星のクジラ
夜の海は、昼とはまったく違う顔をしている。
波はひそやかに揺れ、空と海の境目はゆっくりと溶け合い、 世界がひとつの大きな布に包まれているようだった。
ミナは毎晩、眠る前に窓を開けて海を眺める。
遠くで灯る漁火が、星と混ざり合って瞬いているのを見ると、 胸の奥がふわりと軽くなるからだ。
それに、海の向こうには船乗りのお父さんがいる。
今ごろどの海を渡っているのか、ミナには分からない。
それでも、同じ夜空を見上げているような気がして、海を眺める時間が好きだった。
その夜、海はいつもより静かだった。
風もほとんど吹かず、打ち寄せる波の音は、子守歌のようにやわらかい。 ミナは頬杖をつきながら、何かを期待するように、じっと暗い海を眺めていた。
「……あれ?」
ミナが呟いたその瞬間、海の向こうで光がひとつ揺れた。
空から星が落ちたのかと思うほど、澄んだ光だった。
やがて光はゆっくりと陸へ近付いてくる。
しかし、それは海の上を進んでいるのではなかった。 光はふわりと海面から離れ、夜空へと浮かび上がる。
ミナは思わず息をのむ。
光は星のように瞬きながら、緩やかに高度を上げ、 まるで風に乗るようにふわふわと漂ってくる。
やがてその光は形を持ちはじめた。
青く透き通った背中。星の粒を散らしたような優しい瞳。
大きな体をゆったりと揺らしながら、悠々と空を泳ぐ影。
「……星のクジラだ」
ミナの視線に気付いたのか、星のクジラは大きな瞳を瞬かせた。
そして、夜空をぐるりとひと泳ぎすると、ミナの部屋の窓辺までやってくる。
青く透き通った身体の中では、数えきれないほどの星が、流れる川のように巡っている。
胸びれがふわりと動くたびに、淡い光の粉がこぼれ、夜風の中へ溶けていった。
『こんばんは、小さなお嬢さん』
低く、やわらかな声が聞こえた。
でも星のクジラは口を動かしていない。
その声は耳ではなく、ミナの胸の奥に直接響いてくるようだった。
「こんばんは、星のクジラさん! 私、ミナっていうの!」
ミナが答えると、クジラの瞳が嬉しそうに細くなる。
『わたしが見える子に会うのは、久し振りだよ』
「そうなの?」
『ああ。みんな大きくなると、見えないものを信じるのが少し苦手になるらしい』
星のクジラは、少し寂しそうに瞬きをした。
『そうだ、ミナ。良ければ一緒に空を散歩しないかい?』
「いいの? いく!!」
ミナは少しも迷う事なく頷いた。
星のクジラは窓辺にそっと背中を寄せた。
その大きな背中は、ミナの部屋よりもずっと広い。
身体の表面には、星座のような光の模様が浮かんでは消えている。
すると、足元に星の光が集まり、きらきらと輝く道ができる。
その道は窓から星のクジラの背中まで、ゆるやかに続いていた。
『大丈夫。落ちたりしないよ』
星のクジラの声に背中を押され、ミナはおそるおそる光の道へ足を乗せた。
ふわり。
身体が綿毛のように軽くなる。
ミナは夜風に髪を揺らしながら、一歩ずつ光の道を歩き、星のクジラの背中へ乗った。
『しっかりつかまっていてね』
「うん」
星のクジラが尾びれをひと振りする。
その瞬間、ミナの身体は夜空へと舞い上がった。
家の屋根が、みるみる小さくなっていく。
町の灯りは地上に散らばる星のようで、その間を細い道が川のように流れていた。
星のクジラは夜風をかき分け、眠る町の上を静かに泳いでいく。
「わぁ……!!」
ミナははしゃぎながら、眠りについた町を見下ろす。
昼間は賑やかな通りも、今はひっそりと静まり返っている。
家々の窓には灯りがなく、みんな深い眠りの中にいるようだった。
けれど、よく目を凝らしてみると、いくつかの屋根の上に、黒い煙のようなものが浮かんでいる。
「クジラさん、あれはなあに?」
『悪い夢だよ』
黒い煙は、風もないのにゆらゆらと揺れていた。
ときどき、人の顔のような形や、大きな獣のような姿に変わっては、また煙へと戻っていく。
『怖い夢や、悲しい夢。忘れたいことや心配なこと。眠っているあいだに、心からこぼれ落ちたものなんだ』
「クジラさんは、あれをどうするの?」
『飲み込むんだよ』
星のクジラは、大きな口をゆっくりと開いた。
『悪い夢を飲み込んで、このヒゲで怖いものや悲しいものをこし取るんだ。そうして、残った夢を優しい夢に作り替えるのさ』
「そうなんだ。クジラさん偉いんだね」
ミナが星のクジラの背を撫でると、クジラはその大きな体を、くすぐったそうに軽く身を揺らした。
『ふふ……。今夜は、少し手伝ってくれるかい?』
「私が?」
『ひとりでは見つけられない夢もあるからね』
最初に向かったのは、赤い屋根の小さな家だった。
煙突のそばに、黒い夢が丸く固まって浮かんでいる。
その中では、小さな男の子が大きな怪物に追いかけられていた。
「怖がっているよ」
『うん。早く助けてあげよう』
星のクジラは黒い夢へ近付くと、大きく息を吸い込んだ。
黒い煙は細長く伸び、渦を巻きながら、クジラの口の中へ吸い込まれていく。
怪物も暗い道もなくなった夢の煙は、白い煙へと変わった。
星のクジラの背の星がひときわ強く輝く。
やがて頭の上の穴から、きらきらとした潮が噴き上がった。
光の潮は夜空いっぱいに広がり、七色の雨となって白い煙へと降り注いでいく。
真っ白な夢の中に、色鮮やかな柔らかな草原が広がった。
男の子を追いかけていた怪物は、ふわふわの毛をした大きな犬に変わる。
男の子はもう泣いていなかった。
大きな犬の背中に乗り、花畑の中を楽しそうに駆けている。
「すごい……」
ミナは目を輝かせた。
「悪い夢が、楽しい夢になった!」
『夢は消してしまうだけじゃ、寂しいからね』
星のクジラは静かに言った。
『怖かったものも、悲しかったことも、少し形を変えれば、誰かを優しくしてくれる夢になる』
それから二人は、町のあちこちを巡った。
暗い森で迷っていた女の子には、足元を照らす星のランプを。
ひとりぼっちで泣いていたおばあさんには、遠い日の家族と囲む、温かな食卓を。
高いところから落ち続けていた男の人には、雲でできた柔らかなベッドを。
星のクジラが悪い夢を飲み込むたび、夜空には美しい夢の潮が打ち上がる。
町の上には星の雨が降り注ぎ、眠っている人たちの顔には、少しずつ穏やかな笑みが浮かんでいった。
「これで、全部かな」
ミナは、星の光に包まれた町を見下ろした。
屋根の上に浮かんでいた黒い煙は、もうどこにもない。
町は深い眠りに包まれ、窓の向こうでは、みんな穏やかな夢を見ているようだった。
『うん。町に浮かんでいた悪い夢は、これでおしまいだよ』
星のクジラは満足そうに瞳を細めた。
『それじゃあ、そろそろ帰ろうか』
「うん!」
遠くで、低い音が響いた。
海の底で、大きな何かが身じろぎしたような音だった。
ミナが振り返ると、水平線の向こうから黒い雲が湧き上がっていた。
雲はみるみるうちに空を覆い、星をひとつ、またひとつと飲み込んでいく。
「あれ、クジラさん……?」
返事はなかった。
さっきまでミナを乗せていた、青く透き通った背中も。
夜空を照らしていた星の光も、いつの間にか、すべて消えていた。
「クジラさん?」
ミナはもう一度呼びかけた。
けれど、聞こえるのは暗闇の中でうなる風の音だけだった。
気が付くと、ミナは黒い海の上に立っていた。
足元には水があるはずなのに、身体は沈まない。
冷たい波だけが、ミナのくるぶしを何度も濡らしていく。
空にも。
海にも。
光はひとつもなかった。
「ここ……どこ?」
ミナの声が、真っ暗な世界に吸い込まれていく。
そのとき、遠くに小さな灯りが見えた。
船だった。
暗い海の向こうを、一艘の船が進んでいる。
帆柱の先に吊るされた明かりが、波に揺られながら、かすかに瞬いていた。
ミナは、その船を知っていた。
「お父さん……?」
甲板の上に、人影が見えた。
いつもかぶっている帽子。
大きな背中。
航海へ出る朝、何度も振り返りながら手を振ってくれた、お父さんの姿だった。
「お父さん!」
ミナは叫んだ。
でも、お父さんは振り返らない。
船は暗い海の向こうへ、少しずつ遠ざかっていく。
「待って!」
「私、ここにいるよ!」
ミナは船を追いかけようとした。
すると、足元の海が急に深くなる。黒い水が膝まで這い上がり、重たい手のようにミナの身体を捕まえた。
「行かないで!」
必死に手を伸ばす。
けれど、届かない。
どれだけ呼んでも、ミナの声は波の音にかき消されてしまう。
船の灯りが、だんだん小さくなっていく。
やがて、最後の光が闇の中へ消えた。
「……お父さん」
ミナは、ひとりきりになった。
真っ暗な海の上で。
誰にも声が届かない場所で。
「いや……」
「ひとりにしないで……」
ミナは両手で顔を覆った。
お父さんもいない。
星のクジラもいない。
空にも海にも、光はひとつも残っていなかった。
その時――暗い水の中で、小さな青い光が瞬いた。
ひとつ。
またひとつ。
沈んでいた星が目を覚ましたように、ミナの足元へ次々と光が灯っていく。
やがて黒い海の下からミナをすくい上げるように、大きな影がゆっくりと浮かび上がった。
青く透き通った背中。
星の粒を散らしたような、やさしい瞳。
「クジラさん……!」
『大丈夫だよ、ミナ』
低く、やわらかな声がミナの胸の奥へ響いた。
「でも、お父さんが……どこかへ行っちゃったの」
『うん』
「呼んでも、声が届かないの」
『怖かったね』
星のクジラは、ミナの言葉を否定しなかった。
『ずっと、怖かったんだね』
「……うん」
ミナの目から、涙がこぼれた。
「帰ってこなかったらどうしようって、ずっと考えてた。でも、お父さんは必ず帰るって言ったから、怖がっちゃいけないと思って……」
『怖いと思うのは、お父さんを信じていないからじゃないよ』
「え……?」
『大切だから、離れているのが寂しいんだ』
「寂しくても、いいの?」
『もちろんだとも』
ミナは星のクジラの背に、そっと触れた。
ほんのりと温かかった。
『怖い夜には、怖いと言っていい。寂しい夜には、寂しいと言っていいんだよ』
「……うん」
『その気持ちは、わたしがちゃんと飲み込んであげるから』
星のクジラは大きく口を開いた。
すると、空を覆っていた暗雲がゆっくりと渦を巻き始める。
黒い波も、吹き荒れていた風も、ミナの胸を締めつけていた不安も。
すべてが細長い煙となって、星のクジラの中へ吸い込まれていった。
やがて、星のクジラの身体の中で、無数の星が輝き始める。
『さあ、ミナ』
星のクジラが、やさしく笑った。
『今度は、一緒にお父さんの帰る道を作ろう』
星のクジラは、七色の潮を吹きだして真っ暗だった夜空に無数の星を浮かべた。
星は夜空だけでなく、海の上にも広がっていく。
まるで、帰る道を示す灯台のように。
黒く染まっていた夢の海が、透き通った青色へと変わっていく。
荒れていた波は静まり、雲の切れ間から、やさしい月の光が差し込んだ。
水平線の向こうに、小さな灯りが見える。
それは、船だった。
船は今度は遠ざからず、まっすぐにミナのもとへ近づいてくる。
甲板には、お父さんが立っていた。
いつもの帽子をかぶり、大きく手を振っている。
「ミナー!」
今度は、声が聞こえた。
ミナも両手を振り返す。
「お父さーん!」
船は星の光でできた道を進み、穏やかな海をゆっくりと渡ってくる。
お父さんの顔は笑っていた。
出発した日のままの、やさしい笑顔だった。
「帰ってきた……」
ミナの目から、涙がひと粒こぼれる。
今度の涙は、悲しい涙ではなかった。
『海はね、大切な人を遠くへ連れていくことがある』
「うん」
『でも、帰る人のために、ちゃんと道も残しているんだよ』
ミナは、星の光が浮かぶ海と、近付いてくる船を見つめた。
星のクジラは、ゆっくりと尾びれを動かした。
『さあ。もう朝が来るよ』
空の端が、ほんの少し白み始めていた。
星たちはひとつずつ光を弱め、夜の中へ溶けていく。
「クジラさん、また会える?」
ミナが尋ねると、星のクジラは嬉しそうに目を細めた。
『悪い夢が、ひとりでは抱えきれなくなった夜に……ね』
「そんな夜じゃなくても、また会いたいよ」
『それなら、窓から海を見ていてごらん』
星のクジラは大きく身体を翻した。
『星と漁火の間に、わたしの光が見えるかもしれないよ』
青い尾びれが、夜空をひと撫でする。
無数の星の粒が舞い上がり、ミナの身体をやさしく包み込んだ。
『おやすみ、ミナ』
「おやすみなさい。素敵な夢をありがとう、星のクジラさん」
ミナは目を閉じた。
遠くで、波の音が聞こえる。
寄せては返す、穏やかな波の音。
それはまるで、お父さんが歌ってくれた子守歌のようだった。
* * *
朝。
ミナが目を覚ますと、ベッドの中にいた。
窓は少しだけ開いていて、朝の海の匂いが部屋に流れ込んでいる。
「夢……だったのかな」
ミナは身体を起こすと、枕元で何かがきらりと光った。
小さな、青い星の欠片だった。
ミナがそっと手に取ると、欠片は温かな光を放った。
その時、階下からお母さんの声が聞こえる。
「ミナ! お父さんから手紙が届いているわよ!」
ミナはベッドから飛び降り、階段を駆け下りた。
封筒には、遠い港町の消印と、見慣れたお父さんの文字が書かれている。
ミナは急いで手紙を開いた。
そこには、広い海と、満天の星の絵。
そして、短い言葉が添えられていた。
――もうすぐ帰るよ。
ミナは手紙を胸に抱きしめた。
窓の向こうには、朝の海がどこまでも広がっている。
昨夜まで少し怖かったその海は、今はお父さんへ続く、青く輝く道に見えた。
ミナの手の中で、星の欠片がもう一度、やさしく瞬いた。




