11上 君を守る
紙媒体『シリーズ表集2 春子と不思議な物語~三年生、夏・秋編~』の書下ろし。
2011年11月3日発行 文学フリマにて販売
中編「砂上の蝶、君を守る」本編 上
運動会は秋晴れの土曜日に、校庭の上に万国旗が数珠繋ぎになって翻る。
日本各地の運動会で熱中症の児童が続出したため、学校は開催に随分慎重になったらしい。それでも、流石に十月の気候なら大丈夫だろう、というのが先生やPTAの一致した意見で、例年より一ヶ月遅らせて運動会を開催することになった。
春子は運動会があまり好きではない。兄の実と違って運動音痴だし、教室から重い椅子を出してきて、ずっと炎天下に晒されて応援するのは過酷だ。今年は一ヶ月ずれたから、まだいいけれど。からりと晴れた秋の空が、多少恨めしい。
しかし、不思議と心境の変化もあるものだ。
六年生の百メートル走、騎馬戦、組体操、上級生の色別対抗リレー。兄が出場する種目を応援するのが、楽しみになったのだ。
トラックの外側に設置された生徒席から、六年生の出場を見つめる。
「あ、あれ春子ちゃんのお兄ちゃんだね」
クラスメイトのルミカちゃんが先に声を上げた。なんだか嬉しそうだ。
春子はこくこくと頷く。
「だめよ、応援しちゃ。向こうは白組なんだから」
カレンちゃんが遮るように口を挟む。ルミカちゃんはしゅんとし、春子はまたこくこくと頷く。クラスメイトは皆、赤帽を被っている。勿論、春子も赤帽を被っている。皆、白組に対抗意識満々なのだ。
実は一番足の速い第一グループの走者だ。位置につくのを遠目に見守って、春子はきゅっと両手を握る。
ピストルの乾いた発砲音が響いた瞬間、四人の走者が一気に跳び出した。
「お兄ちゃん、がんばれ!」
思わず立ち上がって、春子は声を上げてレースの行方をじっと見守る。
一番外側のレーンを走っている白帽の少年が、風のようにすいすいとトラックの曲がり角を走り抜ける。
誰より飛び抜けて、ゴールテープを切った。
「やったぁ!」
思わず跳び上がって喜んだ春子は、はっとして周りを見た。
赤帽を被ったクラスメイトたちのじとっとした視線がいくつも突き刺さる。
「おい、遠野。なに応援してんだよ」
クラスの男の子、高橋君に非難されて、春子はすとんと椅子に腰を下ろす。周りのクラスメイトは既に関心を六年生の百メートル走に移し、応援をしている。
カレンちゃんとマキちゃんはくすくす笑って、仕方ないなぁというように春子を見た。
「応援しちゃうよね、お兄ちゃんなんだから」
「でも今、白組なんだから応援してたら遠野は裏切り者じゃん」
高橋君は食ってかかったが、カレンちゃんとマキちゃんは言い返した。
「いいじゃん。春子ちゃんは自由なんだよ」
「高橋君だってサッカークラブで同じのくせに」
「今日は違うんだ。白組ぎったぎたにしてやる。赤組ー!いけー!」
なんだか高橋君は率先して燃えている。
マキちゃんとカレンちゃんはくすくす笑っている。ルミカちゃんは遠くに順位が決まった人が座る旗を見つめている。
春子は敵陣の兄を応援した自分を強く意識する。みんな、色々あるのだ。
しゃきり。
校庭の隅で秋桜が一輪、切り落とされた。
春子は鈍足である。
兄は運動神経に集中力が向いているようだが、春子は他のところに集中力が向いているのだ。
砂利の上に草。
じゃなくて、かまきり。
春子は八十メートル走の出走待機をしている時に、その緑の一点を見つけた。
細くて小さいかまきりが、鎌を構えて、微動だにせず固まっている。
徒競走の音楽に子供の割れんばかりの声援。駆けてもくもくと上がる砂埃。すぐそばを人の足が行き交う。かまきりの子供にとっては四面楚歌の環境である。
春子はあまり考えないでかまきりをひょいっとつまむと、自分の服にくっつけた。かまきりは身じろぎしたが、比較的大人しい。
ルミカちゃんが春子を見て、声を上げた。
「春子ちゃん、かまきりついてるよ!」
「うん、いいでしょ」
「え?!」
春子は目をぱちくりとさせ、ルミカちゃんは心底解からないという顔をする。
春子は溜め息をついた。
かまきりの可愛さを解かってもらえないなんて、悲しい。
ちょきん。
万国旗ひとつ、ひらりと落ちる。
徒競走で最終走者グループとして出場した春子は、見事にビリとなった。名実共に学年一の鈍足である。
赤組の損害にはどこ吹く風で、春子は校庭の隅の観察用畑までやって来た。花壇から続いて、校庭より一段高くなっているところに、六つ並んでいる。ヘチマやトマト、ゼラニウムや秋桜などがあり、残りの二つの畑は雑草が蔓延っている。
春子は赤やピンク、白の花が揺れる秋桜の畑まで来ると、体操着につかまっていたかまきりをそっと外して、秋桜の細かい葉の中に置いた。
かまきりはシャキーンと鎌を構えてみせる。心なしか、さっきより元気だ。
よしよしと春子は満足して、その場を立ち去ろうと踵を返す。
と、足下に転がる花を見つけて、動きを止めた。
ピンク色の秋桜の花だ。
茎をスパッと綺麗に切られていて、まるで誰かのために一輪、鋏で切ったかのような。
風に吹かれて、くるくると地面を転がる。
春子はひやりとしたものを背中を走るのを感じた。
運動神経には働かない、春子の研ぎ澄まされた神経だ。
じょきん。
黒髪のおさげが落とされた。
「何か、怖いものがいるね」
誰にともなく呟いた春子の背後では、ただ秋桜だけが揺れていた。
春子が応援席に戻ると、ちょっとした騒ぎになっていた。
赤組の四年生の女の子が、髪の毛を切られたらしい。しかも、編んでおさげにしているものを、縄のように切り落とされたのだ。容易に切り落とせるものではない。
四年生の席には人が集まっていて、その真ん中には呆然としている女の子が先生から事情を聞かれている。
「わかんない。気付いたらこうなっていたから、誰がやったのか見てないんだもん」
春子は人だかりを掻き分けて、先生が手の上に乗せているおさげの束を観察する。
途端に寒気と、気持ち悪さに襲われて、春子はぶるりと体を震わせた。
「きっと、白組のせいだぜ」
振り向くと、苦々しそうに、しかしどこか勝ち誇ったような顔をした高橋君がいた。
その言葉は、ずわりと周囲に広がり、伝播していく。
白組のせいだ。
白組の奴が、びびらせるためにやったんだ。
勝ちたいから、やったんだよ。
春子は身震いする。
それは、正確な情報ではないはずなのに。
「白組が卑怯な手を使って、勝とうとしてるぞ」
高橋君がまた、言う。
春子は怒りを感じた。それは、正すべきだ。
春子は高橋君をじっと見つめると、さらっと言った。
「自分が嫌いだからって、人のせいなわけじゃないよ」
高橋君は顔を真っ赤にした。
高橋君は食ってかかろうと春子を睨みつけたが、おさげを手にした先生が移動し始めたので、春子は気分が悪いのを押してそちらに意識を戻し、追いかけた。
先生が本部まで来ると、何やら困惑した面持ちで他の先生たちも集まってきていた。おさげを見て、顔をこわばらせ、相談をし始める。
春子はしゃがんで小さくなり、綱引きの綱がまとめて置いてある小高い山の影で、様子を窺った。
「子供たちに危害があれば黙っていられませんね」
「でも、生徒の席で切られたらしいのよね。鋏を持った怪しいやつが入っていった誰かしら気付いて教えてくれると思うんだけど」
「まず安全を確保したいところですけど、誰かが鋏を持ってうろうろしているという目撃情報もないですし、なんとも言えませんね」
「不可解なのは校庭の真ん中に吊ってあった万国旗が切られたことだよなぁ。大人の男でも届かないのに、どうやって切れるんだ。みんなも見てたのに」
別のものも切られたのか。
見物に来た保護者のトートバックの持ち手も切れた。拡声器の肩紐も切れてしまった。古いからじゃないの?いや、断面が綺麗なんです。
次々に被害報告がされていくのを聞く中、春子はちゃき、と刃がこすれる音を聞いた気がして、む、とそちらに顔をむけた。
綱の側に、それはいた。
黒っぽい鳥のような姿だが、全体的に丸くてふさふさしている。カラスくらいの大きさだろうか。ギョロギョロとした目がこちらを向き、嘴にあたるところが鋭い鋏のような形をしていて、鈍く光っている。鳥なら普通は羽がある部分が、指のように五本に分かれていて、綱の一部を持ち上げている。
そして、口を大きく開けて、その部分の綱を挟もうとするところで、春子に見つかって固まっている。
こいつだ!
「こら!」
春子が声を上げると、そいつは見た目からは想像できないスピードで、その場から逃げ出した。
見物人の人混みに紛れて、解らなくなる。
春子は呆気にとられ、それから逃げられたことを悔しく思った。
「遠野さん、何してるの」
ぎょ、として降り仰ぐと、先生たちが不思議そうに春子を見下ろしていた。
担任の先生が少し心外そうに言う。
「クラスの席から離れちゃ駄目でしょ。戻りなさい」
「いや、待って。今、こらって言ってたけど、何かあったの?」
と、先生たちがにわかに真剣な顔をして詰め寄る。
春子はとっさに思いついたことを言った。
「カラスが綱にくちばし刺そうとしていて」
先生たちは目を丸くして、顔を見合わせる。
「カラス?」
「俺も見た」
別の声が春子の後ろからかかった。春子が背後に人の足が迫っているのを感じ、見上げた。
兄の実が立っていた。
「なんだ、兄妹揃って、珍しいな」
「カラス、ねぇ。まあ確かに綱を突っつかれたら困るもんねぇ」
と、言いつつ、あまりピンとこないという様子の先生たち。
兄は複雑そうな、変な顔をして言う。
「なんか、持ち上げて、嘴で切ろうとしているみたいだったけど」
「へえ?こんな太い綱をか。なるほど・・・」
先生たちは目配せをし合い、「あれもこれもカラスの仕業なのでは」と囁き始めた。
とりあえず、春子は兄の足元で口を噤んでいたが、そんなわけなかろとおじいちゃん口調で内心突っ込む。
兄は不安そうに、先生に訊ねた。
「髪の毛が切られた子がいるって聞いたんですけど。なんか、赤組が白組のせいだって言い始めてて」
「証拠もないのに、そんなこと言い出したの?まったくもう」
一部の先生たちが憤然として生徒席に向かった。
「うん、まだよく解からないんだ、実は。他にも原因不明の切断事件があって」
「えっ、ほかにも」
兄は表情を曇らせる。
春子の担任の先生が、思い出したかのように春子と兄に言った。
「ところで、何でここにいるの」
「係で。俺も春子もそうです」
「ああ、ご苦労さま。髪切り事件は何か解かったらきちんと伝えるから、早く戻ってなさい」
む、春子は係じゃないぞ。
そう思った時にはぐいっと立たされて、春子は兄に引っ張られていた。
保護者の見学スペースの後ろをぐいぐい引っ張って歩かされ、春子はその強引さにむっとした。
テントから充分離れたところで急に兄が立ち止まり、その背中にぶつかってしまう。
「ぶっ」
「何してたんだ?あそこで」
兄はむすっとして春子を見下ろす。
「む。お兄ちゃんこそ」
「俺は春子がちょろちょろ走って行くのが見えたから」
「むっ」
春子は怯んだ。兄が妹の様子を見て、わざわざ追いかけて来たことに初めて思い至ったのだ。係が嘘である事は百も承知。先生たちがいる中で、不審な行動をする春子を穏便に連れ出そうとしてくれたのだ。
素直に謝辞が口にできず、春子はむすっとして言った。
「変なやつがいるんだもん」
「変な奴?・・・あのカラスか?」
「カラスじゃないよ」
「カラスって言ってたじゃねぇか」
「カラスじゃないんだもんっ」
春子は考えに沈む。あの黒くて丸い鳥みたいで鳥じゃない鋏のやつ。秋桜も、髪も、万国旗も、あいつのせいに違いない。
しかし、あの鋏のやつのことを言ったとして、先生たちに通じるとは思えない。
あれは少し怖いものだ。生徒の間に不満と攻撃が伝播していた。先生方にも不安が伝染し、恐らく、見物客もそうだろう。春子も寒気が気持ち悪くなって・・・
あれ?と春子は首を傾げる。あの寒気と気持ち悪さが、幾分楽になっていたのだ。
それはともかく、と春子は横に置いておく。
地面に落ちたピンクの秋桜がくるくると転がるのが脳裏に閃く。
どうにかできないか。このままでは、良くない気がする。
むっつり黙り込んでいた春子は、人ごみの中にあいつを探しに行こうと足を向けた。
「春子、どこ行くんだ、ちょっと待て」
「むむっ」
頭をがしっと掴まれ、春子は反って停止した。
兄が怒ったように言った。
「くわしく教えろ、一人でなんでもやろうとするな」
春子と兄は、目撃した黒っぽい鳥のような、鋏のようなやつを、仮に〝かみきり〟と呼ぶことにした。プログラムの間を縫って、兄と共に探す。
兄は春子の詳しい説明を聞いて、自分も一緒に探すと申し出た。そんな兄の反応に春子の方が複雑な気持ちになったが、拒否しても仕方がないので、一緒に探してもらうことにした。
何しろ、春子は学年一の鈍足である。一方兄は学年一の俊足である。素早い動きの〝かみきり〟を捕まえるには、適任だ。
見物の保護者たちの間を注意深く見たり、万国旗を吊るしてある紐の上を見上げたりする。兄もきょろきょろするが、〝かみきり〟どころか、それらしいカラスもいない。このいつになく人が多い広い学校で、 〝かみきり〟を見つけるのは容易ではない。
兄は不意に言った。
「春子、今日じいちゃん来るっけ」
「お昼食べに来るはずだよ」
春子の兄の実の祖父は、昔、祖母に恋して妖怪を辞めた脱妖怪なのだという。
春子はその性質を受け継ぎ、変なものや不思議な現象によく気付く神経が冴えている。
兄はその方面はあまり興味もないし、神経を払っていなかったが、最近は複雑そうな顔をしながら理解しようとし始めている。
そんな顔してまで、関わるものかな、というのが春子の正直な感想だが、一応水を差さないようにしている。妖怪には妖怪の考えがあるように、兄には兄の考えがあるのだ、という論理で。
そして、得体の知れないものについては、脱妖怪、言ってしまえば妖怪本人と自称する祖父に訊くのが一番手っ取り早いのである。
春子と兄の小学校は運動会のお昼時間を家族とお弁当を食べる時間にしている。校庭にシートを敷いて、各家庭でお弁当を広げるのだ。
遠野家も揃って運動会にやって来て、お弁当を食べる予定だった。
トラックの内側で踊っている一年生たちをじぃっと見ながら、春子も不毛さを感じて、兄に同意するように言った。
「おじいちゃんに聞いてみるのが、一番良いと思う」
とにかく、捕まえたにしても、その後どうすればいいのかが解からない。
ざくっ。
ポンポンの白いスズランテープの房が、切り離される。
春子も兄も出場しないといけない種目があるし、午前中に〝かみきり〟を探し出すのは難しい。お昼に祖父に相談して、合流してから再び捜索しよう。
そう決めて、生徒の席の方へ戻ると、何やら騒々しい。
応援団の女の子たちが、赤と白に別れて喧嘩している。周囲には男子の応援団や他の生徒も集まっていて、野次を飛ばしあっている。言葉も暴力的だ。
どうやら、白組が赤組を責めて、赤組がそれを非難しているらしい。
赤と白の応援団長が、何とか治まりをつけようとしているが、とても苦労しているようだ。
「証拠のないことだ!とりあえず落ち着け、こんなことしても意味がないから、解散!席戻って、解散、解散!」
春子と兄は顔を見合わせ、やっと散って自分の席を戻っていく生徒の中を応援団長に近付いていった。
兄が袴姿の白組の応援団長に親しげに声をかけた。
「カズキ、どうしたの?」
白いはちまきを頭に巻き直しながら振り返ったのは、兄の友人だった。サッカーチームで一緒であり、同じレギュラーメンバーで派手な動きをする選手、よく笑うムードメーカーで、春子も面識がある。
その人が、不満げに舌打ちをした。
「応援団の女子のポンポンが、一つ切られたんだ」
言うなり、春子は白組の応援団のポンポンが置いてある場所に駆けて行った。
ポンポンは、学校を取り囲む緑色のネットを張る支柱の下にまとめて置いてある。周りには応援団の女子上級生が集まってピリピリしている。
春子は少し離れて足を止め、じいっとその周辺に視線を巡らせた。
が、女の子一人の目に留まり、睨みつけられる。
「ちょっと、何?あんた」
「もしかしてあんたがやったんじゃないでしょうね」
はっとして春子がよく見ると、女の子たちは泣いている一人を囲んで慰めているところだった。
春子は自分の失敗に気が付いた。突っ走ってきちゃったけれど、さっきの赤組のせいのどうのというのは、白組のポンポンを赤組の誰かが切ったと疑っての騒動だったのだ。何でそんな解かりやすいことに気が付かなかったのだろう。
赤組の悪意を疑っている彼女たちに、赤帽を被った自分が不用意に近付くべきではなかった。
黙って固まっている春子に苛立ち、ほどけたポンポンを持った女の子が眉を吊り上げて春子に一歩近付いた。
「こんなことしてただで済むと思ってるの?」
「ちょっと、早くどっか行ってくれない」
「うちの妹にちょっかいかけるのやめてくれないか」
また、背後から声がかかり、女の子たちが一斉に視線をそちらに移した。
春子は少し仰け反って、背後にいる人物を見上げた。
案の定、春子の兄である。その隣には兄の友人のカズキもいた。
ほどけたポンポンを持った女の子が腰に手を当てて、怯まずに言った。
「なんで、遠野君の妹がこんなところにいるのよ。今日は赤組でしょ」
「ポンポンの話を聞いて心配したんだよ」
「なにそれ。おかしくない?赤組のくせに」
「普段は赤組も白組もないんだ。春子は今日もそうだ。それだけ」
「今さ、うちらすごくムカついてるの。だから超目障りなんだけど」
「だからって、うちの妹に当たらないでくれるかな」
お兄ちゃん、今日はいつになく怖くない?
春子がぽかんとして兄を見上げていると、隣にいたカズキがまあまあと間に入ってきた。
「赤組がやったって証拠はそもそもないだろ。それに、赤組の女の子も髪の毛切られたんだ。なんか俺らのせいにされたけどさ、そっちもただの噂なんだ。あんまりピリピリすんなよ」
女の子たちはちょっと、押し黙る。
その時、春子は女の子たちの頭上のネットにつかまる、黒い鳥のようなものを発見した。
目が合う。〝かみきり〟だ。
〝かみきり〟は春子と目が合って、ネットを切ろうとした鋏の口を開けたまま、固まっている。
春子は兄の体操着を引っ張って「あれ」と小さな声で呟いた。ほどなくして、兄が「あ」と声を上げた。
次の瞬間、〝かみきり〟が手のようなものを使って、物凄い勢いでネットを登っていった。瞬く間に春子たちが届かないところまで行ってしまう。
「ちょっと、何?話の途中なんだけど」
「「む」」
春子と兄ははっとして、女の子たちに向き直った。イライラした様子でこちらを見ている。
ところが、兄の友人のカズキがネットを見上げて、間延びした声で言った。
「え、今、変な動物いなかった?」
え、どこ?と女の子たちもネットの上の方を見上げる。〝かみきり〟はいつの間にかいなくなってしまっている。
春子はヒヤヒヤしながら、何と説明すれば良いのかと混乱していると、兄が真顔になってカズキに言った。
「鼠じゃねぇの」
「えっ、ねずみってあんなところいるか?てかでかくね?」
「どうでもいいわよ。とりあえずもういいから、早くどっか行ってくれない?」
女の子たちは心底面倒臭そうに言って、手で払う仕草をした。
カズキはニカッと笑って、女の子たちに言った。
「後で応援合戦、がんばろうな」
「うん、後で」
もう切り替えて元気よく応える女の子たちをぼんやり見ていた春子は、兄に引きずられてその場から退散した。
水飲み場まで来ると、兄は春子を離して心の奥底から吐き出すように溜め息をついた。
「春子、とりあえず突っ走るのはやめろ。お前な、もうちょっと考えて・・・」
困ったような顔をして見下ろす兄に、春子はとりあえず頷く。春子も少し反省した。
その後からカズキがやって来て、呆れたように言う。
「みのるさぁ」
「ん?」
「そんなにシスコンだったっけ」
「ほっとけ」
「お兄ちゃん、シスコンって何?」
「変な言葉は覚えなくて良い!!」
変なことなんだ。
「それより・・・あれのことだろ」
春子は〝かみきり〟のことを思い出して、口を噤んだ。
赤組の女の子が髪を切られた、それが白組のせいだと噂が広がっていた。そんな中で、白組のポンポンが切られ、赤組に募らせていた不満が敵愾心に膨れ上がった。そして双方いがみ合っているのが現状らしい。
実際は〝かみきり〟のせいなのだから、赤組の白組への疑いはいわれのないもので、証拠もない讒言に過ぎない。白組のことも然り。疑い自体が悪意で、悪い方向へ蔓延し伝わり、険悪なムードになってしまったようだ。
切られる、という得体の知れない危険への不安と、それを理由付ける人間の悪意。
春子はこの運動会の雰囲気を漠然と把握していたに過ぎないが、〝かみきり〟のせいで大変よろしくない状況になってしまったことだけは理解していた。
やけに対抗心を燃やし、攻撃的だった高橋君を思い出す。
白組のせいだ。
「なあ、そうだよ、あれ本当にねずみかー?みんなピリピリしてるしさ、変な事件は起こるし、俺ヤなんだけど、最後の運動会なのに」
カズキが困惑したように言って、春子ははっとした。
そうだ、これは兄も最後の運動会のはずだ。兄は眉をひそめてカズキを見ただけだったが、少なからず落ち込んでいる。
と、兄が再び真顔になって、カズキに言った。
「ポンポンとか髪切りの事件さ、あるじゃん」
「うん」
「実は、さっきの鼠のせいかも知れないんだ」
「えっ、マジで?!」
春子は呆気にとられて、兄とカズキのやりとりを眺めた。兄は突然、何を言い出すのだろう。
正直のところ、カズキが〝かみきり〟を見つけた時、春子はどうしようかと思って大いに焦った。けれど、兄がうまい具合に、本当ではないが嘘でもない説明で切り抜けた。
だから春子は黙ってなりゆきを見守る。兄には兄の、考えがある。
「俺と春子が黒っぽい生き物が綱引きの綱を切ろうとしているところを見ていたんだ。でもそれが本当だったかよく解からなかったから、先生には言ってこなかったんだ。確実じゃない」
「そうか」
「だけど、髪切られたり、ポンポン切られたりしている以外にも、先生たちの物や観戦に来ている人の物が切られたりもしてるらしいぞ」
「マジか」
「わかってくれるか?」
「え?」
兄はぽかんとしたカズキに、訴えるように言った。
「色々切られている事件は、俺たちの間だけのことじゃねぇんだ。運動会のあちこちで起こっている。赤とか白とか、そんなの関係ねぇんだよ。事件を理由に攻撃しあうなんて、くらだない。カズキ、赤組の団長と相談して、みんなにこのこと広めてくれないか」
昼休み手前にふらりと現れた人間は、活気ある運動会の様子に口元を緩め、それから瞼を薄く開けると、鋭い目線で人ごみをなぞった。
曲がった腰に杖。千鳥格子柄のジャケットのきちんとした身なりにハンチング帽、仏然としたしわくちゃの顔は優しく、だけど少し尖った耳や、ギラリと光る瞳は穏やかならざる趣がある。
全体的に丸い印象なのに、年の割にはすっくとがに股で立ち、どこか得体の知れない雰囲気を醸し出す。
春子の祖父、猫尾猫十郎が、小学校の運動会にやって来た。




