まりあ、悪を識る
「着いたぜ。ここが俺の秘密基地だ」
車を降りると、腐った生ゴミと下水の匂いが鼻を突いた。
靴の裏に、ざらついた粉塵がこびりつく。
舗装もされていない道の奥には、虚ろな目で煙草をふかす妙齢の女性や、刃物を帯びて睨みを利かす少年たちの姿があった。
「これが桔嘉も知らねぇ、この国の現状だ」
もしかしたら、アイツなら気付いてるかもしれねぇけどな。と、政影が独り言のように呟く。
そんな政影の横を無言で歩きながら、まりあは目を瞬かせる。
(廃墟のような街並みだけど……人の営みは、確かにある)
「政影さんが、この場所を管理しているのですか?」
「管理とはちょっと違うな。この場所は行く当てのない奴らが勝手に集まって住み始めた、いわば『都市の落とし物』だ」
ここは倫理も秩序もない場所――正しく無法地帯なのだと、政影は言う。
「奴らがここに居る理由は様々だ。自ら罪を犯して堕ちた者、親に棄てられた者、それから俺たちみてぇなならず者から身を隠す者……共通するのは、法律から零れ落ちた奴らだってことだな」
「……私も、この国にこんな場所があるなんて、知りませんでした」
「大抵の人間は知らねぇよ。自分のことで精いっぱいだからな。……それにここは、危険でもある」
そう言って、まりあの肩を抱く政影。
突然のことに驚くまりあだが、周囲を威嚇するような政影の鋭い眼光にすぐに得心がいく。
艶のある黒髪に高級感のある清楚なワンピース、それから手入れの行き届いた靴。大財閥の令嬢らしい上品さは、この街ではあまりに目立ちすぎる。
政影は通りの影からこちらを値踏みしている男たちから、まりあを守ろうとしてくれているのだろう。
「ありがとうございます」
「別に。銀次に怒られたくねぇだけさ。俺のツレだって分からせときゃ、余計なちょっかいも減るしな」
ヘラりと軽薄に笑ってまりあから視線を外す政影だが、肩に置かれた手は優しい。
政影と出会ってからまだ数時間しか経っていないが、当初に感じた恐怖は既に感じなくなっていた。
「……なぁ、お姫様。アンタの目にはどう映る? 法の外に落っこちて、それでも必死に生きてる連中ってのは?」
突然の政影からの問いに、まりあは視線を落として考える。
だが、政影は最初からまりあの答えは期待していなかったようで、
「……桔嘉の奴はさ、この場所を知れば、ここにいる奴らすらも救おうと躍起になるんだろうよ」
と、どこか柔らかな響きで独りごちた。
「あの理想の高い甘ったれは、この国の奴ら全員を本気で守る気でいるんだ。……笑っちまうだろ?」
そうは言いつつも、政影のその声音には嘲笑よりも柔らかで優しい響きが含まれている。
「……分かる、気がします」
小さく答えるまりあの脳裏に、今朝の出来事が甦る。
まりあが使用人たちから苛めを受けているのではないかと勘ぐり、駆け付けてくれた桔嘉。
けれどもそれは、相手がまりあだったからという訳ではないのだろう。
(桔嘉さんはきっと、相手が私じゃなくても心配していたんだろうな……)
だからこそ使用人たちは桔嘉を慕い、まりあへと勧めてきたのだろう。
―――愛されているのだ。誰からも。
愛されるに値することを積み重ねてきた人なのだ、大倭桔嘉という人物は。
(そんな人を……私は自分勝手に利用しようとしている)
胸の奥で、ちくりと罪悪感が疼く。
覚悟を決めきれない自分が不甲斐なかった。
「着いたぞ」
政影の声に顔を上げると、そこにあったのは小さな診療所だった。
やわらかい笑みを浮かべた白衣の女医が、子どもたちに食べ物を配っている。
「これは……?」
「さっきも言ったが、ここには倫理も秩序もねぇ。……あるのは俺の『施し』だけだ」
施し……つまり、診療所も食べ物も鬼龍会が無償で提供しているということだろう。
「彼らは知っているんですか? あなたが『黒幕』だと……」
「もちろん知らねぇよ。いいことをしてる医者や教師が人気者だ。……俺らみてぇなのは、裏に回ってるほうが性に合ってるからな」
「……本当は優しいんですね、政影さんって」
今までの政影の言動から、まりあは思わずそう漏らす。
軽薄で、冷徹で、効率主義ではあるのだろうが、弱者に手を差し伸べる強さと優しさを持っている。
先ほどまりあを試したのも、危険地帯に連れて来ることができるかどうかの確認だったのだろう。
「お優しいのはアンタの考え方だよ。……俺がしてるのは、慈善なんかじゃねぇ。ガキは教育しときゃ10年後には使えるコマになるってだけさ。育て方次第では皇財閥すら喰えるようになるぜ……楽しみだなぁ、お姫様?」
煽るような表情でまりあを見下ろす政影だが、身寄りのない子どもに無償でそこまでの教育を施すのは、どう考えても福祉だ。政影は否定したが、まりあには「慈善事業」だとしか思えない。
「将来俺が利用するために育ててんだ。いいことをしてるつもりはねぇよ」
政影から発せられた「利用」という言葉に、まりあは言葉を失う。
(政影さんは私と違って、きちんと割り切って、行動して、救って……その上で、利用するつもりだと言っている)
言葉の重みも、行動力も、何もかもが違いすぎる……と、無力感に脱力するまりあ。
そんなまりあの顎に指を添えた政影は、
「知ってるか、皇財閥のお姫様。生活するには必ず金が必要だが、人間ってのは金がなくなると「死ぬ」んじゃない。「選べなくなる」んだ。どこに住むか、誰といるか、何を食うかも選べない。どう生きるかすらも……全部、他人に決められるようになる。―――それを『支配』って言うんだ」
言いながら、まりあと真っすぐに視線を合わせた。
まずい。と、まりあが咄嗟に政影の肩を押して距離を取ろうとするが、その手も取られ抵抗する術を奪われてしまう。
「っ……!」
「いい反応だ。……けど、遅かったな」
唇が触れそうなほどに顔を近づける政影の瞳には『帝王眼』発動の光が宿っている。
今のまりあに、政影の『帝王眼』を跳ね除ける術はない。
まりあは認めてしまっているのだ。政影の覚悟が自分よりも上だと。
「『桔嘉を傷つけるようなことはするな』」
それが、政影がまりあに下した命令だった。
予想外の内容に、解放されたまりあの肩から力が抜ける。
『帝王眼』の効力は、基本的には即効性かつその場限りだ。永続的に掛け続けることはできない。
政影ももちろんそれは承知の上だ。その上でまりあに「脅し」を掛けたのだ。
―――今後、桔嘉を傷つけるようなことをすれば鬼龍会が相手になる、と。
「アイツは……桔嘉はすげぇ奴だから、きっと何があってもこの国の奴ら全員を守り切るだろうよ。……だけどな、アイツの言う『全員』には、当たり前のようにアイツ自身が含まれてねぇんだ」
どこか寂しげにそう告げる政影に、それも分かる気がする……と、まりあも同調する。
不遜で、自信過剰で、唯我独尊な印象を持つ桔嘉だが、自分を顧みない危うさもある。
桔嘉と初めて対面した時、まりあに対して「愛人にしてやる」と迫ったその目には、性欲よりも悲しみが浮かんでいた。
「だから俺たちは、裏から手を回してアイツを守り続けてるんだ。……あの無鉄砲なお人好しを、この国なんかに奪われねぇためにな」
大切な桔嘉を支えたい。その強い思いが、政影を裏社会へと導いた。
けれども、これは本当に「悪」なのか。まりあは自問する。
法の中では裁けない者を裁き、法の中へ入れない者を助ける。
理の外で暗躍する存在。―――それが、必要悪。
「誠史郎のヤツも同じさ。俺とアイツは考え方もやり口も全然違う。正直言って水と油だが……」
ふっと優しい笑みを浮かべ、政影は最後に付け加えた。
「俺も誠史郎も、あの理想の高い大バカ野郎が大好きなんだよ」




