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桜源郷  作者: 犬山 猫海
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2 私と桜源郷

2 私と桜源郷


 まるで水中に潜っているかの如くぼやりと輪郭がなかった音が次第に固まり始め、どこかに寝かされている私は目覚めかけの意識で恐る恐る目をゆっくりと開いた。誰かが私の顔を覗き込んでいて、私が半眼になった時点でひゅっと引っ込み、するとがやがや声がし始めたので私は顔を横に向けた。人間が四人、男が三人に女が一人、話し込んでいる。

 日本語によく似ているが違う言語で喋っている。いや、人間に見えたが決定的に異なる部位が一つ。頭頂部から髪の毛を掻き分けてすっくと立つ枝、その先端に咲く花。桜だ。

「やあ君、目が覚めたかね」

 私を覗き込んでいた男が、手近にあった椅子を引き寄せて座り、話しかけてきた。日本語だった。私は頷いた。

 男は横に立った女に何事か話しかけた。女が頷き何かすると、私の寝かされていたベッドに駆動音がし、介護用ベッドのように腰から頭部にかけてが持ち上がり私は座椅子に座っているような体勢となった。男が顎をさすりながら言った。「君は顎を殴られて失神したんだよ、失神。安心したまえ、死んだりすることはないから」

 私は顎をさすった。特に腫れてはいなかった。

 私の不思議そうな表情を見て、男は繰り返した。「失神。顎を殴られて失神したんだよ。私の言っていること、分かりますか?」

 すると、あの衝撃と閃光は、殴られたことによるのか。顎を打たれて、失神した、そういうことなのか。なのだろう。私はもう一度顎を手で確かめてから「はい」と答えた。

 他の男二人が「おー」というような感嘆を上げ、両者とも体つきはよいがそのうちの土臭い粗野な印象の男に私に話しかけている男が笑いかけ、それから私に声をかけた。

「君はこの乱暴な丁字くんにいきなり殴られて、と、そんなことは今はどうでもいいか。ぉほん。君はだね、意識と無意識の狭間を通って、私たちの住む桜の国、桜源郷にやってきたんだよ。私たちは桜の精だ。ほら、これ、この花」

 男は頭頂部の枝をつまみひらひら揺すってみせる。先端についているのはやはり桜の花だったのだ。とすると……

「とするとあなたは」私は尋ねた。「小学校に生えていた、あの、ソメイヨシノの精ですか」

「残念!」男は言ってへへへと得意げに笑い、「染井くんはこの場にゃいない。彼も来ればよかったのにねえ、芸術家なんてのには芸術さえできれば部屋から出ないってのがいるからね、もっと見分を広めたらいいのに。と、いい加減、自己紹介をしようか」と言って自分の胸を掌で小突いた。「私は高嶺と云う。人間研究の権威でね、国立大学で教授をやってるよ。三十八歳。三十代で教授やってる奴は他におらんよ、はは。で、日本語を話せるのも当然、私だけだ。見たまえ丁字くんの馬鹿面を」と粗野な印象の男にちらり目を遣り「彼に日本語を習得できるだけの知性があると思うかい? 彼とは小・中と同級生でね、それで付き合いがあるんだよ、でなければこんな未開人となんて過ごせやしないね。そう、先進的な我が国にも学校の同級生なんて横のつながりがあるのさ、唾棄すべきつながりがね。年齢の上下にもうるさい、特に年寄りはプライドが高くてかなわんよ。まったく、こんな因習、私がもっと偉くなったら廃させてみせるよ」

 粗野な印象の男が、高嶺の何を言っているかは理解できないながらも自分の悪口を言われていると察知したらしく、高嶺に何やら話しかけ高嶺も一言二言返し、それから言った。

「いやはや、私はすぐに脱線してしまう悪い癖があってね、そういう時は止めてくれると助かるんだが、なんて君に文句を言っても始まらない、まずはここにいる他の精の紹介と行こうじゃないか」

 高嶺の紹介によると、前後の話から把握はしていたが粗野な印象の男の名前が丁字、ずんぐりむっくりとして埃っぽい彼の職業は農夫で、私を殴り倒した後で半分パニックになりながら高嶺に連絡を入れたそうだ。

 もう一人の体つきのよい男、太っていながら小奇麗な印象で終始にこやかだった男は大島と云い、政治家とのことだった。彼は紹介が終わると、時計を見て、高嶺に何か言って退室していった。

 唯一の女性、凛とした印象の人間でいえば美人の女は一葉という名前で医師、さらには高嶺の妻とのことであった。

 私は、と私が名乗ろうとすると高嶺は制して、「桜源郷に来たからには桜源郷に似つかわしい名前を与えよう」と言い思案して、やがて大仰に手を打って見せ「豆。君は豆と名乗りなさい。私は君をお豆くんとでも呼ぼう」

「豆、ですか」

 私は呟いてみた。豆。頭にはおかずとして食卓に上る煮豆が思い浮かんだ。いかにも小さく矮小な印象だ。

「なぜ豆なんです?」

 私の微かに尖った声に高嶺は余計に上機嫌になった様子で、「なぜって、実際小さいからだよ。見たままさ」と答えた。

 桜の精たちは確かに背が高く、女性である一葉でさえ百八十センチ近かった。私が人間としてやや低めな身長であることを鑑みれば彼らからすれば小さく、豆、なのかもしれない。身長に関して豆なのだろう、と私は自らに言い聞かせた。それからもう一つ、気になっていることがある。

「その」私はまず高嶺に、それから一葉と丁字に目を遣り、また高嶺に視線を戻した。「少し、視線が気になって」

「うん」とだけ高嶺は言った。

 しばらく黙しても意図を読み取らなかったので私ははっきり告げた。「その、視線が気になるので、高嶺さんと二人っきりで話がしたいのですが」

 すると高嶺は「ははっ!」と哄笑し、「君たちは花見と称して我々を無遠慮に眺めるくせに、関係が逆転したらこの有り様だ。まったく、君たちは時に小便までひっかけるんだから、どんな教育を受けているのやら」と首を振り、医師の一葉は同席したほうがむしろ君も安心だろう、と言う。丁字はと問えば「はは、何、おまけだよ」と鼻で笑った。

「分かりました」

 逆らおうにも逆らえない、私は殊勝に頷いてみせ、それから少し、天井を眺めてみた。木造建築で、流れるような木目は人間界で見るものと同じだった。

「杉ですか?」私は尋ねた。

「ん? ああ、杉だよ、美しい木目だろう。ここを建てるにはさすがに稼いでいる我々夫婦でも借金をしてね。もう返済したがね」

「あの」

「なんだい?」

「杉は、木ですよね」

「はっはっは、殴られて頭でもおかしくなったかね、そりゃ杉は木だ、木に決まってる」

「その、同じ木と言いますか、同類殺しと言いますか、どうせなら桜の木で――」

「ははっ! こりゃ、本当は丁字くんは脳天でも殴ったんじゃないかいと思うようなすっとぼけぶりだね。いったいどこに同胞で建築物を作る奴がある? 恐ろしいね、残虐な人間の発想だよ、君たちは仲間の骨を建材に使うのかね?」

「それは、しかし木は木でしょう」

「君は、杉のことを言っているのかな?」高嶺が目を細める。

「はい」

「とんでもない!」高嶺は大げさに両手を上げ肩を竦めました。「杉が同類? あんなまっすぐ伸びるぐらいしか能のない木と一緒にしないで欲しいね、悪い冗談だ。檜が同類? 欅が? 白木が? まさか。格が違うんですよ、精を生み出せない他の木々とは。そうだな……君たち人間は、唯一の知性の持ち主を標榜しているね?」

「はい」

「私たちの存在を考慮すれば実に滑稽なことだが、とにかく、我々と他の木々との関係は君たちで言う人間と他の生き物の関係さ。支配者と被支配者。いくら犬が愛らしいからといって、人間と同等と考える者はほとんどいないだろう。中には格下の生き物の死に滂沱の涙を流す者もいるらしいがね君たちの中には、我々からすればまったく理解不可能な感情だが、いいですか、桜はすべての木々の頂点に立つ者で、絶対的支配者です。他の木々はただ桜に消費されるためのみに存在している。ま、この国の建築物はほぼ木造なんだがね、それは実用というより富や強さの証なのさ。あとは娯楽かね。君たちが毛皮で着飾ったり、鹿の角を頭ごと飾って観賞用としたり、ペットや盆栽と称して他の生き物の生を占有するのと同じだよ」

「占有だなんて」

「占有だよ。支配者面で好き勝手やっているじゃないか。万物の霊長、だろう? 万物の霊長! くはは、面白い考え方だ」高嶺は首を振りながら笑っている。

「しかし」と私は語気を強める。「人間は万物の霊長として、節度ある――」

「節度ある!」

 高嶺は即座に私の言葉を受け、一拍置いて話し始めた。

「そこが我々と君たち人間の違いだよ。君たちは、なんだっけ? 万物の霊長だったかな? なんちゃらの霊長として節度ある行動、支配、を提唱しているらしいがね、桜の精は、君たち流に言うと木々の霊長たる桜の精は、徹底して他の木々を支配する。好き勝手する。伐採だろうと群落に火を放とうと、加工して生活用品として使用しようと、すべて欲望のままだ。汝の欲するところを為せ。我々桜の精は君たちのように変に善人ぶって守れもしない節度などを唱えることはしない、思うがままに他種族を支配せよ、欲望のままに搾取せよ、これが桜の精の生き方さ。そう、例えば」

 言葉を切って高嶺が少し前のめりになる。

「万物の霊長たる人間を食す。それも刺激的でいいじゃないか。当然、人間が特別で食べてはいけないなんて考えは我々にはない。ちょうど腹が減ってきたんでね、君を食べてみるのもいいかもしれない。君たちの間にもこんな文句があるじゃないか、美しい桜の下には死体が埋まってる、ってね」

 私は、ぞくりとした。彼らが私を生かしている理由などない、彼らが彼らの思想に沿って私を食べてしまっても何ら不思議はないわけで、高嶺との会話ですっかり気を許していたが、彼らはいわば恐ろしき妖怪なのだ。

 高嶺が、立っている丁字に声をかけ自分も立ち、二人で私に迫ってきた。私はベッドの上で身を固くしていることしかできなかった。「うわああ」と情けない声が出た。すると。

 二人は一時停止を押したかのように静止し、それからすっと体を元に戻し、大声で笑いだした。高嶺と丁字が何やら言い交しながらお互いの体を叩いている。理解できないので佇立している一葉を見ると、彼女は退屈そうに小さなため息をついた。

「いやあ、はっはっは、すまんすまん」まだ笑いながら高嶺が再び着席し、私に話しかけた。「つい出来心で。芝居さ芝居」

 高嶺は笑い止んだがまだ頬に笑みを残し、丁字はまだ哄笑していて、なかなか理解の追いつかなかった私も次第に体の緊張が和らいで、すると弄ばれた怒りがぐらぐらと水の沸騰のように沸いてきた。

「桜の精とは、ずいぶん人が悪いのですね」

「ははは、人が悪い、ね」高嶺はまだ笑っている丁字にひと声かけて静かにさせ、少し呆れたように言った。「君たちだって、踊り食いだのハンティングだの、享楽的に他種を食しているように思うがね」

「それは、文化ですから」

「文化ね。なんでも文化なら許される。ならば我々も人食いを文化として奨励しようかね、桜の木の下には死体が埋まっているという伝統的言い回しがあって、などと言って。万物の霊長を食すんだから、これほど革命的で権威ある行いもないだろう」

「野蛮ですね」

「はっ。誰が野蛮だって決めるんだね? 知性ある者が知性ある者を食べると野蛮なのかね? 君たち人間は考えが追いつかなくなるとすぐ野蛮という言葉を持ち出す。定言的命法だとか、もっと論理的に説明して欲しいものだね、思考の怠慢さ」

 私は高嶺をねめつけた。高嶺はまるで分別ない子犬が吠えかかるのを眺めるような目でつまらなそうに私を見る。私も引くに引けず睨み続け、饒舌だった高嶺も突然黙して根競べだ。退屈して丁字が大口開けて欠伸した。私は弛緩せずになおも睨み続ける。高嶺はにやにやして一言も発しない。

 柱時計が、ぼーん、ぼーん、と鳴った。一葉がぽそぽそと高嶺に何か告げた。高嶺が大きく鼻から息を吐いて、口を開いた。「たしかに、客人をあまり脅かしすぎてもいかんね。失敬、お豆くん、人間界からの訪問者は稀でね、ついつい私も興奮してしまったみたいだ、悪かったね。桜源郷に迷い込んだ君を、我々は保護する。しばらく君は私と一葉とともに暮らし、この国の言語や文化について学んでもらう。先に言っておくが人間界に戻る道はない、残念ながら。君は客人として普通に生活していればいいんです、OK? ほら、君たち流の仲直りの合図だ」

 そう言って高嶺は穏やかに微笑み、手を差し出してきた。握手を求めているのだ。その態度に何か裏があるとも思えず、たとえあったとしても非力な私にはどうしようもなく、終始落ち着いた態度の一葉も小さく頷いたので、「もう手荒な歓迎はなしでお願いします」と笑顔で嫌味を添え私は高嶺と握手した。高嶺の手は存外柔らかかった。

 高嶺は一葉と言葉を交わし、一葉はきびきびと部屋を出て行った。丁字もそれを見て部屋を後にした。

 高嶺は再び私と向き直った。「一葉には帰宅の準備をさせている。家までは車だから足腰の心配はしなくていい。あと数分かかると思うが、何か質問はあるかね?」

 私は少し考えてから尋ねた。「ところで、桜の精とは、魂のようなもの、なんですか?」

 私の言葉に高嶺は愉快そうに肩を揺らす。「実は、我々の正体は我々自身でも解明しきれていなくてね、一応、人間界で成長した桜の木に『魂のようなもの』が生まれ、桜源郷に現界する、と言われている。そう、『のようなもの』なんて実にあやふやな言い方でね、桜源郷はある種の形而上の世界とも言われるが、真相は定かではない」

「桜の精は、死ぬんですか?」

「ははっ、物騒なことを聞くね君は。頼むから殺さないでくれよ。もちろん死ぬさ。精だから死なないという道理はない。まあ、自殺志願者予備軍の芸術家連中は人間の信じる魂の不滅など不幸でしかないと言っているね、終わらない娑婆苦、それならば死こそが、消滅こそが幸福だと彼らは信じているよ。私は別段人生をそんなに大仰には考えていないがね。学者の中には桜源郷で死んだ精は人間界に生じ、何年かして再び桜源郷に復帰する、なんて循環輪廻思想を唱える者もいるがね。そういえば君たち人間は、死後の世界として八大地獄なんて用意していたね。地獄なんて出鱈目に違いないが、人間の苦に対する感受性、想像力は実に豊かだと驚嘆するよ。私たち精では針山やら血の池なんぞ思いつきゃしない。そのくせ幸福の象徴である天国は一か所で具体的なイメージはない。人間は幸せを知らない苦しみたがりの集合かもしれんね。汝の欲するところを為せ、欲望を肯定する我々に死後の世界があれば天国こそ無数にあるだろうがね」

 ノックの音がしてドアが開き、一葉が戻ってきた。高嶺と一言二言交わし一葉は、私に薬らしき小さなカプセルと水を差し出した。「痛み止めだよ」と高嶺が言う。私の脳裏を毒のイメージがちらりよぎったが私はそれを受け取り、飲み下した。「さて」と高嶺が頷いた。「車まで歩いてもらうが大丈夫かね? 院内にはエレベーターがあるからたいして歩くこともないが」と問われ私は大丈夫だと頷いた。二人の前で立ってみせる。足元はふらつかなかった。「行こうか」と言う高嶺について歩いた。顎に蟠る鈍痛が、早くも和らいできているような気がした。



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