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星のクジラ

掲載日:2026/07/01

 夜の海は、昼とはまったく違う顔をしている。

 波はひそやかに揺れ、空と海の境目はゆっくりと溶け合い、 世界がひとつの大きな布に包まれているようだった。


 ミナは毎晩、眠る前に窓を開けて海を眺める。

 遠くで灯る漁火が、星と混ざり合って瞬いているのを見ると、 胸の奥がふわりと軽くなるからだ。


 それに、海の向こうには船乗りのお父さんがいる。

 今ごろどの海を渡っているのか、ミナには分からない。

 

 それでも、同じ夜空を見上げているような気がして、海を眺める時間が好きだった。



 その夜、海はいつもより静かだった。


  風もほとんど吹かず、打ち寄せる波の音は、子守歌のようにやわらかい。 ミナは頬杖をつきながら、何かを期待するように、じっと暗い海を眺めていた。




「……あれ?」


 ミナが呟いたその瞬間、海の向こうで光がひとつ揺れた。

 空から星が落ちたのかと思うほど、澄んだ光だった。

 

 やがて光はゆっくりと陸へ近付いてくる。


 しかし、それは海の上を進んでいるのではなかった。 光はふわりと海面から離れ、夜空へと浮かび上がる。


 ミナは思わず息をのむ。


 光は星のように瞬きながら、緩やかに高度を上げ、 まるで風に乗るようにふわふわと漂ってくる。


 やがてその光は形を持ちはじめた。

 青く透き通った背中。星の粒を散らしたような優しい瞳。

 

 大きな体をゆったりと揺らしながら、悠々と空を泳ぐ影。


「……星のクジラだ」


 ミナの視線に気付いたのか、星のクジラは大きな瞳を瞬かせた。


 そして、夜空をぐるりとひと泳ぎすると、ミナの部屋の窓辺までやってくる。



 青く透き通った身体の中では、数えきれないほどの星が、流れる川のように巡っている。


 胸びれがふわりと動くたびに、淡い光の粉がこぼれ、夜風の中へ溶けていった。


『こんばんは、小さなお嬢さん』


 低く、やわらかな声が聞こえた。

 でも星のクジラは口を動かしていない。

 

 その声は耳ではなく、ミナの胸の奥に直接響いてくるようだった。


「こんばんは、星のクジラさん! 私、ミナっていうの!」


 ミナが答えると、クジラの瞳が嬉しそうに細くなる。


『わたしが見える子に会うのは、久し振りだよ』


「そうなの?」


『ああ。みんな大きくなると、見えないものを信じるのが少し苦手になるらしい』


 星のクジラは、少し寂しそうに瞬きをした。


『そうだ、ミナ。良ければ一緒に空を散歩しないかい?』


「いいの? いく!!」


 ミナは少しも迷う事なく頷いた。


 星のクジラは窓辺にそっと背中を寄せた。

 その大きな背中は、ミナの部屋よりもずっと広い。


 身体の表面には、星座のような光の模様が浮かんでは消えている。


 すると、足元に星の光が集まり、きらきらと輝く道ができる。

 その道は窓から星のクジラの背中まで、ゆるやかに続いていた。


『大丈夫。落ちたりしないよ』


 星のクジラの声に背中を押され、ミナはおそるおそる光の道へ足を乗せた。


 ふわり。


 身体が綿毛のように軽くなる。


 ミナは夜風に髪を揺らしながら、一歩ずつ光の道を歩き、星のクジラの背中へ乗った。


『しっかりつかまっていてね』


「うん」


 星のクジラが尾びれをひと振りする。

 その瞬間、ミナの身体は夜空へと舞い上がった。


 家の屋根が、みるみる小さくなっていく。


 町の灯りは地上に散らばる星のようで、その間を細い道が川のように流れていた。


 星のクジラは夜風をかき分け、眠る町の上を静かに泳いでいく。


「わぁ……!!」


 ミナははしゃぎながら、眠りについた町を見下ろす。


 昼間は賑やかな通りも、今はひっそりと静まり返っている。

 家々の窓には灯りがなく、みんな深い眠りの中にいるようだった。


 けれど、よく目を凝らしてみると、いくつかの屋根の上に、黒い煙のようなものが浮かんでいる。


「クジラさん、あれはなあに?」


『悪い夢だよ』


 黒い煙は、風もないのにゆらゆらと揺れていた。


 ときどき、人の顔のような形や、大きな獣のような姿に変わっては、また煙へと戻っていく。


『怖い夢や、悲しい夢。忘れたいことや心配なこと。眠っているあいだに、心からこぼれ落ちたものなんだ』


「クジラさんは、あれをどうするの?」



『飲み込むんだよ』


 星のクジラは、大きな口をゆっくりと開いた。


『悪い夢を飲み込んで、このヒゲで怖いものや悲しいものをこし取るんだ。そうして、残った夢を優しい夢に作り替えるのさ』


「そうなんだ。クジラさん偉いんだね」


 ミナが星のクジラの背を撫でると、クジラはその大きな体を、くすぐったそうに軽く身を揺らした。


『ふふ……。今夜は、少し手伝ってくれるかい?』


「私が?」


『ひとりでは見つけられない夢もあるからね』





 最初に向かったのは、赤い屋根の小さな家だった。


 煙突のそばに、黒い夢が丸く固まって浮かんでいる。

 その中では、小さな男の子が大きな怪物に追いかけられていた。


「怖がっているよ」


『うん。早く助けてあげよう』


 星のクジラは黒い夢へ近付くと、大きく息を吸い込んだ。


 黒い煙は細長く伸び、渦を巻きながら、クジラの口の中へ吸い込まれていく。

 怪物も暗い道もなくなった夢の煙は、白い煙へと変わった。


 星のクジラの背の星がひときわ強く輝く。



 やがて頭の上の穴から、きらきらとした潮が噴き上がった。

 光の潮は夜空いっぱいに広がり、七色の雨となって白い煙へと降り注いでいく。


 真っ白な夢の中に、色鮮やかな柔らかな草原が広がった。

 男の子を追いかけていた怪物は、ふわふわの毛をした大きな犬に変わる。


 男の子はもう泣いていなかった。

 大きな犬の背中に乗り、花畑の中を楽しそうに駆けている。


「すごい……」


 ミナは目を輝かせた。


「悪い夢が、楽しい夢になった!」


『夢は消してしまうだけじゃ、寂しいからね』


星のクジラは静かに言った。


『怖かったものも、悲しかったことも、少し形を変えれば、誰かを優しくしてくれる夢になる』


それから二人は、町のあちこちを巡った。


暗い森で迷っていた女の子には、足元を照らす星のランプを。


ひとりぼっちで泣いていたおばあさんには、遠い日の家族と囲む、温かな食卓を。


高いところから落ち続けていた男の人には、雲でできた柔らかなベッドを。


星のクジラが悪い夢を飲み込むたび、夜空には美しい夢の潮が打ち上がる。


町の上には星の雨が降り注ぎ、眠っている人たちの顔には、少しずつ穏やかな笑みが浮かんでいった。


「これで、全部かな」



 ミナは、星の光に包まれた町を見下ろした。


 屋根の上に浮かんでいた黒い煙は、もうどこにもない。


 町は深い眠りに包まれ、窓の向こうでは、みんな穏やかな夢を見ているようだった。


『うん。町に浮かんでいた悪い夢は、これでおしまいだよ』


 星のクジラは満足そうに瞳を細めた。


『それじゃあ、そろそろ帰ろうか』


「うん!」





 遠くで、低い音が響いた。

 海の底で、大きな何かが身じろぎしたような音だった。


 ミナが振り返ると、水平線の向こうから黒い雲が湧き上がっていた。

 雲はみるみるうちに空を覆い、星をひとつ、またひとつと飲み込んでいく。


「あれ、クジラさん……?」


 返事はなかった。

 さっきまでミナを乗せていた、青く透き通った背中も。

 夜空を照らしていた星の光も、いつの間にか、すべて消えていた。


「クジラさん?」


 ミナはもう一度呼びかけた。

 けれど、聞こえるのは暗闇の中でうなる風の音だけだった。


 気が付くと、ミナは黒い海の上に立っていた。

 足元には水があるはずなのに、身体は沈まない。


 冷たい波だけが、ミナのくるぶしを何度も濡らしていく。

 空にも。

 海にも。

 光はひとつもなかった。


「ここ……どこ?」


 ミナの声が、真っ暗な世界に吸い込まれていく。


 そのとき、遠くに小さな灯りが見えた。

 船だった。

 暗い海の向こうを、一艘の船が進んでいる。


 帆柱の先に吊るされた明かりが、波に揺られながら、かすかに瞬いていた。

 ミナは、その船を知っていた。


「お父さん……?」


 甲板の上に、人影が見えた。

 いつもかぶっている帽子。

 大きな背中。

 航海へ出る朝、何度も振り返りながら手を振ってくれた、お父さんの姿だった。


「お父さん!」


 ミナは叫んだ。


 でも、お父さんは振り返らない。

 船は暗い海の向こうへ、少しずつ遠ざかっていく。


「待って!」


「私、ここにいるよ!」


 ミナは船を追いかけようとした。


 すると、足元の海が急に深くなる。黒い水が膝まで這い上がり、重たい手のようにミナの身体を捕まえた。


「行かないで!」


 必死に手を伸ばす。

 けれど、届かない。


 どれだけ呼んでも、ミナの声は波の音にかき消されてしまう。


 船の灯りが、だんだん小さくなっていく。

 

 やがて、最後の光が闇の中へ消えた。


「……お父さん」


 ミナは、ひとりきりになった。


 真っ暗な海の上で。

 誰にも声が届かない場所で。

 


「いや……」


「ひとりにしないで……」


 ミナは両手で顔を覆った。


 お父さんもいない。

 星のクジラもいない。


 空にも海にも、光はひとつも残っていなかった。



 その時――暗い水の中で、小さな青い光が瞬いた。


 ひとつ。

 またひとつ。


 沈んでいた星が目を覚ましたように、ミナの足元へ次々と光が灯っていく。

 やがて黒い海の下からミナをすくい上げるように、大きな影がゆっくりと浮かび上がった。


 青く透き通った背中。

 星の粒を散らしたような、やさしい瞳。


「クジラさん……!」


『大丈夫だよ、ミナ』


 低く、やわらかな声がミナの胸の奥へ響いた。


「でも、お父さんが……どこかへ行っちゃったの」


『うん』


「呼んでも、声が届かないの」


『怖かったね』


 星のクジラは、ミナの言葉を否定しなかった。


『ずっと、怖かったんだね』


「……うん」


 ミナの目から、涙がこぼれた。


「帰ってこなかったらどうしようって、ずっと考えてた。でも、お父さんは必ず帰るって言ったから、怖がっちゃいけないと思って……」


『怖いと思うのは、お父さんを信じていないからじゃないよ』


「え……?」


『大切だから、離れているのが寂しいんだ』


「寂しくても、いいの?」


『もちろんだとも』


 ミナは星のクジラの背に、そっと触れた。

 ほんのりと温かかった。


『怖い夜には、怖いと言っていい。寂しい夜には、寂しいと言っていいんだよ』


「……うん」


『その気持ちは、わたしがちゃんと飲み込んであげるから』



 星のクジラは大きく口を開いた。

 すると、空を覆っていた暗雲がゆっくりと渦を巻き始める。


 黒い波も、吹き荒れていた風も、ミナの胸を締めつけていた不安も。


 すべてが細長い煙となって、星のクジラの中へ吸い込まれていった。


 やがて、星のクジラの身体の中で、無数の星が輝き始める。


『さあ、ミナ』


 星のクジラが、やさしく笑った。


『今度は、一緒にお父さんの帰る道を作ろう』


 星のクジラは、七色の潮を吹きだして真っ暗だった夜空に無数の星を浮かべた。


 星は夜空だけでなく、海の上にも広がっていく。

 まるで、帰る道を示す灯台のように。


 黒く染まっていた夢の海が、透き通った青色へと変わっていく。

 荒れていた波は静まり、雲の切れ間から、やさしい月の光が差し込んだ。


 水平線の向こうに、小さな灯りが見える。

 それは、船だった。


 船は今度は遠ざからず、まっすぐにミナのもとへ近づいてくる。

 甲板には、お父さんが立っていた。


 いつもの帽子をかぶり、大きく手を振っている。


「ミナー!」


 今度は、声が聞こえた。

 ミナも両手を振り返す。


「お父さーん!」


 船は星の光でできた道を進み、穏やかな海をゆっくりと渡ってくる。

 お父さんの顔は笑っていた。


 出発した日のままの、やさしい笑顔だった。


「帰ってきた……」


 ミナの目から、涙がひと粒こぼれる。

 今度の涙は、悲しい涙ではなかった。

 


『海はね、大切な人を遠くへ連れていくことがある』


「うん」


『でも、帰る人のために、ちゃんと道も残しているんだよ』


 ミナは、星の光が浮かぶ海と、近付いてくる船を見つめた。


 


 星のクジラは、ゆっくりと尾びれを動かした。


『さあ。もう朝が来るよ』


 空の端が、ほんの少し白み始めていた。

 星たちはひとつずつ光を弱め、夜の中へ溶けていく。


「クジラさん、また会える?」


 ミナが尋ねると、星のクジラは嬉しそうに目を細めた。


『悪い夢が、ひとりでは抱えきれなくなった夜に……ね』


「そんな夜じゃなくても、また会いたいよ」


『それなら、窓から海を見ていてごらん』


 星のクジラは大きく身体を翻した。


『星と漁火の間に、わたしの光が見えるかもしれないよ』


 青い尾びれが、夜空をひと撫でする。


 無数の星の粒が舞い上がり、ミナの身体をやさしく包み込んだ。


『おやすみ、ミナ』


「おやすみなさい。素敵な夢をありがとう、星のクジラさん」


 ミナは目を閉じた。


 遠くで、波の音が聞こえる。


 寄せては返す、穏やかな波の音。


 それはまるで、お父さんが歌ってくれた子守歌のようだった。



*   *   *


 朝。


 ミナが目を覚ますと、ベッドの中にいた。


 窓は少しだけ開いていて、朝の海の匂いが部屋に流れ込んでいる。


「夢……だったのかな」


 ミナは身体を起こすと、枕元で何かがきらりと光った。

 

 小さな、青い星の欠片だった。


 ミナがそっと手に取ると、欠片は温かな光を放った。


 その時、階下からお母さんの声が聞こえる。


「ミナ! お父さんから手紙が届いているわよ!」


 ミナはベッドから飛び降り、階段を駆け下りた。


 封筒には、遠い港町の消印と、見慣れたお父さんの文字が書かれている。


 ミナは急いで手紙を開いた。


 そこには、広い海と、満天の星の絵。

 そして、短い言葉が添えられていた。


 ――もうすぐ帰るよ。


 ミナは手紙を胸に抱きしめた。


 窓の向こうには、朝の海がどこまでも広がっている。

 昨夜まで少し怖かったその海は、今はお父さんへ続く、青く輝く道に見えた。


 ミナの手の中で、星の欠片がもう一度、やさしく瞬いた。


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