第三節 海賊と騎士
一触即発の茶番を終えて一同が船尾楼へ入っていくと、上層甲板に残った水夫たちはがやがやとおしゃべりを始めた。まだその辺りを飛び回っている鷹と鷲に怯えながらも。
「なぁ、帆桁の」
「なんだ、甲板の」
話しかけたのは甲板のマルブという、「三月のウサギ号」で一番仕事のできないのっぽの水夫である。檣に登ることもできず、いつも甲板をブラシで磨いているから「甲板の」と呼ばれている。
返事をしたのは帆桁のフリーゴルという、マルブとは反対に最も仕事のできるちびの水夫であった。檣をするすると登り、いつも帆桁に跨がっているから「帆桁の」と呼ばれている。
ふたりとも先代船長の頃からウサギ号に乗っていて、なんだかんだで仲が良い。
「今の黒髪の女の子、モノホンのお姫様だってよ!」
甲板のマルブは声を弾ませた。
西国の王女エウロデューデルの噂をさっそく耳にしたらしい。
彼ら水夫は誰も彼も平民も平民。それどころか海賊というお尋ね者である。本来なら貴族と顔を合わせるなど、襲った船の上か法廷かというくらいの身分。
そのため、お姫様が乗船したとなれば大騒ぎしてもおかしくないのだが、帆桁のフリーゴルは肩をすくめた。
「お前、プラニエちゃんだって本物のお姫様だろうが」
海賊船に乗り組む海兵といえば傭兵か罪人か酔っ払いか、すなわち破落戸の類と相場が決まっている。腕っ節の強い用心棒みたいなものだ。
しかし、奇妙なことに、三月のウサギ号には十名ほどの騎士団が乗り合わせている。それを率いているのが、先ほどエウロデューデルを案内したプラニエ・ファヌーであった。
「いや、そうだけどよ! あの子は一国の王女様なんだろ?」
「西の果ての国の王女様らしいぜ」
彼ら無学な水夫の知る地図にグリシエヴという遠国の地名はない。複雑な船舶用語に通じていても、地名となれば南方洋の島々か沿岸の港町しか知らないのだ。
「でもよ、俺らのプラニエちゃんだって侯女様だかんな!」
帆桁のフリーゴルが何故か胸を張ったところで、おしゃべりを見咎められた。
「誰がてめぇらのモンか! 海賊猛々しいスカタン野郎め!」
ばしんばしんと、巨大な掌がマルブとフリーゴルの後頭部をひっぱたいた。その衝撃に、ふたりは目を回した。
「王女様の追っ手がさっきのピンネースだけたァ限らねぇだろォが! しっかり両の目ン玉かっ開いて見張ってろい!」
隻眼の掌帆長――ベリスカージ・ヘルセルガリスは、手の届く範囲の水夫を片っ端から叩き、尻を蹴飛ばして回った。
海軍などと違い規律のゆるい海賊船である。彼のような大男が締めねばすぐに手を休めてしまうような連中だらけなのだ。
そこへ、水夫にとってさらに怖い存在がやってきた。
いつもの不機嫌そうな声が告げる。
「ベリスカージ! 檣頭に誰かやって見張らせて」
「あい、船長!」
船長リツカ・ヒューゲリェンが船尾楼甲板から上層甲板へ下りてきた。
普段は船尾楼甲板か船長室にいるリツカが現れると、水夫たちの動きは一層機敏になる。齢二十三の女船長を皆が恐れているのだ。
だが、当の本人はそんな彼らにまるで無関心。
「さて、連中と話つけてくるか」
などと独りごちると、リツカはそのまま船尾楼へ入って行った。
「おい、フリーゴル! 船長の話聞いてただろ! とっとと檣頭に登りやがれ!」
「へい、掌帆長! すぐに登りまさァ!」
威勢良く応じると、帆桁のフリーゴルはするするひょいひょいと檣を登っていった。これ以上ベリスカージにひっぱたかれては鼻血でも噴き出しそうだったからだ。
「俺ぁちょいと船長のお供してくらァ! マルブ! てめぇもしっかり見張っとけよ!」
「へい、掌帆長! モチのロンでさァ!」
甲板のマルブが威勢良く応えたのも、フリーゴルと同じ理由に違いない。
帆船の船室と言えば狭く暗いものだが、船尾楼にある船長室だけはどんな船でも例外だ。船尾側が大きな硝子窓になっていて、今も夏の陽光が差し込んでいる。
これが大きな軍艦や客船ともなれば、華美華麗な装飾でも施されているところだが、ウサギ号の船長室は質素そのもの。
船長の事務机と円卓、あとは本棚くらいしかない。
リツカがベリスカージを伴って部屋に入ると、客人たちはすでに円卓についていた。
グリシエヴの王女がわきまえたのか、プラニエが気を利かせたのか、上座――船尾側の席は空けられていた。
そんな殊勝な態度に免じて、リツカは一声かけてやることにした。
「おまたせ」
これが彼女なりの気遣いであった。
肩に掛けた外套をばさりとやって、そのまま着席するリツカ。いつもと同じように片膝を立て、肘掛けにもたれて頬杖をつく。
王女の御前で無礼極まりないが、そんな彼女の態度にどう反応するか。リツカはそれを見たかったのだが、王女も護衛も期待はずれだった。
グリシエヴ王女エウロデューデルはかちんこちんに固まっている。これでは、教師に怒られている学童と変わらない。
一方、護衛の鷹匠はあくまでも雇われ者に過ぎないらしい。こちらの非礼を咎めないどころか、背筋はいいものの力なく顎を上げている。
まさかこんな珍妙なふたりだなんてと思ったところで、プラニエ・ファヌーが席を立った。
「エウロデューデル王女殿下に申し上げます!」
まだ十七歳の、それも女でありながら、騎士らしい立派な態度。
「余はランサミュラン=ブリュシモール家が長女プラニエ・ファヌー!」
少女の朗々たる名乗りはもはや歌劇にも負けないだろう。
「万神の加護厚き偉大なるエルヌコンス王の忠臣クロンヌヴィル侯爵ジュリアル・ダルタン・ランサミュラン=ブリュシモールが娘にして騎士に御座います!」
輝く金色の髪は丁寧に編まれ、瞳は空か海のように深い青色。
プラニエ・ファヌー・ランサミュラン=ブリュシモールの容姿は、如何にも回廊貴族の姫君といった美しさを備えている。十七にして幼さも残るが、それがかえって愛らしさとなっていた。
だが、彼女は身分に相応しいドレスを纏っていたりはしない。
甲冑こそ着ていないものの、騎士らしい質実剛健な平服に大きな剣帯。ともすれば引き摺ってしまいそうな長剣。小さな体に不釣り合いな長靴。船内では不要な、騎士の誇りたる金の拍車。
いったい何が回廊貴族の娘を騎士たらしめているか、エウロデューデルには想像もつかないだろう。
「そして、こちらが――」
名乗り終わったプラニエは再び席に着くと、小さな掌をリツカにかざした。そうでもしないと名乗らないだろうと思われたのかも知れない。
「エルヌコンスの空飛ぶ私掠船『三月のウサギ号』船長、リツカ・ヒューゲリェン」
国名から名乗るのもなんとなく癪に思えたリツカだったが、今回の策ではこれが重要なのだ。そのため、いつも以上にぶっきらぼうになるのも仕方がない。
リツカは自分にそう言い訳した。
「そしてあっしが掌帆長のベリスカージ・ヘルセルガリスでごぜぇやす」
「黙れ。アンタはお呼びじゃないから」
すぐ後ろで大声をあげる掌帆長に対し、リツカはぴしゃりと言い放った。
「あい、船長!」
暗にうるさいと伝えたつもりなのだが、それをわかっていてなお、ベリスカージは大きな声で応じた。むしろ、嬉しそうである。
そんなやりとりを、王女エウロデューデルは怯えながら見ていた。
所詮は十歳の幼子。これなら主導権を握りやすいとリツカはほくそ笑んだ。
「で、王女様は相手にだけ名乗らせるわけ?」
挑発的な態度でたたみかける。黒鼈甲の眼鏡の奥から、鋭い視線を向けるリツカ。
「ひぅ……」
小さな体をびくんと震わせ、エウロデューデルは目を逸らした。
しかし、王女としていつまでも黙っているわけにはいかないと思ったのだろう。意を決して、王女は口を開いた。
円卓の下の拳は強く握られているに違いない。
「わ、妾はグリシエヴ王にしてキペットリア王が三女、エウロデューデル・クセンなるぞ。さ、先ほどの船軍は見事だったぞ」
名乗っただけでなく、王族らしく気丈にも褒めてみせた。震える小さな声で。
話に聞くように、グリシエヴ連合王国の王族である彼女の髪は黒く、その瞳は赤みを帯びていた。
西方貴族は一般的に西方人とされるが、人種的には回廊貴族と同じだという。すなわち、プラニエのような金髪碧眼の人種である。
だが、最西方のグリシエヴ王家だけは黒髪赤眼という「魔法使いの末裔」と呼ばれる種族とされている。
信じるにせよ信じないにせよ、グリシエヴ王宮は門外不出の魔法を継承していて時にその力を振るうという。事実、その力が故に、今も西方同盟に屈していないのだそうだ。
魔法なんて出鱈目な力、こんな子供が使えるわけ?
空飛ぶ自分の船を棚に上げて、リツカはそんなことを考えていた。
船長室を短い沈黙が満たす。
その間、リツカとプラニエはひとりの人物に視線を送り、なんとなく促しているのだが柳に風だった。
この場にはもうひとり、名乗るべき人物がいる。
確かに、プラニエの背後には老齢の執事ソワーヴ・モーヌ・ルバーベルもいるが、見るからに従者である。出しゃばりなベリスカージではあるまいし、彼は名乗る必要もなく、エウロデューデルもそれを求めていない。
「アンタは?」
沈黙に耐えかねてリツカが催促した。
「ん? あっ? 私?」
先ほど甲板で見せた鋭い立ち回りとは打って変わって歯切れの悪い反応。
エウロデューデルの護衛、鷹匠の少女はきょろきょろと周囲を見回した。
「他に誰がいるわけ?」
「知らない」
リツカは眉間にしわを寄せた。どうにもこの娘とは噛み合わない。リツカの苦手な種類の人間だった。
「ララ、名乗って差し上げよ」
隣席のエウロデューデルも呆れ顔で促した。
「うん。ララです」
再びの沈黙。
一同、それに続く言葉を待ったがそれっきりだった。
「それだけ?」
「うん?」
リツカの短い問いの意味がすぐにはわからなかったらしい。首を捻り、空を見遣り、突然に口を開いた。
「あー、祝祭村のララです」
博識なリツカもそんな村の名前など知らない。
グリシエヴがキペットリア、パルガルス、エルストークの連合なのは知っているが、田舎の小村までは知る由もない。
きっと名字代わりなのだろうが、自己紹介としては不足にも程がある。
「……まぁ、いいわ」
ため息混じりのリツカ。相手は所詮、雇われ護衛。無視しても問題ないだろう。深く関わるのはやめておこう。
大事なのはこの先だ。
「ともかく、アンタたち――失礼、王女殿下とその従者の乗船は認めてあげる」
ここで、手筈通りプラニエが言葉を引き継いだ。
「さて、王女殿下。ご承知の通り、我らはエルヌコンス軍の一翼を担っております。そのため、先ほどは我らが敵――西方同盟の空飛ぶ軍船と一戦交えたわけでございます」
もちろん、これはただの偶然ではない。
リツカたち三月のウサギ号は情報に基づいて網を張っていたのだ。エルヌコンスに定められた敗北を回避するために。
「して、殿下はこのような戦場へ何故にいらっしゃったのでしょう?」
プラニエらしい真摯な瞳がエウロデューデルに迫る。
「そ、それは……」
案の定、口ごもる幼い王女。
更なる言葉を紡ごうと、プラニエが息を吸い込んだそのとき――
「ん、なんか来たよ」
祝祭村のララはぽつりと呟いた。
「なんかってなによ?」
思わず、ひねりも何もない無能な質問をしてしまったリツカ。鷹匠の少女にはどうにも調子を狂わされてしまう。
「船? かな?」
ララのあやふやな答えも、すぐに証明されることとなる。
「雲海に檣頭ォ! 同盟海軍の就役旗在りィ! 敵船、下方より来まァすッ!」
帆桁のフリーゴルの報告が船内に響き渡ったのだ。
※誤字を修正しました。