12 帰還と現実
12 帰還と現実
もうすぐ四月、巡り巡って春になった。
街路樹にも公園にも桜の木は植わっていないが道を行く桜の精たちはそわそわと落ち着きがなく、毎日がハレの日のように浮足立っている。
しかし私はその真逆、完全に消沈していた。可能な限り早く、この国を去りたいと思っていた。
「桜源郷を去る?」ははっ、と高嶺は私の問いを笑った。葬儀中普賢象の言葉で倒れた高嶺は、一葉によると貧血で事済んだらしい。精神力が強いため大事に至らなかったのだと言う。「桜源郷を去るってったって君、この国には出口も入口もない。残念だが、故郷恋しくとも君はここから出て行かれないよ」
「でも」と私は反駁した。「この国の精たちは人間界侵略を企んでいるのでしょう? なら人間界への入り口があるはずです」
「それは……」高嶺は絶句し、やがて覚悟を決めたように「どこで聞いた?」と私に尋ねた。私は普賢象からと答えた。高嶺は「侵略の話を聞いてしまったか」ううむと唸り、「何、人間界に行く方法はないわけではないがね」と言う。
「どうするんです?」
「我々桜の精は」と高嶺は強調しておいて語る。「人間界に大樹として生えている者も少なくない。彼らには人間界で活動するための肉体があるんだ。だから意識だけ人間界に飛ばせば自由に動くことができる、という仕組みさ」
「やっぱり、侵略するつもりだったんですね」
いつだったか大山と生命科学研究所で話した時、桜の精一種が統べる世界、などと言っていたが、やはり人間でさえ絶滅させようという魂胆だったのだ。あるいは精の支配下に置く。映画館で広告していた戦争映画も、その雰囲気醸成のためだろう。
「ま、ばれてしまっては仕方ない。ばれたところで君にはどうしようもないがね、ははっ」と高嶺は笑い、「というわけだからお豆くん、君は喜ばしいことに客人として桜源郷に迎えられた。だから安心して日々を過ごせばよいじゃないか、そうだろう?」と言う。
私は首を振って家を出た。一葉の「いってらっしゃい」の声も絶えて久しい。初めから高嶺は一人で暮らしていたのではないかと感じる時もある。ここのところ高嶺はだいぶ精神的に持ち直し、またいつもの余裕綽々嘲笑的態度が戻ってきていた。
学校には行かない。普賢象と顔を合わせるのがとにかく嫌だった。与太だが深山は普賢象にすり寄ろうとしているらしく、おそらくはあの悪意の塊にひどく傷つけられて彼女の恋は終わるのだろう。
往来を歩けば桜の精とすれ違うわけで、今まで彼らに取り立てて嫌な思いは感じてこなかったが、いずれ人間界を侵略しようとしているのだと思うと不思議と憎く思え、憎くまではいかなくとも条件反射的に嫌悪感を覚え、時々見かける河津くんさえ打ち解けることが容易でなくなり、彼が早くも受験勉強で外出を控え出会う機会が少なくなったことが却って嬉しく思える。好いていた精を嫌いになるのは辛いものだ。
高嶺の車無ければ特に行く場所もなく、私は時間潰しで近場にあるスーパーに入るのが習慣となっていた。人間何もかもにうんざりしても食欲だけは旺盛、なのかもしれない。
「おう、お豆じゃねえか」
スーパーに日参していると、そこに野菜を卸し自らも買い物していく丁字に出会うこと頻繁となり、つまらない話をすることが常だった。
今日も今日とて世間話をしていたところ丁字は突然言葉を止め、それから言った。
「お前さん、やっぱり疲れてるんじゃねえかい?」
「そうですかね」
「そうだよ。いつぞやの高嶺みたく弱り切って見えるぜ。何か悩み事でもあるんじゃねえか、ええ?」
私は言っても無駄だと判断して今までこのところの事情を喋っていなかったが、丁字が妙にしつこく尋ねてくるのとやはり心が弱っていたために、この国が甚だ嫌になったのだと語った。
「この国が嫌になった……」丁字は目をしばたたかせ、「そうかい、それは残念だな」とひとりごち、「……学校には行かないのか?」「行かないですね」「その、普賢象言う学生に会いたくないからか?」「ええ」「そうかい……家にいるのも嫌なのか?」「高嶺さんとつまらない当てこすりをしてしまいますから」「そうかい……」と言って丁字はブラシのような顎髭をさすり、それから神妙な顔つきで私に耳打ちした。
「もしかすると、お前さんを、人間界へ、送り返してやれるかもしれねえ」
いきなり頬を張られたような驚きで、私は丁字を見る。丁字は目を左右に飛ばし、ここでは言いづらいと頷きで示す。私は頷き返し、二人でスーパーを出た。
丁字が意志的な足取りでどこかに向かい、私も彼の横に並んで歩く。丁字が声を潜めて言う。「オレなら、もしかすると、お前さんを人間界へ送り返せるかもしれねえ」
「どうやって」と私は焦れて尋ねる。
「出るには、入ってきた時と同じことをすれば、いいんじゃねえか?」
私は言っている意味が分からない。「どういうことです?」
「つまり、あれだ」と言って丁字は腕を振り拳をぱしぱし叩いてみせる。
そういうことか、と私も意味を察した。
「でも、それで帰れる確証が、あるんですか?」
「そんなこと分かんねえよ」丁字は言い淀む。「けど、何もやらねえよりかは……帰りたいんだろ?」
考えるまでもない。……痛みに関しては考える必要がありそうだが。
「お前さんは、川のよ、普段はちょろちょろとしか流れてない川のそばにいきなり現れてな、オレは突然のことに驚いてお前さんを殴り倒しちまった。今、そこの川に向かってる。向かってるんだが、確証はないが、そこで殴れば、来た時と同じようにすれば、元の世界に帰れるんじゃねえかって思うんだよ」
通りを離れ、家々が疎らになってくる。
「やってみます。とにかくもう、拳の痛みに耐えるぐらい我慢してでも、ここを去りたいです」
「そうか。そんなに桜源郷が嫌になっちまったか……」丁字は寂しそうに目を伏せ、「お豆とは、今までそんなに仲は良くなかったが、帰るってなると寂しいもんだな。オレは初耳だったんだが、侵略するだのどうのってのが嫌になった決定的理由なのかい?」
私は言葉を発しようとして、警戒して口をつぐむ。こいつは探りを入れているのかもしれない。家が途絶え、舗装されていない道の両脇は背の低い雑草の生えた草原となる。
「おいおい、スパイとか警戒しないでくれよ」丁字は警戒されたことに驚いた、というように両手を広げて瞼も広げてみせる。「オレは侵略だのよく知らないし、だいたいオレはただの農家だ、何がどうなろうと野菜を作ってそれを卸す以外能はねえ、そういう点ではお豆同様オレ一人がどうこうできる話じゃねえよ」
少し考え、それもそうかと思ったので私は頷く。丁字は嬉しそうに頷き返し、それから私と丁字に関する思い出話をこちらに振って来る。わずか一年程度の出来事なのにどの話も懐かしく感じられ、私は桜源郷を去りたいと言いながらどこかに郷愁に近い感情さえ抱いているのだと気付く。
やがて丁字が、この辺か、この辺か、と言いながら草原の中へ入っていきいろいろ角度を変えて検分し始める。この辺か、という言い回しに若干の不安を感じながらも私は丁字を信じるしかない。
様々に閲していた丁字がやがて「よし、ここだろう」と言い放ち、一つ所に立ち止まった。
私は頷き、丁字のそばに寄る。
「お前さんと会えなくなると思うと名残惜しいが、準備はいいぞ」
丁字が右拳を掲げ、ふぅ、と下ろしたそれに息を吹きかけ構える。
私も、ふぅ、と大きく息を吐き、小さくさようならと告げて目を閉じた。
丁字の小さなさようならが聞こえ、それから顎に強い衝撃を感じて私の視界は真っ暗から一気に真っ白となりそのまま光に包まれた。
目を開くと、私は桜の木の下に寝ていた。少し冷えるが桜源郷を訪れた日ほどの寒さは去っていた。雀たちのちゅんちゅん鳴く声が聞こえる。じんじん痛む頬を触ると虫歯の劇画的に腫れている。私はゆっくりと起き上がった。すでに登校時間を過ぎていたのだろう、私の目は、朝の朝礼へとグラウンドに集合する児童の目と、合った。
児童の顔が引きつり、驚きに開口するのが、見えた。
※
「それから?」
「丁字の奴がお豆くんの帰国に手を貸してやったらしくてね、まったく、余計なことをするんだから。頭が悪いんだから大人しく畑ばっかり耕していればいいものを」
「丁字さんが、かつて豆さんを見つけた場所で、思いっきり豆さんを殴った、と」
「右ストレート一閃さ。かわいそうにお豆くん、ここに来る時も帰る時も殴られて」
「つくづく、運がないんでしょうね」
「ははっ、運がない。まさにその通りだね。人間界に戻って彼、どうなったと思う?」
「詳細は分かりませんが、どうせろくなことにならないでしょうね」
「まさに。彼は小学校の桜の木の下で目覚めてね、さっそく不審者として通報されたんだ。そして駆けつけた警察に桜源郷のこと、それから桜の精が人間界侵略を企んでいるから全国の桜を切るんだと言ったらしい」
「鬼気迫る調子で、ですか?」
「そう、鬼気迫る調子でね、ははっ。それで、どうなったと思う?」
「狂人扱い、ですね」
「そりゃそうだ、人間界で私たちのことを口にしたところでいったい、誰が信じるというのかね。しかしだ、それ以上に面白いのはだね、狂人と判定された彼の病名だよ。なんだと思う?」
「狂言病……なんて病名はなかったと思うのですが……なんでしょうね」
「人格障害さ! ふるってるだろう? 人格障害、わざわざ人間のためを思って言っているのに人でなしと認定されてしまったわけさ、ははっ」
「オチとしては申し分ないですね」
「ところで普賢象くん、君は人格障害について、お豆くんのは演技性人格障害らしいんだがね、その診断理由に一つ、面白い項目があるんだが、なんだと思う?」
「……さあ。不勉強のため人格障害の診断基準は知りませんね」
「ははっ、そんなもの、私でさえ知らなかったよ。いいかい、人格障害の診断項目の一つがね、『平気で嘘をつき、悪びれる様子がない』なのさ。どうだい、すごいだろう」
「それは、凄いというか、その診断基準で行くと人類皆人格障害で病院送りになるのではないでしょうか?」
「まったくだよ。となると、人間界は人格破綻者ばかりが往来をうろついていて、お豆くんのように少しまともな人物は皆病院の中で暮らしているのかもしれないね」
「人類の九割が犯罪者、と言っても良いかもしれませんね。まあ、往々にして自ら悪魔を名乗る人間ほど罪の意識があるので、世を謳歌している自称『善良』な市民よりしばしば善良であると、どこかで聞いたことがあります」
「ま、いずれにせよ、お豆くんは運が悪かった。桜源郷でも人間界でも異邦人扱い、どこにも彼の居場所なんてなかったってことさ、ははっ」
「なんせ人格障害ですからね」
「そうそう。しかしだ、彼は小学校の頃の夢を叶え損ねたね」
「夢?」
「お豆くんは小学校時代、英雄になりたかったそうなんだよ」
「英雄、ですか」
「そう、英雄にね。我々桜の精が侵略する気だと触れ回って、信じてもらえたならば彼は救国の英雄になれたかもしれないね、ははっ」
「ははっ、そりゃ残念ですね」
「だろう? はっはっは」
「ははは」
「ははは」
「ははは」
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