがて堤を洪水が乗り越えるが如く加熱した一部の議員が議長へと殺到、「こんな法案認めないぞ!」と叫びながら蝟集しスズメバチを覆う二ホンミツバチのような構図になり混乱の極みに達したように見える、が、高嶺はテレビ画面を眺め、また乾いた笑いを笑った。「これは、議決に抗議しているように見えるがね、全部茶番なんだよ。よぉく見てみたまえ、ほらあの議員、頬にえくぼができているだろう? 本気の取っ組み合いじゃないし、こんなことしたところで無意味だと分かっているんだよ、でも立場上抗議の取っ組み合いを演じてみせないといけない。議員は大変だね、ははっ」
と笑ったところでお怒りの議長の右ストレートが詰め寄っていた議員の顔に当たり、彼が卒倒すると一拍遅れて誰かが議長を本気で殴り倒し、乱闘模様となった国会中継は野原の絵に切り替わり『しばらくお待ちください』のテロップが現れ、「やはり議員は大変だね、ははっ」と、高嶺はまるで自分には関係のない世界の出来事のように、乾いた笑いを笑うのだった。
散歩から戻れば家に大島がいて、「おう! 豆くんじゃないか」と言って握手を求めてくる。この、誰でも彼でも分け隔てなく握手に行く姿勢がいかにも政治家だなと思う。大島は人間だということで見下してきたりしないので、私はどこか親愛の情を持つようになっていたのだが、これも人たらしの技なのかもしれない。
「どうしてここに?」と尋ねれば「高嶺くんに呼ばれてね」と答える。
「お、帰って来た」とリビングの高嶺が嬉しそうに言い、見ていたテレビを、切るかと思いきや音量を上げた。やや感情的な声が聞こえてきて、ニュースキャスターが喋っているのだな、と分かる。「お豆くん、速くこっちに来るんだ」と高嶺が促すので速足でソファーの隣に座る。
テレビニュースでは文部大臣の汚職が取り上げられていて、「それで大島さんを?」と思ったが違うらしい、「次のニュースだよ、次」と高嶺が嬉しそうに笑う。
それでは次のニュースに参りましょう、とキャスターが言って画面左上に力強い書体の赤文字で『枝折事件』と書かれ、レポーターが「こちらが事件のあった住宅です」とリポートを開始する。「他人の生き死にを娯楽に変えるんだから、テレビってなぁ素晴らしいね」と高嶺がいやらしく笑う。リポート後の再現映像によると事件のあらましは、横恋慕した男の精が嫉妬から思い人の交際相手の精の頭頂部の枝を折り取ったのだと言う。結果交際相手は意識不明の重体となり、たとえ意識を取り戻したところでもはや繁殖不能で生きていく価値は低くなる、とのことだ。再現映像の画面下には絶えず「これはセミフィクションです」と米印付きで表示されていて、高嶺によると、なんでも再現映像には誇張が、つまり演出があると理解できず、いたずらに犯人に憎悪を募らせた視聴者が「あの極悪非道な精をぶち殺せ」とテレビ局に電話をかけてきて苦情処理が大変なことになることがしばしばであるため、それを避けるためだという。「時には犯人と演者を同一視してね、罵りながら演者に襲いかかったなんて事件も発生して大変なのさ。あるいは電話対応を誤ればそれに対する苦情の電話まで殺到してきりがない。みんな自分の正義を押し付けるときは実に凶悪なんだよ。迷惑な話だよ、ははっ」と高嶺はある時言っていた。
枝折事件に関する報道が終わり天気予報が始まり、私は素直に高嶺に聞いた。「で、この事件がどうしたんです?」
「へ? お豆くん、君は一体何を見ていたんだい?」高嶺は大仰に肩を竦めて見せ、「さっき最後に言ってただろう? 判決は今日の午後に下されるって」と言う。
「そうですが、それが?」
「こんなに面白い事件の裁判を見過ごすだなんてもったいない、判決の瞬間を見に行こうじゃないか。オス的男性の、男性部分の死がいったいどれぐらいの罪なのか、見届けようじゃないか」
「いい社会勉強になると思うよ」と大島が精悍に言う。
「しかし……」それはそうかもしれないが枝の無い私には関係のない話だし興味自体薄いので、婉曲に断ることにした。「私は枝を持たないただの人間ですから、枝を折り取られた精の痛みはよく分からないし――」
「何を言っているんだ」高嶺が呆れたように眉を寄せる。「これは単なる娯楽だよ娯楽。楽しいだけの出来事をなぜ享受しない?」
「娯楽だなんて」私は些かムッとした。「野次馬根性というか、下世話な興味でぶらり覗きに行くだなんてさすがに醜悪というか俗悪だと思いますよ」
「へへっ」高嶺が切るような声で笑う。「何が醜悪だ、何が俗悪だ。君たち人間は興味がないと言いながらもニュースを追っかけ、そして下世話な興味を持っているくせに、あるいはまったく興味がないくせにいかにも誠実そうな顔で憤ったり愁嘆してみせたりする。そのくせ、すぐにそれを健忘して家族と笑って夕飯を食べるんだから、そっちのほうがよほど俗悪だよ。我々は自分に正直に、下世話な興味があるならはっきりとそう宣言して裁判を見に行ったりニュースなんかを眺めてみせる。となると、君はこれにも憤ってみせるんだろ? 誠実に」
高嶺がテーブルに置いていた二枚の券をひらひら揺らしてみせる。私が首を傾げていると「傍聴券だ」と言い、別段憤る必要性も感じず私が「私の分も手に入れてたんですね」と応じると高嶺は「ネットオークションでわざわざ競り落としたのさ、注目の事件だったから少々高くついたがね」といやらしい笑みを見せた。出品する精がいるんですね、と言えば高嶺が大喜びする姿が見えたので私は黙っていたがそんな私の抵抗も見抜いて高嶺はにやついているのだ。
「この傍聴券を使って二人で裁判を見に行くとして、お豆くん、君は、枝を折り取った男が、懲役何年になると思う? 私は十年、大島さんは七年と予想しているんだがね」
「そんなの、判例を知らないんだから判断しようがないです」
「なるほど」と高嶺は嬉しそうに笑いながら脚を組み替える。「なら参考に、ネット上の賭けでは懲役十年が一番支持率が高い」私が嫌な表情をしたのを見逃さずに高嶺は喋る。「被告人が懲役何年を言い渡されるかで賭けをやるんだよ、桜源郷では。さっき言った通り、娯楽ってわけさ、ははっ」
「じゃ、懲役九年で」と私が早口で答えると高嶺は「それは掛け率2.5倍だ」とにやにやしながら手元のメモ帳に私の予想を書き付けた。
「そろそろ行かなくては」と大島が腕時計を見ながら言う。「一緒に行くかい?」という高嶺の問いに大島は首を振り、「また会おう」と言い残して玄関へと消えた。「さあ、我々もそろそろ行くとしよう。はい、これ持って」と高嶺が手渡してきた傍聴券を受け取り私たちも玄関へと向かう。なんとなく、大島と高嶺の会話から不穏当なものは感じていた。「行ってらっしゃいませ」と一葉が見送ってくれた。高嶺の車に乗り込む。そういえば今日は珍しく一葉が在宅だったな、と私は思った。
高嶺の言った通り桜の精にとっては重大な関心事なのか、枝折事件の裁判所の前には行列ができていて、法廷の外延々と続く精たちを見ながら「あれは順番待ちですか?」と訊くと高嶺は、「一部はね。列の中間あたりからは何かは知らないが精が並んでいるから自分も並んでみたという連中だよ、ははっ」と笑った。
裁判所に入り傍聴席に座るとすでに満員、まもなく裁判官により開廷が告げられた。「被告人は被害者の枝を手折ったことにより枝折の罪に問われ」云々と罪状を読み上げ、さっそく検察が断罪するのだがその調子が実に芝居がかっていてオーバーアクション、鼻に付くどころか拙劣すぎて見ているのが苦痛で、傍聴席からも「下手くそー」「もういいぞー」と野次が飛ぶ。「あいつはね」と高嶺。「完全なナルシストタイプだね。自分の舌鋒の鋭さにやに下がっているわけさ。しかし、ははっ、そう思っているのは自分だけなんだから面白い、そしてあれだけ野次られてもまだあの調子で続けるんだから、よほど鈍感なのか阿呆なんだろう。今日の法廷は無駄に長くなりそうだね」という予言通り検察は無用に抑揚をつけて喋り倒し、と、その間に老齢の裁判官はうつらうつら舟を漕ぎ始めてしまった。傍聴席もざわめきだしたのは別に裁判官が寝ているからではなく検察の長広舌が鬱陶しいからで中には中途で退室しようとして門扉で警備の者とごたごたを起こしている者もいる。弁護士は仰け反るように椅子に座り組んだ脚を机に乗せている。被告人が鼻をほじったところで「汚ねえぞー」との野次とともに投げ入れられた靴が裁判官の近くに飛び、裁判官は目覚めた。
検察がようやく陳述を終え「次、弁護士」と裁判官が言うと尊大な弁護士が「被告人には枝を手折ってしまう、相当の事由が過去にあり、彼は被害者との間に」云々と、やはり陶酔的に語り出す。「分かるかい、お豆くん」「何がです?」「性分の傾向とでも言えばいいのかね、あの弁護士もやはりナルシストタイプだ」「それは、そんな気がします」「演説やら抗弁やら、喋ることを仕事にしている奴の九割はナルシストだよ。ところで、検察との違いは分かるかね?」「……いえ」「検察はただ自分の弁舌に酔っているだけだ、それに対して弁護士のほうは自分に酔って熱していく様子が見られない、冷静だ、彼は感情の抑制がそれなりにできるようだ」高嶺の言う通り弁護士は冷静に語っている。「被告人のためですか」と私は試しに尋ねてみた。すると高嶺は嬉しそうに笑い、「へっへ、まさか。あいつは元来他人を言い負かすのが好きなんだよ、そこが放弁しているだけの検察との違いだね、まさに弁護士が天職の、理屈くさくて口うるさい奴、単純にそれだけであって被告人のためなどでは断じてない。第一、誰が他人のためなんかに働くかね? ま、結果として冷静に進行しているがため被告人の刑が軽くなる可能性が高い。まずったな、懲役十年は失敗だったかもしれん」「という風に、傍聴席はアトラクション気分?」と私が訊けば、高嶺はにやにや笑いながら頷き、「たとえ審理中に沈痛な面持ちをしていたところで閉廷すれば笑顔で夕飯を食う。酒を飲み飲み乱痴気騒ぎを起こす。別の娯楽を見つけて笑いに笑う。結局、他人事を我が事にするなんて土台無理って話さ。それに、どんなに世間を騒がせた事件も終わってしまえば終わった事件だ。判決が出れば半月もせず事件は忘れ去られ被告人や被害者の名前ですら出てこない、結局はすべて刹那的享楽に過ぎないってことさ。一年前の今日の新聞なんて、学者でもない限り価値を見出し得ないだろう? せいぜいが、ああこんなことあったあったと懐かしんで終わるだけ。他人の死や不幸なんて、自分にとってはつまらないものなんだよ結局」
弁護士が証人を呼び出している。私は高嶺に問う。「なんというか、人間性みたいなものは、持ち合わせていないんですかね?」
「人間性? ははっ」高嶺がせせら笑う。「君は人間界にいる時、家の鍵を閉めなかったのか?」
「いえ、閉めてましたけど」
「ほら見ろ」高嶺が私を指さす。「それこそ人間性を信じていない証拠だ。君たちは何かと人間性を持ち出すけどね、道徳とかね、そのくせさらりと嘘をついてみせるんだから、恐ろしきは人間性だよまったく。嗚呼、美辞麗句」
「しかし、犯罪被害者のために心を痛める能力は持ち合わせていますよ」
「へっ!」高嶺は強く息を吐く。「そんなことを言っておいて、一年も経てば被害者の名前も思い出せないんだろう? 共感能力? すなわち人間性? じゃ試しに被害者のお宅に行って、このたびは本当に辛いことでしたね、えー、名前なんでしたっけ、とでも言ってみてくれよ、そっちのほうが共感しないよりよほど残酷だよ。失礼だし、何より自己陶酔的だ、あの検察と何ら変わらない。お、証人だ」
高嶺が顔を向けた先に老婆がいる。老婆は話し始めている。「被告人のことなんて、知ってるもんか」と高嶺が皮肉げに笑う。「あの老婆、誰だか分かるかい?」
私は少し考え、「あー」と得心がいった。「たしか、テレビに出てた……」
「そう。被告人の母の義姉だ。テレビで申し訳ない申し訳ない繰り返していたがね、そんな遠い親戚が被告人の何を知っているというんだ? これは要するに晒し者さ、あの老婆が逆ギレでもしてくれたら儲けもの、たとえしなくても謝罪し通しでいかにも悪事を犯したかのように見えるだろう? みんな叩くべき悪を待ちわびているのさ。ちょっとでも疑念が生じれば正義を語る言葉にも迷いが生じるが、完全なる悪であればいくら打擲しても誰も咎めない、褒めはされるだろうがね」
「そのためにわざわざ被告人の……なんでしたっけ?」
「被告人の母の義姉」
「被告人の母の義姉を持ち出してまで誰かを罰したいのですか?」
「その通り。あるいは自分が正義の側に立っていると確認したいんだよ」
「彼女は罪に問われないんですか?」
「そうだね、住処周辺では一時的に村八分にされる可能性が高い。しかし、ほとぼりが冷めればまたすぐに以前の通りみんな話しかけてきたりしてくれるわけさ、なんせ、五親等ぐらい遡れば身内に一人は人殺し、とまで言わなくても犯罪者がいるだろうからねみんな」
「ずいぶんグロテスクですね」
「そうかい? 君たちだって私刑はやるだろう?」
と言っているうちに老婆ははけて続く証人が出てくる。私は思わず「あっ」と間抜けに声を上げてしまい、横にいる高嶺が嬉しそうに笑った。
「どうも」証人はいつも通りの爽やかな挨拶から入った。ただし「私は」といつにない丁寧な一人称で。
「私はこの度、被告人を弁護する証人を引き受けまして――」
証人は大島だった。高嶺家で会った時とは違う服装。
「さてはて、政治家様の演説を聞こうじゃないか。大島さんが自ら懲役七年を勝ち取れるのか、見ものだぞ」と高嶺が言うからにはこの事件の証人として大島は初めから出廷する予定だったわけで、おそらく、今回の傍聴は高嶺主導で決められはしたものの、大島もどこかで一枚噛んでいたのだ、私を招待してこの『娯楽』をより娯楽的に仕上げようと企んだのだ、初心な私の反応でさえ娯楽の一つに仕立てようとしていたのだ。
私は吐き気を催し始めた。席を立つと高嶺がにやついた目で私を見上げる。「どうしたね? いよいよ政治家大島が本領を発揮するという時に。彼の大舞台を見てやらんのかね?」と白こいことを言うので私は「長引きそうなので。もともと、たいして興味のない事件ですし」と応えてゆっくりとした足取りで裁判所の外に出た。どんどん熱し、感動的ですらある大島の弁舌が、背に聞こえた。
私という娯楽の対象物が消えてはしょうがない、高嶺は追いかけてきて、一緒に帰ろう、と言った。車に乗らずに家に帰れるわけでもなし、私は高嶺に従った。
帰りの車の中で高嶺は嬉しそうに語った。「あの様子じゃ大島さんが懲役七年を勝ち取ったと見ていいだろうなあ。残念、君も私も賭けは外れだ、ははっ。しかし、何が面白いって、被告人のあの落ち着きっぷりからして、彼は収監されはしないね、あれはもう金を積んで釈放される気満々だ、というのもね、桜源郷においては、被告人が本当に罰を受けるか否かは興味の対象にはならない、興味の対象は判決までで後は誰も気にしない、つまり、被告人は別段糞真面目に懲役刑を受けることもなく保釈金さえ積めばすぐ家に町に戻れる仕組みになっているのさ。そう、裁判なんてのは法による秩序がこの社会で成立していますよというサインでしかない。すべてが法律通り行われたなら後は非合法に執り行われてかまわないわけなのさ。判決が下されました、被告人は犯した罪に対して罰を受けました、はい満足、興味を無くします、ってね。ま、あんまり悪いのは、出てきたところで非合法に民衆の手によって殺されるがね、ははっ」
と揚々と語る高嶺の車の前に車が無理に割り込んできて、危うく衝突しそうになった。「ちっ」と高嶺は舌打ちして、言った。「私ほどの地位になれば、交通事故ぐらいであの車の運転手をあの世送りにだってできるんだがね、ははっ、でも私は博愛主義者だから」
前を走る車はやがて交差点で左折し、いなくなった。高嶺は青信号とともにアクセルを噴かせた。ぶぉん、と車の唸りが聞こえた。