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2-16 オルニスの降臨

深い海の底で、トルアと呼ばれる一族の娘、リーゼは、過去の歴史の痕跡を探す。トルアたちのほとんどが省みることのない痕跡に執着するのは、幼いころに母から聞かされた「オルニス」と呼ばれる生き物がきっかけだった。果たして「オルニス」とは何なのか。その問いに答えを得るために、リーゼは探求を続ける。その先に、何があるのかも知らずに。

 コラル街の明かりも届かないような深い海の底で、リーゼは過去の痕跡を探す。

 水泡灯の蒼白い明かりが、静かな海底を照らし出している。左右は切り立った崖のようになっており、幾層にも重なった縞目模様が、太古からの歴史の蓄積を示している。

 リーゼは尾鰭をゆっくりと動かしながら、時に水かきのついた手で、海底の砂を浚う。

 あまりに動きが大きいと、砂や泥が舞い上がり、すぐに視界が悪くなってしまう。だから、彼女の動きは常にゆっくりだ。傍目から見たら、じれったくなるほどに。

 海底の砂を浚うと、時に固いものに触れることがある。

 リーゼはその感触を見逃さず、素早く手に取り、水泡灯の明かりを使って確かめる。

 その正体は大抵、過去のトルアたちが使っていた波岩製の食器や装飾品だ。

 波の遺骸が海の底で堆積した結果生まれた波岩は、トルアたちの日用品を生み出す一般的な素材であり、それは今も昔も変わらない。

 何百年、下手をしたら何千年も前のトルアたちが使っていた道具が、ほぼ形を損なわずに現れると、リーゼは感嘆の溜息を吐く。

 海底に残されたトルアたちの痕跡は、どれだけ眺めていても飽きることがない。だから、たった一つの食器だけでも、リーゼは一時間くらいなら簡単に眺めて過ごすことができた。

 見つけた遺物の位置は、記録用の海藻、フェルチェに記していく。また、遺物の中でも、比較的綺麗で、持ち帰るのに不便がないものは、腰に巻いている海藻袋に入れていく。

 海藻袋は、一回に四個しか持っていかない。制限をしないと、どれだけでも採取してしまうからだ。

 一度、遺物を海藻袋に入れ過ぎて、重くて海底からコラル街へ戻れなくなったことがある。

 自分の欲張りさ加減をその時に初めて恨めしく思ったものだ。

 だが、今のリーゼはそんなに慌てて遺物を回収する必要がないことを知っている。

 仲間のトルアのほとんどは、海底に沈む大昔の痕跡になど欠片も興味がないからだ。

「昨日のことは泡沫と同じ」

 トルアたちの間に伝わる諺の一つだ。

 昨日起きたことですら、現れてはすぐに消えてしまう泡沫と同じくらい意味がない。

 トルアたちの多くは過去を振り返らない。

 昔のことを考えて、果たして意味があるのか。そんなことを振り返るよりも、今日、どれだけの食料を手に入れられるか、減り続けている同族の数を増やすために今日はどのような努力ができるかを考えたほうがいい。それが、多くのトルアたちの考えなのだ。

 リーゼのように過去の遺物に興味を見いだすトルアは、ほぼいない。

 だから、リーゼは慌てる必要がない。

 また、指先に固い感触を覚えた。

 近くに水泡灯を置くと、慣れた手つきで、砂の中に埋まっているものを探っていく。

 砂や泥が舞い上がらないように、少しずつ、ゆっくりと引き抜いて行く。

 その作業の中で、埋まっているものが、普通の食器や装飾品などとは違うのだとリーゼは気付いた。

 どうやら破片のようなのだが、妙に四角張っている。なんだろうと首を傾げつつ、最後に力を少し入れて引き抜く。

 思ったよりも勢いがついてしまい、彼女の身体が大きく揺れた。

 自分の尾鰭が海底に当たる。お陰で砂や泥が舞い上がって、ほんの少しの間だけ、周囲の視界が悪くなる。

 こうなったら仕方がないので、周囲が落ち着くまでその場で目を瞑る。その間も、引き抜いた破片の正体を手の感触だけで推測する。

 砂や泥が落ち着き、再び視界が戻ると、リーゼは手元に視線を向けた。

 水泡灯の明かりに照らされたそれを見て、彼女は目をみはった。文字通り呼吸も忘れて、自分が手にしているものを凝視する。

 水かきのついた手が握っていたのは、泡絵の一部だったのだ。

 水泡に波岩や海藻などから取った色を染み込ませたものを、石盤に並べて描かれた絵だ。

 今でも、トルアたちの中にはこの泡絵を趣味とする者がいる。大抵は海を泳ぐ生き物や、あるいはトルア自身の姿を題材にする。

 泡絵に使う水泡は、大きさや形状が数百種類もある。泡絵を作る者はこの水泡を自分たちで作って並べるのだ。

 水泡の準備に手間がかかるし、実用的でもないので作り手はあまりいないが、昔から細々と続いている。

 過去を顧みない世界が、長い歴史を持つ営みを生み出すことも、時にはあるのだ。

 リーゼは泡絵を描くのは苦手だったが、眺めるのは好きだった。

 一つ一つは大したことのない水泡が何百何千と集まることで、一つの風景を石盤の上に浮かび上がらせて行く。その事実が、彼女にはとても興味深く思えるのだった。

 今、リーゼが握っている石盤にも、泡絵が描かれていた。

 元々は正方形とか直方体の石盤に描かれていたのだと思うのだが、今は半分以上が割れてなくなってしまっていた。

 だが、それだけでもリーゼには十分だった。

 水泡灯に照らされた泡絵の一部。そこには、彼女にとって計り知れないほどの価値がある、ある生き物の姿が描かれていたのだから。

 尖った口元、鱗とは明らかに違うものが生えた身体、手に当たる部分には平べったい板のようなものが生えている。

 それは明らかに、リーゼが知っている海の生き物たちとは異なる存在だった。

「『オルニス』……」

 思わず呟く。

 幼いころ、母から何度も聞かされた奇妙な物語が蘇る。

「『オルニス』たちが海をはばたく時、世界は終わりを迎える」

「オルニス」とは何か、はばたくとは、世界が終わりを迎えるとはどういうことなのか。

 幼いリーゼには何一つわからなかった。母は古い物語だというものをいくつも聞かせてくれたのだが、彼女が理解する手助けにはあまりならなかった。

 母が病によって早逝しなければ、あるいは、リーゼが「オルニス」についてより理解する機会が与えられていたのかもしれない。

 だが、過去を変えることはできない。

 母はすでに亡く、リーゼには疑問だけが残された。

「オルニス」とは何か。その疑問を解くために、彼女は過去の底を彷徨い続けている。


「やっぱり、『オルニス』はいるんだよ」

 波岩製の円卓の上に泡絵を置きながら、リーゼは口を開いた。

 相手のトルアは腕を組み、泡絵に描かれた「オルニス」を見つめている。

 彼女たちがいるのは、何層もの波岩が積み上げられて作られたコラル街にある一室だ。

 他のトルアたちの部屋とは異なり、壁にはビッシリと石製の棚が備え付けられている。その中には、海藻の表面に文字がビッシリと記された束が詰め込まれていた。

 そこに記されているのは、他のトルアたちが見向きもしない過去にまつわる情報だ。整理などほぼされず乱雑に置かれているものの、過去と向き合っているリーゼにとって、この場所は驚くほど居心地がよかった。

「エレーネも、『オルニス』はいると思うでしょ?」

 エレーネと呼ばれたトルアは、薄緑色の短髪を乱暴に撫でつける。それは、彼女が色々なことを考えている証拠なので、リーゼは急かすことなく、待っている。

 幼いリーゼの育ての親であり、学者でもあるこのトルアは、彼女が唯一心を開いて話すことのできる相手だった。

「記録なら、それなりにあるよ」

 長い沈黙の後、エレーネは手近に置かれた海藻の束を一つ手にする。水かきのついた手でペラペラと捲り、ある部分を指し示す。

 そこには、リーゼが拾った泡絵と同じような絵が描かれていた。少しばかり口元に丸みがあるのと、手に当たる板のような部分を大きく広げているという違いはあるが、明らかに「オルニス」と呼ばれる生き物の絵だ。

「それは知ってる」

「知っているつもりで知らないことなんて、山ほどトルアは思わないかい?」

 エレーネの指は、絵の下に記された文字を指し示している。

「オルニスの降臨」。それが、この絵の題名なのだ。

「画家の名前はプルマ。いつ描かれたのかは謎。プルマ自体も経歴が分からない。ただ、この泡絵を描いたことだけが、僅かな過去の資料によってわかっているだけ」

 リーゼは、エレーネの口調が熱を帯び始めていることに気付いた。平静を装っているが、並々ならぬ興奮が彼女を包み込んでいる。

「プルマは、どうしてこんな泡絵を描いたのか。その理由は全くわからない。けれど、『オルニス』を描いた唯一の例としては貴重なものだ」

「今までは、じゃないの?」

 リーゼが口を挟むと、エレーネはニヤリと笑った。釣られてリーゼもニヤリとする。

「その通り。君が新しく見いだした絵のお陰で、これまで知っているつもりだったことが、全く知らないことへと変わったのさ」

 エレーネの指は、今度は円卓に置かれた泡絵へと向けられる。

「この二つの泡絵を見比べてごらん。確かに描きかたに似ている部分はある。けれど、水泡の大きさの選び方や、並べ方、曲線を使っている部分には、明らかに違いがある。だから、この二つの絵は、異なるトルアが描いたものなのだということがわかるのさ」

 エレーネの視線がリーゼを捉える。この鋭さを、リーゼは知っていた。母が「オルニス」について語る時にエレーネを見つめていた時の視線と、驚くほどよく似ていたから。

 病に侵された母が死の間際、リーゼの世話をエレーネに頼んだ理由が、今ならわかる。

 過去について興味を持ち、語ることのできる、トルアの世界では得がたい友人。自分の影響で過去に興味を持ち始めた娘。両者を結び付けるのは至極自然なことだったのだろう。

 エレーネの講釈はなおも続いていた。

 すでに興奮を隠そうともせずに語り続ける彼女の姿を見ながら、リーゼは母のことを思い出していた。

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