8 夏祭りにつきもの
2011年8月21日ブログ掲載 テーマ:犬
紙媒体『シリーズ表集2 春子と不思議な物語~三年生、夏・秋編~』
2011年11月3日発行 文学フリマにて販売
夜、住宅街を歩いていると、犬の散歩をしているおばあさんと遭遇するそうだ。
夏の暑い日に、日差しの強い昼間の散歩を避ける飼い主はよくいるが、夜も遅いし、一見して奇妙な感じらしい。
そのおばあさんは、髪がざんばらで、よれよれのワンピースを着ている。街灯の明かりが少ない暗いところばかり歩いて、ヨロヨロとリードを引く。リードの先は暗がりに紛れて、どんな犬がいるのかが見えない。リードが引っ張られてぴんと張ったり、弛んだりすることで、暗がりで何かが動いているのが解かる。
すれ違いざまに近付き―――驚愕の事実を目撃する。
リードの先に、何もいないのだ。
ただ、犬の荒い息づかいが聞こえ、リードの首輪が、まるでそこに犬の首があるかのように、宙に浮いている。
何もいない暗がりの中から、獣の視線だけを感じ、目が合ったと思って立ち止まった、その時。
ふと見た、おばあさんのざんばら髪の間から顔が覗いており―――――
真っ赤な目と真っ赤な口が、こちらを向いている。
「こわいー」
「春子ちゃん、この話は怖いの?」
「怖い!それは怖い!」
「変なの。タクシーの運転手の話は怖がらなかったのに」
女の子たちが顔を見合わせる。ぞぞぞ~っと鳥肌が立った春子は、困って口を噤んだ。
終業式の日。登校して、ホームルームの前の時間を、みんな思い思いに過ごしている。
春子の周りには三人の女の子が集まっていた。何だかよく解からないが、いつの間にか春子を仲間に入れて怪談大会を始めたのだ。春子は普段、一人行動が多い。何かをじぃっと観察したり、無口で周りの様子を窺っていることが多い春子は、マイペースすぎてクラスから浮いていた。時に邪険にされることもある。
だが、忌避されたり、親しみを持たれたりと、コロコロと態度が変わることは女の子にはよくあることで、思いついたように春子に話しかけてくる。やたら仲良くしたり、関係が強くなかったりする分、ちょっと思いついて仲間を増やす時に丁度良いクラスメイトなのだろう。
マキちゃん、ルミカちゃん、カレンちゃんは、時折春子を仲間に入れる三人組の筆頭で、邪険にすることもない子たちだ。普段は三人でいるけれど、グループになる時は必ず春子を仲間に入れる。
そんな彼女たちが順々に、「怖い話」をしていったのだが、その大半はよく聞くタイプの怪談で、人を怖がらせようと脚色した作り話だった。
しかし、老婆と見えない犬の話は違う。
春子は論理的にそれを判断したわけではない。ただ感覚的に、それまでの「怖い話」とは違って、「本当に怖い話」だと思ったのだ。
春子は脱妖怪の孫、という異色の出自を持つ。
それゆえ、祖父曰く「おもしろいものをよく見つける」という妖怪的感覚が備わっている。
無論、それが備わっているからといって特にすごい力があるわけではない。春子は人間である。ただ、見えている世界が違うというべきか。
それゆえ、春子は困った。自分が怖がった理由を、彼女たちに解説してもどうしようもないことを、春子は知っている。
幸い、女の子たちの会話の方向は、それ以上春子の追及に向かなかった。
「でもわたしもその話、初めて聞いたや。ルミちゃん、どこでそれ知ったの?」
「いつだったかな。学校の帰り道で、前を歩いていた六年生くらいの人が話してたの。それ聞いて」
「ええー。でもそれ聞くと、なんか怖い」
「なんで?」
「わたしの、インターネットの掲示板で見た話だもん。六年生の人が話してたんだと、もっと身近なことなのかなって」
話をしているところに、校内放送が入った。終業式の会場、体育館に移動する指示を出す放送だ。周りがガタガタと立ち上がりだし、三人もそこで会話を止め、整列するため廊下に向かう。
マキちゃんはいんたーねっとなんてすごいものが使えるんだ、わたしなんてパソコン使っちゃいけないって言われてるのに!
論点とは微妙にずれたところに驚きを感じて固まっていた春子に、カレンちゃんが思い出したように声をかけた。
「春子ちゃんも行こうね、今日の夏祭り。あとで待ち合わせ時間決めよう」
「む?」
夏祭りは小さな神社で行われる、小規模な地区の盆踊り大会だ。
春子は赤地に風鈴の柄の浴衣を着て、神社の前で待った。緊張のあまり、手の平が湿っている。
春子の隣には、黒っぽい色合いの、縦縞の浴衣を着た、兄の実がいる。兄は無表情で涼しい顔をした妹の顔を見て、溜め息をついたようだった。春子はそんな兄をちらりと見上げて、溜め息つくのは何故なのか、と首を傾げた。
友達と一緒に夏祭りに行くと春子が言うと、母は「女の子ばっかりで危ない」と兄について行くよう命じた。兄は自分の友達と行く予定らしいし、母の干渉を嫌がるので、当然渋るだろうと春子は思っていた。
ところが、春子の予想に反して、兄は「友達に聞いてみる」と前向きな態度をとったのだ。
兄は電話で友達の了承をすぐとった。一方、春子の方も、忌避されるのではないかと心配だったが、女の子三人にそれぞれ電話をして、兄が一緒で良いか訊いてみると、三人から「え!春子ちゃんのお兄ちゃんも来るの?!すごいラッキー!!」という前のめりな了承がとれた。
おそるべし、少年サッカーのエース選手。春子は兄が学校でどういう位置にいるのかに、初めて思い至った。
春子は友達と夏祭りに行くのは初めてだった。いつもは祖父が気を遣って連れて行ってくれるのである。春子の妖怪じみた祖父は、春子が友達と行くと言うと少し拗ねた様子だったが、兄と春子にお小遣いをくれて送り出してくれた。
そういうわけで、春子は兄と待ち合わせ場所にいる。今頃、祖父は縁側で背中を丸くして、座っているだろう。
このような同学年の女の子とのお出掛けは初めてで、春子は緊張しながら待っていた。一体どうなるのか、想像もつかない。
その内、浴衣を着たマキちゃん、ルミカちゃん、カレンちゃんがやって来た。心なしかいつもよりおめかしが念入で、兄にくすくすと笑って恥ずかしげに挨拶をした。
遅れて兄の友達もやって来た。底抜けに明るい挨拶をして、春子を見つけると「この間はサッカーの応援ありがとう」と言った。春子はそれで、彼がサッカーチームに所属している人だと気が付いた。強引で派手な動きをし、よく笑うムードメーカーだ。
彼はぱっと兄に向き直って、言った。
「じゃ、行こうぜ。後で神社の鳥居の前で待ち合わせってことでいいよな?」
「は?」
「だから、祭の間は俺らだけとこの子らだけでうろうろして、後で待ち合わせばいいじゃんて。え?」
兄の友達は、入り口まで春子たちと一緒で、あとは兄と自由に行動するつもりだったらしい。
兄は溜め息をついて、友達の顔を見つめた。
「お前、妹をみてるって、そんな生半可なことじゃねぇんだぞ?」
「えっ、お前最近、悟ったようなこというようになったなー。なまはんかって何?どういう意味?」
兄と兄の友達がそんな会話をしている中に、カレンちゃんが入っていった。
「いいですよ、後でここで待ち合わせで。わたしたちも自由に見たいし」
む、と春子は少し驚いた。兄と一緒であることを喜んでいたのに、良いのだろうか。しかし、女の子たちはうんうんと頷いている。もうそのつもりらしい。
兄は少し不満げな顔をして、春子をちらりと見たが、兄の友達がここぞとばかりに言葉を被せてきた。
「じゃあ、後で鳥居のそばに待ち合わせで!」
「・・・八時な。春子、気を付けろよ」
「うん」
春子は素直に頷いたが、兄の言う「気を付けろ」が、変質者のことなのか、不良のことなのか、それとは別の何かのことなのかが気になった。
母はきっと祭中ずっと、兄が春子たちと一緒にいることを望んでいただろう。こうした言いつけを守らないのは、少し後ろめたい。だけど、春子はどう意見したらいいのか解からないし、もう話は決まってしまった。
保護者なしで、お祭行くことだけでも緊張するのに。でも、少しうきうきしている。
六年生二人と、三年生四人で分かれた後、ルミカちゃんが少し残念そうに言った。
「春子ちゃんのお兄ちゃんともうちょっと話したかったな」
「まあいいじゃん。行こうよ」
四人は屋台が左右に並ぶ道を歩き始めたが、春子は隣り合ったカレンちゃんに訊いた。
「よかったの?一緒じゃなくて」
カレンちゃんは少し考えてから、言った。
「ルミちゃんはああ言ったけど、たぶんわたしたちと、春子ちゃんのお兄ちゃんたちだと、見たいものもやりたいことも違うと思うの。たぶんわたしたちだけの方が、楽しいよ」
それからね、と付け加えた。
「別に、春子ちゃんのお兄ちゃんとしゃべりたいから、春子ちゃんさそったんじゃないからね」
春子はその言葉の意味が、その時はよく解からなかった。
わたあめ。やきそば。かき氷。たこやき。飴細工。金魚すくい。射撃。わなげ。おもちゃの指輪。
広場では櫓が建っていて、その上で和太鼓を叩く人がいた。盆踊りの音楽が流れ、櫓の周りに輪になって踊っている人たちがいる。春子たちはその外側で、ちょっと踊ってみたり、変な踊りを踊ってみたりした。そしたら踊っていたおじさんに踊りの輪に引き込まれてしまって、春子たちも揃って同じ踊りをするのだった。後で輪から抜けて、笑ってしまった。
祖父と来る夏祭りとは違う。女の子ばかりで共有する思い出。春子はそれでも、踊っている足下に背の小さい生き物が踊っていたり、蛍のような光が集まっていたり、少し離れた木々の間から小さなお囃子が聞こえてくるのに気付くのだった。
提灯には蛍のような光が集まる。
林檎飴は毛むくじゃらな獣の手が失敬していく。
踊るのは人間だけじゃない。人間の数より影の数の方が多い。
マキちゃんがすくった黒い出目金は、ただならぬ貫禄がある。
虫たちは祭の騒ぎを迷惑がって木々に隠れる。
マキちゃんや、ルミカちゃん、カレンちゃんと話をしたり、わたあめを食べたり、笑い合ったりするのと同時に、春子は別の事柄を認識する。
春子は見えているものが人とは違うことを、いつもより強く認識した。それは、寂しいような気もしたけれど、それだけではない。
春子を内包する世界が、それだけ広く、好きになれるものがたくさんあるということだ。
祭を名残惜しく思いながら、八時に鳥居の前に集まった。浮き立った気持ちでマキちゃんもルミカちゃんもカレンちゃんも話をしている。
春子はビニール袋の中の赤い金魚をじっと見つめていた。赤い金魚はひらひらと泳いで、元気に見えたけれど、なんとなく儚いような感じがする。この夜一晩だけ、のような。マキちゃんのビニール袋の中の黒い出目金は、小さいながらも貫禄がある。いずれ大物になるぞ、と春子は面白く思う。あんな出目金は金魚すくいに滅多にいないから、少し羨ましい。
遅れてやって来た六年生男子二人は、射撃でとったという景品や、やはり金魚すくいの金魚を持っていた。合流してわいわいと話しながら神社を後にしつつ、春子は神妙な気持ちになって、神社の入り口が闇の中に赤く光るのを振り返って見た。
暗い水の中に赤い金魚が光っているように見えた。
少し住宅街に入れば、祭が嘘だったかのように、静まり返っている。街灯が間隔を開けて道を照らす中、寄り集まって六人は歩いた。大分日が長くなったけれど、さすがに八時はすっかり夜だ。暗いのが少し、恐ろしい。
途中、ルミカちゃんが家に着いて抜け、再び五人が住宅街を歩いていると、向かいから人が歩いてくるのが見えた。
春子はおかしいな、と思った。その人影は妙に傾いでいて、街灯の光を受けていないかのように黒かった。小柄で、夜の暗い影の中をヨロヨロと歩いている。
それに気付いた途端、春子は全身が粟立つのを感じて立ち止まった。
あれは、いけない。
前を歩く兄の着物の袖を引っ張り、止まらせた。
「ん?なんだ?ひっぱるなよ」
少し不満げに兄は振り返る。春子は思いっきり首を振って、「あれはだめ」と言った。
「あれって?」
「前から来る人」
会話を聞いていたマキちゃんとカレンちゃんは、前方の人影に気付いてはっと息をのんだ。
それは暗がりにリードを垂れたざんばら髪の老婆。
やだ、冗談、そんなわけないじゃない。
マキちゃんとカレンちゃんがわざと声を上げて空騒ぎし始めたが、兄はわけが解からずとも、とりあえず春子の手をとって道の端に寄った。マキちゃんとカレンちゃんは不安げに、兄の友達はわけが解からず、不満げに、家の塀の近くに寄る。
兄が春子に強い口調で聞いた。
「で、あれ、何」
「多分、おばけ」
「そんなわけないじゃん!ただの作り話だよ」
「どんな話?」
兄が訊ねると、マキちゃんがしどろもどろになって答えた。
「夜、住宅街を歩いていると、犬のいないリードをひいているおばあさんがいるって」
兄が進行方向を見て、前方から近付く影を確認した。
春子は兄の手が汗ばみ、ぎゅっと握る力を込めたのを感じた。
ゆら ゆら
老婆が近付いてくる。
暗がりに老婆の持つリードが続き、犬が動いているようにあちこちに動くが、何がいるのかは見えない。
「それと会ったら、どうなるの」
カレンちゃんは、戸惑いながら答えた。
「たぶん・・・死ぬ?」
急激に周囲の温度が下がった。全員がそれを感じて、身を縮め、老婆の人影を振り返る。
老婆は大分近付いてきている。
暗がりの中のリードの先には、何もいなかった。
腐ったような臭いがどろりと漂ってきて、マキちゃんとカレンちゃんは口を押さえてふらりと座り込み、兄の友達は後ずさりし、側の電柱に寄り掛かってへなへなと崩れ落ちた。春子と兄は身を低くして、老婆の様子を窺う。こちらに近付いてきているようだ。
春子はぶるりと震えた。冷気と臭気が悪寒を引き起こす。兄の手も震えており、恐怖が伝わってきた。
ぱしゃりという音がして、はっと後ろを振り向くと、マキちゃんも、カレンちゃんも、兄の友達も気を失って地面に伏していた。地面に落ちた、金魚を入れたビニール袋の水が零れてその辺に広がり、赤い金魚と黒い出目金がアスファルトに跳ねている。春子と兄は、三人を背にして、盾になるようにしゃがんだ。
兄がこちらを向いて何か喋ろうとしたが、春子は瞬時にその口を手で塞いだ。兄はきっと、どうすれば良いか訊こうとした。しかし、春子もそれを知っているわけではない。そして、なるべく音を立てないほうが賢明である。
リードの先の何かは、常に何かを探しているのだ。
首輪だけが宙に浮き、目に見えない犬が息を切らして、周囲を移動しながら嗅ぎ回っている。リズミカルな息づかいだけが、誰もいない道に響き、老婆は犬の動きに合わせてヨロヨロと前進する。
やがてそれが春子たちの側に来た時、春子は思い切って、兄の手を振り解いて両腕を広げ、みんなの盾になった。
赤い着物の袖が、幕のように皆を隠す。金魚を入れたビニール袋が、春子の手首に下がって揺れる。
春子は冷気と臭気にじっと耐え、何が来るかと恐怖に頭を凍らせながら、見えない獣と対峙した。
老婆が目の前に停まる。
リードが左右に動き、その辺を何かが嗅いでいるかのように首輪が動き回った。
春子の膝の辺りに、獣の息づかいと熱い体温が近付いた。見えない獣の視線がまとわりつく。
春子は震えながら、必死にその体勢を保った。早く行け。早く行け。
気付かないで。
何十分にも感じられたが。
ふ、と、生き物がいる熱い空気がそこを去っていった。
リードが道なりへ伸び、見えない犬の関心がそちらに移ったのが解かった。
老婆が歩き始める。
春子はまだ緊張状態を解かないで、そのままの姿勢で固まっていたが、誰かが肩に手を乗せた。春子は驚いた。てっきり、兄も気絶したかと思っていたが、青い顔をしながら春子を支えたのである。
そのままじっと息を殺して、老婆と見えない犬の後姿を見送ることになると思われた。
が。
アスファルトの上に跳ねていた黒い出目金が、ぴょんと跳び上がって、同じようにアスファルトの上で跳ねていた赤い金魚にぱくりと噛み付いた。
春子が呆気にとられていると、出目金はごくりとまるごと赤い金魚を飲み込み、
次の瞬間、ゆらりと浮かび上がって、肥大化した。
それは道幅いっぱいの大きさの赤と黒の斑模様の出目金で、鰭を動かし、宙を泳いでいた。
春子と兄は慄いて少し身を退いたが、巨大出目金の前方にいる老婆が振り返り、赤い目と赤い口を向けているのが見え、犬がギャンギャンと吠えるのを聞いた。
出目金は全く怯まず、意に介さず。
直径二メートルくらいある口をぱかりと開けて、一口に老婆と見えない犬を食ってしまった。
友達が熱中症で倒れた。そういうことにして、車で迎えに来てもらった。
あの後、茫然自失状態から脱した兄は、気絶している三人をどうにかしようと、自分の友達のポケットから携帯電話を拝借して家に電話をかけた。
春子は老婆と見えない犬を一口にして、何故か元の大きさに戻った赤と黒の斑の出目金がひよひよと飛ぶのを追い駆け、自分が持っている金魚のビニール袋に入れた。彗星の如く現れたヒーローに春子は慄いていたが、浮いていようが化け物を食べちゃおうが質量としておかしかろうが、とりあえず金魚は水がないと生きていけない。それでついビニール袋に招き入れたのだが、出目金が先に別の金魚を食ってしまっていたことを思い出して、春子はしまった、という気持ちになった。
春子が近付いてビニール袋の口を開けたら、出目金は自分から水の中に入り、一応春子の赤い金魚と共存していたが。
家に帰って、着替えてすぐ、春子は祖父に話しに言った。
祖父は縁側で団扇を仰ぎながら、背中を丸くして座っていた。が、春子から話を聞くと、「どれ、見に行ってみよう」と言って外に出て行った。
春子はすっかり疲れてしまって、祖父のいなくなった縁側にへたりと座り込んだ。ねっとりとした夏の空気がまとわりついたが、さっきの腐った臭いと冷気よりはましで、吹いてくる風に春子は身をさらした。
風に合わせて風鈴が鳴る。マキちゃんとカレンちゃんと兄の友達は、母と父が居間に寝かせている。気絶しているだけなので、大丈夫だろう。
春子の赤い金魚と得体の知れない出目金は、水を張った硝子容器の中を泳いでいる。マキちゃんが帰るときに、化け物出目金を水入りビニールに入れて渡そうと思った。あれはマキちゃんがとった出目金なので、マキちゃんのものだ。それにしても、あんなわけの解からない反則のような出目金、初めて見た。
ふぅー、とついた深い溜め息は、暗い庭に走る風に溶けて消えた。
背後の硝子引き戸が開いた。見ると、着替えを終えて、何とも複雑そうな顔をした兄だった。
兄は春子の隣に座ると、溜まっていたものを全部吐き出すように溜め息をついて、話しかけてきた。
「じいちゃん、母さんにまた突っかかれてたよ。徘徊老人じゃないでしょうねとか」
「言い返してたでしょ」
「そんなわけなかろ、このボケ娘め、とか何とか」
複雑そうな顔をした兄はぐしゃぐしゃと自分の髪の毛を掻き回して、むーと唸った。
「なあ春子」
「む?」
「お前、いつもあんなのと会うのか」
「ああいうのはあんまりないよ」
「そうか」
兄は少し、ほっとしたようだった。しかし、不可解そうに訊く。
「あれ、何だったんだ。おじいちゃん、あれを見に行ったんだろ。もうあそこにはいねぇけど」
春子はこういうことを話しかけてくる、兄を不思議に思いながら、答えた。
「わかんない」
「は?」
「わかんないけど、あるものは、あるんだよ」
兄は心底疲れ切ったという感じで、溜め息をついて、頭を抱えた。
「それが俺にはわからねぇ」
わからなかったら、関わらなければいいのに。
春子は正直そう思ったのだが、兄はそれを見越しているかのように、じろっと睨みつけた。
「あのな、春子。自分の事はいいとか、自分の事は自分だけわかってればいいとか、そういうこと思ってんじゃねぇぞ。兄ちゃん、春子がどっかいっちゃうんじゃないかと思って、怖かったんだぞ」
春子はそれは何のことだ?と思って、ああ、とぴんときた。
あの老婆と見えない犬の前に、春子は立ち塞がったのだ。兄と兄の友達、自分の友達の盾になって。
兄は複雑そうな顔をして言った。
「わかってるんだけどさぁ、お前しか、ああいう対処できないって。俺もああいうの、全然無視してきたし」
「あれね、赤かったから」
「は?」
わけが解からない、という顔をした兄に、春子はあっけらかんと言った。
「あれの目は赤いから、赤いの着た春子なら、見えないと思ったの」
春子は少しだけ解かった。
兄は、自分の見える世界の範囲で、春子を理解しようとし始めたのだ。
兄も春子と一緒で、脱妖怪の孫だ。しかし、何かしらおかしなものや、不思議なことがあっても無視してしまう。興味はないし面倒臭い。祖父からは「いずれ普通の人間の感覚と変わらなくなる」と言われていた。
だのに。それが、どういうわけか、春子と同じ目線に立とうとし始めたのだ。
それならばと正直に答えた春子だったのだが、ぽかんとした兄は、困ったように頭を掻いた。
「赤いの着てたって。じゃあ頭は?首から上は、赤くねぇじゃねぇか」
「春子が赤いの着てたら、春子は全部赤いんだよ」
「そんなばかな」
うーん、と兄は首を傾げる。
春子は縁側から足を下げて、ぶらぶらさせた。
兄がこうして、理解しようとし始めたなら、自分もそれに応えなければならないと思う。でもそれはすごく難儀なことに思えて、あまりいい気持ちがしなかった。
その一方、少し嬉しいとも思って、不思議だった。
兄は考えても解からなかったらしく、諦めたようだったが、思い出したように訊ねた。
「そういえばあの金魚は一体、何」
「それは全然わかんない」
母が気を失っていた三人の家に電話をかけて、迎えに来てもらったが、三人とも無事に目が覚めて元気だった。春子はマキちゃんに出目金を持って帰ってもらおうと準備したが、マキちゃんは「それ、もらってくれない?」と言った。家に生き物を持って帰らないように言われていたのに、つい金魚すくいをしてしまったらしい。こうやって春子の家にやって来て、硝子容器の中にふよふよ泳いでいるのだから、そっちの方が都合が良いのだ。
春子は正直、この得体の知れない出目金を家で飼うのは嫌だったが、仕方なく了承した。いらないというものを無理矢理持って帰らせるのもよくない。
それに、マキちゃんが不思議そうにこう訊いたのだ。
「わたしが取ったの、真っ黒だったけど、これ赤いのも入ってない?」
「・・・色が変わることもあるよ」
水中で、出目金がふん、と偉そうな調子で泳ぐのを、春子はひやひやしながら見た。
「ねぇ、あれは一体何だったの?」
マキちゃんも、カレンちゃんも、兄の友達も、帰り際にそう訊いた。
春子の家にいるときは、空騒ぎしていたけれど、やはり自分の見たものが何なのか、気になるようだ。自分たちは意識を失って、目が覚めたら安全な状態だったが、意識を失う寸前まで、明らかに異常な状況に置かれていた。
あれは本当だったのか、何だったのか。怯えたように、訊きづらそうに、それでも訊かずにはいられないように春子と春子の兄に訊く。
春子は基本的に、自分の見たものについて嘘を吐きたくない。自分の存在を否定することに繋がるからだ。だけど、仕方なく春子は半分本当、半分嘘の答えを言う。
「ごめんね、あれ、普通に犬を散歩してる人だったの」
なぁんだ、と言って、腑に落ちないところもあるようだったけれど、みんな安心して帰って行った。
ああいうのは、あまり関わり合わない方が良い。普通に生きていれば、滅多に巡り合わないし、会わない。それくらいは、春子も感覚として、解かる。「ない」と思って生きる人たちは、「ない」と思っていた方が良いのだ。
それから春子はマキちゃんとカレンちゃんに、こう付け加えた。
「今日はお祭に誘ってくれてありがとう」
何だか、言わなくてはならない気がしたのだ。
いつの間にか、祖父は帰ってきていて、ダイニングに置いてある硝子容器の中を見つめていた。
いつもは仏顔で、瞼が被さった、ギラギラとした目が金魚をじっと見つめている。曲がった腰は丸いけれど、がに股の足ですっくと立ち、ちょこっと尖った耳をひくつかせ、得体が知れない雰囲気で、ダイニングで佇んでいる。
じっと見つめられて、心なしか、あの化け物出目金も身を縮めている。
祖父は春子がやって来たことに気付くと、ほれほれと手招きをした。
「まあ、あんまりよくないものと遭遇したようじゃの。よう無事じゃった」
「あれ、何だったの?」
「どういうものか見ておらんが、気配で解かるのう。悪意と恨みの塊のようなもんじゃ」
改めて、春子は恐ろしく思って、ぶるりと震えた。
それから、硝子容器の中を泳ぐ、赤と黒赤の金魚を見下ろす。
「これは?」
「片方は普通の金魚じゃの。黒いのは、しぶといタイプでのう。生き延びるためなら、何でもござれな、悪意も恨みも善意も喜びも関係がない存在じゃ。ちょっと変なもん、呑み込んで具合が悪いようじゃが。いずれ水槽がわりに合わなくなって、勝手にどっかの川に行って主になっとるじゃろう」
なんじゃそりゃ、と春子は化け物出目金をただならぬものと思って見つめた。
祖父はそんな春子を見て、目を細めて訊いた。
「実も遭遇したようじゃのう」
「うん、気絶しちゃわなかった」
「何か言われなかったか」
「言われたよ」
はあ、と春子が溜め息をつくと、祖父はぷくぷくと笑った。
「大事なことじゃ、春子。面倒臭くてもお前の兄上が共にいることを忘れるでない。お前の友達もじゃ」
春子は考える。
まだよく解からないことがたくさんある。
どうして兄が、春子を理解しようとし始めたのか。カレンちゃんたちは何故、春子を夏祭りに誘ったのか。
カレンちゃんたちは、友達、なのだろうか。
自分は、他人からどう思われているのだろう。
じぃっと化け物出目金を見つめて、春子はむむむ、とぐるぐると渦巻く頭の中をごまかした。
祖父はそんな春子を見て、ぷくぷくと笑って頭を撫でた。
「いっぺんに考えても埒が明かぬからのう。ゆっくり考えるべきじゃのう」
おもしろいものや、怖いものを見つけるのが得意な自分は、それと同時に、人と関わりを持たなければならない。
初めてそれを自覚して、赤い金魚と黒赤の斑の出目金が泳ぐのを眺めて、春子はむぅと考え込むのであった。