ウサギの海賊旗
透き通るような青空の下に広がる雲海。
いま、一羽の巨大な鷲が白い雲の海から飛び出した。疾風のような速さで、ぐんぐんと高いところへと昇っていく。まるで、夏の太陽に挑むが如く。
翼幅三丈(約九メートル)はあろうかという大きな鷲の背にはふたりの少女。
「ら、ララよ! なんじゃ!? なんなのじゃ、これは!?」
「んー? どしたのー?」
悲鳴のような問いに対してそっけない返事をしたのは、祝祭村のララという少女。西国の狩人装束に身を包み、鷲を駆っている。
齢は十六なのだが、短い髪はすべて色を失った白髪。まだ幼い顔立ちだが、この危機にあっても表情は飄々とした様子。大人びたというほどしっかり者のようには見えないが、年相応というには大きな違和感が伴う。
「寒い! 寒すぎじゃないかえ!? 遠国とはいえ夏のはずじゃ!」
「雲の上はいつもこうだよー」
「なんじゃと!? だのに、お主は平気なのかえ!?」
一方、ララの背中で大騒ぎしている少女は十という年齢にふさわしい小さな体に幼い顔つき。そして、言葉遣いは高貴な出自を示している。
「エウラ、あんまりしゃべってると舌噛んじゃうよー」
「えぇい! 妾の名はエウロデューデルじゃと何度も何度も言うておるではないか! そも、お主には殿下と呼ぶようあれほどわひゃあああああああああああ!!」
エウラ――エウロデューデルの抗議はすぐに悲鳴へと変わった。ララが騎乗する鷲を大きく右に傾けたからだ。
エウロデューデルはただ悲鳴をあげ涙目になりながら、ララの背中にしがみつくことしかできなかった。
「もももももも、もう少し! ゆ、ゆっくりにならんのか!? わ、妾は、と、飛ぶのが、苦手なのじゃああああああああああああああ!!」
今度は一気に高度を下げ、鷲は雲海すれすれを飛ぶ。
「だって、急がないとサント……サンタ? サンチ……? サンテチ? 聖地に辿り着けないじゃん?」
「聖地サントゥアンじゃ!」
彼女たちの目的地は大陸中央回廊のさらに中央――大地母神の眠る地とされる聖地サントゥアンであった。
東方帝国の支配する聖地サントゥアンは大陸万民が知る地であり、発音に困るほど難しい地名でもない。それでも、ララはよく覚えていなかった。どうやら興味がないらしい。
「ほら、追いつかれちゃったじゃん」
ララがこともなげにいうと、雲海から空飛ぶ帆船が現れた。風を切る轟音と共に。
空飛ぶ帆船――それは、「海と空の夫婦像」を船首に据えることによって、海だけに留まらず空までも行く魔法の船である。竜や鷲と違い、その背に翼を持たない人類にとって自らの力で空を飛ぶ数少ない手段。
今も向かい風ながら三角帆で風を捉え、ララとエウロデューデルの駆る鷲と併走している。軍船としては小型のピンネースだが、その分、足が速い。ララはウランドゥール修道院領上空で引き離したつもりだったが、相手もやるものである。
ここはまだ南ウランド山脈を越えたあたり。このままでは聖地サントゥアンへ逃げ切ることなどできない。
なぜなら、その船の帆と旗には西方同盟の赤い聖印が染め抜かれ、砲門がすでに開かれているからだ。
「エウラ、くるよっ」
「なんじゃと?」
青空の下、まさに青天の霹靂のような轟音。
西方同盟の軍船から放たれた散弾やら葡萄弾やらが巨大な鷲を、非力な彼女たちを襲う。
「ララ! ララ! なんとかせよ!」
「この距離なら当たんないって」
「本当か!? 本当に本当か!? なにか根拠があるのかえ!?」
「んーん、カン」
ララがそう言い切ったため、エウロデューデルは言葉を失った。
彼女はもちろん命が惜しい。だが、それだけで取り乱しているわけでもない。彼女には祖国の命運が託されているのだ。
遥か西方、グリシエヴ連合王国。大陸西方にあって、西方同盟――ヴァイゼーブルヌ神聖同盟に屈していない数少ない国のひとつ。古来より魔法の研究が盛んであり、それ故に今も同盟に抗している。
エウロデューデル・クセン・キペットリア・グリシエヴはその王の娘――第三王女である。
この齢十の、西方貴族には珍しい黒髪の、鷲の背で泣き喚く小柄な少女が、併走する空飛ぶ軍船の標的であり、西方戦域から遠路追跡され今に至る。
「ん?」
鷲が羽ばたき、風を切る。慣れないエウロデューデルはただ目を回すことしかできない。それでもララが首を傾げたのを見逃さなかった。
「どどどどど、どうしたのじゃ!?」
「風が……」
これ以上の何が起こるというの? もっと何か不幸が? エウロデューデルは思いつく限りの神々に祈った。
「そこにもう一隻いる」
ララは今までと同じようにあっけらかんと答える。
だが、一隻でも恐ろしい空飛ぶ船が二隻となれば、軍略に疎いエウロデューデルでもわかる。これは万事休すだ。
「なんじゃとおおおおぉぉぉぉぉぉ!?」
もはや、祈るのもやめて叫ぶしかない。
幼き王女の叫びに応えるように、雲海からまたも空飛ぶ帆船が現れた。
三本の檣に浅い吃水。
商船と比べると小ぶりな船首楼と船尾楼。
砲列は上層甲板と下層砲列甲板の上下二列。
白い帆布が雲のように美しい。
空飛ぶガレオンが、船体を横にして彼女たちの行く手を塞いだ。砲門はすでに開かれ、暗い砲口が牙を剥いている。
「ララ! ララ! お願いじゃ! 妾を助けてたもれ! 妾はまだ死にとうないのじゃ!」
ララの背にぎゅっとしがみついたエウロデューデルは目を瞑っていたから、それを見ていなかった。だが、ララの眼はすでにそれを捉えている。
二隻目のガレオンはピンネースと違う旗を掲げていた。
黒地に白い髑髏。
降伏か死を選べと迫る、問答無用の旗――海賊旗。
「ルルーヴ! 上!」
ララは鷲の名を呼び、急上昇。ガレオンの檣と檣の間を駆け抜ける。
「ひゃああああああああああうううううう!!」
王女の悲鳴を軌跡に、鷲はそのまま舞い上がった。
鷲とすれ違うと、今度は海賊旗を掲げたガレオンが片舷射撃。エウロデューデルの叫びを雷鳴のような砲声が掻き消した。
先のピンネースに対し、ガレオンは風上であり、船体を横にしている。すなわち、丁字を成している。これは、砲戦において圧倒的に有利な位置取りだ。
ガレオンの左舷すべての砲から放たれた鉛の暴風は、ピンネースの船首から船尾までを貫いた。甲板に立つ船員を攫い、檣を根本から倒し、船尾楼の内部を犯す。
そしてなにより、海の神と空の神の抱き合う姿を模した魔法の船首像を打ち砕いた。
魔法による浮力を失った空飛ぶ帆船は、本来の理法に従い地に墜ちるしかない。雲の下が海や湖なら絶望するには早いが、あいにくこの下はキュイーズ共和国かエルヌコンス王国の内陸部だ。
ララは高空から、雲海に沈みゆく軍船を見下した。あれでは船員の命はないだろう。
「ララよ、あ、あの船はなんなのじゃ?」
恐るおそる目を開いたエウロデューデルが、恐るおそる口も開いた。
「うーん? なんだろ?」
鷲のルルーヴを大きく旋回させ、ガレオンをぐるりと巡る。
グリシエヴ王室からの依頼によれば、別に支援の予定などない。孤軍奮闘してくれとのことだった。なかなかに無茶な依頼だが、それはさておく。ともあれ、だからこそララも「援軍」とは即答できなかった。
鷲を駆って船のまわりをもう一周。
空飛ぶガレオンの船尾に掲げられた海賊旗が、どこか場違いなほど可愛げのある意匠であることに気づいて、ララは首を捻った。
「ウサギの……海賊旗?」