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海に食べられて

作者: かたな
掲載日:2025/10/30

その日、私はなんとなく、旅行に行くことにした。

 理由なんて特になかった。朝、窓の外を見たら雲ひとつない青空で、急に潮の匂いが恋しくなった。行き先も決めずに電車に乗って、降りたのは知らない小さな海辺の町だった。地図も見ずに歩くと、潮風がどの道を選べばいいか教えてくれるようで、私はただその匂いを追った。


 駅から十五分ほど歩くと、堤防の向こうに海が見えた。

 昼近く、陽射しは強いのに風は冷たく、季節が入り混じるような奇妙な感覚だった。人影はなかった。海の家の骨組みが錆びついて残っているだけで、砂浜には足跡もついていない。


 私は靴を脱ぎ、裸足で砂に足を埋めた。

 ひんやりして、細かい粒が皮膚に吸いつく。波が寄せては返し、泡が足首に触れては消えた。

 潮の音しか聞こえない。

 空と海の境が曖昧で、どこまでも続くような青さだった。


 ――そのときだった。


 沖の方、ずっと先に“何か”が立っていた。

 最初は岩かと思った。けれど、潮の流れに逆らってまっすぐ立っている。

 人の形をしているように見えた。けれど、動かない。風も波も受けていない。

 じっとしている。

 波間に光が反射して、輪郭が一瞬、黒く浮かび上がった。


 ぞっとした。

 私を見ている。そう思ってしまった。

 目が合った、という確信にも似た感覚があった。

 胸の奥がぎゅっと縮む。息が詰まって、足が動かなくなる。

 その“影”は、ただそこに立っているだけだったのに。


 私は慌てて背を向けた。

 見てはいけない、と思った。

 理由も分からないまま、砂浜を早足で離れた。

 そのとき、背後で一度だけ、波が崩れる音が大きく響いた気がした。

 振り返らなかった。振り返ってはいけない気がした。



 宿は駅前の古びた旅館だった。

 チェックインを済ませ、部屋に入ると、窓からはさっきの海が小さく見えた。

 あの“影”のことを考えないように、早めに風呂に入り、買ってきた弁当で夕食を済ませた。

 夜になっても波の音は途切れず、部屋の奥まで響いてくるようだった。

 時計を見ると、まだ八時半。なのに身体が重い。

 布団に入るとすぐに眠気がきた。


 ……夢を見た。

 海辺に立っている夢。

 夜の海は真っ黒で、足元まで波がきている。

 遠くの沖に、またあの“影”が立っている。

 でも、今度は少し近い。

 その顔が、ぼんやりと見える距離だった。

 輪郭が歪んでいて、口のあたりだけ白く光っていた。


 そこで目が覚めた。

 心臓が早鐘のように鳴っている。

 時計は午前三時。

 部屋の鏡が、なぜか曇っていた。

 暖房も浴室も使っていないのに。

 私はタオルで拭こうとしたが、曇りは消えなかった。むしろ、触れた部分から湿っていくように広がった。



 翌朝、鏡の曇りはそのままだった。

 気味が悪くなり、チェックアウトを早めにして帰ることにした。

 しかし、駅へ向かう途中、足元に妙なものを見つけた。

 民家の前の側溝の中に、濡れた貝殻が一枚だけ落ちていた。

 中には小さな砂と、なぜか黒い髪の毛が絡まっていた。

 背筋が冷たくなる。急いでその場を離れた。


 その日から、変なことが続いた。

 洗面台の水が勝手に流れたり、夜になると部屋の隅が湿っていたり。

 眠っていると、どこからか「ざぁ……ざぁ……」という音が聞こえてくる。

 最初は雨かと思ったが、外は晴れていた。

 音はだんだん近づいてくるようで、耳元で波が砕けるように響いた。


 朝起きると、布団の端が濡れていた。

 潮の匂いがする。



 誰にも話さなかったが、限界を感じて、同僚に相談してしまった。

 するとその人が言った。

 「その町、漁村の方? なら祠があるはず。地元の人に聞いてみなよ。変なのは“潮返し”って言って、海に礼をしないといけないって聞いたことある。」


 半信半疑で、再びあの町へ向かった。

 駅前の商店で祠のことを聞くと、老婆が出てきて「あんた、見たのかい」と言った。

 私が何も言わないうちに。

 老婆は私の両手を掴んで、近くの井戸の水をすくい、塩を混ぜて手のひらにかけた。

 「見られたね」

 「……え?」

 「海の上に立つのは“呼ぶもの”だよ。見た人を連れていこうとする。潮を返しなさい。自分の代わりの貝を海に置くんだよ。」


 老婆の家の棚には、乾いた貝殻がたくさん並んでいた。

 どれも少し欠けて、光沢がない。

 老婆はその中から一枚を選び、私に渡した。

 「これを持って行きな。名前も顔も覚えられちゃだめだよ。」


 言われた通り、翌朝の干潮の時間に砂浜へ行った。

 空は曇っていて、潮風が強い。

 波打ち際にしゃがみ、貝殻をそっと置いた。

 そして、深く頭を下げた。

 「すみません。見てしまいました。返します。」


 顔を上げたとき、海の上にはもう“影”はいなかった。

 風が一度だけ強く吹いて、波が足元を洗った。

 それで終わりだった。



 不思議なことに、それ以来、部屋の鏡は曇らなくなった。

 夜の波音も聞こえない。

 まるで何もなかったかのように、日常は元に戻った。

 夢も見なくなった。


 ただ――


 最近、時々、左手がしびれる。

 特に夜、静かな時間になると、じんじんと痛むように。

 気づくと、指の間に白い砂が挟まっている。

 どこでついたのか分からない。


 しびれた手を洗っても、取れない塩の匂いが残る。

 風呂に入っても、爪の隙間からわずかに潮の味がする。


 それだけのことだ。

 それだけなのに――


 時々、左耳の奥で、波の音が聞こえる。

 ざぁ……ざぁ……という音が。

 それが本当に耳鳴りなのか、それとも。


 ――あの日、見た“影”の呼ぶ声なのかは、もう分からない。









日頃ホラーの短編を作っております。

前作のランクインをありがとうございました。

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