6 オスとメス
6 オスとメス
奇異なこととは絶対に起こり得ぬということではなくまずありえないだろうことがなぜだか起こってしまったということであり、奇異なことに、私は学校で桜の精に愛の告白をされたのだった。蓮っ葉な印象の、豪気な女の子だった。
知られたくなかったが桜源郷ではどうするのがマナーなのかも分からないので高嶺に相談すれば、「はっはっは! そりゃ傑作だ!」と笑われてしまった。「やれやれ、お豆くんみたいな男性が好みとは、奇特な精もいたもんだねと思ったがいやはや、そうかい、君が語る印象で凡そ分かった。それはオス的女性で間違いないよ、ははっ」
高嶺が言うには、男性・女性という性別以外に、人間界で言うジェンダー、オス的、メス的、という準性別もあるらしい。
基本的に、オスは権威・権力・暴力により他者を支配し、屈服させる。メスは一般に他者と協調的で、しばしばオスの前に服従し、しかし表面上はオスに支配されているように見えて実はその力を的確に操っているケースもある。
「大体においてオスのほうが優位なわけさ、支配者だからね。その告白してきた女性は性格が強気で仕切りたがりだろう? 要するに支配したがりのオス的女性なんだよ。そしてお豆くん、君は桜源郷のルールが分からない分、おろおろしがちだ、だから被支配者としてうってつけと見られたんだろう。メス的男性ってやつさ。人間界では『尻に敷かれる』と言うらしいがね、実際のところそんな生易しいもんじゃない」
オスとメスの交際には二種類あるらしく、強権型、これはオスがメスを徹底的に支配するパターンで、メスの一挙手一投足に文句を並べ立て理不尽に罵倒するが他の誰かに乗り換えないのはメスの屈従に快を覚えると同時にそのメスのように従順な他個体を見つけられないからだそうだ。もう一つの融和型は、オスが主導権を握りつつもメスとほぼ対等に接するパターンで、これはオスがメスに命令を聞かせるだけの力を持たないか、あるいはメスに自由を与えているように見えて単に無関心だったりで、別段愛情の発露ではないらしい。
「ちなみにうちは強権型さ。我こそ高嶺家の支配者なり。ははっ」と高嶺は軽薄に笑う。
オス的生活を営む者にとって最も重要なのは社会的地位であり、もしそれが女性である場合は美醜も重要となってくる。より正確には、オス的女性は外見の美を男性から求められるのであり、金である程度ごまかしのきく男性と違い女性はエステやら老化防止の飲食物やらをとにかく摂取して四六時中気の休まらず、中には怪しげな薬に手を出し健康を害してしまう、という傾向は日本とたいして変わらない。
「女の価値ってのはね」高嶺が鼻毛を抜きながら言う。「若さと性的魅力、この二つだよ。だから老醜こそが最大の恐怖ってわけさ。少し前は金時人参を生で齧るのが美容にいい、なんてマスコミが煽るから、店頭からにんじんが消え去ったことがあってね、うちの一葉もにんじん一本買って暇なとき食んだりしていたがね、効果のほどはよく分からなかったよ、ははっ。そう考えるとオス的男性なんか、ちょろり顔を出している鼻毛を抜く程度で済むんだから、気楽なもんだよ、ははっ」
「しかし」と私は尋ねてみた。「もしオス的生活者の最重要ステータスが社会的地位ならば、オスは定年退職をこそ恐れなければならないのでは?」
「ははっ! お豆くんにしてはいい読みじゃないか」高嶺が嬉しそうに顎をさする。「その通りさ、社会的地位無き者には蓼食う虫さえたかりはしない。それまで威張りくさっていたのが定年退職を境にぞんざいに扱われ、それで『元』何々と苦し紛れに名乗ってね、自らに権威を授けようとするが、実に滑稽だよ。そんな付け焼刃じゃ無意味だってことが老いると分からんみたいだね。私は名誉教授確定だからそんなせせこましい話とは無縁だがね、へっへ」
「ずいぶんと、老人に対する態度が厳しいというか、酷に思えますね、高嶺さんは」
「何、はっ、なんせゴミはゴミ箱へが国是だからね」高嶺の熱が少し冷めたようだった。「それで、君はどう答えるつもりなんだい?」
「私は……」
告白してきた女学生を思い浮かべる。頭から枝が生えている以外は人間同様の外見なのだ、しかも鼻っ柱の強さが鼻梁にも表れていてどこか毅然とした美人である、私の心はぐらついている、というより異種族であるという点を除けば答えは固まっている。
「私は、受けてみようと思います。何事も経験ですし、恋人を通じて知識を摂取する例だって、たくさんありますから」
私が言うと、高嶺が、ふん、と大きく鼻から息を吐いた。
イエス、と応じれば深山と云う女学生は月並みな表現だが欣喜雀躍して「やった! しかも外人の彼氏だわ!」と興奮する。人間つまりは外人であることで見下されたことはあっても見上げられたことはなかったのでどこか不思議に思いながら、私たちは交際を始めた。
はずだった。
深山は始終べたべたしているわけでなく、それは助かるのだが、しかし私が一緒に居ようと言っても大概は断り、理由を聞けば「今のわたしにあなたは必要ないから」と平然と言う。どういう了見なのか、と本人を問いただすことはしないでそこいらの機微を普賢象に尋ねると、普賢象は微笑して答えてくれた。「精は、充実している瞬間、一人なのです。別段、誰かとともにいることで幸せ、というわけでなく、他人は化学反応の触媒みたいなもので、自分が至福の陶酔に至るための道具でしかないのです。恋人だってやはり、自分が完全に満たされるための道具にすぎません、中でも深山さんはオス的生活者なので他人のためになどという考えとは無縁です、自分の承認欲求などが満たされていないと感じた時はあなたを頼り、しかし自分一人で完結できる時はあなたを必要とせず一人でいることでしょう」
「そんな……ずいぶん薄情と言おうか」
「薄情というより正直なんです。あることに陶酔している時、自分の周りに誰がいようと気にならないのは、つまり他人など没入中には風景以下だという証左です」
「つまり私は……キープ?」
「……あなたがたの言うキープとは少し違って、必要な時相手を必要とする、合理的な関係だと思いますよ」
「合理的、ですか」
「いわゆる結婚という契約も、桜源郷にはありません」
「え?」私は思わず頓狂声を上げてしまった。「では、高嶺さんと一葉さんの関係は? 夫婦じゃないんですか?」
「厳密には夫婦ではありません」普賢象はよどみなく答える。「高嶺教授と、便宜上妻と呼びますが、妻の一葉さんはただのペアであって婚姻関係はありません。二人が理念の共有か何かで集まって暮らしているだけです」
へー、などと私は阿呆のような声を出してしまった。
「その昔は桜源郷にも結婚という制度がありました」と普賢象は話を進める。「しかし、結婚生活の破綻つまりは離婚する率が七割を超えまして、そもそも結婚自体が精の本質に逆らう不合理な制度ではないかという意見が多数となり、法律上の結婚制度が破棄されました。なんせ、汝の欲するところを為せ、ですから、どちらかが家庭なるもののために束縛・禁欲しなければならない婚姻が成り立たなくなるのは明白です。世間体のため、強権的なオスのいる家庭ではメスの精神的死が定例となりますが、晩年、オスの力が弱まるとメスがここを先途とオスを切り捨てる、つまり関係解消することが容易になったことも婚姻の廃止の一つの効果です」
「しかし、長年連れ添ってこその関係というのも、あるのでは?」
「それが今現在のペアという慣行です。そういう関係を築ける間柄であれば何も法律により婚姻関係を結ぶ必要性がないのです。あるいは危機に直面すれば家族の絆が深まると言われるかもしれませんが、それは正確には家族の絆が深まっているのではなく自分の所属グループを守ろうという、自己防衛機構の一部なのです、ヤンキー的絆とでも言いましょうか、家族が特別強く結びつくというわけでもないんです、少なくとも桜の精においては。人間界で言う『愛』なるものは介在していないと考えるのが主流です」
「友情も愛情も、差はない?」
「そう考えても間違いではないと思います。コスト&ベネフィットに基づいた計算的結びつきと言ってしまっても過言ではないのかもしれません。いわゆる『愛』はただロマンチックな雰囲気に浸りたい時に出来するのであって――」
「それが私の放置に繋がっている?」
「ええ」普賢象はいくらか気まずそうに頷く。「深山さんと喋る以上に関係を深めたいのであれば、彼女にちょっとした危機意識を与えて絆を強固にしたくなるよう誘導し、あとはロマンチックな雰囲気を求めるよう、……そうですね、恋愛映画にでも誘ってみたらどうです?」
「そうですね……」私は首肯した。それから試しに聞いてみた。「恋愛が文化を活性化する。それはこの国でも同じですか?」
普賢象は苦笑いし、米国人が冗談を言う調子で言った。「幸か不幸か、ね」
幸か不幸か、映画を見に行こうと何度か誘うも深山があーふーん程度の曖昧な態度でやり過ごしたため関係は一向に深まらず、休日に高嶺家の居間で腐っていれば高嶺が下卑たにやつき顔で近づいてきた。
「そろそろお昼だね」「そうですねえ」「腹が減ったねしかし」「そうですねえ」「昼飯の時刻だ」「そうですねえ」「そうですねえってお豆くん、私が何の話をしているか分かっているだろう」「そうですねえ……」「聞き流そうったってだめだよ、昼飯をスーパーで買ってきてくれないか」「……そうですねえ」「いつものことじゃないか、行ってきてくれたまえよ」「そうですねえ、たまには高嶺さんが行ってもいいんじゃないですかねえ」「ははっ、冗談はよしたまえ、私は私の貴重な時間を研究に費やさなければならない、たかが食事の買い出しで私の貴重な時間を浪費させないでくれよ、ははっ」「暇人の私が作れば済む話ですかあ」「そうですねえ」「三人で一緒に作りましょうよ」「そうですねえ」「と言っても、今日も一葉さんは休日出勤でいませんが」「そうですねえ」「ワーカホリックなんじゃないですか」「そうですねえ」「心配じゃないんですか」「そうですねえ」「大体において夫は妻が倒れてから泣きますから、そんな適当では、知りませんよ」「そうですねえ……そうそう」
ここまでの会話はすべて切り出すための予備動作にすぎなかったらしい、高嶺が勢い込んで聞いてきた。「その後女学生とはどうなった? もうヤったのか?」
噴飯物だった。人間を見下す高尚な桜の精様なのだからそんな下世話な話はお嫌いだろうと思ったがどうやら人間よりも興味がおありらしい。私は答えた。「ヤってませんよ」
高嶺は大仰に驚いてみせ、それが明らかにわざとだと分かり単なるおちょくりのために聞いているのだな、とは分かった。
「なんだいなんだい」高嶺が白々しく言う。「妊娠が心配なのかい? 安心しなよ、我々桜の精は」と言って頭の天辺から生えた枝に手をやる。「この先端の花で受粉させない限りは繁殖の恐れはないから」
「え、そういう造りだったんですか?」私は驚いて思わず乱れ声を上げてしまった。
「ははっ」と高嶺が笑う。「君たち人間は性行為と繁殖がセットになっているがね、我々はセックスと繁殖行為を切り離している、増えるための性行為は劣等で性行為は純粋に性行為として楽しみ繁殖はそんな快楽だの堕落した感覚を脱した、それこそ純粋な行為として行うわけさ。あるいは枝をちょん切って接ぎ木する者も時にはいてね、要するにこの無意味に思える枝が我々の生殖器官なわけで、となると君はまったくの無性のわけだから、ははっ、安心してその女学生と励みなさい、ははっ」
「それなら」私も少し下品に言い返す。「高嶺さんも一葉さんとお励みになられたらどうです?」
へっ、と高嶺は少し気を悪くしたように笑った。「一葉はどうもかたくっていけない。私も君のように女学生とエンジョイするかね、ははっ、なんせ進歩的な我々は結婚なんて不合理な制度はとっくにやめているからね、私が他の女に手を出そうと誰も咎めたりしない。そう考えると、君たち人間は当に破綻している婚姻関係を続けていけるのだからたいした忍耐だ、拍手だよ、ははっ、何もお互いを苦しめてまで一緒にいる必要もないだろうに。しかし、まあ、私が浮気をするにはメス的な一葉がいかにも可愛そうだからね。元来強権的な私も女性関係だけは融和型なのだよ」
「誰も言い寄って来ないだけじゃないですかぁ?」
「ずいぶん絡むね今日は。君、なんてったって私は権威だ、大学教授の超有名人さ、本来は引く手数多なんだがね、みんな一葉が怖くて手を出してこない、ただそれだけの話さ」
「顔面偏差値――」
「ないね。見りゃ分かるだろう? 私は美男子、君たち流に砕けて言えばイケメンだよ。それに金を出せばいくらでも整形できる。日本人は整形に否定的らしいがね、阿呆臭い、技術があるならやればいいじゃないか、卑屈に生きるよりよほどいい」
「汝の欲するところを為せ、ですか?」
Exactly、と嬉しそうに高嶺はウインクしながら私を指さした。「なんだったら君も――」
「結構です。自分の顔は割と気に入ってるんで」
「よく言うよ。そんな余裕ぶっておいて、染井さんのようになっても知らんぞ、ははっ」
「染井さんが、なんです?」と私が訊けば、
「あの音楽教授の染井さんの話だ」と高嶺は言う。「彼のような、不幸にも恋愛から漏れてしまった精は、って、あんな蓬髪では仕方ない気もするがね、そういうあぶれ者の精は、蚊柱の如く蝟集し恋愛をするかと思えば、そうではないんだよ、それには彼らの『高度に発達した』自尊心が許さないんだよ」
「高度に発達した自尊心?」
「そう。君たち流に言えば『こじらせた』ってやつなんだがね、彼らは口では悪漢ぶるくせに妙に廉潔心だのを働かせて主体的に行動もせずぶうぶう愚痴を垂れに垂れるんだが」高嶺はニヒルに笑ってみせる。「その中でも染井さんのようなエリート恋愛弱者はだね、ロボットを、外見や性格、発言内容を事細かにプログラミングした人工知能を、パートナーとして選択したんだよ。と言うとまるで染井さんが終生そのロボットを愛人とするように聞こえるから、選択する、現在形にしておこうか」
「ロボットをパートナーにする、ということですか?」
「そういうことだ。ロボットは徹底精緻にプログラミングされているからね、例えば染井さんの場合、愛を囁き合えば、誰それの曲のグリッサンドのように煌びやかですね、なんてなことをロボットが言う。思考回路を事細かにプログラミングされたロボットはまさに理想の相手のように振る舞い、言って欲しい言葉を的確なタイミングで適切な語彙で喋る。素敵だろう? 脳内に練り上げた美女像が現実に現れるわけさ、目の前に」
「それは面白いというか仄怖いというか、ある種偶像のようですね」
「ははっ、偶像か、いい表現だ、中にはロボットをジーザスだの釈迦だのビーナスだの小野小町だの名づける連中もいるからね、たしかに。ま、気持ちは分かるがね。しかしだ」高嶺は肩を竦めてみせる。「彼ら恋愛弱者とロボットの関係は半月持てば御の字、一年持てばそれこそ付き合い始めて一周年を記念しなきゃならないほどの珍事さ。なぜか分かるかね?」
「……ロボットがぼろを出し、理想を演じきれなくなって幻滅する?」
「幻滅は確かに幻滅だが、君の言うほうとは逆方向で幻滅するのさ。例えば染井さんが学会で大いに叩かれたとしよう、その際ロボットは的確な、染井さんが期待している通りの慰めの言葉をかけてくれるわけだが、連中によればそれがどうにもわざとらしく響くそうだ。つまり、言葉遣いやらタイミングやらがあまりに自分のイメージ通りで、まるで自分が自分を、自分ではない声と形で慰めているような気がしてくる、平たく言えば自作自演でしかないと思えてくるらしいんだよ。温かい言葉もすべて自分でプログラミングした作為の結果、そう考えると急に覚めて、馬鹿馬鹿しくなってしまうのが通常というものさ。ま、中には自ら仕込んだ自作自演のショウにさえ感動の涙を流してみせる幸福な者もいるけども」
「染井さんは、幸福な者の一人ですかね?」
私の問いに高嶺はまたも肩を竦めて皮肉げに笑った。「さあ? 彼はピアノを弾けなくはないが下手くそで理論ばかり研究しているからね、ロボットが理論的であればそれで満足なんじゃないかね? 今度『クララ』について尋ねてみればいい、ははっ」
翌日、授業時間の空きに染井を訪ね『クララ』について聞けば染井は、パソコンの『クララ』フォルダを開いて写真をいろいろ見せてくれた。『クララ』は鼻っ柱の強そうな、向こう意気の強そうな顔立ちの女性で、ほとんどこちらを睨みつけている写真ばかりだったが染井に言わせればそれがチャーミングなのだそうだ。「染井さんはオスですか、メスですか?」と尋ねれば「それは君、オス的男性に決まっているでしょう」と毅然と言うので私はそうですかとだけ言ってもう一度『クララ』を見た。深山を思い出した。外見はそこまででもないが雰囲気は似ているかもしれないな、と思った。
と、その日の午後の授業が終わり家に帰ろうとしている私を、『クララ』ほどではないが意志的な目をした深山が呼び止めた。今度一緒に映画を見に行こう、と言う。あと三週間で封切される恋愛映画がどうしても見たいのだ、と言う。私が「ようやく私があなたに必要になったのかな?」と皮肉交じりに問うと彼女は「そうなのよ、お願い」と科を作りしかし悪びれた様子もなく、私はなめられてはいけないと迷いつつも折角の申し出だからと彼女を尊重、お願いを了承したのだった。
「やった!」などと深山は小躍りして見せ、「じゃ三週間後に」どこそこの映画館前で会いましょう、とすでにやや粗雑な物言いとなり、それから最後に何気ない調子で「普賢象くんも誘っておいてくれない?」と言った。「二人きりじゃないの?」と問えば「わたしの友達に、どうしても普賢象くんとお近づきになりたい子がいるの」と言うので、「訊いてはみる」とだけ私は言った。「よろしくね。お願いよ」と深山は言い残し、授業でもあるのか早々に去っていく。
私は一抹の不安を感じていた。しかしその読みが甘かったと、私は後に知ることになる。