第四節 越境
夕闇迫る中、ウランドゥールの平原から一頭の獅子鷲が飛び立った。ひとりの紳士を乗せ、大きな鳥籠を抱えて。
「いったい、どういうことなんですか?」
グドリッカ子爵を見送った青年騎士フロンソフィエは、シスク・ベルケルに訊いた。彼にはまだ、かの有名な死神卿が何のために東へ向けて飛び立ったのかわからないのだ。
それに対し、シスクは挑発的な流し目を向けた。
「素直なのはいいけど、もう少し自分の頭を使ったらどうかな?」
「なッ!?」
「怒ってる暇があったら、頭を、働かせて?」
人差し指をフロンソフィエの頭部へ向けるシスク。
「彼はあの暗殺貴族――北方の死神卿グドリッカ子爵、ですよ? では、ここで問題です。彼はこれから何をするつもりでしょうか? 配点一点」
シスクは冗談めかして問うが、フロンソフィエは真剣に考えた。だが、やはり、答えはひとつしか思いつかない。
「暗殺、ですよね?」
「正解。グドリッカ子爵ハムクルプト先生は同盟本営の依頼により、どこかの誰かさんを暗殺しに行く。それ以外にないじゃないですか」
草原に吹く風を舞うように撫でるシスク。彼にはフロンソフィエ以上に、世界が見えているのだろう。
グドリッカ子爵曰く「何でもお見通し」なのだ。
「しかし、暗殺など! 卑怯――であるのは当然ですけど、この戦においてそのような必要があるというのですか?」
本営の求めより遅れているとはいえ、巡礼軍は今も大兵力でエルヌコンス領を東進中だ。明日の朝には眼下の別働隊八千が北上し、レアンサブランを決定的に追い詰めることとなる。
もはや、エルヌコンス王だろうと暗殺する価値すらないのである。
「フロン君、減算五点」
またも何やらわからぬ採点をされてしまった。
「そこは逆に考えてくれないと。いーいでーすかー? 現状、君や僕の見える範囲では、確かに暗殺なんてことする必要はありませーん。でも、だからといって、よもや大神じゃあるまいし、世界には見聞きできない事象だってあるでしょう?」
言われてみればそうだ。千里眼を持たぬフロンソフィエにはあの山の向こう側さえ見えないのだから。
「僕らに見えるのは、本営のお偉方が、大義や騎士道みたいな格好良さをかなぐり捨ててまで、誰かを暗殺しようとしている、という事実だけ、です」
それほどの重要人物とは誰か。まさか、東方帝国皇帝というわけでもあるまい。フロンソフィエには想像すらできなかった。
「だれ、なんですか?」
またぞろ馬鹿にされるかと思ったが、シスクは案外素直に教えてくれた。
「おそらく、西方の非同盟諸国――最も可能性が高いのは、グリシエヴの使者、だと思うんですよねぇ」
「あの卑しき魔法使い共ですか!?」
大神信仰篤き西方にあって、古来より万神を崇め、魔法を伝承するグリシエヴ連合王国。フロンソフィエら西方人にとって、征討せねばならぬ蛮族でもある。
「僕はそういう偏った思想には賛同できないけど、そう、そのグリシエヴだろうね」
日が沈み、草原に広がる軍勢の松明だけが灯りとなった。月はまだ低いところにいて、その明かりは頼りにならない。
「フランベルルやエタンシュルということはないのですか?」
どちらも、グリシエヴ同様、今も同盟に抵抗している不埒な世俗の王国である。一昨年、両王家が縁組し、今は連合して戦っている。
「可能性はなくもないですけど、どっちも陥落は時間の問題じゃないですか。僕らの同盟にとって怖いのは、存在を否定し、自ら未知としてしまった存在――魔法を操るグリシエヴだけでしょう?」
フロンソフィエは魔法というものを目の当たりにしたことがない。
魔法の船首像によって空を飛ぶ帆船くらいなら見上げたことはあれど、魔法使いが魔法を使うなどという出鱈目な姿など想像もできない。
無論、敬虔な信徒であるフロンソフィエはそんな汚らわしい魔法など見たくもなかったが。
とはいえ、魔法を操るグリシエヴが西方統一の妨げになっているのは、魔法ならぬ事実である。
「では、その、グリシエヴからとおぼしき使者はどこへ向かっているのです?」
「それはさすがに気づこうよ、フロン君。孤軍となりつつあるグリシエヴが同盟と戦うのに、誰と盟約を結びたいと思う?」
ぴっと、両手の人差し指をフロンソフィエへと向けるシスク。
フロンソフィエはすでに、彼の無礼な振る舞いを気にしないことにしていた。典院猊下相手に不遜なのだから、若輩な自分に礼節を持って接するはずがない。
それよりも問題なのは、設問の答え。
「東方――エフォンマリンド帝国」
ヴァイゼーブルヌ神聖同盟を世界で唯一凌駕する領土と領民、そして軍隊を持つ大国。多民族を併呑し、回廊地方や南方洋にも強い影響力を持つ覇権国。
「そう、もうわかったよね? 使者が向かうのは最も近い帝国領――」
「……聖地サントゥアン」
奇しくも、彼ら巡礼軍の目的地。
シスクとの対話により、フロンソフィエの脳裏にもしっかりとした構図が見えてきた。
東方帝国との同盟を望むグリシエヴの使者。
ここから東――サントゥアンの方角へ飛んで行った二隻の空飛ぶ軍船。
そして、その後を追うように、やはり東へ向かった暗殺貴族。
「さて、これで君の疑問は全部解決したかな? 次からはもう少しその頭を働かせて――」
などと挑発的かつわざとらしく苦笑するシスクに対し、フロンソフィエは恥を承知でもうひとつ残った疑問を尋ねてみた。
「あの、男爵閣下――」
「なにかな?」
「もうひとつだけ、気になるのですが――」
「前置きはいらないよ」
答えはわかっているつもりだが、誇り高き金の拍車の騎士として、未だに信じられないのだ。
そのような非道が許されていいものか、と。
「グドリッカ伯爵の獅子鷲がぶら下げていた大きな鳥籠――あの中に入れられていたふたりの少女は……」
今し方見送った死神卿の獅子鷲は大きな大きな鳥籠を抱えて飛び去った。その中にはまだあどけなさの残るふたりの少女が閉じ込められていた。
異様な光景だが、フロンソフィエにだってそれがなんであるかはわかっている。
「やだなぁ、フロン君。君だってわかってるんでしょ?」
夜の闇の中、サリーデス男爵シスク・ベルケルは不出来な生徒を前に、呆れ顔で肩をすくめた。
「あれが死神の鎌だよ」
「左舷前方にィ山の頂がァ見えーまァーすッ!!」
檣楼から水夫フリーゴルが叫ぶ。ちびのくせして相変わらず大きな声である。
報告を受け、船長であるリツカは船尾楼甲板を下り、舷側通路を通って、船首楼甲板へ。
船首楼甲板に立ち、父の形見の望遠鏡を左舷前方へと向ける。
「間違いない。霊柩山脈ね」
「あれが母神の柩……」
リツカが確認すると、プラニエも呟いた。
大地母神の眠る聖地サントゥアンをまるで取り囲むように連なる峻険――母神の柩こと霊柩山脈。
高位貴族の娘として親の所領で育ったプラニエにとって、世界で最も有名な山脈といえど、目にするのは初めてなのだろう。
遠国の王女もそうだ。
「ララ! ララよ! ついに聖地に着いたのじゃな!」
「そーだねー」
エウロデューデルが赤い瞳を輝かせている。はしゃぐ王女とは正反対、護衛のララはいつも通りだ。
「でも、あの山、越えるの大変だよね?」
ララは船乗りでもない「おかもの」のくせに風が読めるのだろう。鷲を駆って飛ぶのだから当たり前と言えば当たり前だが。
「そうよ。柩の颪――霊柩山脈特有の吹き下ろしがあるから、越えるだけでも丸一日はかかると思ってて」
航空機もなく、後世でいう航空力学など概念すらない時代である。
空を飛べる者もひどく限られているため、空飛ぶ帆船といえば空を自由に飛べるという誤解も多い。
元来が帆船であり、潮流なき空では風を捉えることでしか航行できない。強い向かい風にあえば前進は難しく、凪にあえば進むどころか高度も保てない。
この場合、霊柩山脈山頂からの強力な吹き下ろしを受けながら山登りすることとなる。いくら向かい風に強い三角帆を有するからといって、困難な上手回し(タッキング)の連続である。
時間もかかるし、失敗すれば山肌に激突。生半可な船乗りには出来ない芸当だ。
「むむむ? 向こうに着いたらどうやって下りるのじゃ?」
空飛ぶ船は大地に降りることができない。
それを思い出してエウロデューデルは訊くが、リツカは呆れ果てた。
「サントゥアンの聖水湖を知らないわけ?」
死にゆく大地母神が零した涙と言われている、これまた世界一有名な湖――聖水湖が霊柩山脈の内側にある。
水深は充分に深く、三月のウサギ号に限らず、聖地を訪れる空飛ぶ帆船は泊地として利用している。
ちなみに、口さがない海賊連中などはこれを女神の膀胱などとも呼ぶ。
「し、知っておるわ! ふ、船のことがわからんかっただけじゃ!」
子供らしい気恥ずかしさで顔を赤らめるエウロデューデル。そんな彼女を見ていると、プラニエが抱く罪悪感にも共感できてしまう。
ともあれ、彼女を聖地に送り届けること。それが第一歩だ。
「さて、フォルシ。航路は?」
足音も気配もなく傍らに突っ立っていた船幽霊――もとい、航海長のフォルシ・キペーランに訊く。
存在感は霞とどっこいどっこいだが、その航海術は信頼に値する。
「南西側、の、斜面を、間切って、いけ、ば、大丈夫、です、はい。ただ、逆に、尾根を、越えた、方が、谷間の、風を、避けられ――」
「ベリスカージ! 聞こえた?」
「あい、船長!」
フォルシの尻切れ蜻蛉を遮り、リツカは掌帆長ベリスカージ・ヘルセルガリスを呼びつけた。
「あの高い稜線を越えるから、そのつもりで間切って。だけど、左右には振りすぎないこと。詰開き(クローズ・ホールド)も禁止。尾根の左右の谷間が風強そうだから、それに捕まらないで」
「ガッテン承知!」
フォルシとは違い、如何にも船乗り海賊らしい威勢の良さ。
「野郎共ォ! 山登りの支度をしろォい! チンタラしてんじゃねぇぞ、この親不孝連中めェ! 手前ェら、好きでロクデナシの海賊やってんだろうがい! 船長が山登れっつったら登るんだよォ!」
隻眼の掌帆長が甲板を歩くと、ぼやぼやしていた水夫たちが一斉に持ち場へ向かった。出遅れたのっぽの水夫――マルブは、不幸にもベリスカージに尻を蹴っ飛ばされた。
指示を出し終え、リツカは活気づいた上層甲板を見渡した。
究極の風上へ登り、風下には容赦のない山肌。
サントゥアンに寄港するのは初めてであり、危険な操船となるが、彼らならうまくやってのけるだろう。
「そうだ。プラニエ、暇?」
突然呼びかけたものだから、彼女はきょとんとしていた。
本来、プラニエたち騎士――この船にとっての海兵たちに船乗りとしての仕事はない。操船にかかわることで話しかけられるとは思っていなかったのだろう。
「アンタの家の旗、船尾に掲揚しといて」
「クロンヌヴィル侯爵家の旗、ですか?」
「他に何があんのよ」
海賊船や私掠船といっても、のべつまくなしに髑髏の海賊旗を掲げているわけではない。あの旗は獲物に降伏か死を迫る、謂わば意思表示なのだ。
普段はどこかしらの商船旗を掲げていた。今も南方組合の商船旗が翻っている。
他にも私掠免許により合法的に掲揚できることとなったエルヌコンス商船旗。違法を承知で常備している東方各藩国やクレンヘルゲルの商船旗もある。
時と場合を考えて旗を使い分けるのも孤独な賊――海賊らしいやり口なのだ。
「いいですけど、どうしてです?」
騎士であるプラニエには、まだそういった機微とズルはわからないようだ。
「空飛ぶ船持ってないエルヌコンスの商船旗ってわけにもいかないし、さすがに聖地入りするのにあからさまな嘘の旗はまずいでしょ?」
「ええ、まあ、それはそうなんですけど……その、リツカさんにもそういう倫理観あったんだな、って思ってしまって――」
「何を馬鹿な」
リツカは呆れ、吐き捨てた。
世間や戦場に揉まれたプラニエだが、今なお素直すぎる。
「場合によってはアンタがクロンヌヴィル侯女として帝国とグリシエヴの仲を取り持つんだから。侯爵家の旗を掲げて入港した方が話も早いでしょ」
聖地サントゥアンの聖水湖に入る船となれば、聖地の太守どころか、滞在する各国の貴族や商人、間諜までもが注目する。
そこへ、グリシエヴの王女を乗せたクロンヌヴィル侯爵――エルヌコンスの大貴族の船が現れたとなれば、戦略的価値は大きい。
エウロデューデルの手前、口では仲を取り持つなどと言ったが、交渉は決裂するだろう。むしろ、その後のための布石なのだ。
プラニエもそれを察したらしい。すぐに改まった。
「あっ、はい! そうですよね! 掲揚してきます!」
執事の老ソワーヴを連れて、船尾へと駆けて行った。
リツカもふたりに続いて船尾楼へ戻ろうとしたとき、背後の会話が耳に届いた。
「どうしたのじゃ、ララ?」
「んー」
エウロデューデルとララの、相も変わらず要領を得ない会話。
リツカが振り返ると、ララは霊柩山脈ではなく船尾の方向――西の空を見上げていた。
「あっちから何か来そうな気がするんだよね」
何か――おそらく追っ手なのだろうが、見張りからの報告はない。だが、ララの直感を馬鹿にしてはいけない。
リツカは甲板で水夫を怒鳴りつけているベリスカージを呼び止めた。
「ベリスカージ! できる限り山登り急がせて」
「おうっ? あい、船長! わかりやしたァ!」
霊柩山脈の頂を越えれば、そこは回廊地方の中心であり東方帝国の飛び地――帝国領聖地サントゥアンである。
※誤字を修正しました。