2-20 お前の彼女、上の部屋で死んでるよ
それは一件のメールから始まった。
『お前の彼女、上の部屋で死んでるよ』という奇妙な内容で書かれたそれを受け取った綾里悠一は誰も住んでいないはずの上の部屋へと向かってしまう。
なぜか鍵がかかっていなかったこともあり、中にはいってしまうがその部屋には特に何もなかった。
しかし翌日から祐一に奇妙なことが起こり始める。
友人たちは知らないデートの話で盛り上がるし、スケジュールを表示するアプリには身に覚えのない予定が書き込まれていた。
名前も顔も知らない【彼女】に祐一の世界が汚染られていく……。
頭の上に生暖かい水滴のようなものが落ちてきて、綾里悠一のぼやけていた意識がはっきりする。
どうやら眠っていたらしい。
「起きたか?」
「おはよ」
男女の声が聞こえて来ると同時に自分の失態に気づき、思わず謝罪の言葉がでた。
「ごめん、寝てた」
自分なりの謝罪に二人は笑い声をあげる。
二人共に中学時代からの関係で、男の方が宮崎蒼汰。そして彼の恋人である藤坂紬だった。
「綾里くんのいい寝息が聞けたらよしとするよー。まぁ、昨日の夜からぶっ通しだもんねぇ」
「とはいえだ、折角の休みに三人でずっと課題やってんのはどうかと思うけれどな」
「それ言っちゃうと終わりっしょ」
紬の明るくてハスキーな声が耳に響く。普段から友人が多い陽キャな彼女らしい明るさだ。
二人は自分と同じ大学の学部に通っていて、今回は通話しつつお互いの課題やレポートをやるということで時間を割いてもらっていた。
そんな中で自分が寝落ちをしていては笑い話にすらならない。
「ほんとまじでごめん。でも時間も時間だし、そろそろ終わろっか」
悠一はモニターの端に映った時間を確認する。すっかり夜も更けてきていて、外は真っ暗だった。
「了解ー。蒼汰、またあとでね。綾里くんは風邪引かないようにねー」
と言って紬が先にチャットから抜ける。彼女の言葉からこの後の二人の行動がなんとなく想像できた。
「……そういえば、悠一。上の部屋大丈夫か?」
さっきまでとは違う声で話す蒼汰の質問に悠一は「うん」と短く返す。
先週まで親子連れが住んでいた上の部屋は子供がよく泣いたり暴れていたりするなど、振動で凄まじいことになっていたのだ。幸いなことに彼らは一週間前に引っ越してくれた。
ここにきて一ヶ月になる中、それが唯一の悩みの種だったが、解決した今となっては実に快適な部屋になっている。
「そっか、なら良かった。ってかツム待たせるのヤバいな」
「せっかくできた彼女なんだから大事にしないと。逃したらもう二度と手に入らないかも」
慌てる蒼汰に悠一は少し皮肉を込めてツッコミを入れる。
お互いに彼女という存在には縁がない人生をやってきた二人なので、こういういじりは慣れたものだ。
「お前も早く彼女見つけろよー」
蒼汰も悠一のそんな言葉に笑いながら反撃してくる。
――彼女ね。そう思いながら悠一はため息をついた。
蒼汰に紬という彼女ができたことで、自分がモテる側の人間ではないことを最近痛感しつつある。
とは言え、このまま一生彼女ができない人生というのもあまり想像はしたくなかった。
そんな意味のないことを考えていたところで、悠一のお腹から音がなる。
昨日の夜からまともな食事をしていないことを思い出し腹を擦りながら、存在もしない彼女ではなく目の前の現実である晩飯のことを考える。
コンビニで済ますかと決めようとしていた時に、PCメールのアイコンが点滅していくことに気がついた。
普段は携帯を使う以上、一部のネットサービスの登録に使うだけで広告などしか来ないものではあるが、未読が貯まるのも気になってしまう。
ソフトを開いてみると、自分が眠っている間に届いたのだろう。一件だけ未読フォルダに入っていた。なぜかあるはずの差出人がない。
その代わりにタイトルの部分には『諢帙@縺ヲ繧九h縲ら蔵闖ッ』という見たこともない文字が並んでいた。ウイルスが仕込まれているメールなのかと思ったが添付ファイルがついているわけではない。セキュリティソフトも無反応だ。
ゴクリと喉を鳴らしながら悠一はメールをクリックし開封する。
そこには短い文章でこう書かれていた。
『お前の彼女、上の部屋で死んでるよ。早くしないと大変なことになるよ。』
意味の分からない文章だった。そもそも自分に彼女なんていない。今まで女性と付き合った経験すらないのだから。無茶苦茶だ。
差出人もタイトルもおかしいし、これはただのイタズラメールに違いない。
削除しようとしたところで手の甲に水滴がつく。
悠一は水滴を眺めてから顔を上げ天井を見つめる。ふとなぜこれは落ちてきたのだろうかと疑問に思った。上の部屋には今はもう誰も居ないはずなのに。
『お前の彼女、上の部屋で死んでるよ。』
慌てて手を動かし席を立つ。
天井を眺めるが何もないようにしか見えなかった。
手の甲に鼻を近づけると、今までに嗅いだことないような奇妙な臭いがした。
コンビニで買った缶チューハイを一気に流し込んで、悠一はようやく一息をついた。一緒に買ったチキンも食べようと一口噛んだのち、あふれ出る肉汁に思わず気持ちが悪くなった。
先程見たメールを思い出してしまったからだ。
『お前の彼女、上の部屋で死んでるよ。早く見つけてやらないと大変なことになるよ。』
どう考えたってただのイタズラメールだ。
悠一はそう思い込むが、何かが引っかかってしまう。噛んでいたチキンの肉汁が口からあふれズボンへとこぼれ落ちる。
――人は死ぬと腐敗してその体液がにじみ出る。
悠一が思い出したのは蒼汰が昔何かで話した怪談のようななにか。
先程、天井から滴り落ちていたのは……。そんな考えが浮かんだところで食わていたチキンを一気に口の中に押し込んだ。味は考えたくもなかった。
気がつけば、悠一は自分の部屋のある三階ではなく上の階である四階にいた。そしてそのまま自分の住んでいる部屋の上に該当する404号室の前まで歩いて行く。
気にしすぎなのはわかっている。そこは今誰も住んでいないはずの空き部屋なのだから。
404号室の前に立って横の窓を見る。当然だが明かりは灯っていない。悠一はゆっくりとドアの前へと近づいていってインターホンに手を伸ばそうとし、指先が触れる前に動きが止まった。
――何をしてるんだ?
そう誰かに声をかけられたような気がして周りを見回す。しかし周りには誰もおらず、小さく安堵の息を吐く。
冷静に考えてみると、インターホンはまずい。万が一中に人がいたとしてどう話せば良いのかが分からない。
今日引っ越してきた人かもしれないし、不審者である可能性もある。
色々考えた結果、酔ったふりをすることを思いついた。
酔った結果三階と四階を間違えてしまった。これならばわざわざインターホンを鳴らさない事への言い訳はたつ。覚悟を決めゆっくりとドアノブへと手を伸ばしていく。
心の何処かで開かなければ良い。開かなければ諦めもつく。そんな考えが頭をよぎる。
そんな想いを裏切るかのように、ドアがゆっくりと動いていく。思わず喉が鳴る。有り得ないだろという声が心の中で響き渡る。
先に見える空間は真っ暗だが、自分の住んでいる部屋とそう変わりはないように感じた。悠一が引っ越してきた時と同じように何もないただの玄関がそこにはある。
小さいキッチン付きの通路。そして風呂とトイレにつながるはずの扉。最後に残る奥の部屋はドアで塞がっていて見られなかった。
引き返すべきだ。頭の中でそう警告が入る。どう考えてもおかしい。
自分の部屋ならば電気がついているはずなので自分が本当に階を間違えている可能性はない。だが、悠一の足は止まらなかった。
「お邪魔します」
思わずそんな声が出た。ゆっくりと奥の扉へと向かっていく。
不法侵入という罪への罪悪感と眼の前で起きていることへの恐怖で心臓が痛い。でも確認するまでは逃げるわけにもいかないと思った。
ノブを握りしめ、ゆっくりと力を入れ、静かに体でドアを押し込む。そのまま少し空いた隙間から中を覗き込む。
その先には、何もなかった。
そこは普通に家具なども一切置かれていないただのワンルームだった。
「え……」
そんな言葉が漏れた瞬間、服のポケットから音がなり、思わず叫びかけて口を手で抑えた。
ポケットから明かりが漏れていることからなにか通知があったと思ったが画面を見る余裕もなく慌てて悠一は404号室から飛び出す。そのまま一気に自分の部屋まで戻り、布団に潜り込んだ。
携帯を確認しようなどを考える余裕もなく、ただ布団にくるまっているうちに睡魔が襲ってきてそのまま眠りについてしまった。
朝起きてから画面を確認するが、それっぽい通知は何もなかった。
「お疲れ様。昨日大変だったな」
蒼汰の声で我に帰る。見ると学食で買ったうどんが少し伸び始めている。
昨日の一件の光景が事あるごとに頭の中で繰り返されていた。講義中はそのことばかり考えていたし、ようやく蒼汰に話せる余裕が生まれたのはつい先程のことだった。
「……うん、めっちゃ怖かったよ」
「怖かった? どういうことだよそれ」
蒼汰の返答が理解できなかった。あれほど説明したはずなのに。
「何、彼女さんどこか変だったとか?」
「彼女って何?」
「いや、お前。昨日初デートだろ。何惚けてるんだよ」
知らない言葉に体が震え出す。初デート? 彼女?
「しっかりしろよ。そんなんだったら彼女に振られるぞ」と昨日のお返しと言わんばかりとからかうように笑う蒼汰。
「なになに? どうしたの?」
いつもの元気な声を出しながらトレイを持った紬が蒼汰の隣に座る。彼女ならば蒼汰のたちの悪い冗談を指摘してくれるはずだと一瞬考えた。
「そういえば、綾里くん。デートどうだったの?」
何の悪気もなさそうな笑みを浮かべて話すその言葉で悠一は今度こそ言葉を失った。