13 いつか、実る
2011年12月24日ブログ掲載
テーマ:一年前
『シリーズ表集3 瞳 春子と不思議な物語 三年生、冬』という紙媒体に収録しています。2012年5月6日発行
遠野実は小学六年生。先月の十一月にめでたく十二歳になった。
小学校のサッカークラブに入っており、日々の練習でレギュラーの座を手にしている努力家。先生やクラスメイトからの信頼も厚い。
年が明けて小学校を卒業したら、地元の中学校に進学する予定だ。
先生やクラスメイトからの信頼が厚いというのは、実にとって不思議なことだった。
信頼が厚いというのも、役割を押し付けられるのと紙一重だ。同じクラスの塚田和樹―――カズキが学級委員に立候補したとき、自動的に実が副委員長になった。
カズキはリーダーシップがあるが、ことあるごとにふざける。スケベなことを平気で言う。小六のくせに女の子が大好きだ。
実はそのとき、カズキのストッパーにされたと瞬時に理解したものだ。
その決定に対し、実は何も抵抗しなかった。だから委員長も副委員長もスムーズに決まったのだが、言い訳のように先生が言ったことを、覚えている。
「実くんは落ち着いているからねぇ」
むっ?そうなのか?
結構、熱いハートを持っているつもりなので、心外だった。
十二月二十五日、商店街のケーキ屋の前には、クリスマスケーキの受け取りに来た人たちが列を作っていた。
その中に、実の姿がある。この寒いのに微動だにせず、無表情。偶にまばたきするのと、列が進んだときに一歩進む以外は、動じない。一筋の寒風が吹くと、列に並ぶ人たちはコートやジャンパーの襟ぐりを寄せたり、その場で跳んだりして寒さをしのぐが、彼は黒いダウンコートのジッパーを顎の下までぴっちり閉じて、空気の乱れなどないかのように静態に徹していた。
その静謐さは、鏡のように滑らかな、凪いだ水面のよう。
実は知るはずもなかったが、ケーキを受け取りに来た大人たちは、この少年を「大人っぽい子だな」という感想を以って目撃していた。
このポーカーフェイスの下に様々な煩悶が渦巻いているとは一体誰が気付けただろう。
実はこのケーキの列に並んでこのかた、最近気になってどうしても頭から離れない物事から、思考を離そうとしていたのだった。
彼の心配事は妹のことである。妹自身のこともあるが、妹に関わることで付随する様々なことが彼の周囲を騒がしており、考慮すべき問題点を増やしている。
妹の遠野春子は、小学三年生である。
好きな食べ物は鶏の唐揚げ。好きな色は赤。好きな動物は猫。
そして、普通、人が気が付かないような、おかしなものや、変な出来事に遭遇するという体質を持つ。
すなわち、妖怪を見つけるとか。怨霊と遭遇するとか。ついこの間は龍と遭遇して憤っていた。乱暴だ馬鹿じゃないかと言っていた。
とはいえ、実はこの妹の特質を長年無視してきた。
実にとっては、妖怪だの怨霊だのは「存在しない」ものであったし、正直どうでも良かったのだ。
実の関心事はほとんどサッカー。暇さえあればサッカーの練習をする。妹にほとんど関心がなかったし、構ってられなかった。
妹の特質にまつわる妹の行動は、実にとって奇異なものに映った。
例えば、発芽しかけた炒り大豆を発見して、わざわざそれを育てるとか。小学校の休み時間にずっと飼育小屋を覗いていることがあるとか。家のリビングの宙を眺めて愕然としていたことがあったとか。
常識的に考えて、意味不明なのだ。
そういった行動は今に始まったことではない。幼稚園児になる前から、こちらには全く解らない事情で泣いていたり、物事を拒んだりすることがよくあった。
実にとって、妹のそれらの挙動は理解できるものではなかった。
いや、理解しようとしなかった。実は無意識に、妹の挙動の「事情」を拒絶して、無視していた。
実が妹のことを理解しようとし始めたのは、今年になってから。六月にあった実のサッカーの試合がきっかけだった。
実はレギュラーでの出場で、観にこれない両親の代わりに妹が観戦に来ていた。
最初のうちは晴れていたのに、やがて空が曇りだして土砂降りの雨に変り、試合は文字通り泥仕合となった。
地区のトーナメント戦の決勝戦だ。対戦相手ともども、負けられない。ファウルすれすれの激闘が続いた。
その中、実はどうもおかしいと感じながら、走っていた。
いくらコートのぬかるみが酷いといっても、ボールがここまで違う方向にいくのだろうか。そう思うくらい、ボールが蹴った方向とは明後日の方に行く。雨時の練習も怠らなかったチームメートもよく転ぶ。
おまけに、ベンチの選手が言葉を失くしたかのように押し黙っている。いつもなら雨だろうと関係なく、仲間を応援するのに。実は異様な感覚に、イラついた。
全体的に、神経がささくれだつような、気が立ってしまうような雰囲気。
ドリブルしている途中で、黒い小さい影が自分の足元を横切った。その途端、転んで泥にまみれた。立ち上がって観察すると、泥に紛れ、選手たちの足元を駆け回る影がいくつも見えた。そんな気がした。
そう、そんな気がしただけ。
実の中で、危険信号が点った気がしたが、無視した。選手と審判以外の何者かが、コートに入る余地はないはずだからだ。
だから、休憩明けに、観客席の向かいのコートの外に、赤いレインコートを見つけたとき、実は冷水を浴びせられたような気持ちになった。
おそるおそる、視線を転じると、赤いレインコートが小さな影たちと向き合っている。
後半戦が始まると、赤いレインコートがジャンプしながら応援歌を唄い始めた。まだ弱い雨が降っていたのに、前半戦よりずっとスムーズに試合が進む。
小さな影たちは赤いレインコートのそば。コートの外。
スムーズに進む試合。ドリブル、パス。
前半戦の転倒と、沈黙が、実の中であの影の存在と繋がっていた。
妹の応援が伝染したかのように、雨で押し黙っていた観客も合わせ始めた。
ベンチの選手も声を合わせる。雨は段々上がっていく。
横目で見たら、妹のそばで小さい影たちも跳ね回り、調子を合わせていた。
実は意地でもゴールを決めてみせる、と意気込んだ。
必死にボールと選手の動きを目で追いながら、焦った。
何故、何も手を打てなかったのだろう。あれは絶対によくないのに。自分はあの影たちが試合の邪魔をしていたのを、気付いていたはずなのに。
自分や他の選手を転ばせたのがあの影だと解っていたはずなのに。
今、妹がその危険のすべてを引き受けて、コートに入れさせていないのだ。
前半戦とは打って変わって、楽しげな雰囲気。白熱した試合の熱気が、一つになっていった。
実は試合終了ギリギリで、敵の包囲網を抜けてゴールにシュートを叩き込んだ。
試合終了後、急いで実が駆けつけると、春子は雲の隙間から降りてきた光を見上げていた。
レインコートのフードは脱げて、顔があらわになっている。丸い大きな目を天に向けている妹の顔は、光に縁取られて絵のようで、瞳はキラキラと輝いていた。
思わず声をかけたのは、そのまま光に連れて行かれてしまいそうと、我ながら有り得ない危惧を抱いたからだった。
実はその後、試合のことを繰り返し思い返し、考えた。ともかく妹に借りが出来た。それに妹の奇行に整合する事情があることも、無視できなかった。実は元来、公正でいようと努める性質である。自分が助けてもらったことを理解しているのに、奇異なものだと片付けるのは横暴だと理解していた。
それから、実はあることを思い出していた。黒い小さな影たち。妹はあれらをはっきり認識していたようだったが。
自分も小さい頃はよく変なものと遭遇し、その度なるべく無視して過ごしてきた。それは年を追うごと徐々に強くなっていき、遂には無意識に無視できるようにさえなっていた。
そういえばそうだった、そうだったはず。
そして、半信半疑の思考の中に、記憶の片隅に追いやっていた事実を思い出す。
脱妖怪、と、縁側の祖父。
妹は試合の次の日から風邪で寝ていた。雨の中ずっと応援し続けたからだ。
なんとなく申し訳ない。
縁側の祖父の背中は丸かった。ガラス戸を開けて「おじいちゃんちょっと話していい?」と訪問すると、祖父は何がおかしいのかぷくぷくと笑った。
実はこの、仏然としていながら得体の知れない雰囲気を醸す老人が苦手だった。自分の考えや感覚を遠慮斟酌なく壊してしまう気がしてしまうからだ。
だから、「おじいちゃん、脱妖怪って本当?」と緊張しながら訊ね、祖父に「うんそうじゃよ」と軽く返されたとき、拍子抜けして暫く絶句してしまった。
「おぬしにそのような話をしたのは随分前のことじゃと思ったが。何じゃ、突然どうしたんじゃ」
梅雨のねっとりした空気が絡みつく季節だった。薄暗い曇り空の下、庭の湿った黒い土に草木が青々と映える。
実が座る木の縁側はひんやりとする。それでも膝の上に握り締めた手の掌は汗ばんでいた。
頭の中で次の言葉を必死に探す。
「春子が」
認めるには、話題にするには、違和感がある。しかし、自分も「脱妖怪」の関係に連なるなら、無視するわけにはいかない。
「俺を助けてくれたんだ。俺ら、か。雨の日のサッカーで」
うむ、と祖父は頷く。
「子供の霊が集まって遊んでおったそうじゃのう」
あれはそういうものだったのか。
実は、思い切って言った。
「春子のこと、このままじゃいけないと思って。だってあいつ、一人で頑張ったんだ」
後半戦の白熱した気持ちのいい試合と、春子の行動の因果関係を理解しているのは、実しかいなかった。
当たり前だ。誰も小さい影なんかに気付いていない。春子はにわかに応援し始めた実の妹に過ぎない。応援のおかげで試合会場全体がいつもの雰囲気を取り戻した、ということで感謝されていたけれど、誰も春子が本当に成し遂げたことを知らないのだ。
その無知は、当たり前すぎるくらい、当たり前だった。しかし、実はそれは看過できない。
自分たちは荒んだ試合を回避できた。
だけど、誰があの危険から妹を守れるというのだ。
「とはいえ」
祖父はゆったり言う。
「おぬしはずっと無視しておったはずじゃ。変なものを変なものと認識せず、おかしなものに興味を持たず、人間らしく生きておった。母と似て、人間社会に適合するための、おかしなものを拒絶する力が強いからのう。それで、よかったのではあるまいか」
実は表情を曇らせる。きっとその通りだ。今だって、こんな会話をすること自体に違和感があって、ナンセンスだと思う心がある。そんなものは有り得ないのだと。
こんなんで、妹を守りたいだなんて、おこがましいのだ。
それでも、と実は思う。
「それでも、春子のことを解ってやれる人間て、少ないと思う。だから助けてやりたい。ちゃんと解ってやりたいんだ」
湿り気を帯びた肌寒い風が実の首筋を撫ぜた。
ぞくりとして背筋を伸ばす。息をつめて、祖父を見つめると。
普段は閉じたような瞼の下から、茶に金の虹彩がギラギラと光る眼が覗いていた。
まるで獣のような。
ぷくぷくという笑い声が祖父の唇から漏れる。それは振幅して幾重にもなって、実に押し寄せる。
ぷくぷくぷくぷくぷくぷく
ぷくぷくぷくぷくぷくぷく
ぷくぷくぷくぷくぷくぷく
ぷくぷくぷくぷくぷくぷく
ぷくぷくぷくぷくぷくぷく
ぷくぷくぷくぷくぷくぷく
実は冷たい汗が背中から噴出すのを感じながら、じっと耐えた。
「良い心構えじゃの」
はっとして瞬きすると、祖父はいつも通り、仏然として縁側に鎮座していた。
梅雨を感じさせる空気に、薄曇の空を乗せた屋根の下の縁側。
実の手は震えていた。その手を押さえ、息を止めていたことに気付いて、ふーっと息を吹き出す。額の際に汗をびっしょりかいていた。
今更「何だったのか」なんて思わない。正直言って怖かった。
それが実にとっての答えだった。そしてそれから逃げるわけにはいかない。
「わしはおぬしが春子の兄であることを自覚してくれてほっとしておる」
祖父は何事もなかったかのように、ゆったりと言った。
「むしろ助かったわ」
えっ?と祖父を見ると、祖父は難しい表情をして言った。
「春子はけっこう、ビミョーでのう。人間の世界と妖怪やら霊やらの世界と両方に近い。ゆえにちょっとした弾みでアッチの世界に引っ張り込まれてもおかしくないんじゃよ。一応人間じゃのに」
実は固まった。それだと実が「どっか行ってしまいそう」と思ったのは、そう間違ってなかったのではないか。
「両方の世界と関わりがあるから必然的に世界が広い。それゆえ仕方ないことなんじゃがのう。人間界にきちんと楔が穿たれておかんと、どうなってしまうか解らんし、どっちが良いのか解らん。のう、実、おぬしは学校の人間の名前と顔を覚えておるか」
急に話題を自分に振られて虚を突かれたが、実は頷く。
「うん、そりゃ、クラスメイトとか先生とか」
あと登校班の子たち、隣のクラスの二組の面々。サッカークラブのメンバーは当然覚えている。
祖父はうむうむと頷いてから、淡々と言った。
「春子はのう、覚えておらんのじゃ。クラスに行ったら誰か解るでのう、きっと。じゃが、クラスメイトに誰がおるか訊いたら、咄嗟に思い出せんのじゃ」
実は祖父の話を聞いて、あることを思い出した。
春子が小学校に入学したとき、実のクラスでそのことが話題になった。同じ小学校に兄妹がいると他人の興味をそそるものである。実は小学三、四年の頃からサッカーのレギュラー選手で、自然と注目が集まりやすかった。その延長上でもあっただろう。
目が丸くて大きいところが実くんにそっくり、ということが広まった後しばらくして、「何だか変」という春子に対する印象が定着した。
実は学校の生徒たちが下す「変」という評価が、容易に疎外や蔑みに繋がることを知っていた。だからといって、実が老婆心を起こして春子にどういう言ったり、指南することはない。実の関心事はサッカー、妹は妹でどうにかするだろうと投げやりに思っていた。
春子は実が思ってもみなかった方法でその状況を切り抜けた。
すなわち、誰からの評価に対しても、どこ吹く風、我が道を行くという方法で。
周囲の注目も興味も、全くの空振りにせしめたのだ。
関わる余地がなければ、「変」以上の印象を持たない。
なんだかよく解らないけれど、意外とうまくやったな、と実は思っていた。
違ったのだ。
もしかしたら春子は学校、自分たちが生きなければならない世界に、しっかり根付いていなかっただけなのではないか。
「実の妹」ということで、注目や興味を集めていたのに、春子自身はそれを受けなかった。皆の意識に上りきらなかった
考えてみるとそれは怖いことだった。
春子はどうなのだろう。学校のことなど、どうでも良いのだろうか。
いや、それはない。春子は濡れそぼったレインコートで抱きついてきた。あの小さい影が、怖かったのだ。
それなら春子は、普通に学校やクラスで生きるべき、人間でもあるのだ。
実は、春子を不思議なものから守ってやれない。だが、その状況はある程度、解ってやれる。きっと春子がもっと持たねばならない関わりを理解して、助けてやれる。
少なくとも、自分がきちんと妹と向きあうことで、参加しなくてはならない社会に繋ぎとめることができるのではないのか。
実だって、きっと中途半端なのだ。
変なものに気付いているのに気付いていない。小さい影には気付いた。だが春子みたいに小さい影に向き合うことはできない。
ずっと無関心でいようとしたのに、あの雨のサッカーグラウンド、小さい影に赤いレインコートが相対しているのを見て、初めて自分に妹がいたことを思い出したような気持ちになったのだから。
「春子には必要なことなんじゃがのう。見える世界のキャパシティがありすぎてそっちに集中できん。わしには教えられんことじゃし、しかし柳にも実にも〝学校〟に友人はいたし。春子もこれから生きる上で、人間社会にもきちんと根付くことが必要なのじゃ。解るかのう?」
とりあえず、何かしら変なものが意識に引っかかるのなら、自分はまだ両方の世界に足をかけている春子を引き止めることができる。
実は妹に対する自分の役割を見出した。自分の意識の変化をこれほど明確に感じたことはない。
実は祖父をしっかり見据えて、頷いてみせた。
「春子に、やれること、やってみるよ」
それを聞いて、祖父は鷹揚に頷き、それからにんまりした。
「やはり兄妹じゃの。選ぶ言葉がそっくりじゃ」
「むっ?」
何がおかしいのか、祖父は肩を震わせてぷくぷくと笑った。
その後、実は妹に積極的に関わり続けた。妹は最初は怪訝な顔をしていたが、段々頼りにしてくれるようになってきた。
実も変った出来事に直面するようになり、その度、無視したい気持ちと向き合おうとする気持ちがせめぎ合う。しかし、概ね向き合うことに成功していると思う。自分からしてみれば冗談としか思えない状況に、度肝を抜かれることばかりだが、免疫もできてきた。
妹は妹なりに兄を認めている。大きな丸い瞳でじぃと見上げられて、ありがとう、なんて言われると、妹が自分のことを見ているなぁと変なところに感心してしまう。
意識の変化があって、そうして妹に関わり続けてから、何となく妹も学校のクラスメイトといった周囲ときちんと関わるようになった気がする。それでも妹なりの独特な感性が働いているように見えるが。春子は春子ができることをやり、自分は春子を助けてやれれば良いと思う。
だが、実には誤算があった。
まず、一つ目に周囲の注目が妹に集まりやすくなったこと。実が目をかければかけるほど、周りの注目も集まる。妹に悪感情が向けられるのではないかとハラハラすることもある。
カズキも春子のことをしっかり実の妹として認識するようになったことが気がかりだ。スケベなことばかり言っている友人は嫌いではないが、春子がそういった面を知らないままカズキに好感を持ったようだったので複雑である。
二つ目に、妹について悩むことが非常に多くなったこと。妹自身より妹について考えているのではないかと思うことさえある。
前まではサッカーのことだけ考えていれば良かった。空いた時間はサッカーのリフティングの練習をすればよかった。ところが、最近は春子と巻き込まれた変な出来事を順を追って思い返して考察することが増えた。妹の行動や性格を分析して果ては自分の行動や性格まで省みるのである。
それは今まで自分にとって未知だったものを、真剣に取り組んでいるが故だったが、実はある時はっとした。
俺は気付いたら春子のことばかり考えていないか。
カズキからは「シスコン」とからかわれるようになったし、知り合いに妹と一緒にいるところを見られると妙に微笑ましそうに見られるし、前から実に対抗心を燃やしている大田や、揚げ足をとろうとする古崎は妹の変った性格や行動をあげつらうし「シスコン」と言ってくる。
そして妹のことを悪く言われてムカついてこの間は大田と古崎二人を相手どって口喧嘩してしまった。
そしたら「いつもはクールな実が」と大田や古崎はもとよりクラス中に唖然とされてしまった。
その行動や自分の思考を省みるに、また周囲からの目を鑑みるに、実には最近「シスコン」というイメージがまとわりついてしまっているのである。
去年のクリスマスケーキは春子が選んだ。実はそんなことも知らなかったけれど、母に「去年は春子が選んだから、今年は実が選んでね」と言われてその事実を知った。
十一月にケーキを選びに行くとき、いつもの無表情で妹にじぃっと見つめられた。
何がいいの、と訊くと、切り株のケーキ、と春子は熱く言った。
そして、今、実の手には、ブッシュ・ド・ノエルが仕舞われたケーキの箱の持ち手が握られている。
店員の「ありがとうございました」という声を背中に受けながら、自動ドアの前に立つとガラス扉が左右に開いて寒風が吹き込んだ。
実は少し口元を首まであるダウンコートに埋めて、ケーキ屋を後にした。
結局。
妹の懇願通り、ブッシュ・ド・ノエルを選んで予約してしまった。サンタとトナカイの玩具みたいな砂糖菓子が乗っていて、ブルーベリーやラズベリーが並べてある。母からは「切り難い」と文句を言われそうだが、良いではないか。喜びそうだと思った。喜びそうだと思って選んで何が悪い。
心の中で誰に対してということもない言い訳をして、実は息をついた。また春子のことを考えてしまった。何か別に考えることはないかと思って、この間海外で活躍している日本人選手がゴールを決めたことを思い出した。あのプレイは素晴らしかった。自分もあんなシュートを放ってみたい。歩きながらちょっとボールを蹴る真似をする。
こうして歩きながら様々なことを思い巡らしたり、考えたりすることはしょっちゅうだ。偶に自分が変な顔になっているのではないかと思うことさえある。
しかし、どうも自分は普段から無表情で、滅多なことでは表情に感情が出ないらしいことを最近知った。
妹に関わることによる実の誤算、三つ目。
妹が外見上、実とそっくりだった、ということだ。
それは意外や、自分の発見に繋がった。
前から実は「クール」とか「落ち着いている」とか言われてきた。自分では結構、熱いハートを持って、様々なことに取り組んできたつもりだったので心外だった。
サッカーも、行事も。それから最近は妹のことも真剣に取り組んでいる。喜んだり怒ったりしている。一体どうしてクールとか落ち着いているとか言われるのだろう。長年疑問だった。
ところが、これが春子を見ているとすんなり納得できるのだ。
例えば、緊張でカチンコチンのくせに、普段通りの無表情だったり。驚いているのに「む」と言うだけで表情は普段通りだったり。跳び上がって喜んでいるのに表情はいつも通り、無表情だったり。
つまり、内心の感情が表情に出にくい人間なのだ。表面だけ見ていると、落ち着いて堂々としている、無表情な人間に見える。
本当はそれなりに、ぽかんとして、混乱して、ドキドキして、憤っているのだ。傍目から見ている実にはそれが解る。そして、春子と実が似ていると言われて、気が付いたのだ。自分もそうやって勘違いされているのだと。
「クール」「落ち着いている」という周囲の評価と、それがしっくりこない自分の疑問のギャップは、内面の思考や混乱が顔に出ないゆえだったのだ。
「そっくりじゃ」
祖父にそう言われたことを思い出す。
自分は運動神経がいいけれど、春子は鈍足だし反射神経も悪い。自分は変なものに引っかかりを感じないと無視してしまうが、春子はそれらによく気付く。違うところもたくさんあるのだ。
だけどそっくりだって。前まで無関心だったけれど、血の繋がった兄妹だからだ。兄妹なんて、自分が意識しなくても、いたらいるものだと思っていた。
だから怖かった。
当たり前だと思っていたものが、自分が何も知らないまま失われてしまう可能性があるだなんて。
連れて行かれそうなのも気付かず、何も関わらないまま、手を尽くせないまま、例えば実自身に関係があることで妹が危険な目に遭っていただなんて、思ってもみなかった。
無視していることはもうできなかった。
実は思う。まだ自分は整理のついていない思いがたくさんある。自分にとって、異界は怖いものだ。平気に両方の世界を見つめている春子の神経が理解できない。
それでも、段々春子と一緒に見ていれば、関わっていれば、触れたり、はっきり認識できるようになってきた。
きっと、自分の中に渦巻く考えや、感覚、周囲のこと、一つずつ片付けてみせる。
一年前ならケーキのことだってどうでも良かったのに、妹が頼んできたブッシュ・ド・ノエルってことになるのだから。
また一年後、何か変っているかも知れないじゃないか。
実はああ、また妹のことを考えてしまったと思って、まあいいか、とあっさり諦めた。シスコンと言われるのは忸怩たる思いがあるが、妹のことを考えること自体には悪い気持ちがしないのだ。
真っ直ぐ家を目指して歩く。
弾む心に足取りを合わせて。
そうだ、春子に教えてやろう。切り株のケーキはブッシュ・ド・ノエルっていうんだぞって。
寒風が吹いたって、行き着く場所は同じなのだ。
作者の中では実くんは身も心もイケメンです。
徐々にシスコン気味が露呈されてきました。