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短編 心霊現象注意報シリーズ

心霊現象注意報が発令された夜、何故か義妹は僕の肩にずっと寄りかかっています

作者: 風親
掲載日:2026/10/11

 両親が二泊三日の温泉旅行に出かけて、家には僕と未来だけが残された。

 兄妹とはいえ、血の繫がっていない僕たちに対する信頼が厚すぎるのではと毎度のことながら思ってしまう。


 食卓には、母があらかじめ作っておいたカレーを温め直した二皿。


 向かいに座る未来は、スプーンを機械的に動かしながらスマホを眺めていた。

 普段なら、『お行儀が悪い』と叱りたいところだけれど、口やかましく言って喧嘩になるのも、気まずい沈黙になるのも嫌なので黙っておいた。


「母さんたち、着いたって」


「ふうん」


「晩ご飯、カニだってさ」


「こっちは作り置きのカレーなのにね」


 そこで会話が途切れた。


 いつもなら『アニキはこのあとはまたゲームばっかりなの?』だの何だの嫌味が飛んでくるはずなのに、今日の未来はやけに口数が少ない。


 カチャリとスプーンが皿に当たる金属音だけが、無駄に広く感じるダイニングに響く。


 食べ終えた皿を二人で並んで流しに運び、隣のリビングへ移動した。


 そのまま部屋に引っ込んでしまうのかと思ったのに、僕が三人掛けソファの端に腰を下ろすと、未来はわざわざ一番離れた反対側の端に座る。

 会話は少ないのに、何故か同じ場所にいる。


 テレビをつけると、名前も知らない芸人がクイズ番組で騒いでいて、わざとらしい笑い声が上がった。


 いつもなら真っ先に僕からリモコンを奪い取るくせに、今日の未来は膝の上にクッションをぎゅっと抱え込んだまま、ぼんやりと画面を見つめている。


 僕も、ローテーブルに置いたコントローラーになんとなく手を伸ばせずにいた。


(二人きりだと、この家ってこんなに静かだったっけ)


 半年前、心霊現象注意報が出た夜のことがふと頭をよぎる。


 あの夜、未来が僕の部屋にやってきて、朝まで二人で過ごしたこと……お互いに一度も口にしていないけれど、二人きりになると、どうしてもあの夜の空気感が部屋の隅に澱のように残っている気がする。


 ちらりと隣を窺うと、ちょうどこちらを盗み見ていた未来と視線がぶつかった。


「……何?」


「いや、別に」


「なら、こっち見ないでよ」


 未来が不満そうに眉をひそめ、クッションに顔を半分埋める。僕はすごすごとテレビに視線を戻した。


 ピコーン。


 静寂を破るように、テーブルの上で僕のスマホが甲高い通知音を鳴らした。


「心霊現象注意報だって」


「げっ。今日?」


 未来が露骨に嫌そうな顔をして、リビングの大きな掃き出し窓を見た。それから、薄暗い廊下の奥にも視線を走らせる。


 両親がいないことを、もう一度確かめるような怯え方だった。


「……今晩、一緒にいてあげたほうがいい?」


 半年前のことを思い出しながらそう口にすると、未来の肩がぴくりと跳ねた。


 未来は目を丸くして僕を見つめ、みるみるうちに耳の先まで赤く染まっていく。


「馬鹿!」


 抱えていたクッションを僕の顔面に投げつけてきた。


「誰がそんなこと頼んだのよ!」


(やっぱり怒られたか)


 クッションを受け止めながら内心で苦笑していると、未来がわざとらしく小さく咳払いをした。


「……でも、まあ。暇だし。ゲームでもしようか」


「え?」


「二人でできるやつ、あるでしょ。どうせアニキ、暇なんだし」


 未来はクッションを膝の上に戻し、少しだけ、ほんの十センチほど僕のほうへ体を寄せてきた。


「じゃあ、もう一つのコントローラー取ってくる」


 僕が立ち上がり、テレビ台の引き出しに手を伸ばしたその時だった。


 ピンポーン。


 薄暗い廊下の先から、玄関のチャイム音が聞こえてきた。


 未来の体が、ピタリと固まる。


「……誰も呼んでないけれど」


 僕も『同じだ』と小さく頷く。

 未来は『そもそもアニキに遊びに来るような友だちはいないでしょ』と言いたげな、興味のなさそうな顔をしたあと、警戒するように玄関へ向かった。


 鍵とチェーンを外す重い音に続いて、ドアが開く。次の瞬間、夜の空気を吹き飛ばすような明るい声が響いてきた。


「もー、今夜は一緒に一夜漬けで勉強するって話だったじゃん!」


「え? そ、そんな話したっけ?」


「したした。ほら、お邪魔しまーす!」


「ちょっと、葵!」


 未来が制止するのも聞かず、廊下をパタパタと小走りに駆けてくる足音がした。


 リビングのドアが勢いよく開き、制服姿の女の子がひょっこり顔を出す。


 人懐っこい笑みをいっぱいに浮かべたその子は、僕の顔を見るなり、いたずらっぽく目を細めた。


「久しぶり、お義兄さん!」


「ああ、久しぶり……」


 反射的に愛想よく返したものの、その直後、いつ以来だったかなと思い出そうとしていた。


 葵ちゃんは、昔は隣に住んでいた子だった。

 週末になると、こんなふうに暗くなってからでも訪ねてくることもしばしばだった。


 誰とでもすぐ打ち解ける子で、うちの両親とも仲が良く、僕にも明るく話しかけてくれていた。


(でも、喧嘩別れしたんじゃなかったっけ……?)


 酷い喧嘩をして、未来がしばらく落ち込んでいたような記憶がある。


(まあ、陽キャな女子ふたりなら、あっという間に仲直りもするのだろう……)


 モテない男特有の適当さで違和感を脇に押しやることにした。


「あれ、ゲームするところだった?」


 葵ちゃんの視線が、僕が両手に持っていたコントローラーに向けられる。


「お邪魔だったかな」


「全然!」


 追いついてきた未来が、僕が答えるより先に大声で割って入った。


「ちょうど勉強しようと思ってたところだから! ね、アニキ!」


(僕はいまゲームに誘われたばかりだったはずだが)


 未来の必死な視線に圧されて、僕はコントローラーをテーブルにそっと戻した。


「じゃ、未来の部屋に行こうよ」


 葵ちゃんが当然のように廊下を指さすと、未来がさっとその前に立ちはだかる。


「ここでいいでしょ」


「もしかして、また散らかってる?」


「……ちょっとだけ」


「座るところは?」


 未来が気まずそうに視線を泳がせた。


(あの沈黙は、足の踏み場もない時のやつだな)


「食卓、空いてるけど」


 僕が助け舟を出すと、葵ちゃんが首を横に振った。


「あそこ~。足元、寒いんだよね」


 他人の家なのに、我が家のように詳しい葵ちゃんは顎に手を当ててしばらく考え込んでいた。


「お義兄さんの部屋は?」


「僕の?」


「アニキの部屋、こたつ出せるじゃん!」


 未来が名案とばかりに手を打つ。


「私、教科書取ってくる!」


「じゃあ私は、お義兄さんのお手伝いするね」


「おい、ちょっと待て。まだいいとは言ってないんだけど」


 抗議する僕の横を、葵ちゃんがするりとすり抜けて二階へ上がっていく。


 仕方なく自分の部屋のドアを開けると、葵ちゃんは物珍しそうに部屋を見渡した。


「へえ、きれいにしてるんだね」


「余計な物がないだけだよ」


 男子高校生の殺風景な部屋に女子が入ってくる居心地の悪さを誤魔化しながら、ベッド脇に立てかけてあった折り畳み式のこたつを引っ張り出す。

 小さい頃、友だちとカードゲームをする時に使っていたこたつだ。最近はそんな遊びに付き合ってくれる友だちもいなくて、すっかり埃を被っていたのを、そっと拭う。


 押し入れからこたつ布団を取り出したところで、教科書を胸に抱えた未来が小走りで戻ってきた。


「アニキ、そっち持って」


「人の部屋なのに、仕切るの早くないか?」


 文句を言いながらも、僕と未来で布団を広げ、葵ちゃんが天板を載せる。


 電源コードをコンセントに差し込むと、ヒーターが微かに唸りを上げて赤く灯り始めた。


 じんわりとした暖かさに誘われるように、三人同時にこたつへ足を入れる。


 僕の向かいに葵ちゃん。角を挟んだ僕の隣に未来が座り、教科書とノートを広げた。


 こたつの中は決して広くない。少し足を伸ばしたら未来の足に当たってしまい、お互いに目を見合わせて変な空気になった。


「で、葵。教科書は?」


 未来が誤魔化すようにノートに日付を書き込みながら尋ねる。


「見せてもらおうと思って」


「……最初から持ってきてないわけ?」


「未来なら見せてくれると思ったし!」


 葵ちゃんは悪びれもせずにけらけらと笑い、僕の向かいに座ったまま、大きく傾いて未来に擦り寄るようにして教科書を覗き込んだ。


「ここ、全然わかんないんだけど」


「そこはさっきの公式を使って……ほら、こうやって途中式を書くの」


 未来がシャープペンシルを走らせる。葵ちゃんは感心したようにうなずき、その手元を見つめていた。

 しばらくそんなやり取りが続いて、意外と未来がちゃんと教えていることに驚きながら眺めていると、葵ちゃんがふと顔を上げて僕に視線を投げてきた。


「お義兄さんは、彼女できた?」


「その問題、今のページには載ってないと思うけど」


「できるわけないじゃん。ゲームばっかりしてるんだから」


 秀逸な返しだと思ったのに、聞かれてもいない未来が、食い気味に割り込んできた。


「未来に聞いてないよ?」


「見てればわかるって話!」


「へえ。よく見てるんだ」


 葵ちゃんが意味ありげに口元を緩めた瞬間、未来のシャーペンがピタリと止まった。


「……っ、勉強しに来たんじゃないの!」


「うん、ちゃんと教えてもらってるよー」


 からかう葵ちゃんに対し、未来は耳の先まで真っ赤にしてノートを睨みつけている。


(僕に彼女がいない話で、どうして未来のほうが追い詰められてるんだ)


 助け舟を出すべきか迷っていると、こたつの下から、パキッ、と硬い音が響いた。


「ひゃっ!」


 未来が短く悲鳴を上げて、反射的に僕のパーカーの袖をぎゅっと摑んだ。


 袖越しに伝わる指先の体温と、思わぬ力強さ。


 だが、向かいにいる葵ちゃんのニヤリとした視線に気づいた瞬間、未来は弾かれたようにその手を引っ込めた。


「……な、何、今の」


「さあ? 心霊現象注意報も出てるし、そういうこともあるんじゃない?」


 葵ちゃんはすました顔で言う。


 今度は、ゴトッ、とこたつ全体が小さく持ち上がるように揺れた。


 未来の膝が僕の膝にぶつかり、そのまま硬直する。


「アニキ、今の!」


「僕じゃないよ」


「わかってる! 何か見てきてよ!」


「どこをだよ」


 もう一度、パキッ。


 乾いたラップ音が鳴り響き、未来が『もう無理!』と半泣きで僕の腕にすがりついてきたところで、向かいの葵ちゃんが吹き出した。


「あははは! ごめん、もう限界!」


「……え?」


「これ、私」


 葵ちゃんがこたつから足を出し、足首を少し捻りつつ上下に動かした。

 さっきと全く同じ、鋭い音がする。関節を鳴らす音なのだけれど、妙に響いていた。


「こたつも、下から膝でちょっと持ち上げただけ」


「はあぁっ!?」


 未来が素っ頓狂な声を上げた。


「だって未来、怖くないって顔しながら、どんどんお義兄さんにくっついていくんだもん。からかい甲斐がありすぎて」


「あんたねえっ!」


 真っ赤になった未来が、身を乗り出して葵ちゃんの脇腹に手を伸ばす。


「待って、そこ弱いって知ってるでしょ! ギブ、ギブ!」


「知ってるからやってるの! この悪魔!」


 葵ちゃんが身をよじって逃げ回るたびに、こたつがガタガタと揺れる。


 倒れそうになった麦茶のコップを僕が慌てて押さえる横で、未来は本気で怒りながらも、どこか楽しそうに笑っていた。


 二人のやりとりを眺めているうちに、自然とこちらの口元も緩んでしまう。


 ひとしきり暴れて息を切らしたあと、未来が再び問題に向き直ると、部屋には静けさが戻ってきた。


 シャープペンシルが紙を擦る規則正しい音だけが響く。


 ふと見ると、葵ちゃんが黙ったまま、真剣にノートに向かう未来の横顔をじっと見つめていた。


 さっきまでの悪戯っぽい光は消え、どこか愛おしそうに、眩しいものを見つめるような静かな眼差し。


 未来が視線に気づいて顔を上げる。


「……何よ。また何か企んでるの?」


「ううん。相変わらず字、きれいだなって思って」


「見てないで解きなよ」


「はいはい」


 そう返す葵ちゃんの声が、やけに優しく耳に残った。


 僕のスマホが激しく振動したのは、未来のノートがようやく一ページ埋まった頃だった。


 耳慣れないけたたましいアラート音に、三人の動きが止まる。


 未来が強張った顔で、僕のスマホの画面を覗き込んだ。


「げ……警報になってる」


 心霊現象警報。注意報から一段階上の、外出が制限されるレベルの警戒情報だ。


 ふと視線を感じて窓を見ると、遮光カーテンの微かな隙間を、青白い燐光のようなものがゆらりと横切っていった。


 本物の怪異が、外を彷徨っている。


「今のも、葵……?」


「さすがに窓の外までは手が届かないかな」


 葵ちゃんが苦笑する。未来は慌てて立ち上がり、窓の外を見ないようにしながら、カーテンの端と端を隙間なく重ねて閉め直した。


「葵ちゃん、帰るのは警報が解除されてからにしよう。この状況だと一人で外に出すわけにはいかないし」


(近所とはいえ危ない……いや、あれ? 今は隣じゃなくて、どこに住んでいるんだっけ)


 記憶が曖昧なまま首をひねる僕の前で、葵ちゃんは目を丸くして、それから嬉しそうに微笑んだ。


「じゃあ、今日は泊まっていこうかな」


 そして、僕の方を見ながら少し小声で続けた。


「お義兄さんのお部屋で」


「絶対だめ!」


 未来が食い気味に叫んだ。


「なんでよー、減るもんじゃあるまいし」


「減るの! いろいろ減るの!」


(何が減るんだ……?)


 からかう葵ちゃんを未来が全力で押し返し、結局『二人きりにはさせない』とばかりに、三人とも僕の部屋のこたつでそのまま夜を明かすことになった。


 警報が出ている緊張感も、三人でこたつに入っていると不思議と薄れていく。


 勉強のふりをしたおしゃべりはいつまでも続き、くだらない冗談に笑い転げているうちに、勉強机の置時計は午前二時を回っていた。


 ヒーターの心地よい暖かさと、深夜特有の気怠い眠気が、じわじわと全身に染み渡ってくる。


 僕はベッドのフレームに背中をもたせかけ、重たくなってきた瞼をこすった。


 角を挟んだすぐ隣では、未来も頬杖をついたまま、こくりこくりと小さく船を漕いでいる。


 向かいの葵ちゃんは、そんな僕たちを交互に眺めながら、静かに、本当に幸せそうに目を細めていた。


「この問題の続きは……」


 未来が眠そうに呟き、ノートをめくる微かな音がする。


 何か返事をしようとしたけれど、言葉になる前に深い眠りの底へと引きずり込まれていった。


 次に意識を引き戻されたのは、天板の上で短く震えたスマホの感触だった。


 重い瞼をこじ開け、手探りで画面を見る。


『心霊現象警報および注意報は、午前四時三十分をもってすべて解除されました』


 その通知を読んだ瞬間。


 頭の中にずっと立ち込めていた霧のようなものが、一気に晴れ渡った。


 目の前にいる葵ちゃんに視線を向ける。

 にこりと僕を見て笑ってくれたけれど、少し存在が薄れているように、後ろが透けて見える。そんな気がした。


 葵ちゃんは、三年前に死んでいる。


 中学の入学式の帰り道。青信号の横断歩道に突っ込んできた車に轢かれた事故だった。


 そう、よくある喧嘩をして、しばらく口をきかないと言い合った、その二日目のことだった。

 未来は何日も、何日も声を嗄らして泣き続けた。


 未来がそのことをずっと後悔していたことも、長い間、この家の中から笑顔が完全に消えていたことも……全部、思い出した。


 息が詰まる。どうして今まで、こんな大切なことを忘れていたんだ。


 隣で、小さく息を吞む音がした。


 未来も目を覚ましていた。


「……葵?」


 未来が震える声でその名を呼ぶ。こたつの天板に置かれた未来の指先が、目に見えて激しく震えていた。


 未来も、すべてを思い出したのだ。


 向かいに座る葵ちゃんが、ふっと自分の手のひらを見つめた。


「あ……そっか」


 朝方の薄暗い部屋の中で、葵ちゃんの指先から、腕から、徐々に輪郭が淡くなっていく。


 透き通った手のひら越しに、こたつの天板がはっきりと見えていた。


「もう、そういう時間か」


 いつもと変わらない、どこか飄々とした口調だった。


「なんで……」


 未来が手を伸ばしかけ、触れていいのか分からずに空中で止める。


「注意報が出てる間はね、私に関わりのある人はみんな、私が死んだことだけ忘れちゃうみたいなの。だから……普通に遊びに来られるかなって思って」


 葵ちゃんは申し訳なさそうに眉を下げた。


「前にも、来てたの?」


「近くまではね。でも、怖くて通り過ぎてた。チャイムを鳴らしたのは、今日が初めて」


「……何それ」


 未来の声がかすれ、瞳にみるみる大粒の涙が溜まっていく。


「鳴らしなよ……! 来てたんなら、もっと早く鳴らしなよ!」


「うん。ごめんね」


「勝手に入ってきたくせに……何で、そんなところで遠慮するのよ……!」


 葵ちゃんの肩越しに、さっきまで隠れていた本棚の背表紙が透けて見え始めていた。


 体の端から、朝の光に溶けるように淡い粒となって消えていく。


「……勉強って」


 未来が唇を血が滲むほど強く嚙みしめた。


「頑張って一緒の高校に行こうって……あの時の話?」


 葵ちゃんが、ぱっと花が咲くように笑った。


「未来、絶対忘れてると思ってた」


「そっちこそ……! 教科書くらい持ってきなよ……!」


「だって、今の高校の教科書なんて持ってないし、私、全然わかんないんだもん」


「教えるよ! そんなの、いくらでも教えるよ……!」


 堪えきれなくなった涙が、未来の頬を幾筋も零れ落ちる。


「今日だって、全然進んでないじゃん……!」


「うん。でもね、すっごく楽しかったよ」


 葵ちゃんは穏やかに微笑んで、それから僕の方へと視線を移した。


「お義兄さん」


「……うん」


 喉の奥が熱く締め付けられて、それだけを絞り出すのが精一杯だった。


「未来のこと、よろしくね」


 僕は力強く頷いた。


「あと、お義兄さんのこと、私も結構タイプだったんだよ。今更だけどね」


 悪戯っぽく片目をつぶって、葵ちゃんは未来に向かって舌を出してみせる。


「ほら、未来。うかうかしてたら、他の子に取られちゃうよ」


「馬鹿……! こんな時まで、何言ってるのよ……!」


 未来が泣き笑いのような顔で、必死に両手を伸ばした。


 葵ちゃんの透き通る手に未来の指が重なる。さっきみたいに脇腹をくすぐることも、もうできなかった。触れ合ったはずの手はそのまま通り抜けて、朝の空気の中へとほどけていった。


「じゃあね」


 鈴を転がすような微かな声だけが、部屋の空気に溶け残った。


 こたつの向かいには、もう誰もいない。


 乱れたこたつ布団のくぼみだけが、さっきまでそこに誰かがいたことを物語っていた。


 未来は伸ばした手をゆっくりと膝の上に戻し、深々と俯いた。


「……アニキ」


「うん」


「まだ……寝ないで」


「起きてるよ。ずっと起きてる」


 僕のパーカーの袖に伸ばされた未来の指先が、すがるようにきつく握りしめられる。


 僕はこたつの角を回り、未来のすぐ隣に座り直した。


 未来は、僕の肩にぽすっと頭を傾けて寄りかかった。押し殺した嗚咽が、早朝の静かな部屋に小さく響いた。


「未来、泣かないで。きっと葵ちゃんは、心残りもなくなって天国にいけたんだよ」


「な、泣いてないし、馬鹿アニキ」


 未来は思いっきり涙声でそう言ったまま、こっちを向かずに、ずっと僕の肩に寄りかかっていた。


 僕はそれ以上何も言えず、ただ震える小さな背中を、手のひらでゆっくりとさすり続けた。


 どれくらいの時間が流れただろう。


 泣き疲れた未来は、僕の肩に頭を預けたまま、いつの間にか規則正しい小さな寝息を立てていた。


 肩に伝わる確かな重みと、温かな息遣い。


 こたつの上には、三人で覗き込んだノートが、開かれたまま朝の薄明かりを受けて静かに白く浮かび上がっていた。


 カーテンの縁から滲む光の向こうには、もう人魂の影ひとつなく、いつもの静かな朝が始まろうとしていた。


少し不思議世界のラブコメ短編です。

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こちらの続きです。



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