悪役令嬢になったのは、ずっと繰り返していたから
十度目の夜会は、花の匂いまで同じだった。
白百合と薔薇。磨き上げられた床。金糸の垂れ布。王家の紋章が刻まれた大広間の扉。
楽団が弦を鳴らす位置も、給仕が銀盆を傾ける角度も、貴族令嬢たちが扇の陰からこちらをうかがう視線も、何もかもが以前と変わらない。
エルヴィア・ラングレイは、その全てを覚えていた。
ここで三拍置いて、王太子ジュリアスが聖女ミリアの手を取る。
ここで近衛騎士団長の息子が半歩前へ出る。
ここで財務伯の子息が、わざとらしく眉をひそめる。
そして、ここで。
「エルヴィア・ラングレイ」
低く張った声が、大広間に響いた。
エルヴィアは、ほんの少しだけ顔を上げた。
ジュリアス王太子は、いつも通り美しかった。金の髪。青い瞳。王族らしい端正な顔立ち。けれど、その表情には、これまで九度見たものと同じ浅い決意が浮かんでいた。
浅い。
昔のエルヴィアなら、そんな言葉を心に浮かべることもできなかった。
最初の人生では、ただ震えていた。
二度目の人生では、泣くまいと必死だった。
三度目の人生では、ここに至るまでに自分が何を間違えたのかを考えていた。
四度目の人生では、もう少し上手くやれたはずだと悔やんでいた。
五度目からは、悔やむことにも疲れ始めた。
十度目の今、エルヴィアの胸にあるのは、不思議なほど静かな諦めだけだった。
「私は本日、この場で宣言する。お前との婚約を破棄する」
大広間がざわめいた。
いいえ、ざわめくことになっている。
扇を閉じる音。
誰かが息を呑む音。
聖女ミリアが震えた声で「殿下」と言う音。
どれも、エルヴィアは知っていた。
だから、驚かなかった。
ジュリアスはそれを見て、わずかに眉を寄せた。
「驚かないのだな」
「ええ」
エルヴィアは静かに答えた。
「今回も、そう仰ると思っておりましたので」
空気が、そこで初めて揺らいだ。
予定されたざわめきではない。
本当に、誰かが息の仕方を間違えたような沈黙だった。
ジュリアスの隣で、ミリアが不安げに手を握りしめる。薄桃色のドレス。白い肩。困ったように下がる眉。守りたくなる儚さ。
エルヴィアは、彼女のその表情もよく覚えていた。
一度目は、その顔に騙された。
二度目は、彼女を責めないようにした。
三度目は、彼女と仲良くなろうとした。
四度目は、彼女を遠ざけようとした。
五度目は、彼女に忠告した。
六度目は、彼女の周囲を調べた。
七度目は、彼女もまた被害者なのだと思おうとした。
八度目は、被害者であることと加害者でないことは別だと知った。
九度目は、もう何も言わなかった。
そして十度目の今、エルヴィアは、ただ見ていた。
「エルヴィア様、私は、その……こんなことになるなんて、思っていなくて」
ミリアが涙を浮かべた。
それも同じだった。
「わたくしも、最初はそう思っておりました」
「最初……?」
「ええ。最初は」
エルヴィアの声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
大広間の隅で、彼女の父であるラングレイ公爵が顔色を変えている。母は扇で口元を隠し、兄は信じられないものを見るようにこちらを見ていた。
家族も同じだった。
最初の人生では、父は言った。
お前は公爵令嬢なのだから、最後まで堂々としていなさい。
二度目の人生では、母は言った。
あなたがもう少し柔らかく振る舞えば、殿下もお変わりになるわ。
三度目の人生では、兄は言った。
お前なら分かるだろう。あの方にも立場がある。
四度目の人生で、エルヴィアは全てを説明した。
五度目の人生で、証拠を見せた。
六度目の人生で、泣いて頼んだ。
七度目の人生で、怒った。
八度目の人生で、黙った。
九度目の人生で、家族に期待することをやめた。
十度目の人生で、エルヴィアは彼らを味方にしなかった。
味方にできないものを、味方として数えるのをやめた。
「何を訳の分からぬことを言っている」
ジュリアスが声を荒げた。
「お前がミリアを階段から突き落としたこと、茶会で侮辱したこと、聖女庁への寄進を妨害したこと、私の側近たちに圧力をかけたこと、全て分かっている」
「そうですか」
「認めるのか」
「いいえ」
エルヴィアは首を振った。
「ですが、殿下がそう仰ることは分かっておりました」
ジュリアスの目が険しくなる。
「またその言い方か」
「はい。またです」
その言葉に、近くの令嬢が小さく息を呑んだ。
エルヴィアは一歩も動かなかった。
逃げない。
縋らない。
怒鳴らない。
泣かない。
それらは全て、もう試した。
泣けば、弱さを利用された。
怒れば、悪役にされた。
黙れば、認めたことにされた。
説明すれば、言い訳と呼ばれた。
微笑めば、反省していないと言われた。
では、どうすればよかったのか。
九度目までは、その答えを探していた。
十度目で、ようやく分かった。
答えなど、最初から求められていなかった。
「殿下」
エルヴィアは静かに言った。
「わたくしは、一度目は自分が悪いのだと思いました」
「何の話だ」
「二度目は、伝え方が悪かったのだと思いました。三度目は、間に合わなかったのだと思いました。四度目は、もっと優しくすればよかったのだと思いました。五度目は、もっと厳しくすべきだったのだと思いました。六度目は、証拠が足りないのだと思いました。七度目は、人の心を変えることができるのだと思いました」
ジュリアスの顔から、怒りが少しずつ剥がれていく。
代わりに浮かんだのは、理解できないものへの苛立ちだった。
「そして八度目で、少し疲れました」
エルヴィアは微笑んだ。
「九度目で、諦めました」
大広間は、今度こそ静まり返っていた。
誰も笑わない。
誰も囁かない。
楽団さえ、いつの間にか演奏を止めていた。
「十度目の今、わたくしはようやく理解したのです」
エルヴィアはジュリアスを見た。
「これは、わたくしが変われば救われる話ではなかったのだと」
その時、広間の扉が開いた。
入ってきたのは、王宮法務官だった。続いて、聖女庁の監察官。さらに王立記録院の書記官が三名。
彼らは誰も驚いた顔をしていなかった。
ジュリアスが振り返る。
「何のつもりだ」
法務官は深く礼をした。
「恐れながら、王命により、本日の夜会における王太子殿下の発言、ならびにラングレイ公爵令嬢への告発内容を記録いたします」
「王命だと?」
「はい。陛下より、事前に」
ジュリアスの顔色が変わった。
エルヴィアはそれを見ても、胸がすくことはなかった。
少し前なら、ここで勝ったと思えたのかもしれない。
けれど今は、ただ手順が進んだとしか思えなかった。
十度目の人生で、エルヴィアが最初にしたことは、ジュリアスを避けることではなかった。
ミリアを遠ざけることでもない。
家族に泣きつくことでもない。
王に、手紙を書いた。
ただし、助けてくださいとは書かなかった。
王太子殿下は、このままでは同じ失敗をなさいます。
わたくしが何をしても、おそらく止まりません。
ゆえに、止めるのではなく、記録してください。
そう書いた。
最初、王は信じなかった。
当然だ。
未来を知っているなどと言えば、狂ったと思われる。
だからエルヴィアは、予言ではなく、予測として書いた。
王太子が次に誰と会うか。
聖女がどの茶会で涙を流すか。
側近たちがどの順番で公爵家の使用人へ聞き込みをするか。
どの噂が、何日後に、どの家の令嬢から流れるか。
当たりすぎる予測は、不気味な証拠になった。
王は動いた。
王妃も動いた。
法務官も、記録院も、聖女庁の監察官も、表に出ないまま静かに配置された。
けれど、エルヴィアはそれでも期待しなかった。
九度も繰り返せば分かる。
人は、見たいものを見る。
聞きたいことを聞く。
自分が正しいと思える場所へ、勝手に歩いていく。
そして今夜、ジュリアスは予定通り歩いてきた。
エルヴィアを悪役にするために。
「殿下」
聖女庁の監察官が、一通の書類を開いた。
「聖女ミリア様が階段から落ちた件ですが、当時、ラングレイ令嬢は王妃殿下の私室におりました。侍女五名、女官長、王妃殿下ご本人の証言がございます」
ミリアが小さく肩を震わせた。
「そんな……私は、誰かに押されたような気がして」
「気がした、では告発になりません」
監察官の声は冷たくなかった。
ただ、職務として淡々としていた。
「また、茶会での侮辱についてですが、当日の記録では、ラングレイ令嬢は聖女様へ席順と発言順の説明をしておられます。侮辱にあたる発言は確認されておりません」
「でも、エルヴィア様は、私に恥をかかせるようなことを」
「それは、貴族作法の説明を受けたことを、恥と感じたという意味でしょうか」
ミリアは言葉を失った。
ジュリアスがかばうように前へ出た。
「ミリアを責めるな。彼女は慣れていないのだ」
「慣れていない方へ作法を説明した者を、殿下は侮辱者として扱われました」
今度は法務官が言った。
「その判断根拠を、お聞かせ願えますか」
ジュリアスは答えられなかった。
エルヴィアは、彼の沈黙を見ていた。
一度目の人生では、その沈黙が怖かった。
王太子が黙るだけで、自分の人生が潰れるのだと思い知ったからだ。
二度目の人生では、その沈黙を埋めようとした。
三度目の人生では、先に説明を用意した。
四度目の人生では、彼が恥をかかないように配慮した。
五度目の人生では、彼を怒らせない言葉を選んだ。
六度目の人生では、それでも駄目だった。
七度目の人生では、彼のために怒った。
八度目の人生では、彼を見限った。
九度目の人生では、もう彼を王にしてはいけないと知った。
「聖女庁への寄進妨害についても、確認が取れております」
監察官が続けた。
「ラングレイ公爵家からの寄進は例年通り行われています。むしろ今年は、聖女ミリア様の活動費として追加の支援がありました。ただし、その一部が聖女様の周辺にいる者たちの装飾品購入に流れております」
ざわめきが起きた。
ミリアが顔を青ざめさせる。
「私は知りません」
「はい。聖女様ご本人が直接命じた記録はありません」
その言い方で、広間の空気が変わった。
直接命じてはいない。
それは、何もなかったという意味ではない。
ミリアはいつもそうだった。
自分では命じない。
ただ困った顔をする。
誰かが動く。
自分では責めない。
ただ泣く。
誰かが相手を罰する。
自分では奪わない。
ただ欲しそうに見る。
誰かが差し出す。
一度目のエルヴィアは、それを無邪気だと思った。
二度目は、未熟なのだと思った。
三度目は、環境が悪かったのだと思った。
四度目は、教えれば変わると思った。
五度目は、本人に悪意はないのだと思おうとした。
六度目は、悪意がないからこそ厄介なのだと知った。
七度目は、周囲が彼女をそう育てているのだと知った。
八度目は、彼女自身もそれを選んでいるのだと知った。
九度目は、もうどうでもよくなった。
「エルヴィア」
ジュリアスが、初めて少し弱い声で呼んだ。
婚約者として何度も聞いた声。
苦しい時だけ、助けを求める声。
「お前は、なぜここまでした」
エルヴィアは、瞬きをした。
不思議な問いだった。
ここまで。
彼は今、そう言った。
まるで、仕掛けたのがエルヴィアであるかのように。
まるで、この場を作ったのがエルヴィアであるかのように。
「殿下」
エルヴィアは言った。
「わたくしは、何度も止めました」
ジュリアスの眉が揺れる。
「何度も?」
「はい。言葉を変えました。態度を変えました。近づき方を変えました。離れ方を変えました。怒りました。謝りました。笑いました。泣きました。黙りました。証拠を集めました。証拠を捨てました。信じました。疑いました」
そこで一度、息を吸った。
「ですが、殿下は、いつも同じ場所へお戻りになりました」
「私は……」
「聖女様も、側近の皆様も、わたくしの家族も」
公爵がわずかに肩を震わせた。
母が扇を下ろす。
兄が口を開きかけ、閉じた。
「皆様、同じでした」
エルヴィアは責めるようには言わなかった。
責める時期は終わっていた。
「わたくしは、やり直していたのではありません」
広間の誰もが、彼女を見ていた。
「皆様が同じ過ちを繰り返すのを、見届けていただけです」
その言葉は、静かに落ちた。
誰かの顔を打つほど強くはない。
けれど、床に落ちて砕れるほど軽くもない。
ジュリアスは、何も言えなかった。
ミリアは泣いていた。
側近たちは目を逸らした。
家族は、初めてエルヴィアを知らない人間のように見た。
その視線に、昔なら傷ついただろう。
今はもう、痛まなかった。
やがて、王が入ってきた。
王妃も、その隣にいた。
広間の者たちが一斉に頭を下げる。
ジュリアスだけが遅れた。
王は息子を見た。
怒ってはいなかった。
失望していた。
それが、何より重かった。
「ジュリアス」
王の声は低かった。
「お前には機会を与えた」
「父上、これは」
「言い訳をする機会ではない」
ジュリアスは口を閉ざした。
王はエルヴィアを見た。
「ラングレイ令嬢」
「はい」
「お前には、苦労をかけた」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが小さく軋んだ。
救われたとは思わなかった。
報われたとも思わなかった。
ただ、十度目にして初めて、誰かが苦労だったと認めた。
それだけだった。
それだけで、十分だったのかもしれない。
「婚約は、王家側の重大な不手際により白紙とする」
王が告げた。
「ラングレイ公爵家への処分はない。むしろ、王家より正式に謝罪を行う。ジュリアス王太子については、王太子位を停止し、追って沙汰を下す。聖女ミリアについては、聖女庁による再教育と監察下に置く」
広間に、息苦しいほどの沈黙が満ちた。
誰も歓声を上げない。
誰も拍手しない。
そんなものが似合う場ではなかった。
人の人生を何度も踏みにじった者たちが、ようやく一度だけ止められた。
ただ、それだけの夜だった。
「エルヴィア」
ジュリアスが、かすれた声で言った。
「私は、どうすればよかった」
エルヴィアは彼を見た。
かつて愛そうとした人。
支えようとした人。
変わってほしかった人。
そして、何度やり直しても、同じ場所に戻ってきた人。
「一度でよかったのです」
エルヴィアは答えた。
「一度で?」
「はい」
彼女は微笑んだ。
それは勝者の笑みではなかった。
敗者を見下ろす笑みでもなかった。
長い長い道を歩き終えた者の、静かな笑みだった。
「わたくしの話を、最後まで聞けばよかった」
ジュリアスは、今度こそ何も言えなかった。
エルヴィアは頭を下げた。
王へ。
王妃へ。
広間へ。
そして、過去の自分たちへ。
一度目の自分。
二度目の自分。
三度目の自分。
まだ信じていた自分。
まだ変えられると思っていた自分。
まだ泣いていた自分。
まだ誰かを責める力があった自分。
まだ諦めきれなかった自分。
その全てを連れて、エルヴィアは大広間を出た。
扉の外の廊下は、驚くほど静かだった。
夜風が窓から入り、火照りのない頬を撫でる。
もう戻らないかどうかは、分からない。
また十五歳の春に目覚めるのかもしれない。
また同じ朝が来るのかもしれない。
けれど、もしそうなったとしても、もう迷わない。
エルヴィアはようやく知っていた。
悪役令嬢になったのは、彼女が間違えたからではない。
誰もが、自分に都合のいい物語を守るため、何度でも彼女にその役を押しつけたからだ。
そして彼女は、その役を降りるために、ずっと繰り返していた。
今回は、タイムリープものの悪役令嬢です。
ただ、本人が何度もやり直して成長するというより、周囲が何度やっても同じところへ戻ってしまう話になりました。
泣いても駄目、怒っても駄目、説明しても駄目、黙っても駄目。
それならもう、誰かを変えようとするのではなく、同じ過ちが繰り返されるところをきちんと記録するしかない。
そんな形の断罪劇です。
「一度でよかったのです」という台詞に、この話のほとんどが入っている気がします。
今回は何とかコンパクトにまとまりました。
お読みいただき、ありがとうございました。




