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春子と不思議な物語シリーズ  作者: 独蛇夏子
砂上の蝶、君を守る
13/29

12 そして奴は帰ってゆく

2011年11月21日ブログ掲載

テーマ:ダイヤモンドダスト

『シリーズ表集3 瞳 春子と不思議な物語 三年生、冬』という紙媒体に収録しています。2012年5月6日発行

 霧がかった朝だった。


 春子の学校には登校班がある。毎朝、近所に住む同学校の生徒がみんな一所に集まってから、並んで学校に行く。家と学校が目と鼻の先だろうと勝手に学校には行けないシステムで、春子の自宅はどちらかというと小学校から近いので、少し煩わしい。

 二メートル先が見えにくいくらいの霧は住宅街には珍しいことで、集合場所の小さなジャングルジムだけがある児童公園でみんなを待つ間、春子はあたりを見回して様子を窺っていた。

 普通の気候現象に見える。しかし、春子は今朝、母が外の様子を見て、頬に手を当てて言ったことを気にしていた。

 「変ねぇ。今日はお天気のはずなのに」

 まるで天気の方が間違っていると言わんばかりだ。

 しかし、天気予報(予想?)をさせたら百発百中の母である。母もまた、春子と同じで、普通とは違う。

 何かある気がする。しかし、何にも解らない。

 霧は民家や木々を薄っすらと覆って、蒼っぽく浮かび上がらせる。

 視線を転じると、紺色の校帽が寄り集まっていて、一番背の高い人物が春子の目に入った。兄の(みのる)だ。

 六年生の実は登校班の先頭となって、みんなを引き連れる役目を負う。歩くのが早い実に合わせて、みんなその後を必死になって歩く。下級生は結構大変だ。もっとも、それは春子たちの登校班にだけ当て嵌まる現象ではなく、平日の朝は歩くのが速い最上級生を追って、せかせか歩く下級生たち、という小学生の列がよく見られる。

 春子は兄の様子を窺ったが、兄はいつも通りのポーカーフェイスで佇んでいる。霧に何ら異常を感じていないらしい。ちょっと目が合ったが、すぐ反らされてしまう。最近兄は不機嫌なことが多く、春子を避けることがある。

 出発する時間になると、兄が「行くよ」と声をかけて整列させた。



 霧の向こうに、列をなしてムカデのように歩いていく登校班が見えた。

 天候というものは不思議だ。晴れているときは話しながら歩き、雨の日には傘で遊び始める、列を乱す腕白一年生も、今日は沈黙して歩いているようだ。あたりを取り囲み、無言のうちに圧迫する霧の密度のせいに違いなかった。

 春子も蒼ざめた朝に、自然と厳かな気持ちになった。こういう朝はきっと黙っている方がいいのだ。

 一番先頭の紺色帽を見る。春子は兄の不機嫌が気にかかっている。兄がどうして最近不機嫌なのか、春子はおおよそ察していた。十月の運動会に妖怪が出現した際、春子はその捕獲に尽力し、兄も捕獲に一役買った。兄は衆目のある中で、妖怪を捕獲し連れ去ることになった。〝怪我をしたカラス〟を捕まえたと言ってその場を切り抜けたのはよかったが、その後も子供たちの間で〝怪我をしたカラス〟は事件として尾を引いた。校庭に変なものがいたという認識をした生徒に、〝怪我をしたカラス〟だったと信じた人と、疑う人がいたのだ。

 どうやら兄は、勘が鋭くて兄に敵愾心を持っている同級生に〝怪我をしたカラス〟についてことあるごとにつっかかれているようだった。

 それは春子が変なものを察知するのに長けているから降りかかった兄の災難なわけで、春子はそれを思うと多少気持ちが沈む。

 しかし、登校中に気持ちが沈んだって仕方がない。肩を落として暫く歩き、気を取り直して顔を上げた。


 その瞬間、春子は兄の後頭部が霧の中に消えるのを見た。


 それどころか、春子の前を歩く子たちも、みんな霧に囲まれ、見えなくなってしまう。

 しまった、と春子は立ち止まる。後ろの人が立ち止まる気配はない。

 春子は他の人が消えたのではなくて、自分がどこかに入り込んでしまったことに気付いていた。

 濃い霧に囲まれて一人、春子は立ち尽くした。それは明らかに、住宅街を漂っていた霧より、濃密な白い霧だった。

 春子は怪しみながら様子を窺い、寸前まで進行方向だった目の前を見据えた。吐く息は白い。先ほどより空気が冷え込んでいた。

 ぶ厚い白い霧の壁が目の前に立ちはだかる。

 いつもよりずっと自分が小さくなったかのように感じて、春子はランドセルの背負い手を汗ばむ手でぎゅっと握った。助けを呼びたくなって、口を噤む。助けを呼びたくても相手も春子がどうなっているか解らない。こんなわけの解らない状況に陥ったときは大体そうだ。

 そこで、春子はぐっと目の前を見据えて、決然として一歩を踏み出した。とにかく、状況の打開をするには、進むほかないのだ。

 一歩。また一歩。一歩。

 霧がまとわりつき、空気は一歩ごとに凍てつく。ジャリ、ジャリ、と何かを踏みしめる音だけが響き、足下から冷え込んできた。

 足下がふわりとした感触になったと思ったら、



 いきなり霧が開けて、青空の下に真っ白な雪景色が広がっていた。



 吐く息は真っ白。柔らかい雪が足下に積もっている。風は切るように春子の頬を撫ぜる。この環境に充分でない装備の春子は(うな)って、すぐにガタガタと震え始めた。

 右を見ても、左を見ても雪に覆われた世界だ。冷たい風がまた吹きつけて、意識が飛びかかった。

 つらい―――――そう思った瞬間。春子は目の前の光景に息を呑んだ。

 まるでカットされたダイヤモンドの面が細かく砕かれ、空からばら撒かれたようにキラキラと煌いている。雪原の宙一帯にそれは夢想のように舞った。

 光が降るかのようで、その美しさに春子は言葉を忘れた。

 しかし、やがて春子は気付く。

 その光の幻想に紛れて、金や赤の光が蠢いていることに。


 それは、春子の周りにとぐろを巻いて、金や赤の光の粒で形作られた長い体で取り囲む。光はその体に集合し、血のように巡りながら点滅している。

 ダイヤモンドの塵に紛れて現れたそれは、長い体で春子を囲んで、首をもたげ、ビルの上から見下ろすように春子を見下ろした。



 威風堂々たるそれは、龍。



 こんな場所に放り出されたなりゆきを窺っていた春子は、硬直した。初めてこんなのと遭遇した。一体何の脈絡があってこんなのが目の前にいるのだろう。

 はっとすると、春子は寒さが多少和らいでいるのに気が付いた。龍の体に囲まれているせいだろうか。

 光は龍で、龍は光そのもので、ダイヤモンドの破片のような塵は太陽の光を受けてその空間を煌いて席巻する。春子は自然と畏怖した。

 はるか頭上から見下ろす龍は口を少し開け、そこから何かを発した。

 少なくとも音声ではない。しかし、春子の頭の上に言葉が降って来る。





 こ ど も を



           か え せ





 子供?

 春子は困惑する。龍の子供になんて、関わった覚えがない。

 それを言おうと口を開けて、煌きが散らばる空気を吸い込んでむせた。すごく冷たい。


 龍の言葉は、なおも降って来る。



    さ も な く  ば


                    ひ が  さ ん ど



 の ぼ り し  の ち



     い の ち  な き こ と   と


                             お も え




 




 えっ?



 

 今度こそ抗議をしようとマフラーを口に当てた春子に向かって、龍の顔が降りてきた。

 龍がぐんと近付き、春子は眩しくて目を閉じた。

 龍は風のように春子の体をまるごと飲み込み、通り抜けていった。


 風と光の本流に、ただ春子は身を縮めて耐えた。





 暖かいところに放り出されたのかと思った。

 そうでもないと気が付いたのは暫く経ってからである。

 春子の体からは湯気がたち、徐々に周囲の空気に馴染んでいく。



 霧が薄れていく住宅街の道路に一人、春子は立っていた。



 顔を覆った腕の陰から様子を窺い、見慣れた景色だと確認して、春子は腰が抜けてしまった。すとんとその場に座り込む。

 体はすっかり冷え切っていて秋の寒さが暖かく感じるくらいだった。ガタガタと震えながら、しばし春子は呆然としていたが、段々とある感情がむくむくと胸に湧き上がってきた。恐怖でも安堵でもない。憤然とした抗議の気持ちだった。何なんだ!いきなり!さっぱりよく解らないし!

 霧は晴れていく。春子を連れに来た大がかりな移動装置は跡形もなく消えようとしていた。

 憤懣やるかたない心地で冷えた腕を物凄い勢いでさすって温めていると、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。

 顔を上げると、前方から兄が猛スピードで走ってくるのを見つけた。

 「やっといた!春子!何があったんだ?大丈夫か?!」


 丁度いいところに熱をもった温かいものが。


 これ幸いと春子は走り込んできた兄に抱き付き、実は悲鳴のような声を上げた。


 「うわっ!冷てぇ!!」




 霧がいっそう濃くなったと感じたとき、実の登校班の後方で二年生の女の子が騒ぎ出した。

 目の前を歩いていた春子が忽然といなくなって、驚いたのだ。

 異変を察知した実は、しんがりを務めていた五年生の男の子に先頭を任せ、先に学校に行くよう指示した。そして自分は元の道を辿って、春子を探した。今日は何を着ていたか、目印になるものを思い出そうとした。

 登校ルートを何回も往復したが、いくつも他の登校班と遭遇するも春子はいない。横道に入ってもいない。春子の名前を呼んでも返事はない。

ああ、しっかり見ていなければならなかったのに。

 これほど肝を冷やしたことはなかった。

 そして、何度目かの往復でようやく、道に座り込んでガタガタと震えている赤いマフラーの妹を発見したのだった。




 春子は学校に行くと言い張ったが、兄は家に帰るようやんわり諫めた。

 そんな状態で行くのはよくないし、具合が悪くなったから登校班を抜けたのだと兄が学校に伝える。その方が、春子が消えてしまったことにまだ説明がつくから、と。

 なんだそれ。うそじゃないか。と、突然拉致されて憤っていた春子は抗議したが、兄は眉をひそめて諭した。

 「学校行く途中で突然消えた春子が学校行ったら、登校班の途中で勝手に抜けた人騒がせな迷惑な奴だろ。たいへんなことが起こったのは事実だし、具合が悪くなったのもあながち間違いじゃない。そう言って休んだ方が、先生とかも仕方ないなぁって思うんだよ。体も冷えてるし、おじいちゃんに何があったか話してこい」


 納得し切ったわけではなかったけれど、春子は帰ることにした。

 いきなり見も知らぬ地に不思議現象で連れて行かれ、さっぱり身に覚えのないことを言われ、龍の強引さに腹が立っていた。脱妖怪の孫である春子だから、まだ受け止めることができる物事だ。それでも、全くどうしようもない状態に置かれるのは、安定を望む人間の感情として怒りを感じる。

 だから春子は、できるものなら、無理をしてでも学校に行きたかった。普通の小学生であることを、誇示したかったのである。あの強引さへの、感情的な対抗だ。

 しかし、春子は帰宅する。

 体がカチンコチンだし、学校に行ったら普通に授業も受けなければならないし、今日は体育もあるし、家の方が近かった。兄の言うことの方が一理あった。

 そして、学校という環境で自分が他人にどう見られるのかと、変なことに巻き込まれたり、おもしろいものを見つけたりする事情との間に、挟まれている自分を春子は発見する。

 そんなの、前は思わなかったのにな。

 多少もやもやしながら、兄の黒いチェックのマフラーをぐるぐる巻きにして、ロボットのような足取りで春子は家路についた。




 帰るや否や、母にお風呂に放り込まれた。何故そんなに冷えているのかと怒られた。

 何故と言われても。春子は熱いお湯に口元まで浸かって、愛情ある理不尽さに脱力した。帰った瞬間お風呂のお湯が溜まっていること自体「何故」だ。事情を説明しても解ってくれないだろうに。

 そうして春子が「何故」と訊いたのならば、母は「そんな気がしたの」で済ませてしまう。母は無敵だ。

 しかし、多少理不尽であるにせよ、母のあまり細かいところを気にしない性格は春子にとってありがたいところ。

 身体の芯までカチンコチンに冷え切った理由を母に何と言えばいいのかと考えながらお風呂から出てきたら、母は「薄着にしているからよ!!赤いコート出しておいたのに!」と春子に説教した。勝手に納得したらしい。


 春子の仏然とした祖父は、珍しく一連の出来事を険しい表情で聞いた。

 祖父は、昔祖母に恋して妖怪を辞めた、脱妖怪なのだという。

 それゆえ、春子はおもしろいものを見つけたり、変な目に遭ったりすると祖父に話す。いつもなら、祖父は余裕綽々、おもしろげに聞くのだが。

 茶に金の虹彩が光るギラギラした眼を見開いて、明らかに不快げに言った。

 「おのれ、龍めが。偉そうにしおって。三日以内に子を返さねば命がないじゃと?何様じゃ」

 ああ、龍が言っていたのは、そういうことだったのか。

 湯上りで湯気のたつ春子は、ホットはちみつレモンをふーふー吹いて冷まし、上目遣いに祖父を見る。遠野家は父以外、全員猫舌だ。

 春子は祖父の怒気をびしばしと感じながら、少し萎縮しつつ困ったように言った。

 「でも、龍の子なんて拾った覚え、ない。何なんだろう」

 ホットはちみつレモンをこくりと飲むと、身体の芯からじんわり温まってほっと息をついた。炬燵に足を入れて、赤と橙の縞模様の半纏を着て、全身ぽかぽかしていい気持ちだ。

 草色のカーディガンを着て、同じく炬燵に足を入れている祖父は、剣呑な光を眼にたたえている。穏やかならざる状況に関わらず、春子は暢気に祖父ほど炬燵の似合う老人はいないだろうと思った。丸い背中に丸い肩。そこに固定されているかのように鎮座したぬくぬくした雰囲気と、炬燵の団欒の雰囲気が、いい調和をもたらすのだ。

 「春子はのんびりしておるのう」

 マグカップを口に近付けて、む、と春子は頷く。

 「あまり嫌な感じがしなかったから、何とかなるかな、と思って」

 それを聞いて、祖父は「なるほど」と重々しく頷いたが、苦々しい表情をした。

 「害を為すものが必ずしも嫌な感じがするとは限らんぞ。龍は万物のあらゆるところに宿るものじゃ。体も巨大じゃが存在も巨大じゃ。数も少ないしのう。なまじ巨大で多くのものに影響を及ぼすから、尊大じゃ」

 「そんだい?」

 「偉そうということじゃ」

 吐き捨てるように言う。

 「奴らが動いて巻き込まれれば、こっちはたまったもんじゃないのじゃ。こっちは大概どうしようもないしのう。巨大すぎて天災のようなものじゃ。人の感情も、営みも、展望も、何の躊躇もなく踏み潰す。優しいも、良いも悪いも、関係ないのう」

 はちみつレモンをきゅっと飲み込んで、春子は固まった。初めて怖くなった。

 そうだった。何でもないような気候現象でごく普通に春子を攫った。春子が何も察知できなかったのは、妖怪じみた雰囲気がしなかったからだ。悪い奴が悪い顔をしていたら解りやすいけれど、その存在の悪意のない都合が人間にとっての迷惑になるなら、何も察知できないこちらには対処ができない。

 そうして、こっちは大変なことになってしまう。


 「のう春子」


 はっとして顔を上げると、祖父のギラギラした眼が、ダイニングの方を向いていた。

 「龍の子とは、もしやあれのことかのう」


 春子が祖父の視線の先を辿ると、ダイニングに置いてある、赤い色がチラチラ泳ぐ水槽があった。



 遠野家で飼っている、赤に黒いふ入りの出目金(デメキン)は、春子が関係して飼われることになった経緯がある。

 その出目金の特異性を挙げるとすると、最初は黒い出目金だったのに赤い金魚を喰ったら体に赤い部分ができた・夏祭りの帰りに春子やその他が遭遇した怨霊を肥大化して一口に喰ってしまった・その際一時空中を泳いでいた・金魚用の餌を与えると「ふん」と不遜な態度で食す・といった、およそ普通の出目金らしからぬ点が次々と出てくる。

 最近、水槽に同居していた赤い金魚が寿命だったようで、弱っていると思っていたら、次の日にはその姿が消えていた。出目金はすっかり赤い体に染まっていた。

 また喰ったのだ。


 あれは夏祭りで春子の同級生のマキちゃんが獲った出目金で、その帰りに遠野家に置いていったものだ。

 何だかただならぬ奴だとは思っていたけれど、祖父も「その内勝手に出て行くじゃろ」と言っていたので、春子も放っておいたのだ。


 春子と祖父は暫し無言で水槽の方を見つめた。水槽の方からの視線とぶつかり、赤い色は水中でチラチラしている。

 何で思いつかなかったのだろう。

 あいつ、すごくそれらしい特徴を備えているではないか。




 次の日が祝日だったのは不幸中の幸いだった。春子と祖父はまだ暗いうちから出かけた。

そうして祖父に連れられて、清流のある山麓に来た。空気がよく、綺麗な湧き水で名のあるところだ。

 春子は川の上に架かった橋の上にいる。

 欄干から見下ろすと、川の水は限りなく透明で、川底がすぐそこに見えた。水草はエメラルドグリーンの帯になってゆらゆら揺らめいている。川底には細かい砂利がぶくぶくと膨らんで、清い水が湧き出している。湧き水が吐き出されているところは見える範囲にいくつもあった。

 川の周りには枯葉を残した木が枝を重なり合わせていて、寒そうにしている。春子の赤いコートだけが、残された紅葉であるかのように鮮やかだった。

 春子の手には水を溜めたビニール袋の持ち手が握られている。水の中では赤い出目金が元気よく泳ぎ回っている。

 龍の子疑惑が深まって、即刻近所の川に放り込もうと思った春子であったが、祖父がそれを止めて綺麗な水に放した方がよかろうと言った。春子が連れ去られた雪山のことを鑑みると、ダイヤモンドダストという気候現象が起こるくらい寒い場所で、空気が澄んだ環境にその龍は生息しているらしいことが解る。それならば、そういう環境に通じるところに放した方が、親元に辿り着きやすいと考えたのだ。

 ダイヤモンドダストが起こるのは、春子が住んでいる東京よりもっと寒いところのことだろう。だから、東京の奥地の方の水に放しても直接そこに繋がるわけではない。しかし、「なるべく近づける」ことが肝心なのだ、と祖父は言い切った。


 春子はあくびをした。

 綺麗な河川に出目金を放すなんて生態系の破壊、などと言い出しそうな母に見咎められないよう、早朝に家を出てきたのだ。朝ご飯もまだ食べてないし、眠くてたまらない。

 祖父がこの場所を選んだのは龍に肩入れしたからではない、ということは、隣の祖父の様子を見れば解る。

 祖父は焦げ茶色の外套を着て、柿渋色のハンチング帽を被っている。橋の上から澄んだ川を臨み、佇んでいる。今朝は白い雲が紫色の空全体を薄っすら覆う天気で、朝の寒さが身に凍みる。が、その寒さをも凍りつかせる威容を放つ祖父の周囲の緊張感に比べれば、何と天候の穏やかなことか。

 祖父と孫は並んで、挑むようにこの美しい河川に臨んでいた。

 春子は絶え間ない湧水音に心を落ち着かせ、む、とビニール袋を顔の位置まで上げて赤い出目金の様子を観察した。早朝から、矢鱈(やたら)元気な泳ぎをしている。

 祖父のしわくちゃの手が差し出された。

 「春子、少し貸してみぃ」

 春子が出目金が泳ぐビニール袋を祖父に渡すと、祖父はそれを持ち上げて、顔前に近付けた。

 ぴたりと出目金が静止する。

 祖父はギラギラとした眼で出目金を凝視し、凄みのある声色で話しかけた。


 「よいか、龍の子。おぬしを親元に返すは我が孫の役目と認めてやろう。じゃがそちらは勝手に我が孫に益なきことを課した。それを我が孫が出来うる限り最善の方法で応じる。これは分不相応な交渉であり、そちらに対する貸しだとしかと任じよ。我が孫の意に添う形で、必ず報いよ。我が孫に害為せばただではおかぬ。この(ねこ)()(ねこ)十郎(じゅうろう)がただでは済まさぬ。覚えておけ」


 ぴーん、と緊張の糸が張られた。

 祖父の手から春子の手にビニール袋が渡される。


 受け取った春子は、川の方に手を伸ばしてそのままビニール袋の口を横に向け、水と共に赤い色がころりと落下していった。






               ちゃぽん。





 橋の下の透明な水面に小さな赤い出目金が見下ろせた。

 同じ所に輪を描いてぐるぐると泳いでいる。

 「見ておれ。龍の子じゃ」

 祖父がすっと眼を眇めた。


 赤い色が、ゆらめいて、もう一度輪を描いた瞬間、大きな緋鯉に姿を変えた。


 それからくるりと輪を描き、尾を翻すと、緋鯉は優雅に川上に泳いでいった。



 春子は赤い色が川上に消えてゆくのを、微妙な面持ちで見送った。

 「・・・龍の子?」

 コイじゃん。

 そう思って、あれは何なんだと祖父に訊こうとしたとき、胃からぐっとせり上がってくる感じがして口を閉じた。

 苦しい。

 「春子?どうしたんじゃ?」

 祖父の問いに答えられず、橋の欄干から一歩二歩後じさりして、前かがみになる。食道から逆流してくる何かに堪え切れず、そのままオエッと春子は吐き出した。

 カランと音を立てて、木の橋床に、五百円硬貨ほどの大きさのものが転がった。

 ふはーっと春子が息をついていると、祖父が春子の吐き出したものをひょいっと拾い上げて厳しい目で点検する。それからふんと鼻を鳴らして、春子に渡した。

 「龍の鱗じゃ」

 楕円が外側に少し沿った形の、透明の鱗だった。レンズのようで、光を受けて虹色の線が入る。中に細かい、金と赤の光の粒子が散っているのが見えた。

 春子はむっとした。あの龍が春子の体を通り抜けた時に、体の中にきっと残したのだ。

 日が三度昇る間に返さねば命はないという、脅しを成立させるために。


 川の中に投げ捨てようとした春子に、祖父は声をかけた。

 「持っておいた方がよいぞ」

 「む」

「何かあったときに使えるかも知れん。滅多にない、神聖な龍の鱗じゃ」

 「むっ。春子は怒ってるよ」

 「それなら、尚更、利用できるもんは利用してやらんと、悔しいのう」

 やんわり言われて、春子は投げようとした手を下げ、しげしげと鱗を眺めた。尊大で迷惑な奴だったり、神聖で使えそうな奴だったり、面倒くさいのがいるものだ。

 祖父は言った。

 「あやつらの存在自体、自然の恵みじゃったり、災厄じゃったりするもんなんじゃ。うまく共存してやるほかあるまい」


 確かに。

 春子は普段、自分がおもしろいものを見つけたり、変な目に遭う「普通じゃない」性質をよく意識するが、今回は「普通の人間」であることの方を意識することが多かった。

 「普通の人間」を脅かされたことに立腹した。

 やっぱり、脱妖怪の孫だから、出来事を受け容れる容積(キャパシティ)があったし、何とか助かった。しかし、脱妖怪の孫である春子も、龍のような存在とは同じフィールドに立てない。

 祖父の反応を見ても、明らかに気が立っていた。龍の言うとおりにするほかなかった。どうあっても、対立せざるを得ない存在なのだ。


 春子の知らない世界はまだまだあるものだ。

 ふっと息をついて、春子は肩の力を抜く。とりあえず一難去った。春子もそれなりに緊張していたらしい。急にイチゴジャムのトーストが恋しくなった。

 「おじいちゃん、早く帰ろう」

 「そうじゃの」

 橋を降りようと、ゆっくり歩いていく。歩きながら春子はあることを思い出して、首を傾げた。

 「ねぇ、何でデメキンがコイになっちゃったの?」

 「昔から鯉は滝を登って龍になるという相場が決まっておるんじゃ。だから鯉になったんじゃろ」

 黒い出目金が赤くなって、緋鯉になって、それから龍になる?

 やっぱり変な奴だな、と春子はげんなりした。春子にとっては納得しかねる論理である。

 祖父は思い出したように春子に話しかけた。

 「兄に大丈夫じゃったと帰ったら言うのだぞ。矢鱈心配しておった」

 「はい」

 「まぁ、あやつもドンカンのわりに無理するのう」

 む、と春子は考える。春子は兄がよく解らないことを解っているが、兄は春子が考えられないことを考えてくれる。大体、いつもそうだ。

 年齢の差もあるけれど、春子はこう思う。

 「わたしたち、けっこういいコンビなんだよ」

 「そうか。それはよかったのう」

 やっと祖父は相好を崩し、ぷくぷくとおもしろげに笑ったのだった。

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