5 科学と研究
5 科学と研究
雨が降りに降り、私は研究室で普賢象と椅子に座り、高嶺を待っている。以前大山に誘われた生命科学研究所へ見学に行くことになり、雑用係で普賢象も同行することになり、放課後となりて高嶺の車に乗り向かう手筈となっている。今は高嶺の授業終わり待ちだ。
普賢象は私と合流すると勝手知ったるといった感じで研究室へ入っていき、中で研究している先輩と仲良く雑談し始めた。私が初めての空間にどぎまぎしていると普賢象は私を座らせ他の先輩らに、せっかく目の前に本物の人間がいるのだからいろいろ聞いてみてはいかがですか、人間研究室に所属しているのですから垂涎ものでしょう、と声をかけ、初めは及び腰だった精らが次第に生き生きと私に話しかけてくるのだった。彼らの知識はある程度まで正確で、実に熱心に質問してくれるのだけれども高嶺に教授されているせいか偏見と卑下が言葉の端々に感じ取られ不快になる場面もあったが爆発しないよう努めた。
「人間界でも、やはり権威主義がはびこっていると聞きますが、どういった人間に権威があるのですか?」
「やはり学者でしょうかね。大学教授の発言には重みがあります。あるいは重鎮と言われるジャーナリストでしょうか」
「老害ですね」と眼鏡をかけた学生がせせら笑った。
「高嶺教授は日頃から権威などくそ食らえなどと宣っていると思いますけど」怜悧に高慢が宿った顔つきの女学生が鼻で笑う。「口ばかりですよ。以前、昔人間界の日本では、ハレの日に人々が川へと赴き皆でドジョウすくいをし、持ち帰り家で捌いてところてんとともに甘辛く煮込み、一家で恭しくこれを食べる風習があるのだ、と、胸を張って知識を披瀝していたのですけど、それは高嶺教授より以前に人間研究の権威だった教授が記した著書の受け売り、速い話が丸パクリだったわけで、そんな風習、ないのでしょう?」
「食べ物として柳川鍋はありますが」私は答える。「そんな風習はなかったと思いますし、ところてんと煮込むことはさすがにないと思います」
「でしょう?」女学生は大仰な身振りをする。「高嶺教授は、権威なんてくそ食らえなんて言いながら権威ある学者によるホラを本気で信じてしまったんです。阿呆でしょう?」
「しかし、権威とは実に厄介ですね」と普賢象が引き継ぐ。「権威者が言えばホラ話さえ真実に聞こえ、信じないほうが愚か者扱いされてしまう。一般人が発した言葉には嘲笑を浴びせるくせに、著名な学者が同様の言葉を口にすると皆たちまち金言としてありがたがる。もはや信奉と言ってもよいくらいに。とかく権威に弱いのは桜の精も人間と同じですね」
「こんな話があります」髭面の学生が心持ち身を乗り出す。「ある有名な学者が、自傷行為を経験した子供は頭がよくなると著書に記しましてね、すると、それを信じて鵜呑みにしてしまった親がわが子に自傷行為を強要したという事例が、著書の売れ行きに比例して増えましてね、政府がわざわざより権威の強い有識者による意見広告で打ち消したぐらいですよ。余談ですが、後年、子供たちは父母に報復したそうです。著しい事例だと家を放火して焼殺した、なんてのもありました」
「けれど」女学生が再び大仰な身振りで言う。「その放火した息子は警察の取り調べに対し、まず初めに善悪の正体について語ったそうなんです。ずいぶん頭脳明晰でしょう? だからある程度効果があったかもしれないんです、しかし精たちはより権威ある打ち消し広告のほうに引っ張られて英才教育を止めてしまって、ほんとに権威って厄介で――」
「お待たせしたね」
研究室の扉が開き高嶺が入ってきた。皆一斉に黙る。「何か盛り上がっていたようだが、何を話していたのだね?」と高嶺が訊いても誰も答えない。学生だけに教授の権威が怖くて先ほどまで高嶺を馬鹿にしていたなどと言えないのだろう。「なんだ、何かお豆くんが面白い与太でも披露したのかね、ははっ」といつものように高嶺が鼻で笑ったので少しかちんと来た私は尋ねた。
「権威なんてくそ食らえですか?」
「ん?」高嶺は怪訝そうに眉を持ち上げ、それから言った。「そりゃ、能無しが無駄にありがたがられる権威なんてシステムは、くそ食らえだよ、ははっ」
三人で生命科学研究所に入り、普賢象が受付の男性に話しかければ「すぐ取り次ぎます」と言って電話でぼしょぼしょと喋り込み、「直に来ます」という男の説明通り直に白衣姿の大山が受付に現れた。
「やあ、決闘騒ぎ以来だね。元気にしていたかい?」「ええ」と大山は高嶺と言葉を交わし、それから普賢象に気付いて「誰だい、この子は」「普賢象くんだ、こないだ決闘騒ぎを起こした」「ああ、君が」「普賢象です。高嶺教授のゼミ生です。今日はよろしくお願いします」「はいはい、よろしくぅ」と握手し、私を一瞥すると、「揃っているようだから、案内しよう」と言って踵を返した。どうしてこう、桜の精はいちいち不愉快なのだろうな、と私は思う。桜の精のほうが優れているという先入観があるのだろうけど、と思って私は、人間が桜の精より優れているという証拠もないか、と鼻で笑った。
「まずはここから行こうか」
少し歩き、大山は暗室のような場所に私たちを連れ込んだ。薄ら緑に、松や楓といった植物の形が闇に浮かび上がっていて、私たちの顔や体もその光を受けて暗闇の中で微かに目視することができる。「これは」と大山が説明する。「松や楓といった植物に蛍光たんぱくを発現させて発光させる実験だ。いずれ観賞用としてこの研究所から売り出す予定でね。なんせ、何事も金が要るからね、雀の涙かもしれないが、珍奇な物を売って少しでも研究費の足しにしなければ。すべては研究のため、だよ」
と言うと同時に足元を発光する何者かが走り、私と高嶺と大山は「うわっ」「わあっ」「おわっ」と悲鳴を上げた。普賢象がその何者かを踏みつけにすると動きが止まり、薄緑色の浮かび上がりからそれが鼠で、普賢象が尻尾を踏みつけたことで逃げられなくなったのだと分かる。「これは」と大山が少し驚いたような声を出す。「毛を発光させた実験用マウスじゃないか。誰かの手違いでこの部屋に入ってしまったか。君、そのままじっとしていてくれたまえよ」と普賢象の足元に大山はかがみ、おそらくは尻尾を掴み、「OKだ」と言って普賢象の足が離れると手で鼠を摘まみ上げて見せた。それから「えいっ」と気合一発鼠を壁面に叩きつけた。どす、と重い音がして鼠は動かなくなり、その死を確認した大山がいくらか安堵したような声で言う。「まったく、剣呑剣呑」
「鼠は殺しておかないと木を齧るからね、我々にとって些か危険な生き物なのだよ」と高嶺が私のために補足説明する。「鼠やカミキリムシといった我々を害する危険生物は、絶滅させる方向で政府が動いている。桜の精の命を、健康を少しでも脅かすものには死を、ってね」
「しかし、生物多様性というか、害虫や害獣とはいえ絶滅させてしまうのはあまりに乱暴ではないですか」と私は訊いた。
「ははっ、まさか!」と高嶺は笑う。「人間界に普通に狼がうろついているようなものさ。剣呑だろう? 余談だが、君たちの目の敵にしているゴキブリは、君たちにとってはただの不快害虫だがね、不衛生で気色が悪いだけの存在だろうが、私たちにとっては、特にチャバネゴキブリなんてのは木を食べるからね、警戒すべき生き物だよ。我々も君たち同様、奴らを未だ滅ぼすことができていないがね。恐ろしきは生息環境が多様な生き物、だよ、どこにでも住めるとなると我々でも駆逐困難さ」
「それを可能にすべく」大山が鼠をぷらぷらさせて自信たっぷりに言う。「私たち生命科学研究所に務める精は日夜研究を行っているのだよ。すべては我々に安定をもたらすために、世界の安定のために、桜の精一種が世界を統べるために!」
「君たち人間がウイルスを撲滅しようと躍起になっているのと、同じだと考えてくれたまえ」高嶺が補足する。「別に、不要に誰かを滅ぼそうってんじゃない。大山さんは昔から熱くなって語りすぎるのが玉に瑕だ」
「あれは、なんです?」と普賢象が言い、皆が指の指し示す方、薄ら緑に浮き出た何かを見る。
「ああ、あれは蜘蛛の巣だよ」と大山が答える。「蜘蛛の糸を発光させて、将来的には光る衣装を作成し、売りに出す」
「何もかもがお金ですね」と私が、嫌味でなく呟くと「そりゃそうだよ」と高嶺と大山が呆れたように同時に言い、大山が続ける。「生活の役に立たないものに金を投資してどうする? 何事もコスト&ベネフィットだよ、金が稼げないならやる意味がない、金に繋がる純粋科学なら多少意味があるが、それ以外の学問であれば趣味でやればいい話だ、文学やら哲学やらはわざわざ国費を出して補助すべき学問じゃない、好事家に任せておけばいいんだそんなもの。我々が目指すのは金を生む科学、ある意味では錬金術さ。なんて、生活を高嶺に丸抱えしてもらっている人間に説いてもしょうがないかもしれないがね」
「何、それは言ってやらんでもらいたいですね、大山さん。彼は国賓ですからね。ははっ」
高嶺の乾いた笑いに、白けた雰囲気がより先鋭化する気配がして、「次に行きましょう」と普賢象が場を鎮めるように言った。「ふむ。じゃあ」と言って大山が暗室を出て行く。私たちはついていった。私がほんの少し遅れたところで普賢象が「彼は単なるコンプレックス持ちですから、気にする必要はありませんよ」と私に耳打ちしてきて、私の心のしこりは少し軽くなり、単純に過ぎるかもしれないが、決闘騒ぎを起こした危ない雰囲気の普賢象を、いい奴だと思うようになった。
「次はこちらです」
暗室よりはだいぶ明るい、しかし光量を絞っている部屋に案内された。部屋には天井すれすれの大きな棚が隙間なく並んでいて、大山が入口のスイッチを押すと棚が、というより床が自動でスライドして棚と棚の間に隙間が生まれる。大山はその隙間に入っていき私たちを手招きし、行けば円筒の容器に白くなった生物が封入されている。
「棚に置かれているのはすべて生物の標本で」と大山が言う。「ありとあらゆる生き物をホルマリン漬けにしてここに保存しているわけだが」と、さらに奥へ奥へと進み、「これが見学者皆が興味を示すやつだ」とにやけながら取り出した円筒には桜の精と思しき小さな人間様の生き物が入っていた。
「それは?」と問えばある程度予想はしていたが「これはだね、我々桜の精の、出産直後の標本さ」と大山が答える、実に嬉しそうに。
正直な話、気持ちが悪かった。グロテスクだった。大山が円筒を取り出した瞬間、数瞬だが目を逸らしてしまった。頭から枝が突き出ていること以外は人間に酷似しているのだからそのホルマリン漬けは些か刺激が強すぎる。
「あなた方には所謂倫理が、ないんですかね?」と思わず私は尋ねていた。
「倫理? はんっ」と大山が鼻で笑う。「そこにいる高嶺から聞いたことがあるが、君たち人間だって、我々と同じく倫理の欠片もないじゃないか。芸術の名のもとに同胞の死体ですら作品にしてしまう。中には、同胞の死んで朽ちていく姿を詳らかに描いてみせた、なんとか言う」
「九相図」と高嶺が助け舟を出す。
「そう、そんなものまでこさえて、あるいは同胞を殺すのを楽しむ遊戯だってあるんだろう? それでいて倫理だのなんだの高潔ぶってみせるんだから、矛盾もいいところだよ。倫理を声高に叫ぶぐらいなら初めから芸術の名の下でグロテスクな作品を作るのはやめるべきで、それができないならばマッドアーティストとでも名乗って好き勝手やればいい。汝の欲するところを為せ、だよ。ほら、最高の絵を描くために自分の娘の乗った牛車を本気で焼く、あれだ」
「『地獄変』芥川龍之介」
「そう、そういう偽りのない精神の表れが、この標本なのだよ」
大山は満足げに語り胸を反らす。倫理とは時に論理的なものではなく感覚に依るものなので私は反駁できずに佇立していることしかできない。
と、普賢象が言った。
「すみませんが、その円筒を渡していただけませんか。じっくり観察したいので」
「うん、向学心があって、君はいい学者になりそうだ」
円筒を手渡され、「ありがとうございます」と言って普賢象はホルマリン漬けの標本を矯めつ眇めつする。くるり三百六十度回し、底からも覗き込む。それから「ありがとうございます」と言って円筒を大山に返した。
「どうだね?」と大山がにやけた顔で問う。
「これは……」普賢象が腕を組む。「贋物かもしれません」
「え?」「え?」「え?」と三人声が出る。
「まず、両方右手になっています」と普賢象が言う。慌てて検分した大山が「あ」などと間の抜けた声を出す。
「遺伝子の異常で奇形なのかもしれません」と普賢象は落ち着いた様子で「まあ、奇形という時点で、平準を示すべき標本として意味があるのか分からなくなりますが」と言い、「さらに肩」と言い足し、「よくよく見ると、腕の付け根が盛り上がっていて、どうも関節部分に細工した跡のように見えます」と自分の肩回りを触ってみせる。
大山は驚きに目を見開きながら標本を凝視し、再び「あ」と間の抜けた声を出した。
「誰かがすり替えた可能性は?」と高嶺が問うと大山は「うーん、しかし、いや、うーん」と思考に没頭し始めた様子で私たちはどうにもできない、大山のひたすらの矯めつ眇めつを待っていると、ようやくのことで彼は言った。
「これはこれで調査するとして、他を回ろう」
私たちは強引に追い返されるようにして標本室を出て、大山言うところの「最前線」へと連れていかれた。最前線はしかし、今まで紹介された奇抜な部屋と違い、研究室然としていて、普賢象曰くの「ようやくまっとうなものが見られそうですね」な場所だった。
「ここでは」大山が咳払いして、「食物をより多量に、美味しくするために遺伝子操作が行われている」扉を指さし、「あの扉の向こう側、奥へ奥へ進むと強力な電磁波を発生させる装置もあってね、生命科学研究所の心臓部と言ってもいい」
「日本で言うならスプリングエイトのような場所さ」と高嶺が言う。
「我々の最終目標は、欠陥の一つもない完成された桜の精の創造にある。劣等な遺伝子を駆逐せよ、が合言葉さ」
「遺伝子操作を、桜の精に?」と私は尋ねる。
「そういうこと、だ」大山が少し勿体つけて言う。「例えば障害児、身体の一部欠損だったり精神の障害だったり、こういう精が多数存在するとそれだけ福祉などに金がかかるだろう? 面倒だって多くなる、なんせ自立できない奴のほうが多くなるのだから。だったら、そんな奴らは排して、さらに、所謂馬鹿を極力増やさない方向で遺伝子を調整できるようになれば、優良遺伝子のみを残せるようになれば、我々は犯罪や病気や才能の差から来る格差を免れ、より効率的で洗練された社会を築けるだろう」
「しかし」と私は首をかしげてみせる。「それは、倫理的に問題が――」
「倫理!」高嶺が大仰な声を上げる。「ははっ、また倫理だ。君たち人間だって、杉を去勢するだの、目標の形を産み落とすまで犬を交雑させるだの、病害虫に強い作物を人為的に作り出すだの、好き放題やっているじゃないか。試験管ベイビーだって、君たちの専売特許じゃないんだよ。君たちの大好きな園芸種だって、君たちの好き勝手の産物じゃないか、ははっ」
「たしかに、創られた生き物も、最近では増えてきていますが、ただし人間の、優良思想と言いますか――」
「優良思想の何が問題なんだい? またまた達成できもしない倫理の話になるのかね、んん?」高嶺が意地悪く笑う。
「我が国にはそんなややこしい話はほとんどない」大山もやはり笑う。「稀に口角泡を飛ばしながら君のように規律やら倫理を唱える者もいるがね。そういう奴に限って劣等遺伝子を抱えているんだよ。わが国では有能な遺伝子を持って生まれた赤ん坊は、高値で取引されることさえある、より良い精を増やしたいという思いからね。君たちの園芸なり、鉢に植えた木の形を整える、えー」「盆栽」「そんな二次的享楽のためではなく真剣に実験しているのだよ、お遊びじゃなく、ね」
「しかし、あなた方は全体主義者じゃないんだから、優秀な精が増えようが増えまいが関係ないのでは?」と私が突っ込むと高嶺は「んっふ」と笑い、「お豆くん、個人主義が先鋭化すると、一つ問題が生じるんだよ。分かるかい?」と訊いてくる。私は分からないので首を振った。
「馬鹿の問題だよ」高嶺がまた鼻で笑う。「個人主義でも最低限守るべき不文律がある。しかしこれをひょいひょいと乗り越えていく馬鹿が現れるのさ。そいつらを殺す、なんてのは最低限守るべき不文律に抵触するからね、だからそいつらの遺伝子を後世に伝えないためにも、私たち優等な精がよりよい生活を享受できるようにするためにも、劣等な遺伝子つまりは馬鹿の素を排斥し優良遺伝子を増やすというのは大事な、一周回って倫理的な研究なのさ」
「馬鹿の定義は?」と私は訊いた。
「先ほど言った通り最低限守るべき不文律を守れない奴らさ。あるいは、義務を果たす能力のない者、かな。馬鹿の中にはなぜだかモテる奴がいて、汝の欲するところを為せの原則に従いひたすら生殖行為を行う厄介な奴もいてね、馬鹿から馬鹿が生まれて鼠算式に増殖するんだ。おまけに病気に強い、馬鹿は風邪をひかないというやつだね、だからなかなか減らない。そのうち社会問題になるかもしれないね、ははっ」
「しかし」私はなおも抗弁する。「馬鹿という存在が存在するとして、減らすべきだのなんだの、乱暴しやすぎませんかね?」
「ゴミはゴミ箱へ、ですよ」大山が呆れたといった感じに肩を竦める。「お豆、君はずいぶん馬鹿の肩を持つようだが、少し話が逸れるかもしれないが、なぜ馬鹿という言葉が存在して今現在も使われ続けているんだと思う? そう評す以外にない馬鹿がいつの世にも存在するからだよ。しかしだ」大山はにやにやしながら腕を組む。「馬鹿より識別の簡単な、身体的あるいは精神的不具者のような『下等な存在』を遺伝子操作や神経切断で人為的に作ることは、あるんだな、これが。なぜだと思う?」
「さあ」と私は肩を竦めてみせる。
「生贄みたいなもんだね」大山が、くっくっと笑う。「誰だって、馬鹿だって自分が最下層の精だと認めたくないからね、自分より劣等な存在が必要なのさ、自らの地位と心の安定のためにね」
「つまり、人為的に障害者などを生んでいる、劣等感のはけ口として、集団生活の犠牲者として。そういうことですか?」と念を押せば大山はこれ以上ない笑顔で頷き、「科学万歳さ。いずれ今の倍の体格の、より知的水準の高い桜の精を、超精を生み出すことだって夢じゃない。はっはっは」と言う。「まるでマッドサイエンティストだ」と私が呟くと高嶺が耳ざとくこれを聞きとり、「マッドサイエンティストねえ。君たち人間は、進取的な科学を何かとマッドサイエンスと呼んで目の敵にしているがね、その割に進取的な芸術家、マッドアーティストとでも呼ぼうか、そういう人間や作品にはずいぶん寛容だね。そこの差が私らには分からんね」
「それは、社会に与えるインパクトの差でしょうかね」
「インパクト?」高嶺が斜に構えて鼻を鳴らす。「ははっ、芸術は無力かい? 染井くんに今のお言葉を聞かせてやりたいね、ははっ」
「お豆の国でどうなっているかはよく知らないが」大山がどこか吐き捨てるように鼻を鳴らす。「科学によって成せる業のある限り、我々科学者は挑戦し続ける。挑戦することを放棄してはいけない。すべては一か零、できるか否かだ。それに、科学技術に善悪はない。善悪は使用する者の心がけ次第でどっちにも転ぶわけであって何かの研究自体が悪なわけではない。君たち人間は、同胞の殺戮のための兵器に科学力を注力するんだろ? まるで阿呆の所業だね。我々は桜の精をさらなる高みに上らせるためにしか技術を使わない。時には自殺薬なんてものも作るが、それもすべて誇り高き桜の精のためだ、なのになんで君のような下等生物にどうこう言われねばならんのだ、私は桜源郷をまごうことなき桃源郷に作り替えるべく来る日も来る日も――」
「すみません」普賢象が熱してきた大山の弁を遮る。「なんだ」とあからさまに声を荒らげた大山に、普賢象は冷静に部屋の隅のフラスコを指さす。「あのフラスコから煙が出ているのですが、大丈夫ですか?」
指さす先を見た大山は「……あっ!」と一瞬間遅れて叫び、「煙が出ている!」と見たままのことを言ってフラスコに駆け寄り、「しまった、反応の途中で放置してしまった、まずい、反応が進みすぎてこれでは細胞の培養が、まずい、細胞が死ぬ、大損だ、大損失だ、まずい、所長に怒られる、いや、そんな些末事は、まずい、研究失敗はまずい、これは」などとぶつくさ独り言を言い、思い出したという様子で私たちに振り返り、「緊急事態だ、すまないが受付前のロビーに戻って休んでいてくれ、作業が終わり次第また案内するから」と言いながら何かの電源を落とし、煙を噴出しているフラスコやら試験管やらをカチャカチャし始めた。私たちは言われた通りロビーに戻ることにした。
「大山さんはね」三人で戻る途中、高嶺が口を開いた。「役に立たない研究に意味はない、コスト&ベネフィットだと嘯いていたがね、実のところ役に立ちそうにない純粋科学を研究したがっているのだよ」
「え?」と言う私と違って普賢象が冷静に「その思いがある種劣等感となって、あれだけ役に立たないものを否定し現在自分の携わる研究への称揚に繋がっている、そういうことですか?」と問う。
「さすがは普賢象くんだ」と高嶺は頷く。「大山さんはねえ、生命を自在に操る研究に、疑問を持っているんだ、だから研究方法も中途半端になって突っ込んだ実験ができない、あれだけ科学者は好き勝手やるべきだと言っておきながらね、彼の研究は腰が引けているんだ。その態度に、所長からは叱られ、元は国からなんだが研究費の支給が細ったがためおまけという名目でやっていた純粋科学の実験もできなくなってきてね、ストレスが溜まっているんだよ。学会でも大いに叩かれているらしい。生命の操作こそ科学の奥義である、そういう国や研究所の方針に自分の意欲が合致せず、しかしあたかもその方針を第一に研究しているように見せかけなければならない。ある種の道化さ」
「なぜ、国の方針の、生命操作が嫌なのですか?」私は訊いた。
「嫌……嫌というか……確かに嫌なんだろう」高嶺は顎をさする。「それは、彼の出生に理由がある。大山さんはこの研究所で、細胞の培養によって創造された人造の桜の精なのだよ」
私と普賢象は頷いた。
「まさに科学技術が生んだ子でね。しかし、まだ技術が不完全であったためか、右足が不自由でね」
「たしかに」と普賢象は頷く。「右足を少し引きずるように、というか、足がまっすぐ出ていない感じの歩き方でしたね」
「そう、彼は先ほど自らが口にした社会的サクリファイスとしての障害者として生まれてしまったんだよ、意図したわけじゃなかったがね。ゆえに彼は自らを不具として産み落とした生命操作の業を憎んでいるわけなんだ、そして科学至上主義者に徹することができないでいる」
私は大山の歩き方を思い出してみる。たしかに足の運びが変だった。私はあの傲岸不遜とでも呼ぶべき大山の態度を思った。普賢象の囁いた、ある種の劣等感。
「しかし」と高嶺の言葉を普賢象が受け継ぐ。「科学技術の進歩がなければ彼は生まれていなかった、だから頭ごなしにすべてを否定することもできない、しかし自分を不具者として生んだことには納得いかない面がある、そういう葛藤があって、今の大山さんの研究があるわけですね」
「そうだ」と目を細め遠くを見るように高嶺が言う。「大山さんは科学技術の進歩によって生まれた。それがよかったのか悪かったのかは彼自身分からないでいる。しかし、もしその技術が悪だとしたら……お豆くん」高嶺が私を見る。「君はさんざん生命操作を否定していたが、その技術が悪だとすれば、大山さんの存在自体を悪として否定してしまうのかい? んん?」
言葉もなかった。私は何も言えなかった。
二十分ほど経過して大山がロビーに現れた。いやあ、待たせてすまない、案内を続けよう、と言うその顔は、やはりどこか疲弊して見えた。見学のために私たちは立った。それから見学が終わるまで私は、大山の足の運びをじっと見つめていた。