3 学校と決闘
3 学校と決闘
私は高嶺の家に引き取られ、客人生活が始まった。食事は人間界とあまり変わらず、テレビやインターネットや自動車に電車など、文明の発展具合も人間界と大差なかったが、なにぶん桜の精が皆私より一回り大きいので歯ブラシの尺や棚の位置など日用品の規格が合わず慣れるまで苦労した。
言語は違うものの古語と現代語程度の差だったため私はすぐに桜源郷の言葉を一通り習得し、こちらに来てから凡そ一か月後に人間界で言う大学のような教育機関に通うようになった。高嶺が教授として仕事をしている学校であり、「困ったことがあればいつでも来たまえ」と彼は言った。
私はまだ拙い言葉遣いながら桜の精の学生と列席し授業を受けた。
最初に驚いたのが、学校の所々に掲げられている三原則だった。一、ゴミはゴミ箱へ。一、全き個人主義。そして高嶺の言っていた、汝の欲するところを為せ。ゴミはゴミ箱へは当然として、後半二つは随分放埓というか、人間界の所謂道徳には抵触しそうな気がして、『汝の欲するところを為せ』に関しては初めの病院での高嶺との会話でどういう価値観かは凡そ掴んでいたが、全き個人主義に関しては言葉は分かるが理念が分からず、ある日の現代社会の授業後、教授に尋ねてみた。
「そんな単純なことが分からないのかい!」教授は驚いて頓狂声を上げ、しかしすぐに納得したように頷いた。「そういえば君は、人間だったね。高嶺教授から聞いているよ、人間は桜の精と慣習が違うからお豆くんが何か素っ頓狂なことを言うかもしれないが、その時は懇切丁寧に教えてやってくれと。悪気はないのだからね。さて、全き個人主義について聞きたいのかい?」
「はい。どうして全き個人主義を推奨するのですか」
「全体主義ほど危険なものはないからです。実に単純な話です」
「と言いますと?」
「そうですね……例えば……国のために国民は百円拠出してください、という命令、いえ、『お願い』が来たとしましょう。この場合お願いなので百円出すか出さないかは個人の自由です。しかし、全体主義の社会においてこれを断った場合、どうなりますか?」
「……白い目で見れるでしょうね」
「そうです。全体主義だと『みんなのために』が断れません。断って自由を貫き通せば制裁として社会的に死ぬことになります。あなたは百円を拠出しなかった吝嗇家だと噂を立てられ、行く先々で白い目で見られ、当然犯罪者ではないですから各種サービスは継続して受けられますがスーパーで買い物をすれば店員にぞんざいに扱われ、お会計すら困難かもしれません。最悪、客と見做されずサービスを受けられません。その際の断り文句は、直截に『みんなのために』動けない人にうちの商品は売れない、かもしれないし、婉曲に今日は臨時閉店なんです、かもしれない。『みんなのために』を断れば社会的に死ぬ可能性が高い。『みんなのために』は実質、断り得ないんです。その危険を避けるために我が国では全き個人主義を標榜しているのです」
「我が国、というのは、あの三原則は桜源郷全体で通じるものなのですか」
「ええ、そうです、桜源郷のどこの学校にも掲示されています。小学校では朝礼の度に教師に復唱させられ、そうして憶えていくのです」
「しかし、全き個人主義では社会が立ち行かないでしょう」
「まさか、そんなことはないですよ。小学生の頃は、多少野蛮ではありますから喧嘩が頻発しますが、しかしどこかでちょうどよい塩梅の協調が、調和が生まれるものです。個人主義を推進するとわがままによる決裂のみが待っているように思われるかもしれませんが、実態ではどこかで落としどころが見つかります。利害の一致というやつです」
「リバタリアン、のようなものでしょうか」
「リバタリアン? それは人間の制度ですかね、よく分かりませんが、とにかく、全体主義においては『みんなのために』が最優先されます。他人の迷惑になることが最も忌避されるがゆえに委縮して行動自体起きない、ここが全き個人主義による妥協点の見出しとの違いですね。全体のための我慢を美徳とすると、何事も我慢、とにかく我慢、悪い結果が生じてもしょうがない、仕方ない、忍耐だ、『みんなのために』忍耐だ、で済まされる。そのくせいざとなると自己責任で個人が切り捨てられる。それを、しょうがない、の一言で諦めないための全き個人主義です。今や全体主義は個人主義によって調伏された過去のシステムの亡霊です」
別の日に学生に同じことを尋ねてみても同じような回答で、この国にはこの三原則が根ざしているのだった。
学校には歴史の授業がなく、高嶺に尋ねれば高嶺はまた「ははっ」と軽薄に笑い、「君たち人間は未だに歴史に学べなどと言っているがね、そんなものは無意味だと我々桜の精は当の昔に知っている。下水管の定点観測とでも言おうか、管の材質は変われど流れるは臭い水、それが特別臭いかそうでもないかだけの違いだよ。時代、文明や技術は変わるかもしれないがね、その上を生きる我々の本質は変わらない、過ちを犯しては数瞬後に忘れ再び過ちを犯し、その繰り返しさ世の中は。それとも君たちはまだ『恒久の善』などというものを信じているのかね? それは美しい像なんかじゃない、自分の力量というものが把握できていない阿呆だよ」と説いた。また、「歴史を説く必要があるのはね、自分たちの行動をすぐに忘れる痴呆症の連中のみだよ。桜の精にはいちいち教授せんでも大地の記憶が備わっているんだよ」と説き、やはり「ははっ」と軽薄に笑った。
学校には、言語学、社会学、経済学といった文系科目と、数学、物理学、生物学といった理系科目が人間界と大差なく存在し、しかし中にはいくつか珍奇な授業もあって、分けても驚かされたのが自死学だった。自死学で取り扱うのはもちろん自死だが本当に死ぬわけではなく死ぬための知識とイメージトレーニングを行う。首吊りは鴨居に縄をつけてぶら下がるだけが方法ではない、ドアノブにベルトを云々、拳銃自殺は映画などで頻出するこめかみよりも顎下に銃を構え、発射の反動で銃口のぶれないよう両手でしっかり保持すること、割腹自殺には作法として介錯人を用意すること、云々、理論とイメージトレーニング以外にも実際に刃物で軽く腕を切る、十メートルの高飛び込みに挑戦する、二十秒間ベルトで首を絞めてみる、など、実戦寄りの授業もあり、いったい全体なぜこんなことをするかというとこの国では名誉が非常に重んじられ、何かどうしても受け入れ難い物事が身に生じた場合は自殺してもよい、いや、むしろ自死を推奨する考えがあるそうだ。いざという時に自殺できないと困る、というのである。私がこの文化について尋ねると高嶺は「まあね」と言い、「誇りもなく生きるのは、何より本人にとって苦痛だろうからね。君たち流に言うと、自分に誇りを持てなくなったら、誇りを持って死ね、というやつだよ、ははっ」と付け加えた。笑いは高く、どこか皮肉げに響いた。
ある日のこと、授業を終え、いくつか不明点を尋ねるために高嶺の部屋を訪れると高嶺は白衣を着た男と話し込んでいた。
「おう、お豆くん。また何か質問かい?」
と高嶺が言うと男が「お豆くん? ああ、これが噂の」と言って私をじろじろと見てきた。それがいささかぶしつけだったので私は少しむっとした。
「ははっ、お豆くん、そう警戒することはない」と高嶺は私を見て言う。「この方は生命科学研究所で研究員をやっている、大山さんだ。私と大学が同じでね、なにぶんいい加減な性格で、三回も留年していてね、――」
「四回だ」と大山が言った。
「四回もでしたっけ?」「四回」「あれ? 三留は」「豆。こいつと同じ名前」「ああ、豆か」「そう。あいつ最近何やってるんだ?」「知りませんね」「連絡取ってない?」「はい」「その程度の関係か」「はい」「酷いな」「ははは」
と笑って高嶺は再び私に向き直った。「大山さんとは新しい実験について語らっていたんだよ。そうだ、何なら暇なとき、生命科学研究所を見学させてもらったらどうだね? いい経験になるんじゃないか?」
「なんだい、うちの見学かい?」と、私が答える前に大山が鼻を鳴らす。「彼に見せて何か意味があるのかい?」
「ま、単なる興味です。お豆くんがどういう反応をするか、学術的興味があるんですよ」
「そんなもんかね。だったら予約を取らなきゃならないんだが……」
「何かまずいことでも?」
「見学日があるはずなんだが、いつだったか思い出せない」
「ははっ! さすがは大山さん、いい加減ですね」
「いやいや、業務に関係ないことは憶えていないだけだ」
「大山さんにゃ大学教授は務まりませんね」
「そういうのが嫌だから教授じゃなく研究員を選んだんだよ」
「本当ですか?」と高嶺は愉快そうに笑い、それから私に尋ねる。「それで、見学に行くかね、お豆くん。楽しいと思うが、ああ、運がよければついでに丁字くんにも会えるかもしれんよ、彼は私のコネのおかげで副業として実験助手を時々やっていてね、なんせ、頑強さだけが唯一の取り柄だからね。それで、どうする?」
「そうですね――」と、私が口を開いた瞬間だった。
ガーン。
空気を裂く大きな音がして、女学生の甲高い悲鳴が聞こえた。「拳銃だな」「ああ、誰だ」「賊でなければ教授の誰かだ。学生で銃を携行している者はないからね」と言い交わしながら高嶺と大山が窓へと歩み寄り、私も続いた。
外の広場では、たしか地学の老教授と、そして見知らぬ学生風の男が対峙していて、それを取り囲む人垣ができつつあった。高嶺は目を眇め、「あれは……」と呟き、即座に「行こう! いいものが見れるぞ!」と叫んで部屋を駆け出る。私も慌てて追いかけた。
広場に着く前から地学の老教授の怒鳴り声が聞こえてきていて、もう一度、ガーン、と拳銃の音がして取り囲む人垣から悲鳴が上がる。私は怯みながらも高嶺が退かないので追い、「待て待て待て! 君たち待て!」と人垣を平泳ぎのような手つきで掻き分ける高嶺の後について垣根の内側に出た。
やはり地学の老教授だった。片手に拳銃を持ち、「酷い侮辱だ! 絶対に許さないぞ! 決闘だ決闘!」とまくしたてている。相対する男子学生は言い訳もせずに無言で立っている。にやついている、ではなく、にこやかな笑顔で。
「なんですか、何の騒ぎですか!」
高嶺が二人の間に割って入ると「高嶺教授だ」「タカネーさんだ」と人垣から声が上がり、私のホストである高嶺は有名人らしい、いつもの偉そうな態度にも裏打ちがあるようだ、などと考えているうちに地学教授が駆け寄ってきて、「おお! 高嶺くん!」「どうも」「聞いてくれ高嶺くん、あの男が」「あの男とは、あそこに立っている――」「普賢象だ、あのヒヨっ子だよ! あの男、私の論文は読む価値がないと言いおった、もはや時代遅れの、研究費と時間の老廃物でしかないなどと抜かしおった!」「それはそれは。では、本人に確認を――」「確認? 確認! 私の言うことが信じられんのかね高嶺くん!」「いえ、そういうわけじゃなしにですね――」「あの男はわたしを侮辱したんだ! 私の書いた論文など、もはや時代遅れの、研究費と時間の」「老廃物でしかない、と抜かしたんですね?」「そう、そうなんだ! そこまで罵倒されて君、許せるかね? 私は奴に決闘を申し込むぞ、私の名誉にかけて!」「分かりました、では彼の言い分を確認して――」「確認? 確認! 私の言うことが信じられんのかね高嶺くん!」「いえ、ですからそうでなしにですね――」「あの男はわたしを侮辱したんだ! 私の書いた論文など、もはや時代遅れの、研究費と時間の」「老廃物でしかない、と抜かしたんですね?」「そう、そうなんだ! そこまで罵倒されて――」「だから決闘を申し込むんですよね?」「そう、そうだ、そういうことだ高嶺くん、分かっているならそこをどいてくれ!」と憤激して地学教授は銃口を普賢象と呼ばれた男子学生に向けた。
高嶺が慌てて立ち塞がる。「だから待ってください、とにかく決闘をするなら彼にも拳銃を持たせなければならんでしょう、落ち着いて――」「これが落ち着いてなどいられるか! あいつは私を侮辱して、私の書いた論文など、もはや時代遅れの――」「研究費と時間の老廃物でしかない、と抜かしたんですね? だから決闘を申し込むんでしょう?」「そうだ、絶対に許さんぞ! あの男は私を侮辱して――」という問答を二人が繰り返している間に、いつのまにか私の横に立っていた大山は「長引きそうだね」と呟き、「私の大切な時間を浪費するわけにはいかない。生命科学研究所の見学に関しては、考えておいてくれ、高嶺に言えば調整できるんでね。それじゃ、私は失礼する」と言い高嶺に挨拶もせず人垣を押しのけて去っていった。
高嶺と地学教授はしばらくああだこうだ言い合い、「分かりました、どうあっても決闘するんですね」「何度もそう言っているだろう! あの男は私を侮辱して」「そのくだりはもういいですから!」「なんだ高嶺くん! 君まで私を侮辱するのか!」「違います! とにかく拳銃を、私の拳銃を普賢象くんに貸して、一、二の三で二人に撃ち合ってもらいます、私は立会人をやらせてもらいます、いいですね?」「望むところだ!」「いいですね、普賢象くん?」と高嶺が普賢象に声をかけると普賢象はにこやかに頷いた。人垣から「おお!」「決闘だ!」「かっこいいぞ普賢象!」「やってやれ!」と声援が上がり、それに反応してまた地学教授が興奮しだした。
「こりゃ手におえん、お豆くん、私の部屋から拳銃を取ってきてくれないか、机の引き出しの中だ」
どこか嬉しそうな高嶺の呼びかけに私が「はい」と応じて駆けだそうとすると即座に「ちょっと待った!」と地学教授が叫んだ。
「なんです? まさか怖気づかれたのですか?」高嶺が口端を釣り上げて意地悪げに尋ねる。
「違う」と、地学教授は打って変わって冷静な口調で言った。「その、お豆くんとやらは、人間なのだろう?」
「ですが、何か?」
「人間!」と地学教授が叫ぶ。「そんな卑劣な生き物を信頼することなどできんね! それに――」
「お豆くんなら大丈夫ですよ、彼は日本国出身だから銃器を分解してどうこうする知恵なんぞありませんから。それに?」
「それに、そこの普賢象は、たしか君のゼミに出入りしているはずだ」
「なぜそれをご存知で?」
「君、その男は腐っても室町時代から続く名家の直系だからね、由緒正しき家柄、おまけに眉目秀麗頭脳明晰と来た。この学校でその男を知らん者はおらんのじゃないかい?」
「なるほど、それで、彼が私のゼミに出入りしていると、何がまずいんです?」
「えこひいきさ」地学教授の眉間に皺が寄る。「そんな優秀な学生を君も手放したくないだろう、それこそ、研究費と時間を有益に使って御大層な論文を書くだろうからね、数年後には。私だって教授さ、彼の有能さは分かっている。しかしその冷笑的かつ侮蔑的な態度にどうにも腹の虫が収まらんのだ」
「で、何が言いたいんです?」高嶺がわざと高みから冷笑的に言い放つ。
地学教授は目に鈍い光を湛えて言い返す。「君が、普賢象惜しさに決闘で彼の有利となるよう、小細工を行うかもしれないじゃないか。あるいは、銃に細工する可能性だって考えられる」
「やれやれ、じゃいったい全体、どうすればあなたは満足するんです?」高嶺は首を振り振り肩を竦める。
「第三者の立場の教授から拳銃を借りて、その者を立会人に決闘を行う」
「ははっ!」高嶺は笑い声を上げ、「まったく、年寄りは猜疑心とプライドばかり強くていかんね。人間界の『リア王』を読んで私は笑ってしまったがね、あの王ほど頑迷固陋な阿呆はこの国には存在しないと思っていたが撤回しよう、わが国にも近頃は老害が発生しているらしい。ははっ」と高嶺は私に囁き、「じゃ、人垣の中の学生を、よく知らん教授でも呼びにやるかね!」とやけくそ気味に叫んだところで「あいやしばらく」と落ち着いた声がした。
蓬髪痩身の、神経質そうな顔つきの男が、拳銃を片手に人垣から歩み出てくる。「ああ、染井さんじゃないですか」と高嶺の表情が和らぐ。染井と呼ばれた男は片手を挙げて応え、「私が立会人をやりましょう。拳銃も、私のを普賢象くんに渡します。それでいいですか」と澱みなく喋る。染井が普賢象に軽く挨拶し、拳銃を手渡すところを眺めながら「いいだろう、染井くんを立会人に、決闘と行こうじゃないか」と地学教授が言った。「染井くんは私の友人ですが?」と高嶺に聞かれ、「私の友人でもあるんでね」「彼の銃を検めなくても?」「大丈夫だ、染井くんの頭の中にあるのは音符のことだけだ、策謀なんて器用な真似はできんよ」と返して染井の号令のもと、地学教授と普賢象は拳銃を手に背中合わせに立った。
私と高嶺は少し離れた位置に移動する。
「やれやれ、老人の被害妄想で一時は収拾がつかなくなるかと思ったが、おかげで立会人にならずに特等席で高みの見物だ、ははっ」と高嶺が笑う。
「いいんですか?」と私は尋ねた。
「別に、あの老害教授がくたばったなら人員の補充をかければいいだけさ。実際、あの教授は普賢象くんの言う通りもはや盛りを過ぎた男でね、たいした生産性もない。死亡により退場していただいてもかまわないってわけさ。三原則の一つ、『ゴミはゴミ箱へ』だ」
「そういう意味で聞いたわけでは、というより、『ゴミはゴミ箱へ』はそんな意味なんですか?」
「そういう意味でも使える。『ゴミはゴミ箱へ』、実にキレのいい標語だよ。ま、私はそんな生産性がどうこうより、ただ単にお祭り騒ぎが好きなだけだがね」
「でも、生き死にをそんなに簡単に扱っていいんですか? あなたたち桜の精は、死ねば消滅してしまうかもしれないんでしょう?」
「だからなんだね? 永久に復活しないからやめろと言うのかね? だいたい、君たちの説く霊魂の不滅やら輪廻転生だって眉唾物だ。君たちの死後の世界への奇妙なまでの確信がどこから来るのか私はぜひ知りたいと思うがね」
「それでは決闘を始めます!」と染井の叫び声がした。声が裏返ったため観客が笑いさざめく。「本当にいいんですか?」と私が問えば「何が問題だね?」と高嶺が澄まして答える。
一、と染井が叫ぶ。二人が一歩進む。観衆が沸き、高嶺もにやにや楽しそうに笑って一寸も止める気配がない。「あの立会人は何者ですか?」と私は尋ねた。「音楽科の教授さ」と高嶺が答える。
二、と染井が叫ぶ。二人がもう一歩進む。声援と怒声とが聞こえる。私は緊張して気分が悪くなってきた。桜の精と雖も見た目は頭に枝の生えていること以外人間と変わらず、人間と人間が今から殺し合おうとしていると見ることだってできる、人間が銃で殺し合うなどフィクションの中でしか見たことがないし、死人を見るなら祖父を荼毘にふす時以来になる。なぜ周りが沸いているのか理解できない。「染井教授はこんな馬鹿げた決闘、やめさせないんですか?」と尋ねれば高嶺は「馬鹿げた?」と大仰に言い、いつも通り「ははっ」と吐き出すように笑い飛ばす。「君も、桜の精が名誉を重んじると習ったろう? 手酷くなじられたんなら決闘を申し込む以外にないさ、私だって研究費と時間の老廃物などと侮辱されたなら決闘を申し込まざるを得ない。桜源郷じゃ常識さ。ただ」「ただ?」「染井さんはわーきゃー騒ぎ声で研究を邪魔されたくないだけさ、ほら、音楽科の教授だから」
そこで、三、と染井の叫び声がして直後、銃声が二つ鳴った。皆が勝負の行方に目を凝らす。すぐに呻き声がして、地学教授が肩を押さえて地面に倒れこむ。「普賢象が勝ったぞ!」「ブラボー!」「これでレポートやらなくて済むぞ!」そこここで声が沸き混沌とし、興奮しすぎた観客の一部が普賢象に無遠慮に触り始めたところで「そこまで! そこまで!」と染井が叫んで場を収集しようと努めた、が、観客の一部は過熱、「これは横暴なる権威者よりもぎ取った、全学生の勝利である! 勲章である!」と騒ぎながら普賢象を担ぎ上げ、校歌を歌いながら胴上げまで始めた。「校歌なんてのは、権威者の象徴じゃないのかね、ははっ」と高嶺が私の横で小さく笑った、その時。
ガーン。
と再び銃声がして学生たちの悲鳴が広場に響いた。何事かと目を向けると、地学教授が地面にひっくり返り、銃口からは硝煙が立ち上っている。一同静まり返った。ぴくりとも動かない地学教授を眺めていると、顎の下と脳天から音もなく琥珀色の液体が、フォンダンショコラの中身の如くどろどろと溶岩のように流れ出した。「あれは?」と問うと「樹液さ」と高嶺はつまらなそうに答えた。再び学生が「自治の勝利である!」と沸き立ち、普賢象の姿は大勢の精に囲まれたちまち見えなくなってしまった。誰かが用意していたのだろう、酒瓶も塊に搬入される。
「お前らぁ!」高嶺が突然怒鳴った。円の外の数人が振り返る。高嶺が再び怒鳴る。「死体共々、後片付けはちゃんとしておけよ! 我々は世話せんから!」
さ、今日は帰ろうか、と高嶺が私に言う。私は何をどう答えたらよいか分からない。樹液を噴出させている地学教授と高嶺を交互に見てどぎまぎしていると染井がこちらに来て、高嶺に声をかけた。「やあ高嶺くん。拳銃を取られてしまいましたよ」
「大丈夫です、普賢象くんは優良な学生ですから。後で教授の部屋に返しに来ますよ」
「そうですか。では部屋の鍵を開けておくとして、それでなんですがね高嶺くん」
「はい」
染井は神経質そうに目元を引くつかせ、言った。
「どこか、ピアノのある、静かな部屋を知りませんか? この馬鹿騒ぎでは仕事になりませんからね」