2-08 白魔導士エレノア
修行中の白魔導士エレノアは旅先で色んな事に遭遇します
この湿原にはどんな旅人も立ち入る事は無かった。毒性の霧が満ち瘴気を生み出す水面に人々は成す術が無かったからだ。
遥か昔、女神の教えに反対した教えを信じた者達が追い詰められてここを抜けようとしたが……その後の行方は歴史に記されていないという。
◇◇◇
十六歳くらいの少女が激しい雨に打たれながら走っていた。上質なミルクに蜂蜜を溶かした様な色合いの髪を盛大に濡らして頬に張りつけ、快活な気力に溢れた碧眼で雨幕の先を片目で見据え。どんな困難ですら全力ではね退けて進むと言わんばかりにまっすぐに前を向いた見る者全てを惹き付ける魅力に溢れている表情を雨ざらしにしながらひた走る。そんな彼女に良く似合う純白のローブは雨を吸い込んでぴったりと重く身体に張りついていて、ブーツまで雨水が入りじゃぼじゃぼと水音を立てていた。
彼女は何かを探す様に、視線を左右に揺らして周囲を見回している。もっともこの豪雨だ。彼女が何を探しているのかは誰にでも容易に予想出来る。その証拠に彼女は巨木を見つけると歓喜の顔に変わり、水はねも気にせずぱしゃぱしゃと根元を目指して一直線に駆け寄った。
「……ふぅ。助かりました」
生い茂る枝が傘になり雨足が和らぎ、彼女は顔を拭い一息ついた。とても良い声だった。森の深奥にある泉を彷彿とさせる様な控えめで優しい声音で、彼女の精神性を垣間見れる声だ。
「ありがとうございます。しばらくお世話になりますね」
巨木の幹を滑らかに水滴が滴る手のひらで優しく撫でて。雨宿りのお礼を述べる彼女。
「雨はいつ止むのでしょうか? 『異なる世界、異なる者よ。互いの内を互いの言葉で。『重なる世界』』」
彼女が呪文を唱えた刹那。周囲から魔力達が彼女の元へと集束していき、淡い水色の燐光となって降り注ぐ。
これは水の魔力。今降っている豪雨に融合している魔力が彼女の呪文に応えてくれているのだ。ふわりと手のひらに乗った魔力達と静かに思念で語り合う彼女。
「……そう。しばらくは止まないのですね。ならまだ雨宿りを続けますね」
彼女は「ありがとうございます」と魔力に返し、んーっと伸びをして。次に浄化魔法の呪文を唱えて衣服や身体の水分を分離させ乾燥する。白魔法の浄化魔法はこうした使い方も出来るのだ。
そう。彼女は白魔導士。名前は『エレノア』。今は旅をしながら修行中である。
「……」
双眸を閉じて、しばし水の魔力達の声に耳を傾け色んな情報を受け取るエレノア。例えば雲はどう動くのかとか雨が止むのはいつ頃かとか、付近に何か在るのかとかだ。
雨の方はもう少ししたら雲がこの空から西に動いて止みそうだと水の魔力達がエレノアの周りに集い。旋回しながら教えてくれた。それならちょっと雨宿りして出発すれば良いかなと彼女は判断する。
そしてもう一人。木陰に誰か居るという声も聞こえた。
「え?」
瞳をぱちくりとして。エレノアは慌てて辺りを見回した。何故ならさっきまで誰の気配もしなかったからだ。
居た。魔力達の声を頼りに巨木の裏に回るとそこに小さな少年が踞ってかたかたと震えていた。
「坊や、大丈夫でしょうか?」
震える少年に。同じ目線まで屈んで語りかけるエレノア。
「お姉ちゃんだあれ?」
少年は顔を上げた。十歳くらいのまだ幼い顔立ちの少年で首から提げた『八方向に輝く一等星の『木製』ペンダント』が眼を引く。
「旅の白魔導士、エレノアです。君は大丈夫ですか? どこか怪我とかしたり病気だったりしてないですか?」
心配そうに少年を覗き込むエレノア。それに呼応する様に光の粒みたいな魔力達もふわりと集い少年を優しく包み。身体にまとわりついている不快な湿気を乾かしてあげようとする。
(――あれ?)
その時に。ふと奇妙なものを感じたと言いたげに、顔をしかめるエレノア。
「僕は大丈夫だよお姉ちゃん。それより早く逝かないと……」
立ち上がりながらよろけ、少年は片手を地面に着いた。
「全然大丈夫じゃないじゃないですか。ほら何が有ったのですか? ちょっと雨足が和らぐまでお話しましょう?」
エレノアは少年を起こして話を促す。
「聞いてくれる……の?」
「それが白魔導士の仕事ですだからね。ね? お姉ちゃんに話してみて下さい」
エレノアの言葉を受けて、少年は雨足を伴奏に「実は……」とゆっくり口を開き始めた。
◇◇◇
「僕らはこの先にある湿原を越えようとしていたんだ」
少し落ち着いてきた雨足の中で少年はそう答えた。
「湿原を?」
エレノアは眉をひそめて周囲を廻る魔力達を見つめた。ここに居る魔力達が告げるのは少年の発言と全く同じ。間違いなく巨大な湿原が在る、というものだ。
……ただ、
「あの。その湿原、有毒な霧や瘴気が満ちているらしいですけど……本当にそこを皆で抜けようとしたのですか?」
ただ、そう。魔力達が教えてくれた事の中に危険過ぎる濃霧や瘴気が常に充満しているらしい、というのがエレノアにとって気になったのだ。こんな立ち入り禁止の場所を抜ける危険を犯す必要性は無い。
「本当だよ! 僕らは『フォルスタァ様』の教えを信じていたら国を追われてここを越えるしかなかったんだ!!」
木製ペンダントを手が白くなるまで握り必死に語る少年と、
「『あの』フォルスタァ教団が、ですか……?」
小首を捻り、不思議そうに呟くエレノア。少年の血を吐くような必死の語りとエレノアの疑問の返し。何故だろう、二人の会話温度はどうにも致命的に噛み合っていない。
「でも皆、あの湿原で倒れて……僕は逝かないと! 皆を助けるんだ!!」
立ち上がろうとして、
「うわ……!」
ふらついて片手を地面に着く少年。
「やっぱり大丈夫じゃないですね。まだあんまり体力も無いじゃないですか」
そんな少年を起こして座らせるエレノアだ。
「ねぇ君。私も着いていって良いかしら?」
そんな少年に。エレノアは微笑みを浮かべ提案した。
「え? でもあそこは危険だよ?」
「私は白魔導士ですよ。困っている人を放って置けないじゃないですか? 危険なら尚更ですよ」
少年に対し手を差し伸べながら答えるエレノアだ。
「なら……お願いしようかな? よろしくエレノアさん」
そっと差し伸べられた手を握りながら返す少年に、
「はい、よろしくお願いしますね」
春先の陽光みたいな笑顔を浮かべるエレノアだった。
◇◇◇
雨が弱る前に、二人はその湿原を目指して進んでいた。エレノアは少年の手を引きながらぬかるみを避けて。
「この先に湿原が在るのね。もう瘴気や有毒な霧が付近に漂って来ているわ」
ぴたり。足を止めたエレノアの双眸が細くなる。湿原の方向からそれらが漏れ出して来る気配を感じたからだ。
「穢れよ消えよ、ここにアブサラストの祝福を。『平原の風』」
エレノアは静かに浄化の呪文を唱えた。浄化呪文はさざ波の様に虚空に満ちた有毒霧を揺らがせて、辺り一面を無毒化してゆく。
しかしそれも一瞬だ。すぐに湿原から新しい有毒の霧が魔の手を伸ばしてくる。
「元々が毒性の湿原だから仕方がないですね」
エレノアは嘆息するとまた浄化呪文を唱えて無毒化を図る。
「私が浄化呪文を唱え続けて無毒化していきますから少しずつ進みましょう。離れないで下さいね」
「うん判ったよエレノアお姉ちゃ――」
少年が手を伸ばした刹那。霧の彼方から影が一つ飛びかかって来た。
「危ないです!!」
エレノアは少年に覆い被さる様に伏せると影を躱した。そのまま影は彼女達の上を越えてゆく。
「魔獣も出現している様ですね」
鋭い眼差しの顔を上げるエレノア。完全に臨戦態勢だ。彼女の見据える先には、ぼろぼろで汚ならしい暗褐色の衣を被った人形がゆらゆらと立っていた。
「私が、相手ですよ」
エレノアは魔力を集束させて、呪文詠唱の用意をした。