まりあ、すべてを失う
―――どうして、こんなことになってしまったのだろう……?
見知らぬ黒服の男たちに突然拘束された父親の姿を呆然と眺めながら、皇まりあは心の中で問い掛ける。
優しく誠実で愛に溢れた父。そんな父と二人、ささやかで幸せな毎日を過ごしていただけなのに。
どうして父は、怪しげな男たちに捕らえられているのだろう。
「お父さんを離してっ……!」
「まりあ、動くな! 私は大丈夫だから、抵抗するんじゃないぞ……!」
父の下へと駆け寄ろうと、腕を掴んで拘束する男を力いっぱい押しのける。
けれども、男が腕を掴む手に力を込めたことに気付いた父に、止められてしまった。
「でも、お父さんがっ……!」
「今は耐えるんだ、まりあ。お前が怪我をする方が、私は悲しい」
「……分かり、ました」
自分こそ、このまま連れ去られてしまったらどんな酷い目に遭うかも分からないのに、父はいつだってまりあを優先する。
そんな家族思いの優しい人が、いったい彼らに何をしたというのだろう?
「聞いてくれ。私は騙されただけなんだ、あの男に……!」
黒服の男たちに向き直り、取り押さえられながらも必死に訴える父。
けれども男たちは父の言葉になど耳を貸さず、あの優しい人を乱暴に黒塗りの高級車へと押し込んでしまった。
(騙されたって、誰に? いったいお父さんの身に何が起きたの……?)
何も知らず、肝心な時にただ立ち尽くすことしかできない悔しさに、心の奥底から怒りが込み上げる。
―――絶対に、許せない。
優しい父を騙し、奪った相手が。
何よりも、無力な自分自身が。
(お父さんは、私が必ず助け出す……!)
そう強く決意した瞬間、まりあの両瞳に鋭い光が灯る。
「っ……熱、い」
眼球が熱に包まれ、周囲の景色が歪むと同時に、心の奥深くに眠っていた「何か」が放出されるのを感じる。
(もう、誰にも奪わせない……絶対に!)
まりあの纏う空気が一変し、まりあの視線を受けた黒服の男が思考を停止させる。
「離して」
その一言で、黒服の男がまりあから手を離し、周囲にいた黒服の男たちも一斉に膝をついて従順の姿勢を取る。
―――『帝王眼』覚醒の瞬間だった。
「アラアラ♡ まさか、こんなに早く『帝王眼』をモノにするなんてね。……しかも、たった一言でこーんなに大勢を従えちゃうとはねぇ♡」
パチパチと拍手をしながら、突然まりあの前に現れたのは、長身の美女らしき人物。……らしき、というのは、女装した男性のようにも見えるからだ。
「さ、あなたたち、用が済んだのならとっとと行きなさい」
美女(仮)がハスキーな声で言葉を発すると、黒服の男たちはその言葉に従い、無言でどこかへ去っていってしまった。
……この美女(仮)が、まりあの父を拐った犯人なのだろうか?
「あなたがこの人たちのリーダーなんですか? 父をどこへ連れて行ったんです!?」
「やぁねぇ。アタシは通りすがりの、ただの綺麗なおねぇさんよ♡」
強い口調で問いただすまりあに、濃いアイシャドウと長い睫毛に彩られた瞼でウィンクを飛ばし、無関係だと述べる美女(仮)。
格好やメイクは女性的だが、身長は180cmはあるだろうか……体格もかなりガッシリとしていて、女性というには声色も低い。
だがまぁ、本人が「おねぇさん」というなら美女でいいのだろう。
性別はさておき、口元をヴェールで覆い、顔の半分を隠した怪しい人物を疑わない理由はない。
「だったら、なぜあの人たちはあなたの言葉に従ったんですか?」
「アタシもアナタと同じで『帝王眼』を使えるからよ。彼らは目的を果たし終わっていて、これ以上この場に用はなかったみたいだし、抵抗する気もなかったんでしょうね♡」
『帝王眼』を使用したのだと言われれば、美女の言葉にも辻褄があう。
『帝王眼』とは、屈した相手に「絶対服従」の本能を抱かせることができる特殊能力だ。使用するにはリスクもあり、状況によって精度も左右される、都合のいい力という訳ではないのだが、突然現れた奇妙な格好の美女に不意打ちで使用されれば、あれくらいの命令は聞かされてしまうだろう。抵抗する気がない(むしろ早く帰りたいとさえ思っていた)なら尚更だ。
……とはいえ、だからと言って信用できるかと聞かれたら、それは別問題だ。
「んもう、そんな怖い顔で睨まないで。アタシはアナタの味方よ、まりあ♡」
「私を知っているんですか……?」
「そうよ。アタシはノア。よろしくね♡」
差し出されたノアの右手は取らず、まりあは無言でヴェールに半分隠されたノアの整った顔を凝視する。
しばらく記憶を探ってみたが、残念ながらノアとの面識の記憶はなかった。
(記憶力には自信がある方なんだけどな……)
とはいえ、まりあは皇財閥の令嬢だ。面識はなくとも、一方的にまりあを知る人物も少なくない。
少し前にも、まりあが自分の恋人だという妄想に取り憑かれた男が訪ねてきたばかりだ。
「アナタのことならなんだって知ってるわ♡ 名前も、今の状況も、どうすればお父さんを助け出せるかも」
「っお父さんを助けられるですか!?」
「君のことはなんだって知ってるよ」とは、まりあに邪な感情を抱く男たちが挨拶のように嘯いてきた言葉ではあるが、父のこととなると話は別だ。
ノアの思いがけない言葉に、思わず差し出された右手に縋り付いた。
―――どんなに怪しい人だっていい。
お父さんに会えるのなら、詐欺師だろうが悪人だろうが関係ない。悪魔にだって従ってもいい。
そう思える程に17歳の少女にとって、父は偉大で、唯一だった。
「それじゃあ、落ち着いて聞いてね、まりあ。……アナタのお父様は今、危険な状態にあるわ」
縋り付くような視線を向けるまりあの手を優しく握り返し、ノアがゆっくりと父の現状を語り始める。
「お父様を連れ去った車についていたマーク、あれはアララート国の王家の紋章よ」
「アララート国!? どうして、そんな大国が……」
アララート国とは、まりあたちの暮らす国の隣国にある、世界最大の超大国だ。
そんな国の王家の人間からしたら、皇財閥などせいぜい大企業の中の一つ程度のものだろう。父を攫ってどうしようというのだろうか。
「実はね、アナタのお父様はアララート国王に会いに来ていたの。どんな繋がりがあってどんな話をしていたかは末端のアタシには分からないけど、何らかの交渉が決裂したことは確かね」
神妙な面持ちでそう語るノア。どうやら彼女はアララート王家に関わりがあるらしい。
熱帯の気候であるアララート国にはノアのように褐色肌の国民が多く、言われてみれば瞳もアララート人に多いエメラルド色だ。
「アタシには何の力もないけれど、アナタのお父様はそんなアタシに対しても、平等で優しかったわ……」
記憶の中の父を思い出しているのか、どこか嬉しそうに目を伏せるノア。
その表情は、父と関わった者たちがよく見せる忠信の表情で、まりあはその表情だけでノアを信じられる気がした。
「アタシも、アナタのお父様を助けたいわ! ……でも、アタシにはアナタをサポートすることしかできない」
そう言って、助けを求めるように、まりあの手を握る手に力を込めるノア。
ノアはきっと、こうなることが分かっていて、準備を進めてくれていたのだろう。
「方法を教えてください、ノア。お父さんは、私が助け出します」
「ほんと、強い子ね。さすがはあのお父様の娘さんだわ」
迷いなく父を助けると宣言をするまりあに、ノアが安心したように優しく微笑む。
けれどもすぐに真剣な表情へと戻り、まりあにとって残酷な真実を告げた。
「アララート国王と交渉するには、当然、国王に対抗しうる権力が必要になるわ」
「そんなっ……!」
そんな強大な国の国王に対抗しうる権力など、たかが小国の財閥の娘が持ち合わせているはずもない。
思っていたよりも絶望的な情況に、まりあが瞳を曇らせると、震える肩をノアの手が包んだ。
「大丈夫、そんな顔しないで。作戦もあるし、アタシがちゃーんとサポートするから♡」
自身を王家の末端の身分だと言いながらも、何故か自信たっぷりなノア。
根拠のない慰めなどなんの安心にもならないが、ノアのその明るさには救われる。
「ちょっと長い話になるし、中でお茶でもしながらゆっくり話ましょう?」
「あ……そうですね。すみません、客人に立ち話をさせてしまって。すぐにお茶を淹れます」
一刻も早く父を助けに行きたい気持ちはあるまりあだが、相手がアララート国王であれば話は別だ。
皇財閥の令嬢が下手に殴り込みにでも行ったら、国家問題……否、下手したら国同士の戦争にもなりかねない。ただの皇家の娘であるまりあに行使できる権力など何も無いのだが、肩書きとは面倒なものだ。
とはいえ、たとえ皇家令嬢の肩書きがなかったとしても、無策で王家に殴り込みに行ったところで、門前払いな上に不敬罪で投獄されておしまいだ。
ならばここはじっくりと腰を据えて、紅茶でも飲みながらノアの作戦とやらを聞くのが得策である。
「客人って……突然押し掛けたアタシのことも、お客様扱いしてくれちゃうのね」
まりあの打算を知ってか知らずか、どこか嬉しそうに呟くノア。
「そういうところ、お父様にそっくりだわ♡」
■■■
「ん〜……いい匂い♡ 流石はセレブ、いい紅茶を飲んでるのね」
リビングのソファに腰掛け、まりあの淹れた紅茶の香りを楽しむノア。
うっとりとした表情で紅茶を口に含むと、
「え、うっま! えっ……? これ、アナタが淹れたのよね……!?」
紅茶を吐き出さんばかりの勢いで驚愕に目を見開いた。
紅茶を淹れた当の本人はというと、客人に振る舞うたびに同じような反応をされるため、
「紅茶は好きでよく淹れるんです。お口にあってよかった」
称賛と受け取り、ニコニコと嬉しそうに微笑んでいる。
紅茶は淹れ方によって味が変わるというが「好きでよく淹れる」程度でこんなプロ顔負けの味が出せるだろうか……?
「ゴホン……。さて、美味しい紅茶で喉も潤ったことだし、そろそろ本題に入りましょうか」
「!」
咳払いをして気を取り直したノアの言葉に、まりあも背筋を伸ばす。
その分かりやすく期待を示した反応は、尻尾をブンブンと振る小型犬を彷彿とさせた。
(もう、可愛い顔で見てくれちゃって……。さすがにちょっと懐きすぎじゃないかしら)
ノアと父の関わりを知ったことで心を許しつつあるのだろう。
まりあの態度と表情が、どんどんと軟化していくのが手に取るように感じ取れる。
好意を向けられて悪い気はしないが、ここまで素直だと少し心配にはなる。
(アタシの話が全部嘘で、皇財閥を乗っ取ろうとする悪者だったらどうするつもりなのかしら……?)
ノアの懸念は最もだが、まりあとて伊達に皇財閥の令嬢を17年も務めていない。
今はまだ世間知らずな箱入り娘でしかないが、皇財閥を継ぐために必要な「上に立つ者」の資質は、望まずとも養われてきた。本人に自覚はないが「悪意」と「敵意」に対する嗅覚は並ではない。
(ま、相手に「力になってあげたい」と思わせる健気さも、武器ではあるわね……)
思わず手を差し伸べてあげたくなる魅力がまりあにはあると、ノアは思う。
それはきっと、あの強く優しい父親に愛されて育ったまりあの真っ直ぐな心根に起因するのだろう。
「それじゃあ、まず最初に聞いておくけれど……、アララート国王に挑むんですもの。お父様を救い出すのは簡単じゃないわ。アナタに、その覚悟はあるかしら?」
「もちろんです! 父を助けるためなら、どんなことだってします」
ノアの問いかけに、愚問だとばかりに、まりあが力強く言葉を返す。
強い決意の宿った、まりあのまっすぐな瞳に満足げに微笑んだノアは、
「それじゃあアナタには、これから5人のエリートを恋に落としてもらうわ♡」
と、予想外すぎる戦略を告げたのだった。




