9 世界は我が身が為に廻る
2011年10月15日ブログ掲載 テーマ:ラーメン
紙媒体『シリーズ表集2 春子と不思議な物語~三年生、夏・秋編~』
2011年11月3日発行 文学フリマにて販売
春子は台所で硬直した。
少し肌寒くなった、ある秋の昼下がりのことである。
別に、包丁で怪我をしたわけでも、流し台にゴキブリが出現したわけでもない。
ただ、春子は愕然としていた。
電気ポットは沸騰しかけていて、コポコポと音を立てている。蛍光灯は煌々と昼間の台所を照らしている。
春子の手は、蓋を半分開けて、もう片手はそのカップを押さえている。
耐熱紙のカップの中には、赤い渦巻き模様の、小さくて平べったい、フリーズドライのナルト。
が、ぎっしり入ってる。
麺がない。えびもない。くしゃくしゃになって丸まった黄色い卵もない。
ナルトしかない。
カップラーメンじゃ、ない。
春子は暫しの自失から立ち直って、怪しいカップラーメン・・・いやカップナルトをしげしげと見つめた。
これは、何の変哲もない、有名メーカーの品のはずだ。白地に赤模様の見たことがあるパッケージである。
いや、違う。よく見たら、違った。カップの模様の赤い線が、全部直立の人の形をしている。なんだか気持ち悪い。
しかし、そのパッケージのデザインが微妙に違うことに、誰が気付けただろう。春子だって、開けておかしいと思って、まじまじと見るまで全く気付かなかった。
それにしても、母は普通にカップラーメンを買ってきたつもりだろうに、何でこんなものを買って来れるのだろう。何処で買って来たのだろう。
どうしてこんなものを買って来れるのだろう。
春子は溜息をつくと、開けかけていた蓋をぴたりと閉めた。
シュール、と、祖父は母を評す。
シュールとは、シュールレアリスムの略で、二十世紀の始め頃に起こった芸術運動のことである。その芸術の目的や作風から転じて、シュールという言葉には「奇抜なさま」「非日常」といった意味がある。
春子はそんな細かいことは知らないが、とにかく、母が日常や妖怪などといったものを超えてしまっている存在であることは薄々感じている。
春子の祖父は、脱妖怪という異色の肩書きがあり、春子は脱妖怪の孫という異色の出自を持つ。
その祖父の子であり、春子の母である柳は、半妖怪半人間である脱妖怪の娘であるはずなのだが、妖怪的感覚に鈍感であり、どちらかというと人間的感覚に近いそうだ。
人間はなるべく、妖怪や異界といった、人間であることを揺るがすものを無視し、拒絶して防衛する。春子の母は、人間側に自分を引きつけるその力が強いので、ほとんど妖怪部分が無効化しているのだ。母のことをそのように分析する祖父は、自分が妖怪であるという詳しい話をせず、あるがまま人間でいられるように放っておいている。
それに対し、母は祖父が春子に遠慮なく妖怪じみた話をし、更に父もそれを面白がって聞くのが馬鹿らしいと思っている。人間の拒絶の力が、本物の元妖怪に対し過敏になるのだろう。ことあるごとに、そりが合わない母と祖父は「耄碌老人」「親不孝の娘」と罵り合っている。
しかし、そうとはいえ、母にもおかしなことがあるのだ。
そして、それに母が全く気付かないということが一番おかしい。
例えば、母は毎日天気予報をする。朝のテレビニュースを観るより前に、「今日は雨で午後に晴れてまた雨が降るわね」と解ったように言う。テレビニュースでそれと正反対の天気予報がされても、母はその意見を絶対曲げない。
それがテレビニュースを覆すくらい、百発百中で母の予報が当たるのだから、おかしい。母の予報は科学的根拠も何もない、ただの勘なのだ。
また、母は春子が妙だと気付くようなものをよく買って来たり、持って来たりする。豆まき用に買ってきた炒り大豆が発芽したり、棚の上にミニ・ブッダがいるのに気付いていたり、ナルトばかりぎっしり詰まったカップナルトだったり。
カップナルトを見つめて、シュール、と呟く。
母は、変なものに好かれ、意識の半分ではその存在に気付いているはずなのに、それをごく普通の日常として全てスルーしてしまう。
発芽した炒り大豆も、ミニ・ブッダも、その存在を認めながら「そういうこともあるのね」の一言で済ませてしまう。
耳がちょこっと尖っていて、背中が丸くて、いつも縁側や窓際にいる祖父の仏っぽさや得体の知れなさも、きっと母にとっては「そういうこともある」というものなのだろう。
だから祖父は、母にとって普通の父親で、妖怪だの何だの言っていることは『変』なのだ。
母に見えているものは、全て自らの規範に沿っており、無意識に母の都合に良い世界を形成している。
非日常も全て自らの領域に引き込んで、現実を超越して、母は自分の人生を闊歩している。
春子は普通のしょうゆラーメンが食べたくなった。
カップラーメンだっていい。
変てこなものによく気付き、おもしろがる自分だって、四分の三が人間なのである。
しかし、このナルト、一体どうしよう。
お湯が沸いたことを知らせる電子音のメロディが、台所に虚しく響く。
とりあえず、春子はナルトばかり食べる気はない。それに得体が知れないものは食べたくない。
お母さんたちが遅くなったら、お昼ご飯先に食べておいて。
その言葉を思い出し、困ったな、と春子は首を傾げた。
と、その時、玄関の方から鍵が開く音と、ドアを押し開ける音が聞こえた。
「ただいまー」
春子が台所から出ると、ダイニングに薄手のコートを着た母と兄が買い物の荷物を置くところだった。
母は春子に気付くと「ただいま」と言った。
「おかえり」
「お昼もう食べちゃった?お土産買ってきたわよ。ごめんね、遅くなっちゃって」
そう言って母はビニールの袋からお寿司のお弁当を出して、ダイニングのテーブルに置く。
まぐろとかイカとか美味しそうなネタが乗った握り寿司を見ながら、春子は慎重に言った。
「カップナ・・・カップラーメンの蓋、開けちゃった」
「あらそれだったら、それ私が食べるから良いわよ。春子、お寿司食べたら」
えっ
春子が止める間もなく、母は台所に向かって、開けかけのカップナルトを発見すると「ああこれね」と躊躇なくお湯を入れて蓋をした。
出来上がり三分。
春子はいくらの軍艦巻きを箸で挟むのに難儀しながら、母の手元を不安げに見守った。
母はカップナルトの蓋を剥がし始めた。兄は隣に座る妹がやたら母の手元を凝視しているのに気付き、不思議そうに母の手元を見る。
やがて、カップの中身の全貌が現れた。
「あれ?」
春子の声に、母が目を向けた。
「どうしたの?」
「・・・ううん、何でもない」
あらそう、と言って、母はカップの中に箸を差し入れて、上下させる。
春子は訝しく思いながら、麺と具材が混ぜ合わされるのを見守った。
―――普通のカップラーメンに、なっている。
春子は自分が見たものは確かにカップナルトだったのかと、自分の記憶に問いかけた。
いや、そのはずだ。春子はカップを斜めにしたり、底を叩いてどこまでもナルトが詰まっていることを確認したのだから。
もしや、自分が手にしたから変てこになってしまったのか。
春子はラーメンをすする母の手元に注目する。
そのパッケージは、有名メーカーのデザインのパクりとしか思えない、赤い小さな人型が並ぶおかしな模様が描かれている。
もしかして、と春子は思う。
春子は母に「カップラーメンだ」と言った。母はそれで、躊躇なくお湯を入れて食べている。
おそらく、カップラーメン以外のものだと、微塵も思わずに。
おかしなものであろうと、現実であろうと、それを超越して自分の世界に沿わせてしまう。
それって、ものすごく大変なことなのではないか。
春子は、縁側で金木犀が薫る秋の空気を楽しんでいる祖父を思う。
祖父はそういうことを知っていて、母が普通に人間として生きていられるようにしているのではないか。
わからない。ただ、ちょっと怖い。でも、それが春子の母。
春子はカップラーメンをすする母を見守りながら、いくらの軍艦巻きを口に入れた。