第二話 恐ろしい朝がやってきた
ど、どうしよう!?
こうなってしまっては、逃げ出したのは悪手だろう。
大人しくしていれば、誘拐犯だって俺をどうにかする必要なんて無かったかも知れないし。
でも、逃げちゃったし?
ああ、くっそ!
俺は左右を見回しつつ、当てもなく走り出す。
鶏はまだしつこく鳴いていて、鶏、うるさい。唐揚げにすんぞ!
「ユーイチ! ユーイチはどこだ!」
母屋の方から、濁声で怒鳴る声が聞こえてきた。
……聞き覚えがある。
俺の名前だ。
柊 悠一。
高校二年生でもうすぐ十七歳の誕生日を迎えようとしていた冴えない優等生、
勉強はかなり出来るが、運動はさっぱりで、
彼女いない歴イコール年齢で、
それどころか体育祭のダンス以外で女の子の手も握ったことは無く、
エロゲー……ゴホン、アダルトなゲームの美少女たちに凄く興味はあるんだけど買うのはちょっと……という、
それが俺だった。
しかし、ええ?
なんで俺の下の名前を呼んでいるのだろう?
考えてみて下さい。
普通、誘拐犯が一般家庭の子供を誘拐するとするじゃない?
まあ、普通、誘拐するなら言うことを聞きそうな小学生までだろうけど。
そこは犯人も事情があるだろうし、高校生の俺を何らかの方法で誘拐したとしよう。
俺だって名前を聞き出されたら、素直に吐くし。
男共にナイフ突きつけられて、「だが断る!」「問答無用!」なんてかっくいい台詞、言えるわけも無く。
そうしたら、普通、「おい、ヒイラギ!」って呼ぶよね?
凄く紳士的で知的な誘拐犯なら「ヒイラギ君、ユーイチ君」もあるかもしれない。
俺をストックホルム症候群にして味方に付けた上で作戦を上手く運ぼうとする知能犯なら、
いや、それなら怒鳴ったりしないか。
俺の両親は三年前に交通事故で他界しているので、その話を聞いて犯人が同情して……
いや、その場合なら、こっそり解放してくれるだろう。
生命保険が毎月入ってくるが、多額の現金は俺には用意できないし、親戚もいない。
誘拐の目的はお金を得ることだから……ハッ!
ひょっとして性的目的なのでしょうか……。
えー……。
「呼んでいるのが聞こえんのか! ユーイチ!」
と、色々余計な事を考えて逡巡しているうちに、とうとうログハウスの中から男が出てきてしまった。
目が合った。
見つかっちゃった、テヘ。
だって、遮蔽物、向こうの森しか無いし。
いや、逃げた方が良いというのは分かっているのだが、どうにも事情を聞いてみないことには、と思ってしまったのだ。
決して、決して、声に怯えてすくんでいたわけでは無いのだ。
そのダミ声の男は、小屋に寝ていた大男とは別人である。こちらの男の背丈は俺とそう変わらない。紫の悪趣味な感じの羽織り物を着ていて、顔はブルドッグみたいな印象。
およよ?
いやいや?
そんなまさか。
ご冗談でしょう。
なぜかその男は、犬耳のコスプレをしていた。
プッ。
だ、ダメだ、笑ってはいけない気がする。
コスプレ男は、凄く憤慨している様子で、歯ぎしりしつつノソノソとやってくる。
でも、どう見ても、五十歳とか、それくらいですよ?
しかも、コスプレイベントならともかく、なんで自宅で、いや、自宅なら他人に迷惑を掛けないから、趣味全開でもいいのか。
でも、可愛い犬耳というより、垂れて、毛に張りが無いし、ちょっと毛が抜けてしまっていて、せっかくのアイテムが傷んでいる感じ。
それが真顔で迫ってくるのだから、やべー、吹き出しそう。
「何がおかしい!」
コスプレおじさんは、俺の前まで来ると、右手を振り下ろした。
「ぎっ!?」
次の瞬間、ヒュッと音がして、バチンと、俺の腕と胸が音を立てる。
衝撃。
とてつもなく痛かった。
火傷をしたときのような痛みだ。
「いった……」
「言ってみろ。何がおかしい!」
再び、強い衝撃。
「ひっ!」
犬耳男が黒い鞭を振るっているのだ。
ようやくそれに気づいた俺は、慌てて後ろに下がって距離を取ろうとする。
「逃げることは許さんぞ! 教えただろう、逃げたらもう一回お仕置きだ!」
「ええ? ぎゃっ!」
痛い。
「口答えも許さん!」
「ひっ!」
再び鞭を振るわれるかと恐怖におののいたが、犬耳男は、振るう真似をしただけだった。
それでも三回、鞭で殴られた。
俺がいったい何をしたと言うんだ。
だいたい、腕が真っ赤になっているし、これはもう立派な暴力行為だろう。
犯罪だ。
なのに犬耳男は、フン、と鼻を鳴らしただけで俺を平然と見下ろしている。
……どうなっているんだ、この家は?
「ご主人様」
いつの間にかやってきていた大男が声を掛ける。
「なんだ、ロブ」
あのマッチョ、ロブという名前なのか。まあ、普通に外国人だろう。あんな体格の日本人はいませんって。
「水汲みはオラが」
ロブが両手に持ったバケツ、いや、木の桶を持ち上げて見せる。
……なぜ、プラスチックの青いアレじゃないのか?
「いいだろう。早く台所に持って来い。いいか、ユーイチ、朝一番にワシは顔を洗う。それまでに桶を持って来ないと、こうだ!」
うわっ!
「ぎっ!」
また、鞭を振るわれた。
何考えてるんだ、コイツ?
桶を持ってきて欲しいなら、口でそう言うだけでいいだろうに。あるいは、鞭を振るうぞと脅すだけでも今の俺には十分に効果があるというのに。
呆然と座り込んでいる俺を気にもせず、犬耳男は家の中に入っていった。
「ユーイチ」
桶を家に置いてきたロブが戻って来た。
「な、何でしょう……?」
この体格でさっきみたいにやられたら、俺は普通に死ぬかも知れない。
絶対に、この大男は怒らせてはいけないと思う。
「大丈夫か?」
だが、ロブは渋い顔でそう聞いてきた。
あっれ? これって、心配してくれてるの?
「あ、はい、なんとか」
答える。
「そうか。朝は、忘れないようにしろ」
「はあ」
そう言われても。
と、ロブがそのまま立ち去ろうとするので、俺は立ち上がって追いかける。
「あの、ロブさん」
「何だ?」
「あの人って……」
「うん?」
「名前は?」
訴えてやるぞ!
まずは相手の名前だ。
「ご主人様か?」
「ええ」
「ご主人様は、ご主人様だ」
なぜそんな事を聞くんだという感じのロブは、真顔なので、別にトボけているわけでは無いらしい。
「いえ、あの、僕ならユーイチ、あなたはロブ、じゃあ、あのご主人様は……」
「ああ、ワダニ。……様だ」
ようやく分かったようで、名前を言うロブ。変な名前だ。和谷だろうか?
いや。
……認めねばなるまい。
ここは日本では無いだろう。
それどころか、その辺の外国でも無いんじゃないか?
そう判断する理由はいくつかあった。
あの犬耳がぴくっと生きているように動いていたのと、ワダニの腰の後ろからしっぽが出ていて、それも動いていたのでどうやらアレは本物らしい。
もちろん、ただのコスプレアイテムという可能性はまだ残る。
だが、俺はもう、あの狂犬を見て笑うつもりは無い。
「あの、小屋にいるトカゲは何という名前ですか?」
「ロドル、だ」
聞いたことも無い品種だ。
「む。ロドルは…ロドル、しか知らない」
ロブは俺が品種では無く、名前を聞いたのだと思ったか、首を横に小さく振って憮然として言う。
「ああいえ、ああいうトカゲは、全部、ロドルとみんなが呼んでるんですよね?」
「……そうだ」
なら、間違いないだろう。あれはロドルだ。ロブの喋りは少し鈍いので、少しイライラするが、そこは我慢。
今、危険なしに情報を教えてくれるのはこの人しかいない。
「大トカゲは何に使うんですか?」
「荷物を運ぶのに、使う」
「ああ。人を食わない?」
「ああ」
よ、良かった……。まぁ、人食いトカゲなら、あんなところで一緒に寝たりはしないか。
草食動物、なのかな?
それよりも、他に聞くべき事が山ほどある。
「電話、有りますか?」
訴えよう。
未成年に対する虐待だし。
「デンワ?」
「ほら、離れたところにいる人と話すアレですよ。もしもーしって。携帯電話とか」
「……」
通じないようだ。
日本語は通じてるよね?
ロブに問題があるのだろうか?
「じゃ、警察は? 近くに警察はありますか?」
訴えたい……。
暴行罪で!
外国だろうと示談なんてしないぞ!
「ケーサツ?」
「ほ、ほら、悪い人を捕まえたり、逮捕する! お巡りさん」
「……兵士、か?」
今の反応だと一応、治安組織はあるようだが警察にピッタリ当てはまるのは無さそうな感じだ。
あああ……
「あの…この国の名前は?」
「クニ?」
通じなかったか。
「市町村……、村、町、市、県、さらに広く、国。日本やイギリスやフランスみたいな」
補足説明を入れる。
「ああ、この国はスレイダーン、と言う」
ああ、やっぱりだ。
そんな国名、聞いたことも無いし。
ロブも冗談を言ってる感じには見えない。
どこですか、この世界は……。
俺、生きて日本に帰れるんだろうか?
そもそも、俺はどうやってここに来たんだと。
体の力がするすると抜けていくのを感じた。