第二節 追撃
「先ほどの砲声は先行する『疲れ知らず号』のものですかな?」
船尾楼甲板に登って来た従軍司祭は開口一番そう尋ねた。
西方同盟の軍船には例外なく司祭が乗船しているが、軍船の大半はクレンヘルゲル船籍である。彼らの乗る空飛ぶ帆船「天罰の決意号」もそうだ。
クレンヘルゲル王国は同盟加盟国でありながら、海洋国家らしい自由闊達な国風を持つ。すなわち、同盟から派遣された従軍司祭など嫌いであった。
許可なく船尾楼甲板に登るとは何事か、と言いたいところだが、船長は主君クレンヘルゲル王のためにも怒気を飲み込んだ。
「ええ、そうですが……最後の斉射は一八听でした。疲れ知らず号には九听砲しか積んでいません」
グリシエヴ王女追跡任務を拝命したのは「疲れ知らず号」と「天罰の決意号」、二隻の空飛ぶピンネースである。戦前は空飛ぶ武装商船だったものを、同盟海軍が徴発したものだ。
軍用のガレオンや最新鋭の戦列艦じゃあるまいし、過剰な武装は積んでいない。
「つまり、敵船――空飛ぶ敵船がいるということですかな?」
「当然そう考えるべきでしょうし……」
巡礼軍に同行する提督――カルロラスト伯爵からの情報によれば、エルヌコンス王国の空飛ぶ戦力はたったの一隻。飛竜も戦力となるほどの数は揃っていないという。
ただし、その一隻は、南方洋に悪名を馳せ、回廊戦域でも友軍を妨害し続けている南方洋の狂ったウサギ。
「それはエルヌコンスの空飛ぶ私掠船『三月のウサギ号』でしょう」
天罰の決意号も本来は南方洋の武装商船だ。船長もまた「春先の狂ったウサギ」の噂は耳にしている。
船長は息を呑むが、従軍司祭は敵の強さを知らないようだ。
「その船と例の王女が合流した可能性がある、と。これは由々しき事態ですな」
「ええ、まぁ、そうです」
「船名通り、汝らに天罰執行が託されたようですね、船長」
聖印を切り、大神に祈る従軍司祭。
縁起でもない!
船長は危うく叫びかけた。
空飛ぶ帆船は「海と空の夫婦像」という船首像の魔力によって、海だけでなく空をも航行する力を得た魔法の船である。すなわち、空の神と海の神の加護のもとに飛んでいるのだ。
決して触れ合うことのなかった二柱の神は大神の定めを破り、空と海の交わる西方洋の果てで結ばれた。その婚姻を祝福する船首像に祈りを捧げることで、今も空を飛んでいるというのに。
これだから同盟の司祭は嫌いなんだ。船のことも空のことも海のことも、何もわかっていない。
「わかっております、司祭様。おそらくは沈められた――疲れ知らずの連中の仇……俺らが獲ってやりますよ」
船の上で大神の名など口にするもんか、と船長は誓った。
「掌帆長! トゲンスルもトプスルも縮帆! 目の良い水夫を檣頭に上げろ! 雲海に潜って航行し、敵船へ奇襲をかける!」
視界を遮られる雲の中を行くのは危険だが、強敵相手に仕掛けようというのであればこれが一番だ。のこのこと出向いては一八听長砲の餌食にされてしまう。
「敵はあの『南方洋の狂ったウサギ』だ! 気合を入れろォ!」
縮帆し高度を落とした天罰の決意号は、雲海へと潜っていった。
隻眼の海賊が短銃を向けているものの、ララは殺意を感じなかった。
彼女自身は殺意の籠もらぬ銃口など怖くはなかったが、背中で震えるエウロデューデルが少し気の毒に思えた。
ちょっとは護衛らしいこともした方がいいかな?
そう思ったララは素早く手を口にあて、指笛をひとつ。
「リディア! やっちゃえ!」
ララがそう叫んだときには、すでに小さな影が甲板を駆け抜けていた。
「うおッ!?」
大きな体の恐ろしげな海賊も素っ頓狂な声をあげた。なにせ、構えていた短銃が消え去ってしまったのだから。
「小娘ェ! なにしやがったァ!?」
答える義理はない。
一瞬の隙を突いて、ララは背負っていた長弓を手に取り、矢をつがえ、構えた。もちろん、鏃は隻眼の海賊へ向ける。これはさっきのお返しだ。
祝祭村の狩人に伝わる弓は身の丈ほどの長弓である。縦にすると地面についてしまうため、弓は横に構える。しかも、小柄なララが長弓を引くとなれば全身の力が必要であり、足を開き身を屈める独特な構えとなった。
周りの海賊も慌ててエモノを抜くが、ララの方が早かった。彼女の矢が放たれたならば、隻眼の海賊のもう片方の目が打ち抜かれてしまうだろう。
この一瞬で、ララは海賊たちとの間にそういう膠着状態を作り上げた。
「ありがと、リディア」
ララは傍らで羽ばたく鷹に礼を言った。
彼女にぴったりくっついていたエウロデューデルも、見張っていた海賊たちも、いつその鷹が現れたのか知覚出来なかった。
だが、リディアと呼ばれた鷹の爪には、短銃が一丁。
「鷹使い――鷹匠ってヤツか……」
翼幅三丈という巨大な鷲ルルーヴだけでなく、祝祭村の鷹匠ララは翼幅三尺(約九〇センチ)の小柄な鷹も使役する。
鷲、鷹、弓。それを自在に操るララだからこそ、此度の王女護衛に雇われたのだった。
「やるじゃねぇか、お嬢ちゃん」
「ありがと」
鏃を向けられながらも褒める隻眼の海賊に、素直に応ずるララ。
「ララ、すごい……」
「ありがと」
震えながらも感嘆の声をあげるエウロデューデルにも、素直に応ずるララ。
「片目のおじさんだけなら獲れちゃうけど、おじさんって船の偉い人だよね? このまま打ち合っちゃっていいの?」
大声ではないのだが、ララの声は風に負けず船員たちに届いた。
下っ端らしい水夫たちはがやがやと動揺しているようだが、当の隻眼の海賊は違った。
「へへっ、てぇしたお嬢ちゃんだ! 鷲なんか乗ってねぇで、船に乗れよ! 船に!」
おかしな賛辞である。
「しっかし、惜しいなァ。俺は所詮、この船の掌帆長だ、掌帆長。ショウハンチョウってわかるか?」
「んーん、知らない」
ララは船のことなど何も知らなかった。
「水夫共の親分みてぇなモンだけどよ、船長様からすりゃあ木っ端なモンさ。だから、俺にゃあ人質の価値はねぇんだなァ、これが」
はったり半分といったところだと、ララは見抜いた。嘘でもないが、構わないというほどでもない。他の船員の表情からそれはわかる。
「ララ、ララ、どうするのじゃ?」
裾をひっぱって尋ねるエウロデューデル。
「んー、どーしよっか? 打っちゃう?」
「おおおおお落ち着くのじゃ、ララ! れれれれ冷静にならねばならぬぞ!」
「エウラこそ落ち着いてよ」
「こら、ララよ! お主は妾らのことを殿下と呼ぶようにとあれほど――」
「えー、今それ大事?」
そんなやりとりが可笑しかったのだろう。隻眼の海賊が笑い出した。
「ぷっ、あーっはっはっはっはっはァ! こいつァおもしれェ!」
一通り笑うと、隻眼の海賊は空を見上げ大声で語りかけた。
「こんな感じですぜ! あっしは悪くねぇと思いやすが如何致しやしょうか、船長!」
それは空へ向けられた言葉ではなかった。
彼らの立つ上層甲板よりも数段高い、船尾楼甲板にいるこの船の主へのお伺いである。
「せ、船長、じゃと……」
エウロデューデルがごくりと唾を飲んだ気配が、ララの背中に伝わった。
今いる海賊たちですら恐ろしいのに、もっと凶悪で残酷な海賊の親玉がいるというのか。齢十の少女エウロデューデルは恐れに恐れた。
船尾楼の上から見下ろす船長は夏の陽光を背負い、逆光ですぐには姿が見えなかった。
影を見るに大柄ではない。ララより上背があるものの、大柄な海賊たちの中では埋もれてしまいそうだ。あの程度の体格ならリディアでも獲れるとララは目算した。
船長らしい外套を肩に羽織っていて、風に靡いている。いや、風に揺れているのはそれだけではない。
腰まで届く長い髪。
「護衛ひとり、王女ひとり、情報通りね」
くぐもってはいるが明らかに女の声。
「女、女海賊じゃと……?」
エウロデューデルもそれに気づき声を漏らすが、大事なことはそれではない。
海賊たちはエウロデューデルが王女と知っている。知っていて助け、知っていて脅している。今後、どんな要求をしてくることやら。
この頃になると、ララの目は光にも影にも慣れてきていた。
女船長は髪も肌も色素の薄い北方人。体格に不釣り合いな大きな外套を羽織り、腕を組んでいる。小さな顔には学者か商人かといった大きな眼鏡。
如何にも海賊といった風貌の掌帆長と違い、女船長は海賊船にあって異質な雰囲気を纏っていた。
ララはこの手の人物と渡り合ったことがない。どうしたものかと思案していると、船尾楼甲板にもうひとり、こちらも異質な人物が現れた。
「リツカさん! やりすぎです!」
船長をリツカと呼んだのは、ララと同じ年頃の少女だった。
金髪碧眼の典型的な回廊貴族。よく編み込まれた髪など、長旅でぼろぼろになったエウロデューデルと比べると、どちらが王女様かわからないほどだ。
だが、彼女にも奇妙な点がふたつ。
そもそも、海賊船に貴族が乗っているなんておかしい。
それに、少女の格好はまるで騎士のようだった。上品とはいえ華美でない平服に、長靴に帯剣。少し不器用な男装のように思えた。
「別に、身包み剥いで逆さ吊りにしたわけじゃないし」
「でっ、でも! 一国の王女殿下へ銃口を向けるなんて!」
なにやら、女船長と女騎士は言い争っている。それも、エウロデューデルの身分を性格に把握しているが故に。
「はいはい。じゃあ、あの子たちの面倒はプラニエ、アンタがみなさい。お姫様同士うまいことやれば」
吐き捨てるように言うと、船長は船尾楼甲板の奥へと引っ込んでしまった。
「えっ、それはいいですけど……リツカさん何か怒ってません?」
取り残された女騎士――プラニエと呼ばれていた――は、わたわたとあっちとこっちを見比べると、大急ぎで階段を下った。
女騎士プラニエは不釣り合いな長剣をあちこちにぶっつけながら、海賊たちをかき分け、ララとエウロデューデルの前へとやってきた。
「グリシエヴ王女、エウロデューデル・クセン・キペットリア殿下とお見受け致す!」
ざっと片膝をつき、傅くプラニエ。ララは詳しくないが、きっと正しい騎士作法なのだろう。騙し討ちという気配も感じず、ララは矢を外し、長弓を背負い直した。
だが、海賊の荒々しい応対から突然の礼法。王女エウロデューデルは固まってしまっている。
「ほら、エウラ。呼んでるよ」
肘で小突くと、エウロデューデルは我に返った。
「はっ……! た、確かに妾はグリシエヴ王が三女、エウロデューデル・クセンなるぞ。そこもとは何者じゃ? どこの家中の者かえ?」
やっと話の通じる人種に出会えて、エウロデューデルは堰を切った。
「そっ、それになんじゃ! なんなのじゃ、こやつらは! 妾をグリシエヴ王家の者と知って斯様な狼藉を働きおったのか!? そこもとほどの騎士がおってからにこの醜態はなんじゃ! けしからん! 許さぬ! 決して許さぬぞ!」
顔を真っ赤にし、涙目になり、両の拳を握りしめ、エウロデューデルは一気に捲し立てた。よっぽど怖かったのだろう。
「ご無礼の段、ご容赦くださいませ、殿下」
鈴の音のような可憐な声で謝られ、エウロデューデルも勢いを失った。
「む、ぐ、ぐぬぅ……」
「余もまた本船に厄介になっている身に御座います故。しかしながら、貴族の端くれとして、殿下と船長の橋渡しをさせていただきとう存じ上げます」
ララにはなんとなく、この茶番の台本が見えてきた。
女騎士はエルヌコンスの貴族で、女海賊はエルヌコンスに雇われている。
そして、エウロデューデルの正体を知っていたのだから、もちろん彼女の行く先も目的も知っているのだろう。
敵ではないが、味方でもない。
「ここではお寒うございましょう、殿下。船長室にご案内致します」
女騎士がさっと手を差し伸べた。その所作の貴公子然とした優雅さは、エウロデューデルの心の臓を跳ねさせるには十分だった。
「う、うむ。連れて行くがよいぞ」
相手、女の人なのになぁ、なんて思いながら、ララも赤面するエウロデューデルに続いた。弓は背負えど、短剣の柄に手をやりながら。
このときはまだ、海賊の見張りもララの直感も、追っ手の姿を捉えてはいなかった。