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桜源郷  作者: 犬山 猫海
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10 医学と病気

10 医学と病気


「応急処置は済ませたので、ひとまず、染井さんが起きるまで待ちましょう」

 見ていかれますか?と一葉が問うので私は首肯した。では、と一葉が病室に案内してくれる。白い清潔そうなシーツの敷かれたベッドの上に染井が仰向けに寝ている。私はそれに桜源郷へ来たての自分の姿を重ねたがよくよく見なくとも頭頂部から生える枝が私と彼を完全に分かち、今その枝は根元まで透明なビニール袋に覆われている。小学校でやった光合成の実験を思い出した。

 染井が救急車で運び出されるのに私と普賢象は同乗し、着いた先は偶然にも一葉の勤める病院だった。相変わらず多忙そうに見えた一葉は実はさして忙しそうでもなく、私たちの相手を務めてくれている。

 一葉の言うには染井は天狗巣病に罹患している恐れが高く、胞子を飛ばすことにより空気感染する危険性があるので枝に袋を被せて密閉している、とのことだ。

「通常であれば」と一葉は言った。「死に至る病ではないですが、あとは染井さんがどのように反応するか、です」

「と言うと?」と私が尋ねると一葉はしばらく考え、「怪我は傷から、ですが、病は気から、なので」と答える。よく分からないので普賢象に目を遣ると、彼はにこやかに微笑み、「百聞は一見に如かず。一葉さんの診察風景を実際に見てみるのはどうでしょう?」と提案した。「……かまいませんが」と一葉は言い、染井が目を覚ますまでの間、私は普賢象にサポートしてもらって一葉の診察に立ち会うこととなった。

「お入りください」

 診察室の安楽椅子に座り一葉が声を張ると、一人の桜の精が入って来た。おどおどしてはいるが顔つきは健康そうである。「どうも」と小さく口にして一葉と向かい合う椅子に腰を下ろす。

「今日は、どのような症状で?」「その……明確な……主訴はないんですけども……どこかこう、漠然と体調不良な気がしていて……」「熱は?」「平熱です」「体に痛みは?」「特にないです」「何か、頭痛がするとか、咳・痰が出るといった症状は?」「ないです」「枝ぶりや花に異常を感じたことは?」「ないです」

 云々。何を問うても異常はないと答え、一葉が血圧を測ったり枝を診たりしても何の異常も見当たらない。小さく息を吐き、一葉が言った。「どこも異常ありませんね」

「そんな!」吉報にしかし患者は食ってかかるように立ち上がる。「とにかく体調不良なんです! どこが悪いとは、素人には分かりませんが、実際どこかが確実に悪い気がするんです。いえ、確実にどこか悪いんです!」

「分かりました。いったん落ち着いていただいて」と一葉がいつもの冷静な口ぶりで言うと患者は椅子に座り直す、そこで一葉が言った。「あなたは最近、健康というものが気になってしょうがないことは、なかったですか?」

「そ、そうなんです!」患者は再びいきり立ち、しかし一葉のハンドサインに従い再度着席し、今度は青ざめ始める。「なんだか、テレビやネットで健康情報を見ているうちに、自分がいろんな病気に適合しているような心持になって来て、だんだん不安になって来て、あ、夜はしっかり眠れるんですがね、あ、でも、時折寝つきが悪いことがあります、寝入るまで三十分近くかかることがあったりして、それで、何かしら悪いんじゃないかと思い健康関連の情報を収集すると、どれも当たっているようで外れているようで、やはり素人には病名など当てようがなく、そこでここに来たわけなんですが、いったいこの不快感は何なのかと私はそれを思うと今日まで、いつもより睡眠の質が悪くなったような――」

「分かりました」一葉は澄んだ声で患者の発言を止め、少しだけ目を細めて細く冷たい声で言った。「あなたは、健康強迫症とみて間違いありません」

 はっ、と患者の息を呑む音が聞こえ、「健康強迫症……」と繰り返し、それから「なーるほど。通りで」と患者は膝を打って喜んだのであった。

「過剰な情報に暴露されたせいで」と普賢象が私に耳打ちする。「健康であることに不健康であるほど敏感になっている精が、相当数いるんです。健康を意識するうちに自らがどこか健康から外れていると錯覚し始め、その原因を病に持っていきたがる。だから却って病気だと言われたほうが嬉しいんです。原因が分からないよりは分かっていたほうが、対処のしようがありますから」

「となると、あの桜の精は、本当は健康体だということですか?」

 私の問いに「いいえ」と普賢象は答え、「自分が健康ではないのではないか、そう強迫的に考えてしまう時点でやはり不健康なのだろうと思いますよ」と微笑む。

 症状について熱心に聞き込みメモを取る患者に対し一葉は淡々と健康強迫症について説明し、それから処方薬の効能について解説し終え、「それでは二週間分、薬を出しておきますね」と言い、患者は彼女に握手を求め、それから診察室を出て行った。

「健康強迫症を治療する薬なんて、あるんですか?」

 私が尋ねると普賢象は愉快そうに言った。「小麦粉です」

「小麦粉?」

「偽薬です。これもどれも、気持ちの問題ですから」

 それで、病は気から、と言ったのかと私は思い、それにしても実は薬は小麦粉でした、というのも、病院としては酷いな、と考えているとふと桜源郷での最初の日、丁字に殴られた顎、その痛み止めのための薬を思い出し、まさか、とも、もしや、とも思った。あの時はたしかに痛みが引いたのだが。

「次の方、お入りください」という声に合わせてまた患者が入って来る。今度の患者は子連れの母親、目の下に濃く隈の入った神経質そうな母親が患者で、彼女は着席するなり自らの病状をまくし立てる。一葉の眉間にすっと浅い皺の寄るのが見える。

「あれが小麦粉で治らなかった者の末路です」と普賢象が私に囁く。「自分が病気だ病気だと思い込んだがために徐々に認知が歪み精神が衰弱して、あの様子だと精神が研ぎ澄まされているかのように見えますが正確にはその反対、神経衰弱ですあの症状は、そして自分が病気であると確信してしまったがため薬も一切通用しない、治り得なくなってしまうのです。そんな精に施す最後の治療は」

「ご病状は分かりました」と一葉は言い、「では、両目を瞑ってください」と指示する。母親はまだ言い足りない様子だったが不承不承目を瞑り、「これでいいんですか?」とさっそく神経質に問う。「はい」と一葉は答え、「ではまず、流れる川をご想像ください」「ふざけてるんじゃないでしょうね」と噛みついてくる患者を受け流すように「水量はどれくらいですか」「……轟轟と流れてます、はい」「水は透明ですか」「濁流です。激しいです」「激流の濁流が、あなたの目の前を流れています」「はい。だったらなんなんです」「あなたは岸辺からその濁流に近づいていきます」「ふざけてるんですか」「しっかりイメージしてください。あなたは濁流に近づき、そっと足を浸そうとします」「流れが速すぎて、危ないですこんなところに入れば死んでしまいます」「では待ちましょう。はい」と一葉はパンと手を叩き、「一時間経ちました。流れはどうなっていますか」「……緩やかな川に戻っています」「はい、では足を浸してみてください」「……はい。ちょっと冷たいです」「そのまま、川に入って行って」「……はい。腰まで入りました」「はい。それでは、川の流れの音を聞いてください」と言って一葉は立ち上がりそばにある流しに移動し、蛇口を捻る。水が流れ出し、たららららららららとシンクを打つ音が響く。「あ」と患者はどこか恍惚とした調子で呻き、「なんだか、身体の奥から、悪いものが出て行きそうです」「ではそのまま、悪いものを排出してください」と一葉が言うと患者は、ああ、あああ、と、感に堪えぬと言った声を上げ始め、大きく、ほぅ、と息を吐くと目を開いた。

「いかがですか」と一葉が、それまでの芝居がかった調子から打って変わって平静な口調で問う。

「なんだか」と未だ恍惚郷にいるかのような雰囲気で患者は、「憑き物が落ちるとでも言うのでしょうか、悪いものがすべて出て行ったような心持で」と答える。

「その感覚です」と一葉は言い、「もし自分の病気が悪化したなと思ったならば、今の川で悪いものを排出するイメージ、それを行えばすべての病気は治ります。大丈夫です。念のために最近開発された特効薬もお出ししておきます」と、母親に向かって軽く頷いてみせた。

「ああいう精を治療する最後の手段は」と普賢象。「催眠療法です。自分が病気であると確信するに至ってしまった場合、あとは病気を治癒するイメージを植え付けて発症の度にそれを繰り返すしかありません。対症療法ですね。あの母親は、残念ながら、すべての病気は治るという言葉の、病気、という言葉に一瞬眉をひそめたので、まだ催眠が足りないか、あるいはそのまま自分が病気だと信じ込んで死んでしまうパターンですね。ままあるパターンです」

「そうなんですか」

「桜源郷では病名を言い続けて相手を発狂させたり、そのまま信じ込ませて殺す、なんて事件もありますからね」普賢象が何でもないように言う。

 と、「きゃっ!」と母親の短い悲鳴がしたので何事かと再び母子に目を向ければ、催眠術にかかった子供のほうが悪いものを、つまりは小便を流してしまったらしく足元に水たまりができている。母親はすっかり狼狽してしまいあっち向いてこっち向いてするばかりだが、一葉は冷静に理科の実験で使ったキムワイプのような吸水性の良い紙を水たまりに乗せている。それから一葉はナースコールのボタンを押そうとしたが見当たらないらしく、「ああ」と一人合点して、「よろしいですよ」と母子を退かせ自分は染井を寝かせている部屋へ向かう。私と普賢象も後を追った。そういえば染井が起きた時のためにナースコールのボタンを握らせておいたのだった。

 ベッドの上では染井が上体を起こしていた。まだまどろんでいる様子である。目をしばたたかせ軽く頭を振り、こちらに気付くとああとおおの中間の発音をし、ぼんやり眼をすっと細める。やがて言った。「普賢象くんにお豆くん、それから、あなたはたしか、高嶺くんの、妻、でしたかね?」

「今は妻でもパートナーでもありませんが」と一葉は冷静に否定して、「わたしは医師の一葉と申します」

「医師ぃ!」ぎくりとしたように身震いをして染井は、動揺を隠せない様子である。「医師、医師と言いますと、えー、私はたしか文化会館で行われていた『不幸の展覧会』で、えー、たしか私は文化会館で倒れたような……」はっと目を見開いて頭頂部の枝を探り、さっと青ざめる。「うわあぁあ、枝が、枝がつるつるしてまるでビニールのようになっておる!」

「それはビニールを被せているからです」一葉が少し声を大きくし教え聞かすように言う。「あなたの枝の保護のためにビニールを被せているだけです、それ以上でも以下でもありません、ただ――」

「やっぱりそうだ!」と染井は頓狂声を発する。「文化会館で倒れてから病院に運び込まれたんだ! 天狗巣病! 天狗巣病!」

 みるみる染井の顔が青ざめぶるぶる震えが止まらない。

「落ち着いてください」一葉が諭すように声を張る。「あなたは文化会館で倒れただけであってそれ以上でもそれ以下でも――」

「天狗巣病だぁ!」染井が頭を抱えて叫ぶ。絶望しきった顔。「このビニール袋は空気感染を防ぐために被せているのであって、やっぱり私は天狗巣病じゃないか! ああぁぁ!」

「落ち着いて話を聞いてください。あなたは無用に興奮されています」

「落ち着けですって! これが落ち着いていられますか! 間違いない! 私はこれから死ぬんだ! 病死するんだ! 終わりだ! 終わりだぁあ!」

 ベッドを飛び降り駆けだそうとする染井を一葉が取り押さえようとし、私もそれに加勢して染井の腕を取る。一葉が力負けして振り払われたもう片方の手を、普賢象がすぐさま両手で確保する。死ぬのは嫌だ! 死ぬのは嫌だ! と喚く染井に、普賢象が大声で言う。

「染井教授落ち着いてください! あなたは天狗巣病です、危険な伝染病のキャリアーです! たとえあなたの花が散っても枝が朽ちても、あなたにはこの場に留まる義務があります! 繰り返します、あなたは天狗巣病です! て・ん・ぐ・す・びょ・う・です!」

 静寂。暴れようとしていた染井は普賢象の言葉にすっかり脱力してしまい、その場にへたり込むのだと思って私は腕の拘束を解いた、すると染井はゆっくりと尻もちをついたと思うとその場にひっくり返って寝てしまい、白目を剥き口から泡を吹き、痙攣を始めた。

 振り飛ばされていた一葉が体勢を立て直して鬼気迫る顔つきで染井のそばに付き、呼吸の確認、心音の確認と来て心肺蘇生を試みたが間もなく染井はぴくりとも動かなくなり、一葉はしばし俯き、ため息をついてからいつもの冷静な、しかし幾許か消沈した声で言った。

「染井さんはお亡くなりになりました。言葉によるショック死です」


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