6 雨天決行
2011年6月25日ブログ掲載 テーマ:おめでとう
紙媒体『シリーズ表集2 春子と不思議な物語~三年生、夏・秋編~』
2011年11月3日発行 文学フリマにて販売
土砂降りの雨がグラウンドに降り注いでいた。
サッカーシューズが泥を蹴り、ボールを繋げようと悪戦苦闘している。
雨天にもかかわらず、試合は続いていた。泥だらけになったユニフォームの少年たちは、息を切らして試合に集中している。
まばらな観客席は少年たちの親などが固唾を呑んで試合の行方を見守り、ベンチの控えの選手はタオルやビニールを被って押し黙っていた。
春子は赤いレインコートを着て観客席のベンチの端に、座っていた。赤い長靴も履いている。試合前まで晴れていたので、しっかり雨日装備しているのは春子くらいだ。
全て、母が「備えあれば憂いなし」と言って装備させたものだ。母の天気の予想はよく当たる。出かけるときまで晴れていたのに、これはきっと降るわね、なんて自信満々だった。母がその特殊さを自分で気付いていないのを、春子は不思議に思う。
レインコートのフードが狭める視界の中に、オレンジ色のユニフォームと白いユニフォームが入り乱れている。オレンジが春子の学校の、白が対戦相手の小学校のクラブチームだった。
視線の先には、オレンジ色のユニフォームを泥だらけにして、走り続けている兄がいた。
春子の兄はサッカー少年である。小学六年生で、小学校のクラブチームに所属している。なかなかの努力家で、毎日庭に出てサッカーボールと向き合い、クラブチームではレギュラーの座についている。
春子は今、レインコートの下に、ピンクとオレンジの可愛い袋を匿っている。中身はクッキーなのだそうだ。同じ学校の六年生とおぼしき女の子が「遠野君の妹さんだよね?」と確認して、渡してきたものだ。
これと似たような経験を何回かしたことがある。大概は兄に渡して欲しいという依頼だ。
当のクッキーを受け取った時は、お姉さんに「どうぞ」と言われただけだったので、どうこうする指定はない。ただ、雨が酷くなり始めた頃に急いで渡してきたものだから、本当は試合が終わる頃にでも、兄に渡したかったものなのではないか、と春子は推測している。
そのため、春子はレインコートの下に、クッキーの袋を守っていた。兄にきっと渡そうと思いながら。
前半が始まってから降り始めた雨は、多くいた観客を退散させてしまった。観戦を続けているのは選手とごく近しい家族や友人たちくらいだ。傘を買いに走ったり、ビニールを被ったりして対処し、観戦用の長いベンチで粘っている。
試合が進む中、重苦しい雨に段々観客は黙り込んでいった。少年たちは皆必死で、ボールを追い駆け、転び、明後日の方向に跳んでいくボールを捕らえようと足を伸ばしてつんのめる。雨と共に激化する試合風景に、切実さを感じこそすれ、お天気はどうにもならず、何の救いの手も差し伸べられない。
お天気を理由に、試合中止を申し出るのも憚られる。
それだけ、決勝戦は激烈な真剣勝負だった。
春子は別件から、試合を心配していた。
兄を含むオレンジのユニフォームや、敵の白いユニフォームがチラチラと入り混じる中を、目を凝らして見る。
ボールを追い駆けるユニフォームの足下を、滑るように走る小さな影。
雨や泥がはねるのに紛れて、いくつも選手やボールに集っている。
少年たちの足下をすり抜け、間を縫うように走り回り、あっと思った瞬間、春子の兄が泥の中に派手に転んだ。直後にボールが敵方に奪われたが、その白いユニフォームも転び、ボールが吹っ飛ばされた。
雨に紛れたいくつもの小さな何かが、それを見て、きゃっきゃきゃっきゃ、といってはね回る。
春子は眉をひそめた。
春子の祖父は、昔、祖母に恋して妖怪を辞めた脱妖怪なのだという。そのため春子は脱妖怪の孫、という異色の出自を持つ。
脱妖怪というものが、妖怪なのか、それとも人間になった妖怪なのか、定かではない。しかし、変てこなものによく気が付く春子は、やはり「脱妖怪の孫」という特徴が色濃いといえる。
それはこけしのような、小さな子供に見えた。
少年たちの膝くらいまでしかなく、すいすい滑るように足下を走り回っている。
地味な色の着物を着ていて、粗末な身なりだ。
春子は、それらが先程から試合を妨害しているのを気にしていた。さっき兄が転んだのもそれが足を引っ掛けたからだし、わざと水溜りに跳び込んで余計に泥を飛ばし、ボールを横から蹴飛ばし、選手たちを右往左往させている。
一番良くないのは、彼らがそれを楽しんでいるらしいことだ。悪戯を成功させる度、甲高い笑い声がさざめく。小さな子供が罪悪感なく、蟻の足を捥ぐような、悪意のない危害だ。
試合中の選手たちや、審判はもとより、観客も選手たちの足下に纏わりつく存在に気付いていない。
春子は危機感を強めていた。今はまだ、いいかも知れない。だが、これを放置したら一体どうなるのか。
雨に乗じた悪戯は、オレンジのユニフォームや白いユニフォームを転倒させ、保護者の息を詰まらせ、泥だらけの被害を拡大させている。
前半が終わると、春子は立ち上がった。
グラウンドをぐるりと回って歩く途中で、休憩の十五分の間に雨が弱まらなかったら試合を中止する、というアナウンスを聞いた。
空を見上げると重たそうな黒い雲が覆っている。春子は母のお天気予想を思い出していた。雨は酷くなるけど、試合の後半くらいから弱くなるわよ、きっと。
春子の目にも雲が風に流されているのは明らかだった。試合は続くだろう。
用事ができてしまった両親の代わりに来たつもりだったけれど、別の役割ができてしまったと春子は認識している。
グラウンドに出来た水溜りに足をとられながら、どうにかサッカーコートの一角まで来た。
そこには異形の者たちが不満げに固まって集まっている。
時折、弾かれたようにはねたり、身じろぎしているのを見て、春子はぶるりと震えた。何故だか、つぅっと背中が寒くなるのだ。
ぐっと我慢して、春子は平静を装い、こけしのような小さな者たちに話しかけた。
「今日は楽しい?」
こけしのような顔が、一斉にこちらを向いて、細い目で春子を見た。
そして、金属を引っかいたような笑い声を上げた。
春子は冷水を浴びせられたようにぞぉーっとして、鳥肌が立った。おもしろいと思うものとは、全く違う質の『何か』だ。
だけど、我慢。
甲高い声で、彼らが言葉らしきものを発声し、さざめくのを聞いた。
「今日は祭だ」「祭」「祭は楽しい」「楽しい」
「楽しい」
春子は震える手で、レインコートの下からピンクとオレンジの袋を取り出した。
「祭なら、これ食べる?」
春子の手もとに、滑るように彼らが群がって、風が渦巻いたと思ったら、目にも留まらぬ速さで袋の中身を取っていった。
クッキーを抱えて跳びはね回って喜ぶ彼らを見て、春子はぞっとした。声をかける前まで、不満げにしていたのに、この喜びよう。不満のまま試合が始まっていたら、その鬱憤をどういう形でぶつけていただろうか。
空の袋と罪悪感を手に、春子は飽くなき彼らが何をしでかすか予想もつかず、凍りついた。サッカーコートに、彼らを入れてはならない。むしゃむしゃとクッキーを頬張る彼らを見ながら、必死で考えた。
こういうときはええっと、別の案を提案してみる。試合を妨害するのとは違う、別の祭の案。祭って、何だろう。イベント?遊ぶこと?
刻々と時間が過ぎていくうちに、雨の線が細く、軽くなっていった。
体育着とゼッケンに着替えた選手がコートに戻ってきてウォーミングアップを始める。
アナウンスが、試合続行を伝えた。
ぴょんぴょんと跳びながらクッキーを食べる彼らに、春子は再び声をかけた。
「知ってる?」
ぴょんぴょんと跳びはねながら、彼らは気味の悪いこけし顔を春子に向ける。
「この白い枠の中の祭より、外の方がずっと楽しい祭があるよ」
急に、彼らは跳ぶのを止めて静まった。春子をじぃと見る。失敗したかと春子は怯んだが、こけし顔が一斉ににたりとしたので、自分の意見が聞き入れられたのだと理解した。
「楽しいこと」「ずっと楽しい祭」「枠の外」「本当?」
「ほんとう?」
春子は緊張を抑えて、しっかり頷いてみせた。
「笛の音が鳴ったら、祭をしよう」
笑い声がさざめいて、響いた。
これで、試合が始まって暫くは、コートの内側は大丈夫のはずだ。
ホイッスルが高く鳴り響く。
サッカーコート全体に散らばったオレンジのゼッケンと白い体操着が走り始めた。
正直、春子はあまりいい手を思いつかなかった。だが、もう自棄だと割り切って、春子は応援歌のメロディーを唄いながら、ぴょんぴょんその場で跳び始めた。
テレビのサッカー中継で覚えた、サポーターが日本代表に向けてよくやる応援のメロディーとジャンプだ。普段はクラブチームでも、ベンチに座っている補欠の選手が唄って応援している。今日は急な雨のせいで、皆黙り勝ち。前半は黙々とした試合だった。
春子は一人で唄ってぴょんぴょん跳んでいる決まり悪さを感じつつも、必死だった。彼らがこれに乗ってくれなかったら、春子もどうなるか解からない。
彼らは整然と佇んで、春子に注目していた。糸のような細い目の視線がいくつも突き刺さり、冷たい空気となって春子に纏わりついた。ジャンプ運動をしているのとは違う汗が、こめかみにじんわり湿った。
雨脚は目に見えて弱くなっている。試合は前半と違って、両チームとも決勝戦らしいプレイを見せ、勝負は拮抗していた。
春子は目の端で、彼らがにたり、にたりと笑い合うのを確認した。
どれかが跳ぶ。そしたらまた違うのが跳ね、それが連動していき、彼らはばらばらに跳びはね始めた。空中でくるりと回ったり、その場に円を描くように跳んで回る者もいる。
春子はそれが、歌のリズムに合った動きだということに気付いて、嬉しくなった。応援にも力が入る。
金属を引っかいたような声で、彼らも春子に合わせて唄い始めた。ぞっとする歌声だったが、跳ね回って、くるりと回って、楽しげにしている。
コートの中ではぬかるんだ泥を蹴飛ばして、少年たちがボールを繋げている。サッカーシューズにも、ゼッケンにも、体操着にも、泥がはねている。しかし前半の悲惨な様子とは打って変わり、果敢で思い切りのよいプレイが繰り広げられていた。
ベンチで静まり返っていたチームのメンバーが立ち上がって、春子の歌に合わせて応援し始めた。肩を組んでジャンプする。観客席は手拍子を始め、応援する声も飛んだ。コートの外側は活気が移っていき、空気はざわついた。
彼らの祭も、より一層賑わう。輪になり、跳びはね、唄う。
試合が高まってくるにつれ、コートの内側と外側は呼応するように盛り上がっていった。
昂ぶる心が雨の空気に滲み、立ち上って、グラウンドの上でひとつになっていくようだった。
試合が終わりそうな頃、拮抗していた力の中で、オレンジ色のゼッケンが一つ、ボールを蹴って跳び出していった。
ゴールに向かってシュートする。見事にゴールが決まり、ゴールのネットがたわんだ。
その途端、コート内のオレンジ色のゼッケンが一斉に駆け出し、ゴールを決めた選手に向かっていった。オレンジ側のベンチも、観客も、立ち上がって歓声が上げた。
春子も思わず跳び上がって喜んだ。その瞬間。
雲の隙間から光が射した。
こけしのようなものたちは、一際大きく跳び上がると、キラキラ反射する雨粒と光を含んだ空気の中に浮かび、甲高い笑い声を上げながら次々と消えていった。
春子は息を切らして、眩しく思いながらその光景を眺めた。暫く自分を失い、ぽつり、ぽつりと優しく降る雨と光の中に、彼らが消えた跡を見守った。
「春子」
はっと気付くと、目の前に泥だらけのオレンジ色のゼッケンを着た兄が、複雑そうな顔をして立っていた。
春子の兄は、春子と同じく脱妖怪の孫である。だが、おかしなものにいちいち引っかかる春子と違って、淡白にスルーする傾向がある。
複雑そうな顔は、おかしなものに気付いているときにする顔だ。気付いていはいるけれど、あまり興味が湧かないし、どうでもいい。言ってしまえば、面倒臭い。そんな反応だ。
祖父はそんな兄に、「やがておかしなものに、気付かなくなるじゃろうな」との見解を持っている。
だから、春子はもとより、自分がやったことを兄に報告するつもりがなかった。おかしなものに気付くのかも知れないけれど、母と同じように総スルーするようになったら、他の人と一緒だ。春子の見えている世界と、兄の見えている世界は違うものなのだから。
だが、今、兄は何と言って良いのか解からないという様子で、春子の前に立っている。考えあぐねて、自分でも変なことを言っているんだろうという調子で、春子に話しかけた。
「春子、応援ありがとう。怖かっただろ」
急に、春子はどっと疲れを感じた。四十五分間とロスタイムを応援し続けたのだから相当なものだ。
現実に戻って来れたような気がした。
春子が思わず兄に跳びつくと、兄は慄いたようだったが、ぎこちなく春子の頭をぽんぽんと撫でた。
そう、今日は怖かった。
こけしみたいのの、悪意のない害。
軒並み当たった母の天気予報。
クッキーを渡されたこと、それをこけしみたいなものにあげちゃったこと。
どうすれば良いのか、解からなかったこと。代案がちゃんと通じなかったら、自分がどうなるか解からなかったこと。
他の人には、一人で春子がぴょんぴょん跳びながら応援しているように見えただろうこと。
でも、それだけじゃない。
嬉しいこともあった。
こけしみたいなのも、ベンチの選手も皆、応援し始めて、活気に湧いた。
あれこそお祭だったんだ。
そして、こけしみたいなものは、光になった。
よく解からないけど、悪くなかった。
何といっても、勝敗を決めたゴールは、兄が放ったシュートだった。
「お兄ちゃん、おめでとう」
頭を撫でる手が、わしゃわしゃと嬉しげなものに変わった。
母の予報どおり、空はすっかり晴れ上がっている。