不眠不休働かない!
「あなたが新しい執事ね」
開口一番、少女はそう言った。
豪華な屋敷の玄関ホール。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、朝だというのに眩しいほどの光を放っている。
その中央で、俺は一人の少女と向き合っていた。
彼女の名前は――
神代玲奈。
日本有数の資産家、神代家の一人娘。
そして。
俺が今日から仕えることになった主人だった。
「部長さんから聞いたわ」
玲奈は腕を組みながら、俺をじっと観察する。
まるで値踏みするような視線。
「24時間365日、不眠不休で私の面倒を見てくれるってね」
その言葉を聞いた瞬間。
俺は心の中で静かに拳を握った。
「あいつ……」
思わず声が漏れる。
「?」
玲奈が首を傾げる。
俺は慌てて笑顔を作った。
「あ、いえ……何でもありません」
だが、心の中では叫んでいた。
――あの野郎。
――部長、あとで覚えておけ。
そもそもの始まりは一週間前だった。
俺は普通の会社員だった。
……正確には、普通ではなかったかもしれない。
仕事はできる。
人付き合いも悪くない。
家事全般もできる。
料理、掃除、洗濯、スケジュール管理。
なぜか昔から何でもそつなくこなせた。
そのせいで。
会社では雑用係のような扱いを受けていた。
そしてある日。
俺の直属の部長が突然言った。
「君、執事にならないか?」
「……はい?」
意味が分からなかった。
会社員に向かって、突然執事にならないかと言われる日が来るとは思わなかった。
「神代家が優秀な人材を探しているんだ」
「いや、俺は会社員ですよ」
「君ほど向いている人間はいない」
「何を根拠に?」
「料理ができる。掃除ができる。相手の顔色を読むのが得意。あと、文句を言いながらも結局助ける」
「それは褒めてます?」
「最高の執事の才能だ」
そう言って部長は笑った。
そして。
気づけば俺は神代家専属執事として採用されていた。
給料は破格。
住居付き。
待遇だけ見れば夢のような仕事だった。
ただし。
一つだけ問題があった。
俺の主人になる少女。
神代玲奈。
彼女は――
極度のわがまま娘として有名だった。
「ねえ」
玲奈が言う。
「あなた、名前は?」
「黒崎蓮です」
「蓮ね」
彼女は小さく頷いた。
「じゃあ今日からよろしく」
「こちらこそよろしくお願いします」
俺が頭を下げると。
玲奈は突然言った。
「じゃあ早速だけど」
「はい」
「朝食」
「承知しました」
「紅茶」
「承知しました」
「今日の予定確認」
「承知しました」
「それから」
玲奈は少し間を置いた。
「暇になったら私の話し相手」
「……承知しました」
思ったより普通だった。
しかし。
次の瞬間。
「あと、夜中に眠れなくなったら呼ぶから」
「はい」
「朝早く起きたら呼ぶから」
「はい」
「買い物したくなったら呼ぶから」
「はい」
「気分が落ち込んだら呼ぶから」
「……はい」
玲奈は満足そうに笑った。
「部長さんが言ってた通りね」
嫌な予感がした。
「何と言っていました?」
「あなたは絶対に断らない人だって」
俺は笑顔を保ちながら思った。
――やっぱりあいつ覚えてろ。
そんな生活が始まった。
朝六時。
玲奈が起きる前に朝食を準備。
七時。
予定表を確認。
八時。
学校へ送り届ける。
午後。
帰宅後の勉強補助。
夜。
夕食。
そして。
深夜。
「蓮」
「……はい」
時計を見る。
午前二時。
俺は眠気と戦いながら部屋を出た。
「どうしました?」
玲奈はベッドの上で本を読んでいた。
「眠れない」
「そうですか」
「話して」
「何をですか?」
「何でもいい」
俺は小さくため息をついた。
「では……昔話でも」
「聞く」
「昔、あるところに――」
話し始める。
すると。
玲奈は少しずつ目を閉じていった。
数分後。
静かな寝息。
俺はそっと部屋を出た。
「……本当に24時間対応じゃないか」
疲れた。
だが、不思議と嫌ではなかった。
玲奈は世間で言われているような単なるわがまま娘ではなかった。
彼女は。
ただ寂しがり屋だった。
屋敷には多くの使用人がいる。
けれど。
誰も彼女の本音を聞こうとはしなかった。
金持ちの娘。
神代家の跡取り。
その肩書きばかり見ていた。
数日後。
俺は玲奈の異変に気づいた。
食事を残す。
笑わない。
学校から帰ってきても部屋に閉じこもる。
「玲奈様」
「何?」
「何かありましたか?」
「別に」
「嘘ですね」
玲奈の手が止まった。
「……あなた」
「はい」
「どうして分かるの?」
俺は少し考えて答えた。
「執事ですから」
玲奈は少し笑った。
「便利な言葉ね」
「そうでしょうか」
「何でも分かるみたい」
「分かりませんよ」
俺は首を振った。
「ただ、見ています」
玲奈は黙った。
「あなたが毎朝少し眠そうなこと」
「……」
「本当は無理していること」
玲奈の表情が変わる。
「……気づいてたの?」
「当然です」
「24時間365日、不眠不休なんて無理でしょう?」
「はい」
即答すると。
玲奈は少し驚いた顔をした。
「認めるんだ」
「人間ですから」
「じゃあ、部長さんの話は?」
俺は遠くを見る。
「……あれは誇張です」
「やっぱり」
玲奈は笑った。
久しぶりに見る自然な笑顔だった。
「ねえ、蓮」
「はい」
「あなた」
「はい」
「ちゃんと休んでいいからね」
その言葉に。
俺は少し驚いた。
主人からそんな言葉をかけられるとは思っていなかった。
「ありがとうございます」
「でも」
玲奈は続ける。
「私が困った時は助けて」
「もちろんです」
「眠れない時も」
「はい」
「寂しい時も」
「はい」
玲奈は少し照れながら言った。
「それなら……あなたは私の執事ね」
俺は頭を下げた。
「はい」
「神代玲奈様専属執事、黒崎蓮です」
その日。
俺は初めて思った。
この仕事も悪くないかもしれない、と。
ただ。
翌日。
部長から電話が来た。
『どうだ? 24時間365日働いてるか?』
俺は無言になった。
「部長」
『ん?』
「少し話があります」
『な、何だ?』
「あとで覚えておけ」
『え?』
「俺を不眠不休設定で売り込んだ件です」
電話の向こうで部長が笑った。
『まあまあ、結果的に仲良くなっただろ?』
「それはそうですが」
『ならいいじゃないか』
俺はため息をつく。
だが。
窓を見る。
庭で玲奈がこちらを見て、小さく手を振っていた。
俺も手を振り返す。
「……まあ」
「悪くない仕事かもしれません」
こうして。
嘘から始まった24時間365日不眠不休の執事生活は。
本当の意味で、二人だけの特別な関係へ変わっていくのだった。




