まりあ、本領を発揮する
ノアの謎の人脈を使って大倭邸の屋敷にメイドとして潜入したまりあは、早速、屋敷中を騒然とさせていた。
「あれって、皇財閥の……!」
「嘘でしょ? 何で大財閥のご令嬢が、こんな場所で給仕なんか……!?」
「政略結婚でも目論んで、桔嘉様に取り入るつもりなんじゃ……?」
使用人たちの視線を一身に集め、後ろ指を刺されまくるまりあだったが、そんな好奇の視線には慣れたものだといわんばかりに黙々と、けれども完璧に仕事をこなしていた。
「嘘!? あれだけあった洗濯物がもう全部片づけられてる!」
「ねぇ見て。屋敷中の鏡が新品みたいに輝いてる……!」
「なんだこの繊細な飴細工は……!? 見ろ、パティシエが自信を無くして泣いてるぞ!」
掃除、炊事、洗濯……そのすべてにおいて、まりあの動きには無駄がなく、更にそのクオリティの高さに心が折れる者まで出現していた。
「皇財閥のお嬢様なのに、家事なんてできるのね……!」
ある者が好奇心を堪えきれずにまりあにそう告げると、
「家事は生活の基本だと、父から徹底的に身につけさせられましたので……」
まりあは照れくさそうに謙遜する。
「とはいえ、まだここでの流儀は分からない新人の身です。ぜひ、色々教えてください」
奢らず、偉ぶらず、常に周囲への敬意と配慮を忘れない。
そんなまりあの立ち振る舞いに、最初は戸惑いや警戒心を抱いていた使用人たちも、心が傾き始めていく。
そして、そんなまりあの活躍の様子は、すでに屋敷の主の耳にも届いていた。
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「は? 皇財閥の令嬢が、住み込みのメイドに……?」
部下からの報告に怪訝な声を挙げたのは、この国の皇太子・大倭桔嘉。
鋭い目元と強気な面差しが印象的な桔嘉は、尊大な口ぶりで部下をじろりと睨みつけ、圧をかける。
「つか、そもそもなんで雇ってんだよ。おかしいだろ、普通に考えて」
「それが……正式な採用の書類が申請を通っていまして……」
「……チッ。『帝王眼』でも使われたか」
イライラとした態度でそう吐き捨てた桔嘉は、手にしていたペンを乱暴に置き、席を立つ。
どうやら、皇太子といえども「皇家の令嬢」を侮る気はないらしい。
もっとも、まりあを潜入させたのはノアの手腕に他ならないが、それは大倭側の人間の知るところではない。
「ったく……俺が直接追い出してやる」
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一方。
ひと通りの仕事を終えて休憩室に移動したまりあは、使用人たちに囲まれてすっかり人気者になっていた。
「まりあちゃんってば、私が困ってることにすぐ気付いて助けに来てくれるんだもん!」
「たまたま私が一番近くにいて、手が空いていただけです」
「そんなに細いのに、重い荷物も軽々運んじゃうし」
「父の勧めで古武術の心得があるんです。日常生活でも色々と応用が利くんですよ」
使用人たちの賛辞に対してはにかみながら答えるまりあに、使用人たちが感嘆の声を漏らす。
「いやぁ、本当に聞けば聞くほど凄いお父様だよなぁ。皇財閥をのし上げた人は考え方が違うんだな」
「ちゃんとしてるっていうか……優秀な人って、やっぱり子育ても上手なのねぇ」
「ありがとうございます。父を褒めてもらえるのは、とっても嬉しいです」
そう言って心から嬉しそうに微笑むまりあに、使用人たちも目じりを下げる。
気品のある所作と、柔らかな物腰、そして飾らない素直な言葉たちが、皆の心をつかんでいた。
しかし、穏やかな時間は、唐突に終わりを告げる。
「おい。何を絆されてんだよ、お前たち……」
怒気を孕んだ、威圧するような低い声にまりあが顔を上げる。
そこに立っていたのは、この国の皇太子―――大倭桔嘉その人だった。
「何を企んでいやがる、皇まりあ」
まりあが立ち上がると、すかさず桔嘉がまりあに詰め寄る。
まりあを冷たく見下ろすその赤い双眸には、猜疑と苛立ちが燃えていた。
「皇財閥は今、財政難だって話だ。俺に取り入って来いとでも父親に言われたか?」
まりあの顎を掬い、顔を近づけて挑発の言葉を吐く桔嘉。
けれども、まりあの表情は揺るがない。
「父は他人を利用するようなことはしません。私は自分の意思でここに来ました」
桔嘉の迫力に臆することなく、真っすぐに目を見て凛とした態度を返すまりあ。
桔嘉はまりあのことを「大人しいだけの気弱な令嬢」だと侮っていたようで、まりあを映す瞳が驚いたように見開かれる。
「あなたを、私のものにするために」
だが、続くまりあの言葉に、その瞳に陰りができてしまった。
「てめぇも結局は、大倭の権力目当てなんじゃねぇか……」
その声はまりあには聞こえなかったが、彼の心の奥に何らかの棘が刺さったのは確かだった。
「まぁいい。気の強い女は嫌いじゃねぇぜ? ……来いよ、相手してやる」
そう言うなり、桔嘉はまりあの手を強引に掴んで廊下を進み、奥の部屋へと引きずり込む。
バタン、と扉が乱暴に閉じられ、無駄のない動作で即座に鍵が掛けられた。
壁際へと押し込まれたまりあの顔のすぐ横に桔嘉の片腕が伸び、逃げ場をなくしたまりあが動くよりも早く、
「愛人としてなら、可愛がってやるよ」
顎に手を添えられ、唇が近づいてくる。
……が、怯むことなく、むしろ真っすぐに桔嘉の目を見据え続けるまりあに、さすがに戸惑う桔嘉。
迷いからか、桔嘉の腕から力が抜けた一瞬の隙をついて、まりあは桔嘉の肩と腰に手を当て、するりと身をひねって抜け出す。そして反転、一瞬で体勢を逆転させた。
「は? おま、マジかよ……?」
突然立場を逆転させられたことと、予想外に洗練されたまりあの身のこなしに動揺し、桔嘉の思考と動きが鈍る。
その隙にまりあは、桔嘉の両手首を掴んでそれぞれ壁へと押さえつけ、反撃を封じた。
(さて、ここからどうしよう……?)
せっかく得たこのアドバンテージをどうにか有効活用しようと思考をフル回転するまりあの頭に、ふとノアの恋愛アドバイスが蘇る。
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それは、皇家で作戦会議をしているときの会話だった。
まりあの淹れた紅茶を飲んでいたノアが突然、
「ねぇまりあ、気づいてた? 今、アタシとアナタはずっと同じタイミングで紅茶に口をつけているの」
と、尋ねてきた。
質問の意図を図りかねたまりあが首を傾げると、
「これはね、ミラーリングって言って、相手の仕草や動きを真似することで、相手から親しみや信頼感を得られるようになる心理テクよ♡ ターゲットと接近したら、まずは相手をよく観察して、意識して動きを合わせてみて♡」
と教えてくれたのだった。
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(そうだ、ミラーリング……!)
意識を目の前の桔嘉に戻し、真っすぐに向き直るまりあ。
そして桔嘉にされたように顎を掬い、キスしそうなくらいに顔を近づけたまりあは、
「愛人程度では困ります。私の虜になってもらわないと」
と、口説いてみせた。
その姿は乙女ゲームや少女漫画に出てくるヒーローのようだが、ミラーリングの使い方はそうじゃない。ノアからもお叱りの声聞こえてきそうだ。
だが、本人の中では大成功を収めたらしく、桔嘉を解放してぺこりと頭を下げる。
「今後とも末永くよろしくお願いしますね、桔嘉さん」
そして満足げに微笑むと、それだけを言い残してスタスタと部屋を出て行ってしまった。
―――バタン。
ドアが閉まる音が静かに響くのを聞いた後、桔嘉はその場にズルズルとへたり込み、熱の残る手首をさする。
「変な女……。つか、力強すぎんだろ、アイツ」
そう呟く桔嘉の耳は、不自然なほどに赤く染まっていた。