1 小学校と桜
1 小学校と桜
小学六年生の時に卒業文集に書いた将来の夢は「英雄になる」だった。それ以前に「世界征服」と記して担任から痛烈なお叱りを受け書き直させられ、描いた新しい夢が「英雄になりたい」だった。
久々訪れた小学校は夜の闇に沈み、しかし校舎内の非常灯だけが緑色に光って存外幻想的だった。昔は防犯カメラなどない時代だったが今はどうだろう、などと考えながら私は、正門を封鎖している鉄柵をよじ登り越え、小学校の敷地内に入った。
地域の悪童、というほどではないが人並みにやんちゃしていた私は、その他の、パティシエや映画監督を夢見るやんちゃな級友たちと交わり健やかに育ち、明確な目標はないけれど漠然としたイメージで皆から憧れる英雄になりたいと考え、特に明確な指針もなく小学校を卒業した。それでも、他人から尊敬されるような、米国映画に出てくる悪を懲する正義のヒーローに自分はなるのだ、と私ははっきり思っていた。この時は。
いつからかは分からない。しかし私はいつからか生活に埋没し、英雄になりたいなどという夢想は自然と忘れ、とにかく気になるのは目先の生活、明日三食何を食べ家賃を考えたら給料日までの数日をいくらでしのがなければならない、でもトイレットペーパーが、などという灰色生活で、しかし別段薔薇色の生活をしたいという上昇志向はやはり当の昔に捨て去りそれなりの生活にそれなりの満足を得るようになって早十年以上なのだったが、ああ無常、あるいは無体、勤めていた自動車会社が不祥事を起こしたがためその再建のためのリストラにあってしまい今や無職、しばらくは失業手当でしのいでいたもののそれさえ途切れ、技量には自信があるが再就職はどこも書類選考で蹴られ、会社の寮住まいだった私にはもはや住居さえなく、ホテル暮らしだったのも資金切れでついに私は野に放たれたのだった。両親は早くに亡くなり兄弟はなく、いい加減に生活していたつもりはないけれど頼れる友もなく、公園に野宿しようにも『ここは公共の場です。他人の迷惑になる行為はやめましょう』と看板があり、野原だって他人の土地でという以前に野原さえない現代に凡そ野宿など不可能で、金も居場所も失った私は今日一日彷徨い、深夜にたどり着いたのが母校である小学校だった。
風が吹いて私はぶるっと震えた。四月第一週の深夜など冬と同じくらい寒い、何の装備もなしに野宿するなどという考えが甘いに甘いと自嘲しながら私は、小学校の敷地内を進む。かつて学んだ校舎は、こんなんだったかなと思わず首を傾げてしまうような模様が窓枠に施されていて、今の小学生はなんだかしゃらくさいなと思う。
一階の、下駄箱に通じる出入り口まで来た。ガラスのドア越しに覗くと、下駄箱と廊下が非常灯の緑に照らされてどこか幽玄と佇んでいる。燐光。墓場に見かける鬼火の一種。死への誘い。死。そんな風に連想して私は、私は死に場所を探しているのかもしれないな、と思った。金も頼るあてもなく、ホームレスとしてやっていく技巧どころかこの冷気をやり過ごす場所さえない、となると私は早晩ではなく今日、昔通った小学校で、死ぬに違いない。救いの手を差し伸べてくれる誰かなんて存在しない、そんな都合のよい存在なんていないことは灰色生活中に悟ったし失業後で確信するに至った、人間やいわゆる救いに対する微かな希望など暴風を前にしたろうそくの火の如くすでに搔き消えて無い、世の中は、社会は、そんなに甘くない、そんなに甘くなかった、捨てる神あれば拾う神ありなんて誰が作った文句か知らないが死後に骨さえ拾ってもらえるか甚だ疑問だ、結局この世は弱肉強食で、手負いの者から順次果てていく作りなのだ――
出入り口のドアが開くはずもなく、教師用の玄関口ももちろん施錠され、開いている窓は当然ゼロ、びゅっ、と強い風が吹いて私は身体の芯まで冷える感覚を覚えて身震いした。唐突に『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕する所がない。』という聖書の文言を私は思い出し、当然聖書なのだから何かの隠喩で字義通りの解釈ではないだろうけれど今の私には文言が直截心に響いて、そしてその後半部の空しさが示す寄る辺の無さを、失敗の後の説教の如く深々と感じた。もう、行く場所がない。死。凍死。
いや、まだだ、と私は思った。何もこの小学校を私の死に場所にする必要はない、夜中歩き通せば寒さで死ぬことはないだろう、夜が明けたら、大いに屈辱的だがどこぞのゴミ箱から食料を手に入れ、それから、教会か慈善団体の運営する施設かに一時的に避難させてもらうのだ、そうすれば大丈夫、まだ生きる道がすべて断たれたわけじゃない、と、思い直したその時。
ひらり、と薄紅色の何かが少し先を舞い、それは桜の花びらだった。桜の花弁が一つ、二つと、冴え返る月光を浴びて幽かに発光しながら舞い落ちている。私は右前方を向いた。校庭に差しかかる手前、そこには、夜の闇よりも黒々と沈んだ桜の木が、満開に咲いていた。
小学生の頃何度も学校で聞かされた話に桜の木の逸話があり、なんでも震災の際、倒れかかった校舎を桜の木が支えきったのだと言う。子供心に嘘だと感じていたその逸話が正真正銘の作り話と知ったのは校舎を支えるには桜との距離が離れすぎていることに気付いた小学六年生の時だったが、嘘と分かって以降もなぜだかその桜からは不思議な存在感を感じ続けて卒業した。そして今、桜の木は私を静かに見下ろしている、などと言えば神秘主義だと笑われるだろうか。
私はしかし、街灯に向けて飛ぶ蛾のように桜へと歩いていた。百葉箱の白が蛍の火のように周りより定かに浮き上がっている。私はアスファルトから剥き出しの土の上へと踏み出し、低木のしな垂れた枝をよけ、高々と伸びた桜の、根元に立った。黒々とした樹皮が闇にほぼ同化している。私は幹に手を触れ、時計回りに回った。すると。
手を触れるまでもなかった。根元から一メートル強ぐらいだろうか、私の胸ぐらいの高さまで、幹にぽっかりと穴が開いている。樹洞だ。ずいぶん大きい。そういえば昔、かくれんぼの時にこの中に入っていた記憶が無きにしも非ず、だ。と、その瞬間また強い風が吹いて私は身震いし、はたと思いついた。この樹洞に身を隠し、とにかく夜をやり過ごせばよいではないか。
分別ある大人心に無理があると思ったが急に荒れ吹きだした寒風に押し出されるように私は身体を折り曲げて樹洞の中に入った。
前方に腕を伸ばして、思わず私は驚きの声を上げてしまった。
手が何にも触れないのだ。暗くて見えなかったのだが幹の太さからして両手を突き出せば奥に当たると思っていた、しかしまったく物に触れる気配がない、ただ少し湿った空気が指先を滑るだけだ。
私は試しに腕を横に広げてみた。入口より幾分広くなっているが指先が幹と思われる固い物に触れる。ここは確かに樹洞、桜の木の中だ。しかし。
私は右手を横に、左手を前に出し、慎重に歩を進める。右手は固い物に触れているが左手にはやはり何の感触もない。空洞が前方に続いているのだ。私はいったん立ち止まって首を回し後方を振り返った。木の黒に縁どられ、月光に少しだけ薄まった闇が見えている。
ぞくり、と私は身震いした。後方にあるのは今まで自分が存在していた世界、しかし、前方にあるのは、あると思われるのは、自分の常識では量れない未知の世界だ。明らかに幹の太さと樹洞の奥行きが釣り合っていない。このまま進むと、どうなるのだろうか。後方の世界では私を追い払うかのように風が荒れ狂い、びゅん、びゅん、という音が聞こえてくる。引き返せばあの寒々とした風の中で、最悪死ぬかもしれない。前方は、少し湿っぽい以外は何も分からない、どんなに目を凝らしても何も見えないし手を伸ばしたところで何にも触れない、まったくの未知。私は。
私は前に進むことに決めた。後方にあるのは私を追い出した世界だ、どこにも私の居場所のない世界だ、ならばそっちに戻ったところで終わりが、あるいは終わりのない終わりが待っているだけだ、となれば選択肢は、前進あるのみ。
私はびゅーびゅー言う風の音を聞きながらゆっくりゆっくり、進んだ。
どれだけ歩いただろうか、風の音は聞こえなくなった。蓄光蛍光塗料の塗られた腕時計を見るがなぜだか文字盤が光らない。それだけ長く夜を歩いていたのだろうか、いやそんなはずはない、と思うも、足は次第にだるくなり、私はその場で寝てしまうことも考えて地面に膝をついたが、すぐにズボンが水を吸うのを感じた。地面は湿っている、というより水が表層を薄く覆っていて、それが微かにどこかへ向かって流れているようだった。指で確かめると流れは前方に向かっている。これから増水していったら困るな、と思いながら、もはやその場に立ち止まることも引き返すことも考えず、私はただただ歩を進めた。
やがて前方に光の点が見えるようになった。前方に進めばそれが次第に大きくなるからには出口に違いなかった。私は重い足取りを速めながら、自分はもう死んでいるのかもしれないな、と思った。もしかすると私は、あの桜の木の手前で死んだのかもしれない、いささか唐突な死だけれど、死んで、今は俗に言う臨死体験を体験しているのかもしれない、そう考えるとやたらと奥行きのあるこの樹洞も幻想で片が付く。昔、自分が死んでいるのに気付けていない医師か何かを主人公にした映画を見たことがあるが、案外、死に気付けないまま死者は意識を保ち続けているのかもしれないな、と思った。
明かりはどんどん近づいてくる。進む。明かりの向こうは何も見えない、光が強すぎる。とにかく進む。明かりは樹洞の入り口と同じくらいの高さになった、まだ何も見えない。やはりすでに死んでいるのかもしれない、と思いつつまた進む。明かりは目の前でフラッシュがたかれたようになった、しかし何も見ることができない。私はもう一歩踏み込んだ。次の瞬間。
何かが明かりの前を一瞬横切りいきなり私の顎にごつんと衝撃が来て、視界に閃光すぐに暗転。