2-23 ポメガ騎士団長は番の子爵令嬢を離したくない
ポメガバース。それは疲れやストレスが極度に溜まったり、寂しさがピークに達するとポメラニアンになってしまい、甘やかされないと元に戻れない人間のことである。
そんな稀有な特徴を持ちながらも抑制剤で抑え込んで来た、ルコント侯爵令息でもあり、この国の第三騎士団長でもあるエクトル・ド・ルコントは、ある日絶望を突き付けられる。
抑制剤の使い過ぎで、このままでは不能になってしまうと言うのだ。
貴族令息らしくない粗野で筋肉質な見た目で未だ婚約者もいない。にもかかわらずルコント家の後継を設けなければならない彼にとって、それは死活問題であった。
仕方なく抑制剤の使用を控えてみたものの、騎士団長という職務柄疲れやストレスとは切り離せない関係で。
結果頻繁にポメ化してしまう彼が出会ったのは、騎士団の事務員をしている一人の令嬢だった。
ある日、その令嬢にポメガであることがバレてしまって……?!
あ……今日も眉間に渓谷ができてる。
お使いの帰り、自分の職場へと戻る途中ですれ違ったのは、我が国が誇る第三騎士団の騎士団長であるエクトル様と、副騎士団長のクロード様だった。
「ねねっ! 見て見てリアーヌ! 今日もクロードさまは見目麗しいわねぇ! 銀の髪に蒼い瞳! 氷の貴公子と名高いだけあるわぁ!」
一緒にお使いに出ていた同僚の子が興奮したように囁いた。
「……そうね」
実際のところ、エクトル団長を観察するのに忙しかったけど、同意を返さないとクロード様の魅力とやらを延々と語られることはわかっていたので、生返事をする。
その瞬間、エクトル団長の視線がこちらを向いた。
「ひっ!?」
エクトル団長の不機嫌そうな表情に、同僚が恐怖の悲鳴を上げる。
……確かに、厳めしいお顔だけど、そんなに怯えるほどかしら?
様子を窺うようにこちらをじっと見ているエクトル団長を、やましいことなどありませんよ~って顔をして見つめ返す。
……ますます眉間の渓谷が深くなった。なんで? やましいこと、してないんだけどなぁ。
視線を外すタイミングを完全に外したわたし達はしばらく見つめ合ってしまう。
それはこちらの状況に気づいたクロード様が思い切りエクトル団長の背中を叩くまで続いたのだった。
「あー! 怖かったぁ! エクトル団長ってホント恐ろしい方よね~」
エクトル団長達の前からそそくさと退散して、事務室へ向かう道すがら。
同僚の子の呟きにやっぱり首を傾げてしまう。
「そうかなぁ?」
「そうよっ! エクトル団長のあの黒い瞳に睨まれたら石になっちゃうって噂じゃないっ!?」
「そんなまさか……」
「噂よ、う・わ・さっ! それくらい睨まれたら動けなくなる程怖いってことっ!」
別に意味は分かるけど……。でもエクトル団長の黒い瞳、個人的には好きなんだけどなぁ。
いつも濡れたような輝きを放ってて、艶めいている。
鍛錬とかでは確かに厳しい眼差しだけど、それは騎士の皆さんが不要な怪我をしないように見守ってるだけだろうし。
クロード様と手合わせの時は心底楽しんでるのか、瞳がキラキラしていて……とてもきれいだ。
「まぁ、騎士団長は恐れられてた方がいいもんねー。そう考えるとエクトル団長って団長に相応しいのかしらねー」
「恐れられてるかどうかはともかく、エクトル団長は団長の地位にとても相応しい方だと思うけど……」
「あー、はいはい。リアーヌはエクトル団長推しってことでっ! ねっ!
わたしの推しはもちろんクロード様だけどっ!」
「推し……ねぇ」
持っていた荷物を持ち直しながら首を傾げる。
まぁ、エクトル団長は侯爵家の方だし、好意を寄せても手の届かない方という意味では推しなのかもしれない。
貧乏子爵家のわたしからすれば遠い遠い存在だ。
「そういえばさ、エクトル団長と魔術師塔とのウワサ、知ってる?」
さっきまでテンション高くクロード様について語っていた彼女が、急に声を押し殺して告げてきた。
「魔術師塔? エクトル団長は確か魔術が使えないって……」
「そう! なのに最近魔術師塔に頻繁に出入りしてるんだって! 噂ではなんかヤバいクスリの作成を、魔術師達を脅してやらせてるとか……」
ひそひそと語られる言葉が、わたしの耳を擽る。
「……さすがに、騎士団長が魔術師を脅すようなこと、ないでしょ?」
「そうよねぇ。騎士団と魔術師団って、仲が良いわけじゃないけど、別になんんかの確執がある訳でもないもんねぇ」
やれやれと呟く彼女の言葉にうなずきを返しながら、魔術師塔に通うエクトル団長のことが少しだけ気になった。
* * *
「うわっ! まてっ! コラっ!」
エクトル団長と魔術師塔の噂を聞いてから三日後。
事務室から同じ騎士団の敷地内にある女子寮へと帰る道すがら、そんな慌てた声が聞こえてきた。
「……どうかされま……きゃっ!」
物陰から何やら黒い毛玉が飛び出してきて、わたしの腕の中へと飛び込んできた。
「え? 何? ……子犬?」
モフモフと胸元で蠢くのは、真っ黒な瞳と真っ黒な体毛、口周りの毛だけクルリと白い、一匹の子犬だった。
チロリと口元からピンクの舌を覗かせて、真っ黒な瞳を濡れたような艶で輝かせてこっちを見上げるモフモフは、控えめに言って可愛い。
「可愛いワンちゃん、どこから……」
「コラッ! どこ行った!?」
「……クロード副騎士団長?」
子犬が飛び出してきた物陰から姿を現したのは、いつも整えてる銀髪を乱した副騎士団長のクロード様だった。
「あ、君は……?!」
わたしを見て驚いたような声を上げるクロード様。
え? 不審者じゃありませんよわたし?
今日も書類をお届けに伺いましたよね?
ちゃんとした騎士団の事務員ですよ?
「あー、リアーヌ嬢。こっちに黒い犬が来なかっ……お前何してるんだっ!?」
何故かはわからないが、少しだけ気まずげなクロード様が探しているのはたぶんこの子だろう。
クロード様もわたしの腕の中にいる存在に気づいたのだろうけど、いつになく慌てている。
「この子、クロード副団長のお家の子なんですか?」
子犬の小さな頭を撫でてやると、気持ちよさそうにわたしの胸の辺りに顔を埋めてくる。
フンフンとした小さな鼻息が、布越しにほわりと確かな温もりを伝えてきた。
その様子を何故か苦虫を噛み潰したような表情で見てるクロード様。
……この子に逃げられたみたいだから、赤の他人のわたしに懐いてるように見えるのが嬉しくないのかしら?
そんな事を思いながら首を傾げてると、ハッと何かに気づいたようにクロード様が慌ててわたしの方に手を伸ばしてきた。
「す、すまない! そ、その犬は……そう! 団長室で最近飼い始めた子で……!
は、早く団長室に戻してやりたいんだが……」
何故かしもろもどろなクロード様を訝しく思いながらも、クロード様の腕に子犬を渡す。
きゅうんと名残惜しげに鼻を鳴らすその子の様子に、もっと抱きしめてあげたくなったがぐっと我慢する。
何せ団長室の子、つまりこの子の飼い主はエクトル様なのだ。
侯爵家の方のペットなのだから、何かがあってはいけない。
……名残惜しいけど! あのふわふわのモフモフをもっと撫でたかったけど!
内心の寂しさを抑え、去っていくクロード様と黒い子犬を見送ったのだった。
* * *
「……あら?」
いつも通り各部署へ書類を届けるお使いに出た帰りにそれは聞こえてきた。
ちょうど裏庭の雑木林に差し掛かる辺り、まだらに植えてある木々の向こうから聞こえてきたのは、くぅんくぅんと寂しげな犬の鳴き声だった。
「……もしかして?」
下草を踏み締め、雑木林に足を踏み入れる。
しばらく進んだ茂みの影に居たのは、やっぱりあの子犬だった。
「また脱走して迷子になっちゃったの?」
しゃがみ込んで手を伸ばせば、ぴょーんと黒い毛玉が飛び込んできて、思わず尻餅をついてしまった。
そんなわたしの状況はお構いなしと言わんばかりに、小さな舌がわたしの顔中をぺろぺろと舐めていく。
「こぉら。飛び込んできたら危ないでしょう?」
わたしの顔、特に口周りをべしょべしょにした後、子犬はわたしの膝の上に乗って黒い瞳をキラキラさせながら見上げてきた。
それがまるで撫でてって言ってるようで……。
「……ちょっとだけ、良いかしら?」
後でちゃんと団長室に届けますから……と心の中で言い訳して、黒いモフモフに指を伸ばす。
黒い毛並みはやっぱりふわふわで、ちゃんとお手入れされてるのか毛玉の一つもない。
モフモフと顎の下を撫でてやると、気持ちよさそうにお腹を見せて寝転がってしまった。
「もう……そんな無防備だとこうされちゃうんだからね?」
向こうから見せてきたのを良いことに遠慮なく脇の辺りを撫でさする。
気持ちいいのか、半開きになった口元からピンクの舌がだらんと覗いていた。
「も〜。あなた、ホントにモフモフで可愛い!
それにしてもこの真っ黒な毛も、真っ黒な瞳も……エクトル様にそっくりね。
きっとそっくりだと思ったどなたかがエクトル様にあなたを贈ったのかしら?
だとしたら、その方はずいぶんエクトル様のことを見てらっしゃるのね」
エクトル様にそっくりな子犬をプレゼントした人物がいるとすれば、その人はエクトル様とお親しいのだろう。
……もしかしたら女性かも知れないと、勝手に妄想して傷つく自分に自嘲する。
「ねぇ……? たまにで良いからあなたを撫でてもいい? エクトル様へのこの分不相応な気持ちがなくなるまで……」
耳の後ろを掻いてやりながらそう呟いた途端、ぽふりと白い煙が立って、黒い毛玉を隠してしまう。
そして、腕の中に確かにあったはずの温もりが消えてしまった。
「……え?」
煙越しに人影が見える。
近くに誰もいなかったはずなのに……。
「……リ、リアーヌ嬢……! これは! そのっ…!?」
煙が晴れ、そこにいたのは……。
黒い髪と目を持つ、筋骨隆々の男性。
騎士団でその組み合わせの色を持つのは一人だけだ。
「エクトルだん……って、なんで裸なんですかぁぁぁ!!」
静かだった雑木林にわたしの悲鳴が響き渡った瞬間だった。