海に食べられて
その日、私はなんとなく、旅行に行くことにした。
理由なんて特になかった。朝、窓の外を見たら雲ひとつない青空で、急に潮の匂いが恋しくなった。行き先も決めずに電車に乗って、降りたのは知らない小さな海辺の町だった。地図も見ずに歩くと、潮風がどの道を選べばいいか教えてくれるようで、私はただその匂いを追った。
駅から十五分ほど歩くと、堤防の向こうに海が見えた。
昼近く、陽射しは強いのに風は冷たく、季節が入り混じるような奇妙な感覚だった。人影はなかった。海の家の骨組みが錆びついて残っているだけで、砂浜には足跡もついていない。
私は靴を脱ぎ、裸足で砂に足を埋めた。
ひんやりして、細かい粒が皮膚に吸いつく。波が寄せては返し、泡が足首に触れては消えた。
潮の音しか聞こえない。
空と海の境が曖昧で、どこまでも続くような青さだった。
――そのときだった。
沖の方、ずっと先に“何か”が立っていた。
最初は岩かと思った。けれど、潮の流れに逆らってまっすぐ立っている。
人の形をしているように見えた。けれど、動かない。風も波も受けていない。
じっとしている。
波間に光が反射して、輪郭が一瞬、黒く浮かび上がった。
ぞっとした。
私を見ている。そう思ってしまった。
目が合った、という確信にも似た感覚があった。
胸の奥がぎゅっと縮む。息が詰まって、足が動かなくなる。
その“影”は、ただそこに立っているだけだったのに。
私は慌てて背を向けた。
見てはいけない、と思った。
理由も分からないまま、砂浜を早足で離れた。
そのとき、背後で一度だけ、波が崩れる音が大きく響いた気がした。
振り返らなかった。振り返ってはいけない気がした。
宿は駅前の古びた旅館だった。
チェックインを済ませ、部屋に入ると、窓からはさっきの海が小さく見えた。
あの“影”のことを考えないように、早めに風呂に入り、買ってきた弁当で夕食を済ませた。
夜になっても波の音は途切れず、部屋の奥まで響いてくるようだった。
時計を見ると、まだ八時半。なのに身体が重い。
布団に入るとすぐに眠気がきた。
……夢を見た。
海辺に立っている夢。
夜の海は真っ黒で、足元まで波がきている。
遠くの沖に、またあの“影”が立っている。
でも、今度は少し近い。
その顔が、ぼんやりと見える距離だった。
輪郭が歪んでいて、口のあたりだけ白く光っていた。
そこで目が覚めた。
心臓が早鐘のように鳴っている。
時計は午前三時。
部屋の鏡が、なぜか曇っていた。
暖房も浴室も使っていないのに。
私はタオルで拭こうとしたが、曇りは消えなかった。むしろ、触れた部分から湿っていくように広がった。
翌朝、鏡の曇りはそのままだった。
気味が悪くなり、チェックアウトを早めにして帰ることにした。
しかし、駅へ向かう途中、足元に妙なものを見つけた。
民家の前の側溝の中に、濡れた貝殻が一枚だけ落ちていた。
中には小さな砂と、なぜか黒い髪の毛が絡まっていた。
背筋が冷たくなる。急いでその場を離れた。
その日から、変なことが続いた。
洗面台の水が勝手に流れたり、夜になると部屋の隅が湿っていたり。
眠っていると、どこからか「ざぁ……ざぁ……」という音が聞こえてくる。
最初は雨かと思ったが、外は晴れていた。
音はだんだん近づいてくるようで、耳元で波が砕けるように響いた。
朝起きると、布団の端が濡れていた。
潮の匂いがする。
誰にも話さなかったが、限界を感じて、同僚に相談してしまった。
するとその人が言った。
「その町、漁村の方? なら祠があるはず。地元の人に聞いてみなよ。変なのは“潮返し”って言って、海に礼をしないといけないって聞いたことある。」
半信半疑で、再びあの町へ向かった。
駅前の商店で祠のことを聞くと、老婆が出てきて「あんた、見たのかい」と言った。
私が何も言わないうちに。
老婆は私の両手を掴んで、近くの井戸の水をすくい、塩を混ぜて手のひらにかけた。
「見られたね」
「……え?」
「海の上に立つのは“呼ぶもの”だよ。見た人を連れていこうとする。潮を返しなさい。自分の代わりの貝を海に置くんだよ。」
老婆の家の棚には、乾いた貝殻がたくさん並んでいた。
どれも少し欠けて、光沢がない。
老婆はその中から一枚を選び、私に渡した。
「これを持って行きな。名前も顔も覚えられちゃだめだよ。」
言われた通り、翌朝の干潮の時間に砂浜へ行った。
空は曇っていて、潮風が強い。
波打ち際にしゃがみ、貝殻をそっと置いた。
そして、深く頭を下げた。
「すみません。見てしまいました。返します。」
顔を上げたとき、海の上にはもう“影”はいなかった。
風が一度だけ強く吹いて、波が足元を洗った。
それで終わりだった。
不思議なことに、それ以来、部屋の鏡は曇らなくなった。
夜の波音も聞こえない。
まるで何もなかったかのように、日常は元に戻った。
夢も見なくなった。
ただ――
最近、時々、左手がしびれる。
特に夜、静かな時間になると、じんじんと痛むように。
気づくと、指の間に白い砂が挟まっている。
どこでついたのか分からない。
しびれた手を洗っても、取れない塩の匂いが残る。
風呂に入っても、爪の隙間からわずかに潮の味がする。
それだけのことだ。
それだけなのに――
時々、左耳の奥で、波の音が聞こえる。
ざぁ……ざぁ……という音が。
それが本当に耳鳴りなのか、それとも。
――あの日、見た“影”の呼ぶ声なのかは、もう分からない。
日頃ホラーの短編を作っております。
前作のランクインをありがとうございました。
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