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桜源郷  作者: 犬山 猫海
4/12

4 食事と食品加工物

4 食事と食品加工物


 地学教授の死より数日、高嶺は後任選びにちょくちょく呼び出され、時には自宅で学長からの電話を受けることがあり、その際はいつもどこか他人を見下している感のある高嶺も平身低頭、目の前に相手がいないのにぺこぺこと頭を下げ頭を掻き、「ごもっともです」「その通りですね」「いやいやさすがです」などと毫も思っていないであろう相槌を入れ、毎度「いやあ、学長のお考えは実に素晴らしい!」で締めるので私は笑いを禁じ得ず、しかし電話を切って後にその場に佇立していると高嶺の不機嫌な「学長の阿呆め! そんな能無しだから私の権威まで下がるんだ」という掌を返したような愚痴を聞かねばならなかったので私は電話の最中は席を外すようにしていた。

「豆さん」

 一葉が話しかけてきた。ほぼ毎日病院勤務で、休日出勤していないのは久しぶりだった。

「はい」

「申し訳ないのですが、昼に食べるお惣菜を何点かスーパーで見繕って、買ってきていただけませんか?」

「ああ、はい、分かりました、いいですよ」

「よろしくお願いします」

 一葉は丁寧に頭を下げ、居間へと戻りテーブルの前に座り新聞を広げ、その背筋は棒でも通したかのようにすっとまっすぐ伸びている。冷血、と形容するとあんまりかもしれないが一葉は人間界でも稀に見かけるクールビューティーであり、交わす会話もどこか事務的、もともとの性格なのか、それとも多くの患者と接しなければならぬがためおのずと感情の振れ幅が小さくなるのか、どちらなのか分からないが、冷血は夫である高嶺相手でも変わらない、同じ家に住んでいるが男女の情愛がにおう場面は皆無だった。

 お使いは何度か頼まれていたので私は惑うことなく共同財布からお金を取り出し、家を出た。

 昼前の往来は陽の光に溢れ、また休日ゆえに人で溢れていた。人口というか精の数はかなり多いらしく、「そりゃ君、桜は世界各地に生えているんだからね。ははっ」と高嶺は愉快に笑っていた。「こんにちは」と声が聞こえて振り返れば河津くんが立っていた。近所に住んでいる中学生である。私が高嶺の家で暮らし始めてから路上で見かける度物怖じせぬ性格で話しかけてきてくれ、語学の勉強にも付き合ってくれた。

「こんにちは」と私は軽く会釈した。

「お兄さん、どこへ行くの?」と言って河津くんは私の横に並んで歩く。

「近所のスーパーにね。お惣菜を買いに」

「お菓子買って」

「だめだ。これは高嶺家のお金だからね」

「そっか。えへへへへ」と河津くんが笑い、白い、少し前面に傾いている前歯が剥き出しとなる。私はこの男の子の親しみやすさ、あるいは訳もなく威張らないところを好もしく思っていたので、「河津くん」「ん?」「安いお菓子であれば買ってあげないことはない」と譲歩すれば河津くんは「やったー」と無邪気にその場で二度跳ねて見せた。私は、愛らしいな、と思いながら、以前よりのちょっとした疑問を尋ねてみた。

「前からの疑問に答えてくれたら、ね」

「えー、ずーるーいー」

「ははは」

「で、何? 疑問って」

「それはだね、君たちは光合成するのに、どうして食物からエネルギーを摂取するのかなって」

 私が尋ねると河津くんは「うーん」と腕組みし、頭を右に捻り左に捻り、呻吟のポーズを取ったものの出てきた答えは「分かんないや」だった。「そっか」と応えれば河津くんは目に見えてしゅんとしてしまい、私は思わず微笑んで、こう言わざるを得なかった。

「仕方ない、今回はサービスで買ってあげるとしよう」


 スーパーに入り、買い物かごを手に二人で惣菜売り場まで移動する。おそらくは私と同じような、お惣菜で昼食を済まそうという精たちが売り場に蝟集していて壁のようになっている、その隙間から惣菜を適当に見定め、お手伝いと称して河津くんに隙間から惣菜を引き抜いてもらった。それからお菓子コーナーへ河津くんとともに行進する。河津くんは実に楽しげに笑う。「安いお菓子以外はだめだよ」と言い添えると河津くんは体を捩じって笑った。

 お菓子コーナーには様々なお菓子が売っているのだが、人間界で言う駄菓子のようなお菓子も売っており、それはさすがに吝嗇に過ぎると思って「それ以外でもいいんだよ」と声をかけたのだが河津くんは大玉の飴、しかも藍色とでも呼ぶべき色の飴を選び、私はその毒々しい見た目に怯んだ。

「それは、美味しいのかな」

 南米アマゾンの矢毒ガエルや熱帯のヒョウモンダコに相通ずるその色に私が抵抗感を示すと、しかし河津くんは濁りなき眼で私を見つめるのだった。

「美味しいよ」

「でも……」

「普通に美味しいよ」

「しかし……」

「何が問題なの?」

「それは、人間にとってその手の色は、あまり食欲と結びつかないからですよ」

 と、どぎまぎする私に替わって回答を差し挟んだのは、先日地学教授と決闘を演じてみせた、たしか普賢象という名の学生だった。

 私は思わず身構えた。決闘を申し込まれるぐらいだからたいそうな無頼漢なのだろうと警戒したのである。が。

「そうなの? 美味しそうなのに」

「特に日本では、豆さんの住んでいる国では薄色というか、派手すぎない色が好まれますから」

「へー。桜源郷とは違うんだね」

「色遣いや色の意味や、あるいは色の見え方も、少し違うかもしれませんね。認知心理学の分野ですが、これは少し難しいかもしれません」

「うん、よく分かんない」

「そうですか、ははは」

 などと、普賢象は河津くんと澱みない会話を交わしているのであり、私は警戒心が少し薄れていくのを感じた。と、普賢象が私に向き直った。

「と、自己紹介が遅れましたね。僕は普賢象、豆さんのホストである高嶺教授のゼミ生です。人間界について学んでいるので日本語も話せます。『どうも豆さん、私は普賢象です。どうぞよろしくお願い申し上げます』」

 私は久しぶりの日本語に面食らってしまい、少し遅れて慌てて返した。「『ご存知のようですが私は豆です。よろしくお願いします、普賢象さん。でも、なぜ私の名前を?』」

「『なぜって、やはりあなたは有名人ですから。人間の客人はそうそう来ませんので、それが我が校に入校したとなると、学生で知らぬ者はないと思いますよ。あなたはあなたが思っている以上に有名人です。それに』」

「『それに?』」

「『あなたは決闘の際、高嶺教授のそばにいらっしゃいましたね? お見知りおきになりたく、会釈したものですが、さすがに気づかれなかったようですね』」

「『それは失礼しました』」

 と交わしたところで「分かんない!」と河津くんがお怒りの声を上げたので私は「ごめんごめん。こちら、同じ学校に通う普賢象さんだよ」と紹介すれば「それはさっきあのお兄さんから聞いた」と河津くんがあっけらかんとして返す。それから河津くんは思い出したように「あ、普賢象お兄さん!」と言った。

「なんですか」と普賢象が物柔らかに答える。決闘の物々しさからは隔たったその振る舞いに、私の中のイメージが修正されていく。

「なんで私たちは光合成のみで満足せずに、食物からもエネルギーを摂るのですか?」

「それはですね」と普賢象は河津くんから私に目を向ける。誰が質問の主なのか分かっているのだ。「必要最低限のエネルギーは光合成で十分に賄えるのですが、やはりすべての生き物の支配者たる桜の精は嗜好品をたしなまなければなりません」

「つまり、人間にとってのたばこや酒のように、必須ではないが余技で食んでいると?」

「そのように考えていただいて問題ありません。見栄から敢えて食事をしているわけです。植物は当然のこと、動物の肉だって食べます。……精によっては人間の肉だって、という脅し文句を高嶺教授から言われていたりしませんか?」

「ご明察です」私は膝を打ちたい気持ちだった。「それは来て最初の日に言われましたね。それが桜の下には人の死体が埋まっているという言い回しの起源だとか」

「僕たちゼミ生にも、まず初めにその冗談を言うのが恒例になっているらしいです。年若い教授だけに茶目っ気というか、気鋭と称すべき面がありますね」

「そして、どこか尊大?」と私が付け加えると、普賢象は「そういう面もなくはないです」と苦笑した。

「人間も、ある種富の象徴として食事を摂ることがあるでしょう?」と普賢象が仕切り直す。

「フォアグラやキャビアといった珍味は」私は返す。「その道のプロになれば意味ある配置ができるのでしょうが、ほとんどの場合はあなたの仰った見栄の類で食べていると思いますね」

「人間の食事も、純粋な美味しさ以外に稀少価値などの評価軸が導入されるように、桜の精も野菜やら肉類やら食べる必要のない物を食べることが、光合成に依らない生活がステータスになるわけです。我慢は敵で贅沢こそ奨励されるのです」

 これは小学校で習っているはずだけどね、と普賢象がわざと意地悪く付け加えると、河津くんは待っていましたとばかりに、てへっ、と愛嬌を見せた。

「しかし、エネルギーの取りすぎ、ということもあるでしょう?」と私はなおも普賢象に尋ねてみた。

「その通りです」と普賢象は、質問に正解した教え子を見る教師のように嬉しそうに頷く。「贅沢が美徳といえど、ただで成し得るものではありません、それには身体的にも金銭的にも努力が必要です。まず、エネルギーを過剰摂取すれば必然的に太ります。聞いた話ですが、以前桜源郷に体重が五百キロを超えた者があったらしく、その精はもはや自力で起き上がることもかなわず、さりとてそのまま寝転がっておれば床擦れや内臓逼迫で最悪死ぬので家族総出で寝返りさせてもらっていたらしいです、数時間おきに。彼女の日課は寝返りぐらいになったのですが、それでも食べ続けました」

「なぜ」と私は尋ねる。

「光合成に依らない生活が、贅沢が美徳だからです」

「しかし、それではいずれ死んでしまうでしょう?」

「そうです。仰る通り、彼女は若くして死にました。そうならないためには、贅沢と健康を並立させる方法、身体的労役が必要となるのです」

「運動?」と私が訊くと普賢象は首を振り、にこやかに言った。

「嘔吐です。この国の厚生省は食事後の嘔吐を奨励しています。食べて吐く。これにより、内臓諸器官を害することなく好物を欲しいまま貪ることができます。健康的生活は嘔吐により担保されたのです。ただ……」

「ただ?」

「この方法は実に合理的なのですが、どうしても通過せざるを得ない試練があって。それが嘔吐の際の苦しみです。こればかりはどうにもなりません」

「何もそこまでして、と思ってしまうのですが」

「あなた方人間の、特に足るを知れを美徳とする日本人には理解しがたいかもしれませんね、我々の掲げる、贅沢は美徳、というのは。しかし、贅沢というと、退廃的安楽だと考えられがちですが、実はやせ我慢の連続、これはこれで苦行なのです。当然金銭的にも辛い。贅沢のために一度上げた生活水準は、易々とは下げられませんからね。威厳、も大事な要素かもしれません、桜の精は誇り高いですからね。富めば富むほど出費もかさみ、引っ込みがつかなくなる。富める者として限界を超えて食べては嘔吐し、他にも、楽しくなくともさも愉快そうに遊興しなければならないのだから、やはり贅沢はやせ我慢の連続、ある種の苦行ですね。しかしそれでも贅沢するのがステータスであり、富める者にとってもはやある種の義務です」

 と、厠で大便がなかなか出ない時のような声が、お菓子コーナーの反対側のおつまみコーナーから聞こえてきた。普賢象が頷き、私は河津くんを従えて棚の角まで移動し、おつまみコーナーを覗き込んだ。

 ずんぐりむっくりの、小汚い服に身を包んだ男が、ミックスナッツの大袋とピーナッツの小袋を取り上げては戻し取り上げては戻し、悩んでいる。丁字だった。あれから幾度か丁字に会ったことがあり、その時に交わした会話のおかげで彼の性格は凡そ把握している。一言で言うと、嫌な奴、である。

「お知合いですか?」「まあ、高嶺さんの同級生です」「ああ、うちの研究室にも稀にいらっしゃるらしいですね。名前までは知りませんが」「丁字です」「丁字さん」「豪快と言えば豪快ですが、声がうるさく鬱陶しい奴とも言えます」「たいした嫌われようですね」「正直苦手ですね」と私が言うと河津くんが「丁字さんはいい人だよ!」と言った、その声が大きかったためか、丁字がこちらを振り返り、ナッツの大袋と小袋を手にこちらに歩み寄ってくる。「それなりにいい人だよ」と河津くんが小声で言い直した。

「おう、高嶺んところのお豆じゃねえかい!」

 丁字の大きな声と、どこか侮辱的に響く「お豆」という呼び方が不快で、私は「どうも」と軽く会釈してやり過ごそうとしたが「どこ行くんだい」と捕まえられてしまった。目の端で普賢象が目配せして去るのが見えた。

「どこも行きませんよ。ところで、丁字さんは何を?」

「買い物さ。酒のつまみをどっちにするかで悩んでたんだい」

 高嶺がミックスナッツの大袋とピーナッツの小袋をさかさか揺する。私は先ほど普賢象が語った金銭苦の話を思い出し、言ってやった。

「悩まずとも、両方買えばいいじゃないですか」

「両方……」と丁字は言葉に詰まり、「ふん、高嶺に養われて、いい気なもんだい、ったく」と忌々しげに言った。

「どうもすいませんね」と私も皮肉げに応じ、「安いほうを買えばいいんじゃないですかね」とちくり刺してやれば丁字は眼光鋭く私を睨み、おつまみコーナーへ引き返して棚に安いほうのピーナッツの小袋を戻し、再び私のもとへと来た。「無理しないほうがいいのでは?」と言えば「ミックスナッツが好きなんだい!」と丁字は語気を強め、それから「ぉほん!」とわざとらしい咳払い一つ、言った。

「それで、お豆、お前さんは何を買いに来たんだい、あぁ?」

 私は買い物かごを掲げ、「お惣菜です」と、見れば分かるでしょうというニュアンスも含めて応じる。

「なんだい、高嶺のパシリってわけかい? へっ、そりゃ結構じゃねえか」

「ですね」こういう時はなるべく腹を立てないように事務的にを心がける。

「あいつの家はよ、昼は出前か外食だったんだ、お前が来る前はな」

「そうですか」

「ただ、朝晩は嫁の一葉が作ることが多いじゃねえか、えぇ?」

「まあそうですね」

「お前は恵まれてんだよ、お豆」と、なぜか丁字が偉そうに胸を反らす。「お惣菜じゃなくわざわざ手間暇かけて作ってもらえるなんて、お前は果報者だよ」

 そういえば、と私は思った。「桜源郷は惣菜天国と呼ぶべきか、出来合いの食品がずいぶん多いですね」それからちょっとした嫌味と優越で「人間界は家庭で調理するのが一般ですがね」と付け加える。

「ふん」と牛のような鼻息を出し、丁字が答える。「そりゃ、この国じゃ食事に極力時間をかけないのが常識だからな、人間のほうが馬鹿なんだよ。と、普通の精なら答えるだろうな。ただ、オレは農家だからな、作った野菜が家庭にあまり届かず、ほとんどの精が野菜のありがたみを理解しない現状には歯がゆい思いをしている。おまけで農夫の地位も低く見られがちだからな」

「おまけのほうが重要だったりして」と私が言うと「なんだと!」と丁字は大声で憤激する。近くにいる客の何人かが振り向き、丁字は舌打ちした。日頃から高嶺に見下されている反動だろうな、と私は推測する。

「しょうがねえな、ったく」とくぐもり声で言って丁字は、「なら」と切り出す。「お前、工場の見学行って来い。知り合いに食品加工場やってる奴がいてな、そいつに頼んどくから、今度食品加工場の見学に行って、野菜のありがたみを実感して来いよ」

「ええ? いや、別に私は」

「なに、遠慮するこたぁねえ、オレが話つけといてやるから」

「いや、別に遠慮しているわけでは」

「なぁんだ、いつも高嶺と一緒じゃなきゃ、いやだってのかい? 大丈夫だ心配いらねえよ、そいつは高嶺とも知り合いだ、なんだったら高嶺に案内してもらえばいい。そうだ、それがいいだろ? 見学二人で話はつけといてやるよ」

 私が婉曲に断っているのを遠慮と解釈して、丁字は勝手に話を進める。そこで河津くんが「僕も行ってみたい!」と言い出し、丁字は喜色満面でさらに話を広げ、収拾がつかなくなったため私も行かざるを得なくなった。

 長話を終え河津くんのお菓子も買ってスーパーを出て家に帰り着けば正午少し過ぎ、しかし一葉は文句ひとつ言わず私から買い物袋を受け取った。昼食を待ちかねている高嶺に食品加工場見学の話をすると高嶺は「ああ、あの社長面か」と呟き、「君も変な話を受けてしまったね。丁字くんには気をつけろと言ったのに」と苦笑し、「ご近所の河津くんも一緒、か」とまた物憂げに呟いた。


 車で食品加工場に乗り付け、三人、まるで敵のアジトに乗り込む黒服一味のように建物に向かえば工場長が丁重に出迎えてくれ、私たちを中へと案内した。

 中は低温に保たれていて寒く、工場長は「申し訳ありません。温度を上げられたらよいのですが、なにぶん食品を取り扱っていますので、ご協力お願いします」と卑屈なまでに頭を下げ、私が「この人は、知り合いなんですよね。まるで上司と部下のようで、主客が転倒しているように思うのですが」と聞けば高嶺は「ははっ」と乾いた笑い声を上げ、「皆、とかく権威に弱いからね。私から言わせれば権威などくそ食らえだがね、ははっ」とそびえ立ったのだが私は最近の学長との電話の際の平身低頭ぶりを思い出し、思わず噴き出してしまった。「何かね?」「いえ」とやり取りしつつ中へ中へと進む。

 ここがソーセージ、ハンバーグ、こちらがコロッケ、などと紹介されるたび河津くんが「うわあ、すげえ!」と歓声を上げ、高嶺がそれを、いつもの嘲笑ではなく肯定的に微笑ましく見守っていた。

 設備としては人間界のそれとさして変わらない様子で、と言っても実物を見たことがないのですべてイメージでしかないが、しかし製造スピードが桁違いに速く、カットではその反動で具材が飛び散り、運搬レーン上にはうまく移動しなかった具材の垣ができ、床にも所々加工の軌道から外れてしまった具材が小さな山を形成していた。

「ここで製造された加工食品が多くの取引先に出荷されているのですが」と工場長が咳払いして言う。「ここの機械はわが国で二番目の製造速度を誇ります。三番目とは圧倒的に生産性が違うのです。この地域の食はこの加工場が支えていると言っても過言ではありません」

「一番じゃないじゃないか。だいたい、速度なんてものは機械を作った精が誇るべきであって君の手柄じゃないと思うがね」高嶺が聞こえないようにぼそぼそ呟いた。

「その二番目の速度の対価としてあのように」私は床や製造ラインのあちこちに飛び散った具材を指さす。「ロスが生まれているように思いますが」

「あなたは、失礼ですが、馬鹿なのですか?」

「え?」

「いえ、失礼しました、人間でいらっしゃいましたね。えー、桜源郷では速さが重要です。加工食品やスーパーのお惣菜が食卓の主流だというのは?」

「知っています」

「それはすべて時間の節約のためです。家庭で一から作るより加工場で大量に作ったほうが遥かに効率的だし、味も当たりはずれがなく均一になり、そして片付けに要する時間が段違いに減る。空いた時間を作ることが最も重視される中で速さに疑問を呈するとは、いやはや新しい視点ではありますな」工場長は含み笑いを笑う。

「君たち流に言うとTime is moneyってやつさ」と高嶺が囁く。「未だに時を操る術はないからね」

「この国では」と工場長が言う。「速いことが一番、時間の浪費こそが罪悪です。ささっと食べてささっと片付けささっと次の行動へと移る。それが正義です。当然、これは料理だけに限った話じゃない、精自身もそうです。流れに乗れない精はあの具材のように」工場長は私がやったように床などを指さす。「役立たずとして、ゴミとして処理されます。ゴミはゴミ箱へ、です」

「この国の道徳、三原則さ」高嶺が引き取る。「ゴミはゴミ箱へ。そう、ゴミはゴミ箱へ……」

 どこか弱々しく繰り返して高嶺が河津くんを見、「飽きないかい?」と尋ねれば河津くんは「チョコレート作ってるところが見たい!」とはしゃいでいる。私は轟音を立てている機械を見た。また流れに乗れなかった具材が、塊となって床に落ちた。



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