壊れたオルゴール
音楽とは、時間の建築物だ。
精巧なリズムの梁と、美しい旋律の壁で構成された、目に見えない巨大な伽藍。
私はその建築家であり、演奏家であり、そして唯一の聴衆だった時間を長く過ごしてきた。
私はスイス製のシリンダー・オルゴール。一八八〇年製。
ローズウッドの筐体は、年月を経て深い葡萄酒色に熟成されている。
蓋の象嵌細工は、色褪せつつもかつての栄華を留め、真鍮の蝶番は鈍く光っている。
蓋を開ければ、そこには小さな金属の小宇宙が広がっている。
数百本の微細なピンが植えられたシリンダー。
長さの異なる鋼鉄の弁が並ぶ櫛歯。
ゼンマイが解ける力でシリンダーが回転し、ピンが櫛歯を弾く。
ただそれだけの物理運動が、空気の振動となり、人の心を震わす「歌」となる。
曲目はショパンの『ノクターン 第2番 変ホ長調』。
甘美で、憂いを帯びた、夜の調べ。
それは私の魂の歌だった。
私の持ち主は、窓辺のベッドから動けない少女だった。
彼女の名前はエリス。
彼女の世界は狭かった。
四角い窓枠で切り取られた空と、庭の樫の木と、そしてこの薄暗い部屋だけ。
彼女の肌は陶器のように白く、血管が透けて見えるほど薄かった。指先はいつも氷のように冷たかった。
「聴かせて、私の友達」
彼女は細い指で、私のゼンマイを巻く。
カリ、カリ、カリ。
その力は弱々しく、頼りなかったが、私に命を吹き込むには十分だった。
ストッパーを外す。
ガチャン、というラチェットが外れる音。
そして、シリンダーが重々しく回り出す。
ポーン、ポーン、ポロロン……
涼やかな金属音が、静寂な部屋に波紋のように広がる。
低音部はチェロのように深く響き、高音部はクリスタルのように煌めく。
彼女は目を閉じる。
その長い睫毛が微かに震える。
彼女の呼吸が、私のテンポと同期していく。
私は知っていた。
彼女が聴いているのは、ただの音楽ではないことを。
彼女はこの旋律に乗せて、ここではないどこかへ旅をしているのだ。
シャンデリアが輝く舞踏会の広間へ。ワルツを踊る紳士淑女たち。
月明かりの森へ。妖精たちのささやき。
あるいは、健康な足で、野原を風のように駆け回る夢の中へ。
私は彼女の翼であり、彼女の足だった。
ある嵐の夜。
彼女の発作は酷かった。
激しい咳。気管支が悲鳴を上げている。
医師たちの慌ただしい足音が去った後、部屋には重苦しい沈黙が残った。
雷鳴が轟く。稲光が部屋を一瞬、青白く照らす。
「怖い、怖いよ……」
彼女は闇に怯え、私の筐体を抱きしめた。
彼女の熱い体温が、冷たい木材を通して、私の中心部まで伝わってくる。
それは高熱による異常な熱さだった。
彼女の涙が、私の真鍮の部品に落ちる。
塩分を含んだ涙は、錆の原因になる。でも、私はそれを拒まない。
私を鳴らして。
この恐怖を消して。
彼女は震える手でゼンマイを巻いた。
いつもより強く。乱暴に。
死の影を振り払うかのように。
カリ、カリ、カリ、ギチチ……。
限界まで。
やめてくれ。それ以上巻いてはいけない。
私のメインスプリングは悲鳴を上げている。金属疲労の限界だ。
だが、彼女は止まらない。
「もっと、もっと大きな音で……」
ギリリッ。
鈍い音がして、手応えがふっと軽くなった。
ゼンマイが切れたのではない。
調速機のギアが、過剰なトルクに耐えきれずに破損したのだ。
ブレーキを失ったシリンダーが、恐ろしい速度で回転を始める。
ギャララララララララ!
それは音楽ではなかった。
優雅なノクターンを百倍の速度で早回しにしたような、狂気の絶叫。
ピンが櫛歯を乱打する。
美しい和音は崩壊し、不協和音の嵐となって部屋を蹂躙した。
金属が悲鳴を上げる。
キーン!
高音部の櫛歯が一本、弾け飛んだ。
私の体内で、何かが決定的に壊れた。
私は壊れることで、彼女の叫びを代弁したのかもしれない。
音が止んだ。
完全なる沈黙。
「……あ」
少女の声も、それきり聞こえなくなった。
彼女の手から力が抜け、私はベッドの上に転がった。
私の最後の演奏は、彼女の魂を連れて行ってしまったのだろうか。
それとも、彼女の最後の苦しみを、私が引き受けて壊れたのだろうか。
わからない。
ただ、彼女の顔は穏やかだった。
嵐が去った後の朝のような、静かな寝顔だった。
彼女の指先は、まだ私の筐体に触れていたが、もう温度はなかった。
それから五十年。
私は日本の、とある古い屋敷の蔵の中にいた。
どういう経緯で海を渡ったのかは分からない。
私は湿気と埃と、古い着物の樟脳の匂いに包まれて、長い眠りについていた。
私はもう歌えない。
心臓は止まり、喉は欠け、声は錆びついている。
私はただの、美しい装飾が施された木の箱だ。
時折、ネズミが私の周りを走り回る足音が聞こえるだけ。
闇の中で、私は夢を見る。
あの白い指先。
窓辺の光。
そして、彼女と共有した、あの静謐で、濃密な時間のことを。
「これ、なんだろう?」
光が差し込んだ。
蔵の整理だろうか。
若い女性の声。
彼女の横には、小さな女の子がいる。白いワンピースを着た、五歳くらいの少女だ。
「うわあ、きれいな箱! 宝箱かな?」
女の子が私を手に取る。
その手は温かく、少し汗ばんでいた。
デジャヴ。
記憶の彼方の感触が蘇る。エリスの手と同じ温もり。
「オルゴールね。でも、だいぶ古いし、壊れてるみたい」
女性が蓋を開ける。
錆びついた私の内臓が、白日の下に晒される。
無惨な姿だ。折れた櫛歯。黒ずんだシリンダー。
「鳴らないのかな?」
女の子が、シリンダーに指を触れる。
やめて。
触らないで。
私はもう、美しい音楽を奏でられない。
私の中から出るのは、あの夜の呪いのようなノイズだけだ。
がっかりさせたくない。
夢を壊したくない。
私は死んでいるのだ。そっとしておいてくれ。
女の子は、私の拒絶など聞こえないかのように、好奇心いっぱいの目でシリンダーを指で回した。
ゆっくりと。
逆回しに。
ポ……ン……。
奇跡的に残っていた一本の櫛歯が、錆びたピンに弾かれた。
濁った、低い音。
それはノクターンの一節ですらなかった。
ただの音の欠片。
金属が擦れる、寂しい響き。
でも。
「鳴った!」
女の子は顔を輝かせた。
「ママ、聴こえたよ! 今、歌ったよ!」
彼女は目を丸くし、耳を私の筐体に押し当てる。
その鼓動が、トクトクと私に伝わる。
ああ……この振動だ。
五十年前に感じた、あの少女の命の音と同じだ。
生きている人間の、躍動する心臓の音。
「本当ね。おばあちゃんの大切なものだったのかもね」
女性が優しく微笑む。
「直せるかしら」
「私が直す! 私の宝物にする!」
女の子が宣言する。
私は悟った。
私は壊れている。二度と元の美しい音色には戻らないかもしれない。
部品はないし、修理には大変な金がかかるだろう。
けれど、私の役目は終わっていなかったのだ。
音が出なくても、錆びついていても、私は「記憶の器」としてここに在る。
かつて一人の少女が、命を燃やして聴き入ったその時間を、内包したまま存在している。
そして今、新しい少女が、私に新しい命を吹き込もうとしている。
「持って帰ろうね」
女の子が私を胸に抱く。
温かい。
私は揺れながら、運ばれていく。
蔵の外には、眩しいほどの夏空が広がっていた。
入道雲。蝉時雨。
かつて窓辺から見た景色よりも、ずっと鮮やかで、生き生きとした世界。
私のシリンダーは、もう永遠に回ることはないかもしれない。
でも、彼女の腕の中で揺れるたび、内部の部品が小さな音を立てる。
カタリ、コトリ。
それは私だけに聞こえる、新しい即興曲だ。
さあ、行こう。
新しい物語が、またここから始まるのだから。




