夏の影
――あ、蛍。
東京の街中に、なんて珍しい。
私は窓の外の小さな光を、ただ見つめました。
誰もいない家の中、思い出すのはいつもの夏。
私がまだ小さい頃、祖母の家に行くたびに何かの視線を感じていました。
まだ自分の見た物を母に正確に伝えるのは難しく、私の訴えを母は笑って聞き流しました。私はとても真剣に伝えたのに、信じてくれる大人はいませんでした。
「何かいるの」と頬を膨らませる私の言葉を、大人たちは決まって「子供は怖がりだな」と笑うのです。
怖いというわけじゃないと、言ったのに。
ある夏の蒸し暑い夜。蛍の光が河原を照らす頃。私がまだ小学生の頃。
トイレにと起き出した私は、居間で人の姿を見ました。
男の人がいるのです。今でなら変質者だと騒ぐところですが、当時の私はその人を不思議そうに見上げて尋ねました。
「おじちゃん、何で浮いているの?」
その男の人は私を見下ろすと、ふいと消えてしまいました。
ですが視線は感じます。消えたといってもどこかにいるのです。
むずむずと、私はむずがゆいような感覚を押さえて、その視線の方向に向かいました。納戸、台所、蔵の中。
最後の蔵の中でその男の人を捕まえました。真っ暗な蔵に幽霊のように立っている彼でしたが、不思議と怖いと感じませんでした。
「おじちゃん、誰?」
その時の私はきっと好奇心に満ちた表情をしていたでしょう。彼は逃げても逃げても追ってくる私に辟易したかのようにそっぽを向いていましたが、ちらりと私を見ると吐き捨てました。
「出て行け」
彼としては私を追い出したかったようですが、私は返事をしてくれたことが嬉しくて目を輝かせると、近寄って行きました。
「おじちゃん、おじちゃんどうして真っ暗な所にいるの?」
彼は私に対して眉間に皺を寄せてみせると、またふいと消えてしまいました。
その夏は以降、彼を見ることはありませんでした。
* * * * * * * * * *
次の夏の夜、祖母の家に行くと戸を開いた瞬間に彼に出会いました。バッチリ目が合ったのです。
私は目を丸くしました。彼はしまった、という顔ですうっと逃げ出しました。
私に会うのが嫌なのでしょうか。それとも一人が好きなのでしょうか。
それでも私の好奇心は、私を祖母の家探索へと駆り立てました。
三日ほど彼と追い駆けっこをすると、ある日の夜に彼はうんざりした顔で私を迎え撃ちました。
「お前、いい加減にしろよ」
「あ、見つけた!」
私の満面の笑みは彼の脱力を誘ったようで、彼は蔵の籠の蓋に腰をかけました。
「何なんだよ、普通のガキなら夜に外なんか出歩けないだろ。なんで俺を追いかけてくるかなぁ、こいつは」
不思議です。私の家であれば、夜に外などとんでもない恐怖です。トイレに行くにも母を起こすことが珍しくはありませんでした。
ですが古くて怖いはずの祖母の家の方が何故か怖くなかったのです。何故なのかは分かりませんが。
「あたしね、風子。おじちゃんは?」
「自己紹介はいらん。知っている。お前の事はおしめの頃から見ている」
「おじちゃんは?」
「そしてそのやかましく動く口を閉じて、ここから出ていけ。俺はお前と鬼ごっこをしていられるほど暇じゃない」
「おじちゃんは?」
子供は懲りないということを、身をもって知ったかのように彼はがっくりと肩を落としました。
「好きに呼べよ」
「お名前ないの?」
「あるけどお前には教えない」
私は非常に不満に思い、諭すように言いました。
「意地悪しちゃ、いけないんだよ」
「意地悪じゃねぇよ」
彼の頬に自嘲めいた笑みが浮かぶのを私は見ました。
「名前は言えない」
その表情が彫像の様に凍った様を見て、私は悪いことを聞いたのかとしばらく言葉を失いました。けれど両手をぎゅっと握って、私はもう一度言葉を紡ぎました。
「なら、風子が名付けてあげる。影さんって、どう? いつも影にいるから」
その言葉を聞いて彼は私を見ると、大きくため息をつきました。
「好きに、呼べよ」
先程よりも柔らかい声で、吐き捨てました。
その夏の間じゅう、私は影さんを探し回りました。
彼は鬼ごっこをしているつもりではなかったのでしょうが、私にとっていつの間にか影にいる彼を探すのは少し面白かったのです。
残念なことに祖母の家の周囲には、私と同じ年頃の子供がおらず、大人は私と遊ぶのに飽いたように連日酒を飲み、スイカを食べ、とうもろこしを食べ、居間に大の字になっていました。
私は影さんを探し回りました。居間の影にひっそりと、土間に、納戸に、そして天井の影に浮かんでいる影さんを見つけると、手を振って遊ぼうと声をかけてみました。
その度に苦い表情を浮かべ、影さんは私にしっし、と手をふって追い払いました。
彼がまともに話をしてくれるのは、蔵で見つけた時だけでした。
「お前は本当に暇なんだな……」
「うん!」
影さんの声に私は頷きます。私が過分に期待した目で見ていたせいか、彼は白旗をあげました。
「分かった、遊んでやる……。だからせめて外で俺を見たときは、声をかけるな」
「ほんと!?」
私の喜色満面の顔を呆れたように見て、彼は籠の蓋の上に立ち上がりました。
「お前は本当に阿呆なんだな。見えない物を見えると言うと、薄気味悪く思われるぞ」
「え?」
私には意味が分かりませんでした。影さんはそこにいるのに、見えないとはどういうことでしょう。
「俺は姿のないものだよ。お前が俺を見られるのも、せいぜい小学生の終わり頃までだろう」
彼はそう言うと、蔵の籠をひっくり返して幾つかの玩具を取り出しました。アヒルの玩具に、笛のようなもの、竹で作られた細い棒。みんな私が見たことのないものでした。
目を輝かせた私の目の前で、彼は幾つかそれを操作してくれました。
「ほら、よ」
飛んでいった竹とんぼの羽の部分は、蔵の天井に当たるとかつんと音を立てて落ちてきました。
私はそれを捕まえると、影さんは私に竹とんぼの棒の部分を渡してくれます。影さんの手はひんやりとしていました。
「すごい! これ、どうやって遊ぶの?」
私はその日、夜中まで影さんと遊び、昼まで起きずに母を怒らせてしまいました。
夏が終わり祖母の家から帰るときに、影さんは私に手を振りました。私は帰りたくないと思いましたが、影さんの言った言葉で渋々と帰ることを承諾しました。
影さんは
「また、来年の夏に」
そう言ったのです。
* * * * * * * * * *
次の夏もその次の夏も、祖母の家に行くたびに夜更かしして影さんと遊びました。影さんは夜ならばどこにでも行けると言い、私と共に探検をしたり、木登りをしました。木登りは影さんの圧勝です。影さんは空が飛べるのでずるいと思いました。
「図鑑で蛍を見たよ」
ぼんやりと夜目で周囲が見える蔵の中、私は笑って影さんに話しかけました。影さんは何でも知っています。いろんな冒険も、知らない遊びも、珍しい虫も。
「あたし、蛍を見てみたいなあ」
影さんは、子供の遊びに仕方なく付き合っている大人の表情です。いつもなら苦笑しながらも付き合ってくれるのに、あっさりと断られてしまいました。
「無理だ」
「どうして?」
「もし本当に見たいのならば、一人で行ってこい。橋向こうの河原にいるはずだ」
「はずって?」
「俺は蛍を見に行ったことはない」
夜ならば何処でも行けるはずが、何故でしょうか。むしろ、どこへでも行けるのに何故ずっとこの家にいるのでしょう。日中は姿を露わさず、影も形もみせずに、どこにいるのでしょう。
「一緒に行けないの?」
「無理だ」
彼は再度言いました。
私は非常に残念ではありましたが、彼がそうと言うのならば、と諦めました。
「影さんは風子の産まれたときにいたの?」
「いたな。ギャアギャアとうるさい小娘だった」
頬を膨らませて私が拗ねると、彼はそのひんやりした手を私の頭に乗せて撫でました。
「お前の母も、祖母も、その前の曾祖母もみんな見ていたぞ。どいつもこいつもギャアギャアと猿みたいな顔をしていたのに、あっという間に大きくなって、爺婆になってしまった」
私もあっという間にお婆さんになってしまうのかと怖くなりました。
そう言うと彼はくしゃりと顔を崩して笑うのです。
「そうだな、まだ婆ではないな。けれどあっという間に大きくなったな」
そういって私を見る目は遠く、言葉に寂寥感を滲ませていました。来年には私は小学生ではなくなります。
私はいきなり隣にいる影さんがいなくなってしまうような気がして、慌てて影さんの腕を掴みました。
ひんやりとした冷たさが、私の手に伝わってきました。
「どうした」
「なんでもない」
私は手をそっと放しました。
この夏も私は帰りたがらず、かなり駄々をこねた気がします。呆れた両親は私より一足先に帰り、私は呆れた顔の影さんに散々怒られました。
次の夏に来ればいいだろうと、そういう母も父も影さんも、なにも分かっていないと思いました。
* * * * * * * * * *
「影さん」
いつものように私が蔵へ飛び込むと、いつものように彼は私のほうを向きました。そして目を丸くしました。
「……驚いた」
予想通りの効果をあたえたことに私は嬉しくなって彼を見上げます。
「中学生か」
彼の言葉に頷くと、制服が皺にならないようにといつものように彼の隣に座り、その顔を見つめました。
「どう? 影さん、びっくりした?」
彼は目を細めて頷くと私の頭を撫でます。まだ子供扱いされている気がしますが、彼にとっては小学生も中学生も変わらないのかも知れません。
「大きくなったもんだ、猿だったのに」
「影さん、影さん、それ褒めてない」
折角制服を見せに来たのに、と唇を尖らせて私は影さんの横顔を忍び見ました。
彼の年の頃は二十代後半か、三十でしょうか。服は簡素な着物で、短めの髪の毛も目の色も黒です。二の腕はあまり筋肉のなさそうな感じ。無精ひげは……はえていません。
「おい」
私が彼のあごすじをなぞったのを受けて、彼は私の手を掴んで押し返しました。
「何をしている」
「影さんを見ているの」
「楽しいか?」
「うん」
彼は呆れた視線を私に寄越してきました。
「昔からお前は変な娘だった」
「今でも変みたいな言い方やめてほしいな」
「今はもっと変だ」
ひんやりとした夜の空気。東京にはない虫の大合唱。夜だけいる人。
その時には東京の夜が何故怖いのか分かりました。彼がいないからです。
昔からずっと、私は夜に彼の存在を感じるのが普通だったのです。
「ねえ、影さんって座敷童子?」
突拍子のない私の言葉に影さんは頬杖をついたまま私の方を見ます。
「こんな童子がいると思うか?」
その通りです。私は考えていた色々な影さんの正体を、そこで色々推理しましたが、全て影さんには鼻で笑われました。
「じゃあ幽霊? 地縛霊とか」
「こんなにふらふらと出歩く地縛霊はいないな」
「実は生きていて、生き霊とかじゃないの?」
「お前の曾祖母すら生きていないのに、どこで生きているんだ」
考えても分からないから、聞いているというのに影さんは話すつもりもないようです。
「もういい、分からない」
私は早々に両手を挙げました。自慢ではありませんが、推理小説で犯人を当てたことはありません。
彼は私の言葉を聞くと、蔵の扉を開きました。
「推理大会も終わった所で、河原にでも行くか」
橋の手前の河原は、祖母の家から歩いて数分の所にあります。近いので夜中でもそこまでなら時々出かけていました。今だったら変質者が出たらどうする、と怒られたでしょうが。
でも私は影さんと一緒ならば、何も怖いことなどないと思っていましたし、今でもそう思っています。きっと、ずっと。
河原はひんやりとしていました。まるで影さんの手のようです。
虫の音が響く中、さらさらと川が流れる音がします。
私が腰を下ろすと、その隣で影さんが寝そべりました。私も真似をして寝そべりました。今度はここで寝ないようにしないといけません。以前うっかり寝てしまい、朝が来たら影さんはいないわ、蚊に喰われるわと散々でした。
その時の私の抗議を影さんは「起こしたのに起きない方が悪い」と一言であしらいました。ひどいと思います。
夜空には星が輝いていますが、最近視力の落ちた私の目にはよく見えません。
「影さん」
「何だ」
今年が終わったら会えないかもしれない気持ちがして、私は焦っていました。だからこそ影さんの正体が知りたかったし、影さんとの繋がりを薄れさせたくなかったのです。
「影さんの名前、まだ教えてくれないの?」
隣の影さんは動きませんでした。私はじっと反応を待ちました。
「知りたいのか?」
その声は感情がなく、私の隣からは人の気配が消えたようにすっと冷えました。
「知りたいよ」
私はそう言いました。隣を伺おうとすると、目の前の視界が暗くなりました。ひんやりとした手が私の目を覆っています。
「俺はお前のくれた名前が気に入っているぞ」
「私も影さんの名前、格好良いと思ってるよ」
「そりゃあ、ありがとうよ」
虫の音が聞こえます。隣の彼は私の質問に答える気はなさそうです。彼が答えたくないと言うことを無理に答えさせることは出来ず、そして彼は言わないと決めたら言わないでしょう。言うと決めたら言うだろうという予想と同じように。
「来年もまた、来るか?」
「うん」
来年も再来年も、絶対来るよと私は答えました。
「そうか」と答えた彼の声からは、特別深い感情は読み取れませんでした。ただ、いつものように二人でとりとめのない話をしました。
* * * * * * * * * *
「……」
彼の目が再度丸くなりました。
「影さんあのね、中学生の次は高校生になるのよ」
私はスカートを広げて見せました。段々と私の背丈は影さんに近づいていきました。今では隣に並んでも、見上げて首が痛くなることはなさそうです。
「婆も近いな」
「影さんそれ高校生に言う言葉じゃないから」
私はスカートを折らないように気を付けて籠に座りました。
また少し、影さんの肩が近くなった気がしました。
「大きくなったな」
影さんの言葉を聞くと、何か胸の奥にこみ上げて来るものがあります。
「分からないでしょ」
「分かるよ」
私は首を振りました。
分からないでしょう。蔵の彼の姿を見て、やっと帰ってきた気分になったことなどは。
どれほど影さんの姿を探すのが怖いか、なんて。
「影さんには分からないよ」
私は影さんの手に触れると、河原に誘いました。蔵の中に置き去りにされた、カルタや竹とんぼ、木製の玩具。かつて二人で沢山遊んだ玩具は、ひっそりと籠の中に入れてあります。
小さな頃の思い出も、大人になったら記憶の籠に入れてしまうのでしょうか。
河原は相変わらずひんやりとしています。繋いだ手もひんやりとしています。
私と影さんが団扇を持って河原へ向かう途中、ふと光る物を見つけました。
「あ」
蛍。
ひらりと浮かび、舞い降りては小さな光を放つ蛍が見えました。
私は嬉しくなって影さんを振り返ると、言いました。
「影さん、蛍よ」
その瞬間、私の手は乱暴に振りほどかれました。驚く私を後目に、彼は身を翻して家の方に走って行ってしまいました。残された私はぽかんと、彼の消えた蔵の入り口を見ていました。
思考回路が繋がった後に、私が蔵へ行くと、彼は蔵の中で両目を覆って座っていました。
「影……さん」
私の言葉に、影さんがハッと顔をあげます。
彼の細い目が、辛そうにより細められていました。
私は彼の前までいって地面に座り込みました。
どうしたの、大丈夫、と言っていいものでしょうか。判断に困って私はただじっと蔵の冷たい床の上に座っていました。
目を伏せて地面に座っていた影さんが、私に声をかけました。
「わるい」
私は首を振りました。
「蛍の光が、目に入った」
彼は呟くように言いました。私も蛍の光を見ましたが、それは危険なものだったのでしょうか。
彼はそのまま数分じっとしていましたが、心配そうな私の顔を見てか、立ち上がりました。
「大丈夫だ、もう」
「本当に? 影さん」
「ああ」
いつもの影さんでした。
私はやっと安心して、ホッと息を吐きました。
先程より幾分か気分が楽になった様子で、彼は目を擦りました。
「光が、目にはいると……痛い」
居間でも納戸でも蔵でも、彼は必ず影にいました。月の光には辛うじて慣れた所だと彼は言います。けれど長時間外にいることはありませんでした。眠り込んだ私を放置しても、彼は影に戻らないといけないのです。
影は、光を浴びると消えてしまうものだから。
私はぞっとしました。
東京の我が家は、光のない場所は無いとばかりに輝いています。道路には蛍光灯が煌々と周囲を照らし、くっきりと物の姿を浮かび上がらせているのです。
彼がここにいてくれて本当に良かったと思いました。
だからいつも、蛍と花火の誘いには乗ってくれなかったのでしょうか。私は影さんの姿を見ました。
影さんの姿が、いつもより少し薄くなっていました。
「!?」
慌てて私が彼の体に飛びついた瞬間、影さんはいつもの彩りを取り戻していました。
まさかいきなり飛びつかれると思っていなかった影さんは、私を抱き留めたままバランスを崩して倒れてしまいました。
「わ、ちょ、おま」
ガタンゴトンと物音がして、蔵の籠の中身が飛び出ました。物音に驚いて来た両親に怒られましたが、隣で困った顔をしている影さんを後目に、私は激しく脈打つ心臓を宥めるのに必死でした。
消えてしまうかと。
消えてしまうかと、思ったのです。
* * * * * * * * * *
次の年の夏。私は夏休みになったとたんに両親すら置いて祖母の家に行きました。祖母は驚いてはいましたが、歓迎してくれました。両親に「着いたよ」と報告してついでに「お前は蔵の子供か」と説教も貰って私は夜になるのをじりじりと待ちました。
日が暮れるのを見つめる私に、呆れた祖母は「そんなに暇なら散歩にでも行ってらっしゃい」と言いました。
けれど私は首を振りました。じりじりと待って、夕日が沈んだ瞬間に蔵に飛び込みます。
蔵には誰もいませんでした。
「……」
左右を見回しても、誰も。
「影さん」
足元から頭に血が上って、そのまま下がっていくような感覚を覚えて、私は左右を見回しました。血の気が引きました。まさか。
「影さん!」
叫んだ後に、ふと上を見上げると。
蔵の天井に影さんがいました。じっと私を見たまま、ふわりと浮かんでいました。
私と目が合うと、しまったと言わんばかりにバツの悪い顔をして降りてきました。
「ごめん」
「……っ!」
私は黙って影さんに抱き付きました。そのまま、泣きじゃくりました。
何度かひどいとなじった記憶があります。影さんは眉根を寄せたまま、悪かったと何度も謝りました。
冷たい彼の胸に、ぎゅうと抱き付いて私はしゃくりあげました。
「なんで、こんな、こと」
私がどんなに彼が見えなくなることを恐れているか知っているのでしょうか。彼は私の頭を宥めるように撫でると再度私に謝りました。
そしてぽつりと言いました。
「分からないだろう。お前」
私が濡れた目で彼を見上げると、彼は私の目を見返しました。
「次の年が来るのがどれほど怖いか」
私は彼の言ったことが理解できずに、首を振りました。彼はそれを否の返事だと受け取りました。
「分からなくて、いいんだよ」
それ以上聞くことも出来ずに、私はじっと彼の冷たい腕にくるまれて涙を拭っていました。
時折、彼の冷たい手が頬を拭い、私はその度に新たな涙を流してしまいました。
その時お互いに喪失の恐怖を感じているのだと、朧気ながら分かっていました。
その夏の中頃に。いつもは遠くの河川敷でやる花火大会が、今年に限って祖母の家の反対側の河川敷でやることを知りました。
私は驚き反対しました。しかし、地元に住んでいる訳でもない女子高生一人が、祖母にくってかかったところで花火を中止するはずもなく、着々と準備は進められていました。
私は蔵にこもると、一生懸命梯子を使い、鉄格子の窓を黒い布で覆いました。左右二つずつ。夜になるとさすがに危ないために梯子をのぼるのはやめておきました。
影さんは私を呆れた顔で見ました。
「お前……どういう余計な苦労しているんだ」
「余計じゃないよ。花火の強い光じゃ、この蔵の中まで明るく照らし出されちゃうじゃない」
彼は目の前で少し浮いて見せました。
「で、どういう無駄な苦労をしているんだ?」
「……」
そうか、夜になって彼に塞ぐように頼めば良かったのだと今更ながら気付きました。がっくりと膝をつくと、彼は私の両手の黒い布に触れました。私の手の上から。
「ありがとう」
そう耳元で囁かれたとき、蔵の中が暗くて良かったとこれほど思ったことはありませんでした。
私は手に持った黒い布を押しつけるように影さんに渡すと、そのまま無言で飛び出してしまいました。
失敗したことに、外はとても月の光が明るかったので、私の耳が真っ赤であることが彼に見えてしまったかも知れません。
私の無駄な苦労と、彼の助力のおかげで蔵の中は全く日が差さない状態になりました。当然の如く祖母には呆れられ、両親からはお前の気持ちが分からないと真顔で言われましたが、私はどうか今しばらく見守っていてくれないかとお願いしました。
最後には心もち引きながらも、両親も分かってくれたと思います。
そして花火大会当日に、今年から遊びに来た小学生の従兄弟と両親や祖母を見送って私は蔵にこもりました。扉を閉めると完全な闇で、少しだけ怖くなりました。
「影さん」
私の言葉に彼は返事をしました。
「怖いのか?」
「少しだけ」
すると真っ暗な中すたすたと歩く足音が聞こえて、私の指に彼の指が絡みました。
「誘導してやるから、こっちに座るといい」
私は彼に導かれるままに、何も見えない暗闇を歩いて、何かの前に突き当たりました。
それは昔遊んだ品が入った大きめの籠でした。
「座れるか? そう」
彼は普通に私の腰を抱いて、籠に座らせてくれました。私がこんなに胸が痛いというのに、彼は普通です。何か悔しい気持ちもします。
影さんが隣に座ると、外で小さな爆発音がしました。花火の音です。
隣の影さんは、その音を聞いて言いました。
「ごめんな」
「どうかしたの?」
「花火を見に行きたかったかも知れないのにな」
私はぶんぶんと首を振りました。全然違います。私が、自分でここに残ることを選んだのです。影さんに謝らせることなど何一つとしてないのです。
「私は真っ暗な蔵にいるのが好きなの!」
強く否定すると彼が笑い出す声が聞こえました。
「お前、それ変だから」
前からずっと変変と言われていましたが、今度の変という言葉には呆れた感じよりも、むしろ、もっと優しい感情がこもっている気がしてなりません。
ドオン。
大きな音が鳴りました。思わず空を見上げようとして、見えないことに気付きます。
彼は小さな声で呟きました。
「俺の名前は、千宏。昔この家に住んでいたんだ」
ドオン。
遠い花火の音と一緒に彼は言いました。私は突然彼が名前を言ったので、驚いてしまいました。
「ち……ひろ?」
「そう、千宏。死んだ年は忘れたけどずっと前だな」
くすぐったそうに彼は笑いしました。もし花火の音で彼の名前が聞こえなかったのなら、それはそれでいいと思っていたのでしょう。
「死んだってやっぱり、幽霊なの? 影さん」
「それに近いと思う。何でここにいるのか、一応体があるのかは良くわからないけどな」
肩をすくめるようにして彼は言いました。
私は胸にこみ上げてくる熱い感情を抑えるように、ぎゅっと胸元を掴みました。
外では花火の音が大きくなっています。
私は口の中で小さく呟きました。千宏。嬉しいような恥ずかしいような。照れくささを隠すように私は笑いました。
「いい名前ね」
「影さんの方が格好良いだろう」
「それはそうかも」
彼は満足そうに笑いました。
「だろう。だからお前は影さんの方で呼べよ」
「何であんなに名前を言うのを嫌がっていたの?」
「聞こえるんだよ」
彼の横顔がぼんやりと見えます。暗闇に視界が慣れたようです。その横顔は物憂げに見えました。
「誰かが俺の名前を呼ぶと、その声が聞こえるんだ。だから教えたくなかった。俺が病で死んだ後、姉貴の泣き声とか、両親の俺を呼ぶ声がずっと聞こえていた。今まで誰にも名前を教えていない。見える奴は数あれど、どうせ数年すればみんな俺が見えなくなるから」
そして彼は寂しそうに笑います。
「見えないのに呼ばれたら、寂しいじゃないか」
いやだ。
思わず私の手が影さんの手に伸びました。そこにいると、確実にいると知って安心したかったのです。
私の手が彼の手に触れると、彼はそれをぎゅっと握りしめました。私の手が汗ばんでいるのが少し恥ずかしくて、私は手を離そうとしました。
「暑いか?」
今気付いたかのように彼は言いました。私はこの蔵を真っ暗にするため、窓を塞いだので非常に中は蒸し暑かったのです。私は首を横に振りましたが、彼は私を引き寄せました。
冷たい彼の体に、私の体が抱きしめられています。
私は驚きで固まりました。心臓がばくばくと鳴っています。
「花火が、終わるまでの間」
彼の声が近すぎます。
「氷代わりに冷やしてやるよ」
いいえ、彼は分かっていません。上った血で頬まで熱くなっている気がします。
しかし彼の体は、宣言通り氷ほどではないにしろ、ひんやりと冷たくて気持ちいいのです。私は彼の体にぎゅっと抱き付きました。
「名前を教えたのは、お前が初めてだ」
きちんと触ることが出来る幽霊なんて、酷い残酷な話です。ともすれば、生きていると錯覚してしまいそうになるのですから。この冷え切った冷たい体でないのならば。
「いつでも呼べよ。どこにでも、行ってやるから。東京でも」
私はもう一度首を振りました。出来ません。そんなことは出来ません。
あの光の奔流に巻き込まれて消えてしまいそうな彼を東京に呼ぶなんて。
「千宏」
私はぽそりと呟きました。これでいい。もう十分です。決して、そう決して二度と呼ぶつもりはありません。
彼の冷たい手が頬に伸びて、そのまま彼の顔が近づいてきたときに、この蔵の中まで響くほどの大きな花火の音がしました。
お互い数秒固まりました。そしてお互い。今何をしているか自覚した瞬間に。
慌てて飛び退きました。
しばしの沈黙の後、私はぽそりと言いました。
「は……花火、終わった……みたい」
きっと耳どころか全身真っ赤に違いありません。
「そっか……じゃ、じゃあ」
私と同じくらい彼の声もうわずっていました。
私はぎくしゃくと立ち上がると、ある程度見えるようになってきた蔵の中を歩いて、扉に向かいました。そして扉をあけると、彼にぎこちなく微笑みかけました。頬はまだ赤いでしょうか。
「また明日ね、影さん」
彼はその言葉を聞いて、自分の顔を覆った手を外して応じました。
「ああ、また」
別れの言葉は、明日会えるとしても、とても悲しいものがあります。
まして、もう会えないとしたら。
花火が終わって帰ってきた従兄弟の新と祖母と両親を迎え、小さな部屋に布団を敷いて私は眠りました。両親は客間、祖母は別の離れです。
夜中に起きて蔵に行く私は、一番蔵に近い部屋を取りました。私は蔵が見えるたびに布団に顔を突っ伏す事になりました。
何度も何度も突っ伏した後に、さすがに疲れて私は眠りに落ちました。夏はまだあるのです、明日もあるのです。早く明日になれと願うならば、眠るのが一番手っ取り早いのです。
深い、眠りに引き込まれました。
しかし何か、変な感覚に私は目を覚ましました。
何かのはぜる音。熱い、気配。眩しい光。焦げ臭い匂い。
ゆっくりと起きあがると、周囲を見て絶句しました。
焦げ臭い、そして熱い。
家が、燃えています!
私の部屋は、四方を壁に挟まれています。その一番蔵側が燃えていました。
私は慌てて起きあがると、客間の両親を叩き起こしました。両親を玄関に向かわせて、二階の従兄弟を捜しに行きました。
二階の階段の所で、従兄弟が泣いていました。
「新!」
「風子姉ちゃん」
その体を抱き上げるようにして、私は一階に降りようとしました。しかしその入り口は既に炎に巻かれていました。
私は進退窮まり、二階の窓を開けました。外は土です。おそらく悪くても骨折程度で済みます。
「新、頭小さくして、絶対足から落ちるのよ」
「やだ、姉ちゃん! 怖い!」
「早く、下から炎が吹き出したらここからも降りれなくなる!」
私は二階の部屋の布団を放り投げると、新を抱き上げました。そしてその体を窓の外に投げたその時に、下から激しく炎が吹き出しました。
窓枠が炎にあぶられて変形し、窓の外は一面炎に包まれました。
もはや逃げる場所すらありません。私は部屋の中央に身を低くしました。喉が痛く、咳が止まりません。
そうして思いました。
千宏、と。
いけない、すぐに私は思いとどまりました。炎の光は激しく、その奔流に彼はひとたまりもないでしょう。呼ぶわけにはいきません。私は口を塞ぎました。
私の口は意志に反して、彼を今にも呼んでしまいそうでしたから。
千宏、怖い。助けて。
会いたい。
ぎゅうっと口を塞いでいるその手が緩んで、意識が朦朧とし出した頃に、ふと、冷たい手が私の頬に触れました。
冷たい、手が。
私が目を見開くと、そこには千宏がいました。よいしょ、と私を抱き上げる彼が。
「なに……して」
呼んでいない、呼んでいないはずなのに、と私は狼狽しました。ゴウと、音を立てて炎が迫ってきます。千宏は私を片手で支えると、右手に持った消火器で炎に小さな隙間を作りました。
そういえば居間に消火器があった記憶があります。
ようやく人が一人歩ける程度の道が出来ました。
「何で」
抱き上げられた私が、朦朧とした意識の中でうわごとのように呟くと、彼は私を見ました、
「言い忘れたんだけど、心の中で呼んでも、聞こえる」
どうしてそんなことを言い忘れるのか、私は彼をなじろうとしました。けれどそんな力はなく、そして今彼は光の奔流の中にあります。私はせめてもの気休めと知っていながらも、彼の両目を塞ごうと手を伸ばしました。
「もういいから、大丈夫、」
彼が私の頭を撫でます。この熱風に当てられてか、その手が温かく、私の髪の毛を撫でます。
炎の赤い光に照らされて、彼の顔がはっきりと見えます。
「光は眩しいけれど、こんなに風子の顔をまじまじと見たのは初めてだ」
細い目をより細めて、私を見る彼がいました。
彼が私の名前を呼ぶのは、初めてだった気がしました。
私は彼の顔を忘れたくなくて、飛びそうになる意識を必死で叱咤し、彼を見つめ続けました。
「……いいんだ、お前は忘れていい」
「千宏……」
「じゃあな、風子」
行っちゃ嫌だ、と最後に呟いて私は意識を失いました。
後はただ、光の奔流が。
どうした、お前。
嫌な夢を見たの、影さん。
夏祭りの中、私と影さんは一緒に歩いていました。はぐれそうになって、私は慌てて彼の手を掴みます。
いつものようにひんやりした手をぎゅっと。
嬉しいな。
何が?
影さんと一緒に花火を見るのが、夢だったの。
なぜ夢なんでしょうか。だって、今一緒に花火を見ていて、私達には来年もあって。
あれ、去年はどうしたっけ。
私は影さんと花火を見た記憶が無いことに気付きました。
蛍を見に行こう。
彼は微笑みました。浴衣がとても似合っています。私も今日はお洒落をして、髪を上げて浴衣を着ています。
私達、恋人同士みたいね。
私がそう言うと、くすぐったそうに彼が笑いました。
恋人同士だろう。
そうでした。私達は恋人同士で、これから蛍を見に行くのです。
河原に着くと、数匹の蛍が飛び回っていました。私がそれを捕まえようとすると、彼が止めました。
駄目だ、風子。
飛ばせてあげよう。折角生まれてきたんだから。
私はその通りだと思い、蛍から手を放しました。
影さん。
あれ、違う。名前、何だったっけ。
影さん。
振り返るとそこには誰もおらず、私は途方に暮れて左右を見渡しました。
飛ばせてあげなきゃ、いけないと思いながらも。
影さん。
声に答えはありません。名前が、名前が思い出せません。
影さん……!
蛍を見るのも、花火を見るのも、太陽の下で遊びに行くのも、全て諦めたっていいのです。
だって、私は蔵が大好きなのです。
だって。
私は影さんが大好きなのです。
けれどもそこにはもう誰もいません。私はただ迷子のように彼を探して泣きました。
目が覚めたら病院でした。
泣きはらした目の両親と、祖母が枕元にいました。私はどうやら、玄関に倒れていたところを運ばれたようです。
祖母は別棟で眠っていたため、無事でした。花火の火の粉が飛んで、家に火がついたらしいと聞きました。
両親も祖母も怒っていましたが、私はぽっかりと穴のあいたような、現実味のない喪失感に襲われていました。
やけどが治って、祖母の家に真っ先に行くと蔵も全焼していました。私は焦げたその蔵の前で立ちつくしました。
夜。
泊めてもらっている旅館をこっそりと抜け出して、私は祖母の家に向かいました。行きがけの河原で、蛍がゆらりと光っていました。
立入禁止のロープをくぐって、蔵の中に入ります。
中には何もありませんでした。焼けこげたものがごちゃごちゃにおいてありました。
左右を見回しました。誰もいませんでした。
天井を見上げると、空いた穴から空が見えます。
誰もいませんでした。
「影、さん」
囁きます。
「千宏……」
いるなら、出てきて。
お願いだから。
「千宏、千宏……お願い」
声に嗚咽が混じりました。
いなくならないで。置いていかないで。
言葉にならずに私はその場に膝をつきました。服が炭で汚れ、顔を拭った手で、顔も真っ黒になりました。
夜が更けても、月が傾きだしても、私の声に応えるのは虫の音ばかりでした。
歪んだ視界に、小さな蛍がひらりと私の目の前を飛んでいきました。
* * * * * * * * * *
次の年、高校三年生の夏の終わりに、田舎に行くかという両親の誘いに、私は否と答えました。
やっぱり去年怖い思いをしたからでしょうね、と両親は言いましたが、そういう訳ではありません。
新しく建て替えられた祖母の家も、消えた蔵も、彼がいない世界を見たくなかったのです。
両親が祖母の家へと出かけた夜に、一人でぼんやりと外を見ていると、ふわりと小さな光が見えました。
懐中電灯の明かりかと思いきや、それは小さな蛍でした。
東京の町中に、なんて珍しい。誰かが飼っていた蛍を逃がしたのでしょうか。
そう思って蛍を見ると、それは小さく瞬きながら、東京の光の奔流に紛れ込んでいきました。
私はそれを見て、夏はもう終わったんだと、一筋流れる涙を拭いました。